41 理不尽の境界線
「う…っうぐ…げぇ…っ!!」
ルツが口を覆い、塊から距離を置くと近くの草叢に蹲って堪えきれず嘔吐した。
不快な酸っぱさの混じる、猛烈な腐敗臭。湿度の高い煉瓦造りの納屋の中で、表面だけ焼けて硬くなったその焼死体は、黒々とした皮膚の隙間から赤く、そして黄色く変色した肉が覗き、蠢く小蠅の低く鈍い羽音がいやに大きく聞こえた。
手足がない、達磨状態の遺体。
「成人男性のものですね。おそらくこの人は…。」
「嫌だ…っ!やめてください!」
ミジャンカの呟きを、ルツが大声で制した。ミジャンカが声の方向へ顔を向けると、頭を抱え、涙を流して目を見開くルツが震えていた。
「コルベットさん。自分はもう、発たなければいけません。だから、あなたにお願いしたいことがあります。」
「聞きたくない!聞きたくないです!」
わかっている。きっと。
ミジャンカは確信した。
目の前の怯えている哀れな青年は、この遺体が誰なのか気付いている。
先程自分が差し出しだ眼鏡だった物。原型を留めてはいなかったものの、丸みを帯びたフレームであったことはわかった。そして同じ眼鏡をかけたルツと同じ年頃の若い男性と家主の女性が、この納屋の前で微笑んで立つ写真がつい先程家の壁に飾られていたのをルツは見ているはずだった。
そして彼は、今は疲れて眠っているあの女主人に、遺体の身元を他でもない自分が伝えねばならない現実から目を背けようとしていた。寝不足の中、命の危険に晒される任務に投入され、自分に親切にしてくれた村人に対して残酷な事実を告げねばならない役目が、どれだけ彼の精神を抉るのだろうと、ミジャンカは息を吐く。
「遺体は手足がありません。胴部にも複数の抉れた痕が確認出来ました。恐らく、コルベットさんを最初に襲ったフィンドが金目の物を強奪した後にその肉を喰ったのでしょう。最後に処分したフィンドの腰にも明らかに人間に齧られた痕がありましたから。遺体を焼却しようとして納屋を燃やしたと考えるべきです。」
「…っ。」
「自分が話したことはあくまで憶測です。しかし、これ以外に仮説を立てるのが難しい以上は、これが事実なのでしょう。彼女にどこまでお話しするかどうかは、コルベットさんに一任します。」
「そんな!僕にどうしろと仰るんですか!?」
縋るようにミジャンカに向けられる目。そして幼子が嫌々をするように振られる首。額や襟元には汗が滲んでいた。
この青年は家族に囲まれ、長閑な農村で穏やかに育ってきたのだろうとミジャンカは思った。オガール人であるが故に戦争に巻き込まれることもなく、辺鄙な田舎には耳を塞ぎたくなるような不都合な真実など届かない。
だからこそ、フィンドが如何なる生き物なのかも、命を賭す危険も、そして人が死ねばどうなるのかも知らなかった。知る機会がなかったのだ。軍警という仕事に就くには、あまりにも無垢で世間知らずの人間であることは否めなかった。
「あなたは新人とはいえ軍警です。あなたが取り乱していては、一般人の彼女の不安を煽ってしまう。感情の制御も仕事のうちです。どうか冷静になってください。」
「僕には無理です!指示を…どうか指示をください!」
濁流のように押し寄せる残酷な現実を受け止められずに涙を流すルツ。そんなルツの肩に手を置き、自分よりも背の高い彼を見上げながらミジャンカは諭した。
「お願いします…っ!どうか行かないでください!!僕一人じゃどうにもならない!何も出来ないんです!」
完全に周章狼狽しているルツには、ミジャンカの声など聞こえない。それを悟るや否や、ミジャンカは彼の肩から手を下ろした。
そして地を這うかの如く低く、静かな声でただ一言言い放った。
「いい加減にしろ。それ以上弱音を吐くことは許さない。」
別人のものとも思える声と口調、そしてルツが顔を上げれば自分を見下ろす冷たい視線。つい先程まで自分を労い、落ち着かせようと優しく言い聞かせていたミジャンカはそこにはいなかった。
驚きと言いようのない恐怖で涙は忽ち引っ込み、口もだらしなく開いたままでルツは思考が停止していた。事態が飲み込めずに唖然としているルツを見下げ、ミジャンカは続けた。
「あなたが軍警である以上、職務を放棄することは許しません。どれだけ辛く苦しいものであっても、この仕事を自分自身で選んだ以上は現実から目を背けてはいけませんよ。」
