43 遺憾と想望


「報告書は私が確かに預かったよ。ご苦労だったね。」


 ジャイレンの軍警本部の最上階にある、統括司令官であるハンス・ルーガントの執務室は、煙草の匂いの染み付いた独特な空気が充満していた。しかしそれは決して不快なものではなく、アンティークのデスクや棚が配置された室内は、懐かしくも落ち着く宛ら古民家のような雰囲気だった。


 ヘレアン戦争開戦の数年前に建てられた拠点。当時の情勢が世界的に殺伐としたものであった為か、軍事警察の拠点というよりは殆ど外つ国の陸軍基地に近い。


 オガールは、単独の軍隊という形では武力を保持していない国である。その為、軍警は全ての治安維持、国の防衛を司る自衛部隊としての役割も担う実質的な国家憲兵に位置付けられている。故に拠点には輜重しちょうの備蓄庫は勿論のこと、司令部、気象観測用の設備、滑走路、地方出身者用の宿舎も完備されている。


 しかし当の統括司令官の執務室は重厚感こそあるものの、決して広くはない。設られた調度品はセンスの光るハンスの趣味がよく滲み出ており、それが居心地の良さを体現しているが、外つ国の将校の執務室とは比較にならぬ程こじんまりとしていた。


 そんな執務室の奥のデスクに座るハンスは、煙草の火を消すと報告書の入った封筒を開け、中身を取り出した。


「初めての指令がハウンズの同行任務だったのはテトラ君と君だけだったんだ。形式張った報告書には書けないこともあったことだろう。君の口からも直接報告を聞きたいな。コルベット君。」


 報告書に目を落としながら、目の前に立つ青年に向けて静かな笑みを湛えるハンス。普段ほとんど会うこともない統括司令官から出された、思ってもみない催促に、ルツは後ろで組んだ腕に力を込めた。


「お言葉ですが、小官としてはその報告書に纏めたことが全てかと。ご多用な大佐殿のお時間を頂くには及びません。」


 一息ついて、ルツははっきりとした声でハンスの催促を実質拒絶した。新米の軍警が取っていい態度ではないことは本人が嫌というほど分かっていたが、出来る限り早く執務室を後にしたいことの表れだった。


 ルツの心中を察したかのように、ハンスは目を細めると報告書をデスクに置き、再びルツに視線を戻した。


「ふ、いいだろう。ご苦労だった。下がりたまえ。」


「は。失礼致します。」


 執務室を退出するルツを見送った後、ハンスは引き出しから一通の手紙を取り出した。既に封は切られている。


「若い時には葛藤も多い、か。彼はこれからそれをどう乗り越えていくかな?」


 独り言ちたハンスは手紙を広げる。そこには流麗で繊細な文字が並んでいたが、それはある人物からの上申書であった。


         ◇◇◇


ジャイレン本部

ハンス・ルーガント大佐殿


ご無沙汰致しておりました。貴殿におかれましては変わらずご健勝のことと心より御慶び申し上げます。


当方は、先日二ヶ月の長期任務を終えてジャイレンへ帰還致しました。全土で広がるカプセルの影響と、フィンドの出現率上昇は予想以上に著しく、今後益々の被害拡大が見込まれることと存じます。


本来であれば、本部への早急な報告並びに今後の人員の出動方針を諮る場に参じるべきでしたが、数日経たずに立て続けの単独任務となりました為、報告に上がれぬままでおりますことを心よりお詫び申し上げます。


