42 吐露


 西に傾いた月がぼんやりと照らし出す荒野を、一路ジャイレンへ向けて走る汽車。時折響くけたたましい汽笛は、窓ガラスに遮られていても最後尾の客車にまで届く。


 乗客は疎らだ。しかし睡眠を取る乗客の為に灯りが仄暗くなっていた車両の中で、窓際に座る小さな影は背凭れも倒さず、規則的にその首を揺らして船を漕いでいた。長い睫毛に覆われたその瞳は閉じられ、車窓の縁に凭れ掛かった肘から先はだらりと垂れ下がっていた。


 リスベニア製の木製の客席に張られた皮の座面は年季を感じさせる草臥具合で、肘掛けの塗装も所々剥がれ落ちている。そして通路の床がミシ、ミシと軋む音が少しずつ近づいてきた。人一人の足音と、カラカラと車輪が回転する音も混じる。


 自分の真横でその音が止まり、ミジャンカは目を開けた。


「切符、拝見致します。」


 車掌が囁くような小さな声で声を掛ける。すると、ミジャンカは言い終わるよりも先に懐から音もなく切符を差し出した。パチリ、と軽い音を立てて鋏痕きょうこんが入れられる。


「ご乗車ありがとうございます。お申し付けの珈琲をお持ちしました。」


「はい。我儘を言ってしまってすみません。」


 車掌は、引いていた小さなワゴンに乗せられていたティーポットからカップに珈琲を注ぐと、どうぞ、と緩く細い湯気が立ち上るそれをミジャンカへ手渡し、「良い旅を。」と帽子を正して客車を出て行った。


 フルーティーで、芳醇なアロマのような香り。よく焙煎された上質な豆が使われているのだろう。どんなに吸い込んでも飽きないそれは、寝起きの脳を叩き起こすには丁度いいものだった。


 ミジャンカは乗車した際に、乗務員にジャイレンの一つ手前の駅を発車した後のタイミングで珈琲を給仕してもらうように頼んでいた。ジャイレンに到着してすぐ次の仕事が入っていた為、出来るだけ早く身体を覚醒させたかったのだ。


 目を閉じて一口味わえば、その香りは小さな口の中いっぱいに広がり、舌を覆う黒茶色のヴェールは砂糖もミルクも入っていないというのになんともまろやかだ。だが、そのまろやかさの中になんとも言えぬ苦味が潜んでいるのだ。


 それもまた味わう者によっては心地の良いもので。 


「…美味しい。」


 ミジャンカは独り言ちた。

 少し膨らんだ窓縁にカップを置いて、窓の外を見遣る。


 東の空は薄らと白ずみ、夜明けの時間がそう遠くないことを告げていた。空の色が変わり始めたことで、空高く屹立するスピナ山脈の山際がはっきりと見え、列車はトールケイプ地方に入っていた。しかし車掌から朝食の案内がなかったことを考慮するとまだ起床には早い時間だったのだろう。


 ここからはジャイレンまでノンストップだ。数駅ある無人駅を飛ばし、首都のターミナル駅までミジャンカを運ぶ。


 思い返せばミジャンカがバイロンから駅に到着したのは最終列車の動輪がゆっくりと進み出した頃で、飛び乗った際にはかなりのスピードが出ていた。席について幾許かもしない内に眠気が襲ってきて、思いの外疲れていたのだろうと思った。


 眠っている間にミジャンカは夢を見ていた。


 そこには父がいて、恩師がいて、セラウドがいた。代わる代わる自分の前に現れては消えていく者達。身体が深い海の中に落ちていくような、重力の感じない夢だった。


 そして、そこには自分の懐に眠る紋章に描かれた悪魔の鳥もいた。


 幸せな夢だったのか、そうでなかったかなど目覚めて切符を車掌に差し出す間の僅かな時間で忘れてしまったが、懐かしい夢だったことだけは分かった。


 よく見る夢なのだろう。

 だから気に留めなかった。


 留めたところでから、考えることをやめた。


 いつものことだった。


 単独の仕事でここまで考える時間が増えると、立ち止まって自分の思考と向き合う余裕も出来る。それによって自覚していた自分のさがとの差異を思い知って戸惑うこともあるわけだが、決してそれが悪いことばかりではないことをミジャンカ自身よく分かっていた。