鋭く突き刺さる言葉に、ルツは何も返すことは出来ない。ミジャンカは続ける。
「今あなたの足の下にあるのは、あなたが愛するオガールの土です。この地を土足で踏み荒らす者たちから、あなたは守らねばならない。
民を…他でもないこの国を。」
「!」
ミジャンカの一言でルツは思い出した。
オガール人である自分とは違って、ミジャンカは外国からの移民であり、本来はオガールに何の義理も立てる必要がない人間であることを。
ミジャンカだけではない。ハウンズの構成員の中には、ただのひとりもオガール人がいない。戦争の当事国であるカストピアとリスベニア出身の人間がいるとしても、目の前にいるミジャンカはガジャルウィンド出身である。
そんな彼がオガールの為に国中を駆け回り、自分達を守ってくれている事実。それを前にルツは何も言えなくなった。何を言っても、自分が更に惨めになるだけであると気付いてしまったからだ。
「コルベットさん。どうか自分の選択に責任と誇りを持って下さい。故郷であなたを待つご家族の為にも。あなたは、軍警です。自分の役割があります。なすべき事があります。だからこそ、自分は他でもないあなたにお願いしたいのです。」
ミジャンカは、再びルツの肩に手をかけた。悲痛な表情のまま、ルツは地面についていた己の手から再び顔を上げてミジャンカに視線を合わせる。ルツのその双眸からは再び涙が溢れ出てくる。
そんなルツを見るミジャンカの表情は先ほどとは打って変わって至極優しいもので、ジャイレンで自分が無意識のうちに頭を撫でた時に見せた、柔らかい笑みを浮かべていた。それに背中を押されるように、ルツは口を開く。
「そうです。僕は…僕は、軍警です。でも、彼女の息子さんは…一般人です。こんな目に遭うなんて、露ほどにも…思ってなかったはずで…!」
一度聞いただけでは不得要領なルツの言葉。それでもミジャンカは次の言葉を静かに待っていた。ルツの言わんとすることが何となくわかっていたからだろう。
「僕は軍警なのに…コラケム様の助けでこうして無傷です。だけど…彼女の息子さんは…っ、日常生活を送っていただけの一般人なのに、フィンドの犠牲になったんです!!彼はただ家で待つ母親の為に買い出しに行こうとして…!それだけだったのに…!」
ルツは頭を抱えた。年の違わない、二人の男性の運命の分かれ道は残酷だ。最前線に立ち、民草を守る公僕であるはずの自分がのうのうと生き、あろうことか守られている事実。そして、片一方でルツがバイロンに来る前とは雖も、犠牲になった一般人がいる事実がある。
「僕は…自分の
「…。」
「人一人死んでるのに、申し訳ないと思いながらも、結局自分のことばかりで!!自分がこんなに…こんなに醜い人間だとは、思わなかったんです!」
ルツは、彼女に事実を告げることを恐れていた。生きているだけのみならず、少しの役にも立てなかった自分の無力さを大きく恥じていたのだ。
トマトを笑顔で分けてくれた恰幅のいい彼女に、ルツは自分の母親の面影を重ねた。そんな彼女の息子を守ることが出来なかったことが、こんなにも自分を突き落とすことになるとは思わなかった。体の深いところに根差す、どうしようもない不甲斐なさ。そしてその事実から目を背けたくなる己の弱さ。
ルツは強さと優しさを持っているように見える青年に、全てをぶちまけたくなっていた。隠せなくなっていた。
嘘が、つけなかったのだ。
「助けて、下さい…っ!どうか、僕を…導いて…っ」
己の肩に置かれたミジャンカの手を握り、懇願するかのように頭を地面に擦り付けるルツ。まるで処刑を待つ罪人のように、小さく縮こまり、怯え切ったその様はどうにも形容し難いほどに哀れなものだった。
「人間誰しも、醜いところがあります。それはどす黒く絡みつく厄介なもので、些細な切っ掛けで増幅し、膨らんでいく。この世界の在り方が、人間をそうさせてしまっているのですよ。」
「コラケム…様。」
「この世界は理不尽な、そして不条理なことで溢れています。幸か不幸かは本当に僅かな境目で変わってくる。見えない手のちょっとした采配でね。」
勃発した理由も、長期化した理由も、フィンドが生まれなければならなかった理由も、何一つわからない戦争もあった。この世の呪いを凝縮したかのように、今も人々を苛み続けている。そんな不幸を量産し続ける元凶の謎すらもわからない中、元々強固とは言えない人の心など荒んで当然の世の中だ。