また、重ね重ね誠に勝手ではございますが同行した新人軍警につきましてお願いを致したい旨があり、手紙をしたためました。


此度のバイロンでの任務につきましては別途報告書が提出されるかと存じますので、この手紙では詳細を割愛させて頂きますことを何卒ご容赦願います。


早速ですが新人全般につきましてご配慮頂きたいことがあります。


実践経験が圧倒的に不足している新人は、市民を守ることは愚か、自衛すらも覚束ぬ状態であることが珍しくありません。


我らのような武装集団のメンバーがおらぬフィンドとの戦闘で、入隊一年未満の新人の生存率が一割にも満たないことは既知の事実です。


これまでにも再三ご指摘している通り、ハウンズとの合同任務であっても、徒らに新人を同行させることは未来ある若き人材を早々に散らしてしまうことになりかねません。


軍警としての任を継続できる人材に値するかの選別に始まり、フィンド被害の実情を認識させ、明日のオガールの治安維持への決意を促す為に不可欠な段階であるとの貴殿の方針をなみする趣意はありませんが、ジャイレン市内での治安維持や国境警備を優先させる等、何卒人員配置を今一度熟考賜りますよう。


コリン・テトラにつきましては内臓の損傷は見られませんが、被弾の衝撃による肋骨の不全骨折を確認致しました。完治したのちも体力の低下が懸念されますので、当面遠隔地への派遣はお控え頂き、体力の回復を最優先にして頂きますようお願い致します。


そしてルツ・コルベットにつきましても、数日間の休暇を付与頂き、静養をお申し付け下さい。


彼は、自身はもとより目の前で同朋をも狙撃され、フィンドに殺害された村人の凄惨な遺体を目の当たりにしています。本来、初任務で負う必要のない過度なストレスを受けた状態と推察致しました。


共感力のある彼は心に深い傷を負っています。慣れぬ生活への順応もままならず、不眠や慢性的な緊張にも悩まされていたようです。


加えて、思い描いていた理想と直面した現実の狭間で大きな葛藤もあることでしょう。精神状態が上向くまでには、時間を要する可能性があります。


しかし、当方は彼が軍警に不適合であるとは思いません。


彼は己の弱さを認め、軍警として任務を遂行する為に足りないもの、それを補完する為に何をすべきかという課題を直視する力があります。訓練では身につけられない、生来の彼の長ずるものでしょう。


バイロンで己の不甲斐なさに膝を下り、涙を流した彼は失うには惜しい人材です。どうか、目をかけてやって頂きたい。


優しく、素直な彼は人の悲しみを自分のことのように悲しめる人間です。それ故にフィンド被害に遭った方の苦悩に寄り添い、それを士気に変えて戦える可能性を秘めていると考えています。


現状では力不足であることは否めませんが、十分に休養させて頂き、彼の佳処を更に引き出すことが叶いますよう、願っております。


手前勝手な手紙を唐突に差し上げる運びとなったことを重ねてお詫び申し上げますが、何卒宜しく願い致します。



ミジャンカ・コラケム



         ◇◇◇


 頭語もつけずにつらつらと書かれた手紙。一見慇懃であるはずの文面からは、礼儀作法に隙のない筈のミジャンカからの隠れた遺憾の意が滲み出ていているかのようで、ハンスは少しばかり眉を下げて微笑んだ。


 新人の派遣先については、これまでも幾度かハウンズ側からの物言いがあった。新人が同行することがわかると、セラウドは極端に口数が減って不機嫌さを隠そうともしないし、カースティに至っては現場で「ボサッとしてんじゃねェぞォこの役立たずがァ!」とライフル片手に怒鳴り散らす始末だ。ベルーメルからは直々に何を考えているのかとかなり荒い口調で食ってかかられ、つい呆気に取られたのを思い出す。


 ハンスにも考えがあったし、それはミジャンカの手紙に綴られているとおりであったが、彼らからのあまりにも早計であるとの指摘は当面止みそうにない。


 軍警はそれなりの覚悟がなければ務まらない仕事だ。戦場と同じく生か死か、それだけで物事が図られる水準の危険が付き纏う分、現実を知るのは早い方がいい。結局のところ、ハウンズについての実地訓練という位置付けなのだ。それで怖気付いて辞すのであればそれまでであるし、籍は置きながらも軍警施設での後方任務に下がる者もいる。訓練からは見えてこなかった新人の本質が即座に把握出来るので、ハンスを含めた上層部からは支持されている人員配置だった。