 明日から、また仕事がある。いつもの日常に戻る。フィンドを処分し、また次の街へ向かう。そんな日々が。


 血腥い日常を過ごしながらも、次を見据えられる余裕をあの青年は持つことができるだろうか。自分の責務を、全う出来るのだろうか。フィンドと戦えるまでになれるのだろうか。涙を拭わずに助けを乞うたルツの姿を思い起こす。


 その時だった。


「こんな朝まだきに珈琲か。」


 聞き慣れた声が聞こえた。


 弾かれたようにそちらへ目を移すと、通路を挟んで隣の席に、銀髪の青年が腰掛けてこちらを見ていた。


「セラウド…。」


「まだジャイレンまでは数時間ある。寝れる時に寝ておけ。列車の安全確認は済んでいる。」


 呆気に取られたようにミジャンカは一瞬息を呑んだが、すぐに息をついて再び視線を正面に戻した。今の今まで隣席に座っていたのがセラウドであると気付かなかった自分に苦笑しながら口を開く。


「あなたがお一人なんて珍しい。どこから乗っていらしたんですか。」


「一つ前のラテルブルットだ。ガイが情報を持ってきた。」


 聞けば昨日の夕方、フィンドのパトロンになっているリスベニア人のノーブレスが、ラテルブルットからこの列車に乗り込むとの匿名の情報が入ったらしく調査に向かったらしいが、結局は空振りだったらしい。迷惑な話だ、とセラウドは悪態をついていたが、ミジャンカはぼんやりとした違和感を抱いた。


 ガイは優秀な情報屋だ。タレコミがあっても、情報の真偽を短い時間で徹底的に調べ上げる。下手なオガール社の記者よりも全然頼りになるのが正直なところだった。そのお陰で無駄骨に終わることも殆ど無いので滅多なこともあるもんだとミジャンカは思ったが、セラウドが人的被害が出ているわけでもない情報を元手に夜を徹しての仕事に一人で向かったことが不思議だった。そんなミジャンカの思っていることが筒抜けだったのだろう、セラウドがため息混じりにいった。


「ベルーメルに無理やり押し付けられた。さっさと行けと。」


「ベルーメルが…ですか。」


 ミジャンカは眉を下げて微笑んだ。そういうことか、と。


 本来は軍警が向かうべき内容なのだ。疑わしい貴族の調査など多忙なハウンズが行うものでは無い。それに態々リーダーであるセラウドが一人で来たのだ。それも、ベルーメルが尻を叩く形で。情報云々の前にベルーメルの意思が働いたのは明らかだった。


 ガイはグルだろうし、セラウドも気付いていないはずはない。同じ列車に乗り合わせることなどそうそう無いのだから。

自分を案じる心遣いに、ミジャンカはこそばゆい心持ちがした。


「ふふ。それは、お疲れ様でした。」


「お前は何事もなかったのか。」


「はい。情報通りでしたよ。三人のフィンドを処分しました。…ただ一般人が一人、自分が到着する前には既に。処理は現地で合流した新人の軍警に引き継ぎました。初めての任務が自分と一緒になった彼には気の毒だったかもしれませんが。」


 そうか、とセラウドはいつも通り言葉少なだ。余計なことは言わない。そこから会話は続かなかった。


 タタン、タタンと列車が揺れる音だけが客車に小さく響く。いつのまにか、山際からは朝日が漏れ出していた。ミジャンカはすっかり冷めてしまった珈琲を喉の奥に流し込む。


 時を同じくして、客室係がワゴンを押して朝食を運んできた。ミルクにサンドイッチ、それにスクランブルエッグと瑞々しいフルーツが乗ったプレートが備え付けの小さなテーブルに給仕される。セラウドはそれを手で制して断っていた。


「朝食を摂らないのは幼少期からだそうですが、本当は食べれる時に食べた方がいいんですよ。」


「腹が減らない。」


 ミジャンカは困ったものだと自分の朝食に手をつけ始めた。最初は意地でも朝食を摂ろうとしないセラウドがいる側で食べるのに少しばかり抵抗があったが、当のセラウドは全く気にするそぶりもなく、寧ろその間はその日の予定を確認したり、書き物をしていたりと一人の時間を満喫しているので何も気にしなくなった。


