40 黒い塊
目を閉じて、静かに脈を測り続ける。そして僅かに指先に伝わっていた振動が完全に止んだ時、ミジャンカは静かに呟いた。
「…死亡確認。」
懐中時計を取り出し、時間を確認する。思ったよりも時間がかかったものだと息を吐きながら、フィンドの身体に刺さったままだった矢を回収した。
先程のフィンドのように、今際の際に自我を取り戻すケースをミジャンカは殆ど見たことが無かった。その為、
「(若しかしたら、自分の作った毒がカプセルの効能を和らげる解毒作用を持つのかもしれない。調べてみる価値はありそうだ。)」
それによって、たとえ僅かな可能性でもフィンドの攻撃性を軽減させ、正気に近い状態に持っていくことが出来れば活路が見出せるかもしれない。
こんな田舎町で大した収穫じゃないか、とミジャンカは独り北叟笑み、小刀を今し方息を引き取ったフィンドの紋章へと宛てがった。
いつものことだ。そう、いつもと変わらない自分の日常である。
しかし、ミジャンカの手はぴたりと止まったままだった。
違う。ちっとも日常ではない、と。
ミジャンカは普段死亡確認なんて煩わしいことはしない。わざわざ脈を見ずとも、自分が調合した毒の効果でいずれこのフィンドが死ぬことはわかっていたし、今夜の最終列車でジャイレンまで戻らねばならない中、紋章を剥ぎ取ってすぐにでも新人軍警二人と女性の安否確認をするべきだった。
「…何をやっているのでしょうね、自分は。」
自分自身の行動が、信じられなかった。
手足を捥いででも、それこそ腹を裂いてでも口を割らせようと一瞬でも思った自分が、あろうことかフィンドの最期を穏やかに看取ることになるとは、露にも思わなかった。
しかし。
『お、前は…父さ、んの…宝、物だ…。
ず、っと…お前を…思ってる。
幸せ、に…なりな、さい。』
この男の娘の名は、ルーナと言うらしい。
成長を見守ることの叶わなかった娘に向けた、父親としての直向きな愛。それは、間違いなく一人の人間としての言葉だった。
そして、それはセラウドたちと、そして恩師と出会うずっと昔のこと。
自分を故郷のガジャルウィンドに置いて行った『父』の姿を彷彿とさせた。
『幸せになれ…っ!お前は私の希望だ。どうか、真っ直ぐに生きてくれ…
どうか、私の分まで。』
今の今まで忘れていた、懐かしい記憶。
自分と同じ顔をした父はどうして泣いていたのか、何故自分の身体は傷だらけだったのか。今もわからないままだけれど、とミジャンカは目を閉じる。
ふとミジャンカの頭に、涙ながらに訴える一人の少女の言葉が浮かんだ。
『私、さっきリスベニア兵が死ぬ間際に呟いた言葉が聞こえたんです。『祖国万歳』って。』
それは、ハルトで育ての母が自分を育てる為にリスベニア人の子供を売り飛ばしていたと知った、イレイズが放った言葉だ。
『それは、生への執着でも何でもない、純粋な祖国を思う気持ちでした。その瞬間、この人も私と変わらない一人の人間なんだってわかった…。マザーとも、他の誰とも変わらない一人の人間だわ!』
そう、人間なのだ。
無論、処分はしなければならない。この国には、重篤なフィンドを治療できる医者も薬師もいない。収容施設もない。政府を通してリスベニアに強制送還すれば、間違いなく殺されるだろう。
フィンドがどんな汚い手で偽造された難民証明書を手に入れて帰国しようとも、結局のところフィンドになる前の生活を取り戻すことは事実上不可能だ。
リスベニアは、彼らを無かったことにしたいのだから。
だからこそ、自分達が彼らの息を止めなければならない。情けをかけることはご法度だ。
しかし。
「…噛み千切られた痕、ですか。」
めくりあげたフィンドのシャツから覗く、赤黒く抉られた腰。紛う事なき人間の歯形が、そこには残されていた。