 しかしそれは、結果的に余計な仕事が増えるハウンズ側からしてみれば決して有難いこととは言い難い。ミジャンカを除く男性陣は新人の軍警などに興味がない上、人材育成などといった大層なことが得意な筈がないわけで。唯一教職経験のあるハワードも「昔の話だからねぇ。」と我関せずの姿勢を貫き続けている。


 それに加えてフィンドが出現してもハウンズが早々に片付けてしまうせいで、彼らの任務に同行した新人たちは武器に触れもしないことが殆どだ。


 外部集団であるが故に、ハウンズは軍警の人事や人員配置については厳密には口を出せる立場ではない。精々不服を漏らして恨言をぶつけるくらいが関の山なので、その都度ハンスは柳に風だ。


これは次に会った時にまたお小言が飛んできそうだと思っていたハンスだが、手紙がそれだけで終わらないのは彼に取っては意外だった。後半部分は一新人軍警に対するミジャンカの思いと提言が記されていたからだ。


初めて会った時のことを思い返せば、ハンスの脳裏に映るのは今のセラウド以上に寡黙で、自分の歪んだ価値観を盲信するミジャンカの姿だ。それがまるで自分を追い込んでいるように見えてあまりにいたわしく、彼は彼で周りの人間のことなど見向きもしなかったし、必要以上にフィンドを痛めつけていることも知っていた。


そんなミジャンカが一人の軍警を慮って、時間がない中便箋数枚分の手紙を書いて寄越してくるまでになったのだ。


それもさしてねんごろなわけでもない人間の為に。


人とは少なからず変わっていく。その殆どが外部要因によるものだ。変える者がいるのだ。


銀髪の彼の姿が浮かぶ。そしてハンスは思う。彼の導きによって救われる人間が多いのも頷けると。何故なら、その人間たちはまたどこかで別の人間の救いになっているから。

 


         ***


 軍警本部から程近い場所に建つ病院。殆ど患者のいない大部屋には八床のベッドが規則正しく並べられていた。


「おーいルツ!」


 窓際のベッドに腰掛けたコリンが、来訪者の姿を見て目尻を下げてこっちだと手を振る。そんなコリンの元に向かうルツの手には小さな花束と籠に詰められたトマトが抱えられていた。


「ははっ、そんな似合わないもの持ってこなくてよかったのに。気を遣わせちまったようで悪いな。」


「やぁコリン。思った以上に元気そうで安心したよ。」


 慣れない手つきで花瓶に花を生けていくルツの顔は照れ臭そうだったが、コリンの様子を見て安堵したのか柔らかい表情はそのままだった。その顔は血色が良く、目の下の隈も薄くなっていて年相応の溌剌さが滲み出ていた。


 バイロンから戻って数日。ルツが読み書きを覚えたのはジャイレンに来てからのことだったこともあり、慣れない報告書をまとめるのに存外時間が掛かってしまった。しかしいつの間にか本部には彼の身に覚えのない休暇申請が出されていて、本部の医師から十分滋養のある食事を取るようにとの指示が下された。宿舎の食事もルツだけ一品多めに用意されていて、矢鱈と精の付く献立一辺倒になっていたことにルツ自身驚いていた。


 聞けば睡眠不足な中での疲労蓄積が著しい為に十分な休養を要する旨の診断書が提出されていたとのことだった。


 その甲斐もあって、気怠さもない。頭がふわふわするような靄掛かった感覚も。お陰で盛り沢山だったバイロンでの任務をしっかり報告書に纏め上げることが出来たのだ。


 ルツ自身誰の口利きなのかは粗方見当が付いてはいたものの、その人物は既にジャイレンにはいなかった。


「コリンは復帰までまだ掛かるんだって?」


「まぁな。復帰するにしても俺は完治するまでは暫く内地での一般任務になりそうなんだ。体力も戻さなきゃいけないから、鍛錬の時間を作れるようにっていう上の計らいだよ。」


