39 ある農夫の追憶


 フィンドの頭の中に洪水のように流れ込んできたのは、の自分の姿だった。



         ***


 自分は、しがない百姓だった。

 

 こんな自分にも妻子がいた。


 娘は妻に似て可愛らしく、貧しい暮らしだったけれど幸せだった。慎ましくも家族みんなで暮らせる毎日を、愛していた。


 確かに幸せだったはずなのに、人前で笑うのが恥ずかしくて、常に口元は真一文字に引き締めていた。


 そんな自分を、妻は笑った。


『あなた根は優しい人なんだから、もう少し笑ってみたらいいのに。』


 と。


 職業軍人でもなかった自分が戦場に駆り出されたのは、終戦間近のことだ。その頃子供は四歳だった。妻は泣いていた。


『お父さん、置いていかないで!』


 娘も泣いた。縋り付いてきた。だが、仲間のリスベニア兵は娘を引き離して、自分を無理やり幌車に乗せた。転んだ娘を抱き起すことも出来ず、別れの挨拶すらも出来なかった。


 でも、きっとすぐに帰ってこれると。


 また鋤や鍬を持って、妻と畑を守る日々を送れるものだと信じていた。



 けど、そんな日は終ぞ来なかった。


 血のほとばしる戦場で、昨日まで普通だった仲間が何かに取り憑かれたかのように敵兵士を殺していく様を見た。


 恐ろしかった。叫び出したかった。

 自分もいつかそうなるのではないかと幼子のように震えたが、幸か不幸か自分はだった。


 そのまま、月日は流れた。いつのまにか敵と遭遇することは殆ど無くなり、二人の仲間と共に彷徨い続けた。助かった、と思った。


 しかし、本当の悪夢はここからだった。


 知らずに銃を構え続け、祖国が自分達のような末端の兵士を見限ったことを知ったのは終戦から何年も経ってからのことだ。リスベニア兵である自分は祖国に帰ることすら許されなくなっていた。


 そしてリスベニアが教団から戦勝国の認定を受けられずに加護を失ったことを知った時には愕然とした。共存の国オガールですら、その祖国の為に戦った自分には厳しかった。どこに逃げてもリスベニア兵だというだけで差別を受け、私刑に怯える日々。


 なんとかリスベニアの国境近くまで死ぬ気で戻ってみても、高圧電流が流れる高く聳える壁に阻まれ、二度と祖国の地を踏むことは叶わないのだ、と悟った。


 自分は何をした。


 何が間違っていた。


 何の為に戦ってきた。


 痩せた地で落穂を拾いながら自分の帰りを待つ妻子を思って泣いた。


 食べるものもない。虫や溝鼠、泥水を啜って飢えを凌ぐ他なかった。その内に鼠から病を得て皮膚はどす黒く染まり、歩けなくなった。


 苦しみから地面に這いつくばって濁った水溜りに顔を映してみると、そこには浅黒く焼けた初老の男が映っていた。


 他でもない、自分だった。


 その顔は風に揺れる水面に沿うように病的に歪んでいて、昔は引き締まっていたはずの口元には深い皺が刻まれていた。


 まるで余命幾許もない老人のような相貌に、驚きとともに絶望に駆られた。あまりの変わり様に、言葉も出なかった。


 そんな中、背後に激しい痛みが走った。


 驚いて振り向くと、そこには引き連れていた仲間がいたが、目の前に広がる光景に唖然とした。



『ひもじい…。』



 そいつは



『ひもじい…ごめん、ごめんよぉ。』


 自分の軍服を捲り上げて、腰に噛み付いていた。人間を、喰らおうとしていたのだ。

 

 ボロボロになった歯で、必死に顎を動かしながら腰の肉を食いちぎろうとしていた。じわり、と血が滲み、溢さぬ様に舐め取る仲間の舌。脂肪のほとんどついていない肉を噛み、咀嚼していく。