極限状態の飢えの中で人肉を喰らって生き延びようとした、哀れなリスベニア兵の姿がミジャンカの脳裏に浮かんだ。歯型を照合するまでもなく、ルツを襲った先程のフィンドの仕業なのだろう。
『ひ…じ…い…も…。ご、め…』
フィンドに身を堕として尚、終わりなき飢餓に苦しみ、そして仲間に牙を立てた贖罪の思いを延々と口にし続けた男。
この小さな農村で息絶えたフィンド達は、人間らしさが過ぎた。フィンドになる前は、お互いを思い合い、支え合って困難をくぐり抜けて来た優しい人間達だったのだと、ミジャンカは眉を寄せた。
そんな彼らを殺したことに心は痛まない。
仕事なのだ。当たり前のことだ。
だが、確かに痛めつけて良い人間ではなかったと思った。
自分の意思とは無関係にフィンドとなり、死の際まで暴力衝動と飢えに支配され続けた様は、哀れで悲しいものだ。
守り続けた祖国の墓に入ることも叶わず、待っている家族にその死が伝えられることもないまま、遠い異国の共同墓地に身寄りのない人々と共に埋葬されるのが彼らの運命だ。
だからこそ自分が再び外道に堕ちないように手を伸ばしてきた、記憶の中の銀髪の彼にミジャンカは
「…助かりましたよ、セラウド。」
心の中で頭を下げたのだった。
***
「コラケム様、ご無事で!」
「どうも、お待たせしました。こちらは片付きましたよ。テトラさんの具合はどうです?」
ミジャンカが先程の女性の民家の扉を静かにノックすると、ルツは心底ホッとした顔で出迎えた。ミジャンカはちらりと寝台に横たわるコリンの様子を一瞥して問う。
「急所は外れています。意識はないですが、恐らく大事はないかと。」
ふむ、とミジャンカはコリンへ駆け寄り、持参していた聴診器を耳に当ててコリンの上着を肌蹴させる。
「うん、大丈夫でしょう。防弾衣のお陰で内臓も傷ついていないと思いますし。とは言え今日の最終列車で自分と一緒にジャイレンに戻るのは無理ですね。近くの軍警支部から応援を呼んで搬送してもらいましょう。」
「は、承知しました。手配します。」
ルツとコリンが乗って来たオートモービルは一台だ。処分した三人のフィンドの遺体の運搬をするには最低でもあと一台は要る。用途を考慮するとバイロンの住民から借りることは出来ないし、コリンの怪我の具合に関わらず、どの道この二人にはバイロンに残ってもらうしかなかった。ミジャンカはセラウド達と合流して明日から別の仕事が立て込んでいた為、後を引き継ぐことを決めた。
「お疲れのところすみませんが、お願いしますね。」
ミジャンカの柔らかい笑みに、ルツはホッと胸を撫で下ろしたが、その目に薄らと涙が浮かんでいることにミジャンカは気付いた。
初めての任務がこんな片田舎で新人同士だったこと、そして自分のことをよく知る上官もおらずにフィンドに遭遇したルツの精神的な負担を考えると当然のことだろう。そして同じ任務に当たっていた同期の人間が撃たれたのだ。慣れろと冷淡に言い放ったミジャンカだったが、これは時間が解決するのを待つしかないだろうと余計な慰めを口にすることなく腰を下ろした。
懐中時計を出して時間を確認する。最終列車まではもう余裕は残されてはいなかった。
「家主の女性はもうお休みですか?」
「あ、はい。つい先程。気が張り詰めていたみたいですし、息子さんもいない中で心細さもあったんだと思うので、疲れていたのではないでしょうか。」
ぴくり、とミジャンカの肩が僅かに揺れる。そう。先程のフィンドの言葉が頭を擡げたのだ。
『小屋のなか、を…。調べろ…。見たら…わか、る。あいつ、らの…、…が、残って、る…。』
そうだ。最後に調べなければならないことがある。先ほどからずっと頭に引っかかっていた違和感の正体を暴く為に。
「い、如何なさいましたかコラケム様。」
音もなくいきなり立ち上がったミジャンカに、ルツは困惑して問い掛けた。
何故なら。
「…コルベットさん。自分と一緒に来てもらえますか。」