 コリンはそういうとにっと笑って、力瘤を作るように両手腕を直角に曲げてみせた。同朋の壮健な様子を見て、ルツも時間がある時には自分も体力を付けなければと思案する。


「それじゃあ、僕とは当面一緒の任務に行くことはないかもしれないね。」


「あぁ。迷惑掛けるな。すぐに前線に戻れるように俺も回復を急ぐよ。」


 それにしても、とコリンはそのまま続けた。


「ハウンズはやっぱり別格なんだな。いつ寝てるかもわからない過密なスケジュールで、フィンドの情報があればオガール全土どこまでもすっ飛んで行くなんて。底なしの体力にそれぞれの強みを活かした突出した戦闘力は、噂通りだ。軍警うちの精鋭ですら、いいところ彼らの援護で精一杯だろうし。」


 ふと、ルツが花瓶を棚に置いて何も言わなくなった。両手を後頭部で組んで窓の外を見ていたコリンがん?と不思議そうにルツを見遣る。ルツの口は硬く閉ざされていて、良く見ると唇を噛んでいるようだった。


 窓が開いている。鳥の囀りが遠くから聞こえる。風が立ってカーテンを揺らす。そんな穏やかな昼下がりの病室で、ルツは思い詰めたように眉間に皺を寄せていた。


「コリンは…前向きだなぁ。」


 絞り出されたルツの声は震えていて、肩もそれに呼応している。それは何から来るものなのか、コリンは図りかねた。ルツが発する言葉が震えを引き起こすものであるとは到底思えなかったからだ。コリンは何も言わずにベッドの上で姿勢を正してルツの次の言葉を待つ。


「僕は、自分よりずっと先にいる彼等の背中を見て立ち尽くしてるんだ。それに思うんだよ。この先自分が強くなって…誰かから頼られる日なんて、来ないんじゃないかって。」


 その瞬間、震える声はそのままにルツの双眸からは大粒の涙がこぼれ落ちた。思ってもみないルツの涙に、コリンは眼を瞠る。


「ルツ…?」


「わかったんだ、今回の任務で。誰かを守れるくらい身体を強くするには、心の強さが必要なんだって…。だけど、それがここまで辛いことだなんて、知らなかった…っ!このままじゃ、このままじゃ僕は…!」


 彼女の言葉に応えられるかすら、わからないんだ、と。


 ルツは、そう言って両手で止めどなく流れる涙を拭い始めた。それでも、拭い入れなかった雫が頬を伝い、ルツの手元のトマトへと落ちる。


 それは、耳を澄ませてやっと聞こえるほどの小さな小さな音を立てて、弾けた。


         ***


 僕は、救われたかったのかもしれない。


 自分の母親に似た彼女を泣かせてしまう事実を、告げなければならなかったから。


 そりゃ、そうだろう。


 ただ、ちょっと遠出して買い物に出て帰ってくるだけだと思っていた一人息子が、殺され、喰われ、挙げ句の果てには燃やされた。


 身元の判別もつかないような状態で、腐るまで家の裏に放置されていたなんて、気が狂れてもおかしくないと思っていた。


 だから、彼女に寄り添おうと思った。もしかしたら自分に飛んでくるかもしれない悲しみ、そして怒りの矛先を。能う限りの精神力を働かせて。


『…ご子息のものか、ご確認ください。』


 それでも熱でひしゃげ、真っ黒になった眼鏡を彼女に見せようとした自身の手は、震えていた。自分の意思ではどうにもならなかった。


 彼女がそれを見て硬直した時には、それはピークだった。気付けば止まれ、止まれという言葉は口に出ていて。その言葉を聞いた彼女は、ゆっくりと僕の顔を見た。視線がかち合った時には、僕も動けなくなった。