「セラウドって、そうでなくても少食じゃないですか。睡眠時間も極端に短いですし。」


「それで何とかなってるんだ。問題はないだろう。」


 そうでしょうか、とミジャンカはサンドイッチを口に運ぶ。


「お前は食えるだけ食えばいいだろう。足りないところに栄養がいくかもしれんしな。俺とは違う。」


「…ここ数年身長も体重も変わってませんが。でも美味しいものを食べるのは好きですよ。眠るのも。自分達にとっては唯一と言ってもいい娯楽ですから。」


 本気か冗談かいまいち釈然としないセラウドの言葉にチクリと一言返しながら、ミジャンカは食事の手を進める。その様子を見ながら、セラウドはぽつりと呟いた。



「大人のくせに、お前のそういうところは幼気いたいけだな。」



 僅かにミジャンカが目を瞠る。まるで自分の葛藤や変化を見透かされていたように思えたからだ。双肩に掛けられたデイルを無意識に握った。


「お前はいつでも拘るからな。自分が大人であることに。そうでなければいけないと常に思っているだろう。だからこそ、意外だと思った。それだけだ。」


「…そうですか。」


 大人であることへの固執。それはミジャンカの体を貫く一本の柱だった。隣に座る青年の前に跪き、自分と彼への確かな誓いを立てたあの日の情景が、はっきりと活動写真のようにミジャンカの頭の中に浮かぶ。


「大人になった、つもりでいました。そうでなければ、きっと自分を保てないので。勿論、癖を律して不必要な痛めつけはしない…人間らしい感情を持っていたい、それも一つの理由です。」


「…。」


「セラウドには随分前にお話ししましたね。ジョゼル族に古くから根付いている話を。子供は、成人の儀を迎えるまでは『人ではない』と見做される。自由もないですし、大人の傀儡として苛烈な重力で上から抑圧され、病気になってしまえばそれまでと捨て置かれる。そうなれば居ないものとして扱われたことから、『風の遣い』と言われていました。」


「あぁ。風は目にも見えないし、その場に留まらないからな。」


 ガジャルウィンドの大地に住む、遊牧民族ジョゼル族。厳しい環境で暮らすからこその独特な思想だった。


「そう。虚空を通り抜け、あっという間に天へと還っていく。その風のように、いつ死ぬかもわからない存在ということですよ。成人の儀を経て初めて、大人…則ち大地に迎えられた生き物と認められるのです。それまでは、名前すらつけてもらえない子供もいます。」


 ミジャンカは故郷に義理立てしているつもりはなかった。しかし、そうでなくても女たちの想いの籠った刺繍に彩られた立派なデイルを纏い、弓を手に大きな獲物を持ち帰り、鷹を操り、長老から名前を呼んで貰える男たちを見て、人間として扱ってもらえることへの憧れもあった。


 それは、一族にとって『異端』である自分には永遠に訪れないであろうモノ。だから、なんとしても欲しかったのだ。たとえ紛い物でも。



「自分にとって、大人であることは…人間であることなんですよ。」



 本来なら明確な定義などない大人であることへの執着。それは寧ろ子供っぽく駄々を捏ねているだけかもしれないことはミジャンカ自身もわかっていたが、認めたくない郷愁は小さな身体にも確かに染み付いていた。


「そして、そうでありたいと思ったのはあなたに手を引かれてからです。」


 ミジャンカは悪戯っぽく笑った。


「そうか。」


 ミジャンカのそんな顔を見たのはいつぶりだろうか。相手を安心させる為でも、計算づくのものでもない心からのもの。


 セラウドは、本来なら口に出す必要もないはずの言葉を、ゆっくりと、確実にミジャンカの耳に聞こえるように口にする。


「案ずるな。お前は…人間だ。」


「ありがとうございます。…セラウド。」


 セラウドの言葉を噛み締める。

 そんなミジャンカの顔を照らすように、生まれたての日光は大地を明るく照らし、いつのまにか列車に沿うように車窓の外にはアルテ川が流れる。


 ジャイレンまでの旅路が終わりに差し掛かっていた。

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