その顔は僅かに憂に歪んでいたからだ。
***
ミジャンカには、あの人の
風が運んで来た臭い。それは幾度となく鼻腔を通ってきた嗅ぎ慣れた臭いだったからだ。
フィンドの人間臭さに心を軋ませることは、悪いことではない。しかし慣れなければならない。理由はどうあれ多くの無関係な市民を手にかけている事実に変わりはない。フィンドはあくまでフィンドであるという考えから逸脱してはならないのだ。
自分にとって都合の悪いことを隠匿しようとする心に突き動かされ、そしてそれを間違いなく行動に移したであろう先程のフィンド達。その手掛かりがこの先にある。自分の後ろをついてくる、事態を把握しきれていない新人軍警は、果たしてこの事実を受け入れられるだろうかと、ミジャンカは思った。
足を運んだのは、先程の家の勝手口から歩いて数十秒の場所に位置する、焼け焦げた納屋だった。焼けて数日経つと言うのにまだ鼻を突く焦げ臭さが辺りを覆い、タイミング悪く発生した濃い夜霧によって余計に臭いは拡散する一方だった。
「少し下がって下さい。すぐ済みますから。」
「え、ちょ…っ」
ミジャンカは、ルツの返答も聞かずに一息つくと納屋の鉄製の扉に手をかけた。熱で歪んでしまっている為か、そのままではびくともしない。その様子を見たルツが打ち捨てられていた農具を取りに行こうとするが、ミジャンカの手元からミシリと音がしたかと思うと、鈍い音を立てて次の瞬間には扉が破壊されていた。蝶番が弾け飛び、ルツは「ひえっ」と肩を縮こませる。家と家との間隔がかなり空いている上、平地なので殆ど音は響かないが、夜も更け切った時間帯には変わりがない。他の村人の耳に入ってはいないかとルツは肝を冷やした。
「あの、な、何を…っ。」
ミジャンカはそれには答えず、懐からペンライトを取り出すと納屋の中にツカツカと入っていき、足元を丹念に照らしながら何かを探そうとしていた。
扉が破られたことで一気に焦げ臭さが広がる。ルツは一瞬目に染みる臭いに顔を背けたが、ミジャンカは顔色ひとつ変えずに足元を物色し続けていた。
大人が三人も入れば狭く感じるほどの小さな空間。天井には穴が空き、煉瓦の壁は煤で真っ黒だった。中に保管されていたのは家畜用の干し草だったと言うから、それがより火力を増大させたのだろう。
「…やはりこういうことでしたか。」
ふとミジャンカの動きが止まる。ルツは何かと膝をつくミジャンカの背後から覗き込んだが、ちょうどミジャンカの背で死角が作られ、手元に何があるかを視認することはできなかった。
「すみませんが、外にあったピッチフォークを持ってきて下さい。」
「あ、はい。」
ルツは、先程の家の外壁に立てかけられていた牧草を掻く為の五本歯の農具を取ってくると、未だに足元の炭のような固形物を調べながら背中越しに片手だけ自分に向けるミジャンカに手渡した。
ミジャンカは立ち上がるとピッチフォークで調べていた『モノ』を納屋から掻き出す。その瞬間ルツの鼻腔をより強い刺激臭が襲った。
出て来たのは真っ黒に焼け焦げた塊で、炭化しているように見えたそれは、ピッチフォークで突かれればその形を変えるほど、思いの外柔らかいもののようだった。
「ぐ…っ、な、何です、これ?」
ミジャンカは答えない。ルツは涙目になりながら、鼻を袖で覆う。ミジャンカがその塊の側に跪き、僅かに眉を寄せた。そして、塊にへばりついていた器具のようなものを取ると、ルツの前に差し出した。
「は…?こ、これ…、これって…!!」
それは、熱にひしゃげフレームが溶けきってはいたものの、間違いなく見慣れたもので。
「えぇ。眼鏡です。
…この塊は、人間の焼死体ですよ。」
「う、うわあぁぁぁぁあああ!!」
ルツの叫びが、木霊した。
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