 張り手の一つでも飛んでくるのだろうかと。そう思ったから。


 けれど彼女は。


『あらまぁ、こんなに震えて可哀想に。大丈夫だからねぇ。』


 信じられないことを、口にした。


 僕の頬を包む、長年の苦労が滲み出た少しカサついた固い手。


 お世辞にも決して肌触りの良いとは言えないはずのそれがどうしようもなく温かかったから、僕は何を言っていいかわからなくなった。


 辛いのは、彼女の方なのに。どうして。


『怖かっただろうねぇ。けど、犯人は、あんたたちが何とかしてくれたんだろう?』


 その怖かった、とは息子さんに向けて言ったものではない。彼女は僕の目を見たままだったからだ。


『あ…っあの…。』


『なら、もう安心だねぇ。』


 そんな彼女が涙の一つも見せずに、皺の寄った目尻を下げて悲しく笑うから。けれど、どんどんその目が赤くなっていくから。


 僕はたまらず、頭を下げたんだ。


『間に合わず…助けて差し上げられずに…申し訳…ありませんでした…っ。』


 押し殺さないでくれ。悲しみを。


 他でもない僕にぶつけてくれ。怒りを。


 詰ってくれ。自分の狡猾さを自覚しながら一度はあなたから逃げようとした僕を。


 頼むから。


 そうしなければあなたは壊れてしまう。


 それなのに。


『謝らなきゃいけないのは、あたしだよ。悪いことしたねぇ。』


『え…?』


『あたしに息子のことを伝えることはさぞ辛かっただろう?トラウマを植え付けてやしないかと、心配でね。だって、あんたは…』


 まだこれからなんだから、と。


 彼女は言った。切なそうに、それでも僕を案じることを最優先にして。


 その未来は、自分の息子には終ぞ訪れないもの。その息子と同じ頃の軍警に告られた息子の非業の死を前に、彼女はどこまでも出来た人だった。


『息子を見つけてくれて、ありがとうねえ。』


 その言葉を言い切った時、彼女は初めて泣いた。膝から崩れ落ちた。


『う…っうぅ…。』


 地面に手をついて静かに啼泣する彼女は、出会った時より一回り以上小さく見えた。僕は彼女の背中に手を回して、優しく抱き寄せた。


 平気なはずが、ないのだ。当然のことだ。


 だから、僕は彼女に何か願いがあるのなら、叶えてあげたいと思った。


 どんなことでも。


 それは私情だった。軍警としての立場をかなぐり捨てての、魂の叫びだった。


『僕に…何か出来ることはありませんか。』


 何も考えずに、問うていた。


 彼女にとっての、そして自分にとっての救いがそこにあると信じて。

 


 すると彼女は。



『生きておくれよ。あの子の分まで。生きて軍警さんの仕事を全うしとくれよ。二度と、あたしみたいな人が出なくて済むように。』


 それは、フィンド被害者としての切なる願いだっただろう。


 自分に対する恨み言ひとつ、詰りひとつなく、直向きな願いだけを口にした彼女は自分の両手を強く握った。


 固くなった手で。


 そしてその手で一つ一つ大事に捥いだであろう瑞々しいトマトを僕にくれたんだ。


 抱えきれないほどの、たくさんのトマトを。


         ***


「たった一人の家族をあんな形で奪われながら、僕を最後まで案じてくれた彼女の願いを僕は絶対に聞き届けたい。だから強くならなきゃいけない…っ。でも自分の身を守ることだって、満足に出来てないんだ。それが、悔しくて仕方ないんだよ。」