「(本当なら…武器など手に取ることもなく、可愛い盛りの娘の成長を見守りながら、幸せに暮らせていたはずなんだ。)」
ミジャンカの脳裏に、先程看取ったフィンドの姿が浮かぶ。彼は決して自分の意思で罪を重ねたわけでは無いだろう。しかし多くの人々を殺した事実を前に、自分はああするしかなかった。これを理不尽と呼ばずして何か。
「(本当なら…フィンドを処分することもなく、今もジャイレンで共に街の医療を支えていたはずなんだ。)」
恩師の顔が浮かぶ。人の良さそうな髭面の老人は、優しい人だった。自分を人間として認めてくれ、迎え入れてくれた人だった。自分が誰かもわからぬ日々から抜け出し、やっと普通の生活が送れると思ったのに、目の前で拐かされた。これを不条理と呼ばずして何か。
本当なら、そう本当なら今頃こうしていられた筈なんだと、誰もがどこかで思っている。
世界は、どこまでも道理に反しているのだ。そして自分がその渦中に巻き込まれていない時にはあまりにも平和呆けした日々を我が物顔で享受しているというのに、いざ自分が不幸の類になると皆口を揃えて言う。
『どうして自分がこんな目に。』と。
自分の不運を呪うだろう。ほんの少しの差でその不運から逃れた人間を妬むだろう。そして嘆く無様な自分が情けなくなって、彌縫に走る。そんな自分を見る他人が恨めしくなる。それでいて縋りたくなる。
でも、ミジャンカ自身自分を誤魔化せるほど出来た人間ではなかったし、縋れる人もいなかった。だから、自分で何とかしようとした。その結果が、あの
しかし。
『ルー、ナ…。』
『理不尽』という抗いようのない波に呑まれ、身を堕とす人間がいることを知った今は、自分に待ったをかけることも必要だとミジャンカは思った。だからこそ、そんな血に塗れた鎧を時には脱げる場所を手にしたこともまた、僅かな境目を超えて幸に転んだ末の結果なのだろう。自分がそう思えるようになったことも、また。
「境界線のどちら側に行くかは自分の意思ではどうにもならない。彼女には気の毒ですが、ご子息が殺されてしまったのは決してコルベットさんの所為ではありません。それは自覚して下さい。とはいえ勿論、彼女から謂れのない悪意を向けられる可能性を前に臆病になってしまうコルベットさんの気持ちもわかります。」
ですが、とミジャンカは続ける。
「もう一度言います。慣れて下さい。この仕事を続けるのであれば。あなたは繊細で、人の思いに人一番敏感な共感力のある人です。でも、それに引きずられてしまうのであれば、それは佳処ではなくただの弱さになってしまう。」
「弱さ…。」
「人の悲しみに、嘆きに寄り添える人になって下さい。負の感情に共鳴するのではなく、受け止めてあげて下さい。これは間違いなくあなたが前に進む為に必要な強さです。そして、絶対に忘れないで。
一番悲しい思いをするのはあなたではない。他でもない彼女だということを。」
「!」
「…あとは頼みます。」
そうミジャンカは微笑むと、ルツの目の前から消えた。
「待っ…!」
土埃も、風も立てずに。
後に残されたのは、まるで最初からこの場にルツ以外誰もいなかったかのような静寂だけだった。
「つよ、さ…。」
ルツの呟きは、夜の帷に遮られたかのように、静かに虚空に消えていく。
「強さ…。」
もう一度。そして何度も何度も反芻する。
生きている自分が今すべきことはなにか。
それを遂行する力が自分にあるか。
「事実を伝え、悲しみを受け止めること…。」
自問自答するかのように幾度か独り言ちると、ルツは立ち上がり、帽子を被り直して、再び女主人の眠る小さな家へゆっくりと歩いて行った。
やるしかない、と。
最早これが出来るのは、自分だけだと。
ルツは一度足を止めると、大きく息を吸い込み、袖で顔を拭うと、ミジャンカが走り去って行ったはずの村の入り口に目を向けた。
「こんなの…『やる』以外の選択肢、ないじゃないですか。」
諦めを孕んだルツの口振りとは裏腹に、その目には小さなあかりが灯ったかのように、銀色に光り輝く月が映り込んでいた。
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