 一つ乗り越えれば、また違う山が目の前に聳え立つ現実。それを越え続けるには、胆力も体力もいる。ルツは、堪らず自身の涙で濡れたトマトを両手で握りしめた。


「こんなにも、悔しいのに…っ、立ち尽くすだけなんだ。前に進むのがしんどくてしんどくて、でも立ち尽くす時間が長引くほど自分が嫌いになっていく…。本当は、こうしてる間にも、出来ることがあるはずなのに…、それすらも儘ならない…っ!僕も、僕もコリンみたいに、前向きになれたら…いいのに、なぁ…。」


 コリンは静かに泣くルツを暫く見ていたが、不意に籠の中に入っていたトマトを一つ取ると、自身の寝巻きの袖で軽く擦って齧り付いた。


 水分量の多い皮が裂け、果肉を貪る耳障りのいい音が彼等しかいない病室に木霊した。その音にルツは頭を上げてコリンの方を見た。


 そこには、満面の笑みでトマトを次から次へと口へ運ぶコリンがいて、その様は何とも陽気で幸せそうで。


「うん、このトマトうまいなぁ!いくらでもいけるぞ!ほら、ルツも食えよ!」


 コリンは白い歯を見せながら、ルツの手に握られていたトマトを引ったくったかと思うと、籠から新しいトマトを取り出してルツに改めて握らせた。


 そして再び言うのだ。食え、と。


 そんなコリンの様子にルツは抗える筈もなく、半ば無意識にトマトを口へと運んでいき、コリンはルツの手から取ったトマトに遠慮がちに歯を立てた。


 口の中に広がる酸味。これがどうしてかルツの涙腺をさらに刺激して目の奥を熱くさせた。


「…おいしい。」


「だろ?ほら、もっと豪快に行けよ!」


 自分の意思とは無関係に、再び溢れてくる涙を拭うこともせず、ルツは夢中でトマトを口に運び続けた。それはバイロンで食べた通りのフレッシュなもので、鼻を突き抜ける甘酸っぱい独特な匂いが心地いいものだった。


 袖口が濡れることも厭わず、幼子のように手も口元も汚して泣きながら食べた。それが何とも言えない懐かしさと有り難さを惹起するせいで、手が止まらなくなった。


 彼女の優しくも悲しい笑顔が浮かんで、鼻の奥がツンとした。


「ははっ。食べ物の味や匂いに敏感なときは、疲れてる時だって、昔俺のお袋が言ってたんだ。疲れてるときは、食って寝るのが仕事だろ?」


「コリン…。」


「前に進むだの強くなるだの、それは確かに大事なことかもしれないけどさ、それはしっかり休んだ後にしようぜ。お前はまだ、心が相当疲れてるはずだから。」


自覚なかっただろ、と笑みを絶やさずに問うコリンに、ルツは何も言えなかった。


「お前は気が弱いところはあるけど、優しい奴だからなぁ。きっと、相手のことを考えすぎて呑み込まれやすいたちなんだろうなぁ。」


「あ…。」


 その瞬間、ルツの頭にある人物の声が蘇った。


『あなたは繊細で、人の思いに人一番敏感な共感力のある人です。でも、それに引きずられてしまうのであれば、それは佳処ではなくただの弱さになってしまう。』


『人の悲しみに、嘆きに寄り添える人になって下さい。負の感情に共鳴するのではなく、受け止めてあげて下さい。これは間違いなくあなたが前に進む為に必要な強さです。』


 それは優しくも厳しく、己を導いてくれた鳶色の髪の青年の言葉で。



 そうか、そうだったのかと。


 彼はとうに気付いていたのだろう。自分が前に進めなくなっている理由が。


あまりにも人を案じ過ぎてしまうが故に周りの負の感情に足が絡め取られてしまうからだと。一度捕まれば、蔦のように鉈で断ち切れるようなものではない分、動けなくってしまうだろう。だから、自分に向かって伸びてきたそれが自分の進路を塞ぐ前に、手で丁寧に摘み取っていかなければならないのだ。


それが出来れば、きっと進める。


自分でもこの世を支配する不条理と戦えるのではないかと。


そう、思った。

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