 人は、飢えの極限まで行き着くと人すら喰らおうとするのか。


『肉だ…うまい、うまい…肉だあぁ…っ!』



 もう、やめてくれ。



 これは地獄だ。こんな目に遭うために生き延びて来たわけじゃないのに、何故。


 誰も助けてくれない。


 もう生きてはいられない。



 絶望と空腹で頭がおかしくなりそうだった。その絶望が、表情を司る脳の機能を蝕んだのか、口元は自分の意思とは関係なしに引き上がる。



『ひひ、くひひひひひ!!』



 笑うしか、なかった。


 涙を流しながら笑った。


 その笑いは、祖国で待つ妻が望んでくれたものとは程遠いもので、何とも下卑たものだった。


 最早引き金を引く力すら残されていなかったので、笑いながら従軍していた頃に支給されたを口に放り込んだ。ひもじくて苦しむ仲間の口にも。


 

 その瞬間。


 頭の中で何かが弾けた。まるで銃の安全装置が外れる様な、そんな音がした。


 そこから、何も考えられなくなった。かつてない興奮と衝動、空腹に襲われ、無性に腕が震えた。笑いが止まらなくなった。


 病で疼痛に悩まされていた足も嘘の様に軽くなって、どこまでも走れた。戦場で人を撃つたびに反吐を吐いていた自分が他人の様に思えた。それほどに人を殺すことに抵抗がなくなった。


 でも、人を殺せばそれだけ腹が減るようになった。そこから逃れる為に行き倒れているリスベニア兵の遺体の荷物を暴いてを手に入れた。


 怪しげな売人から買ったこともあった。その金を手に入れる為に、また人を襲った。


 薬がない時は、何でも食べた。なめした皮からも血肉の匂いがする気がして垂涎した。でも、一番好きだったのは豚だった。


 それが何故なのかは、もう今となっては思い出せないけれど。


 仲間二人は、人を喰らう快感に目覚めたようだった。薬を口にする前の強烈な記憶に取り憑かれているのだろうか。終わりなき空腹から逃れようと、人を殺しては食べ続けた。



 

 こうして自分達は生きながらにして



 人間をやめた。



          ***



「ひ、ひひ…。食った…。豚は、俺が食ったさ…。うまかった…うま、かったぞぉおぉ…く、ひヒヒ、ひ」


 迫り来る死を前にしても恍惚とした表情を浮かべるフィンド。その目には何故か涙が浮かんでいる。毒が頭に回ったら、もう喋れなくなるだろう。その時はこのフィンドの最期だが、売ることもせず、盗んだ家畜をただ『食った』と言った彼を見下ろして、ミジャンカは眉を寄せた。確かに人目に触れずにこんな田舎町から出ることもできない以上は食料にしたという言い分はあながち間違いではないのだろうが、どうも違和感が拭えなかった。


「では小屋を燃やした理由は。」


「そ、れは…お、れじゃない…。」


 やはり。


 既に処分した二人のフィンドの仕業だったのかとミジャンカは一息つく。そんなミジャンカの様子を見たフィンドが呼吸を整える。もう時間がないことを悟っているようで、ミジャンカに聞こえてきたのは消えそうな声だった。


「小屋のなか、を…。調べろ…。」


「何?」


「見たら…わか、る。あいつ、らの…、…が、残って、る…。」


 それはミジャンカにとっては予想外だった。


 殆ど聞き取れなくなっていたが、自分に手掛かりを残そうとするフィンド。薬に蝕まれたままでも、人間をやめていても、最後の最後に抗おうとしている様がそこにはあった。


「…た、…いま…。」


「?」


 そしてフィンドの口から出てきた一つの単語。聞き間違いだろうかとミジャンカは彼を見やる。フィンドの目が、ミジャンカを捉えた。その瞬間、その目が優しく細められる。その変化にミジャンカは気付いて、何か言おうとしている単語を聞き取ろうと顔を寄せた。



「と、さんが…



 帰った、ぞ…。」



          ***


 戦場に出る前夜、妻が最後の豚を振る舞ってくれたことを思い出した。結婚式や祭りの時でしか潰さない大切に育ててきた豚を、自分だけの為に。


 うまかった。この世のどんなご馳走もあの時の妻の料理には及ばない。


『おいしい、おいしいねえ!』


 翌日父親がいなくなることなど理解できない娘は、初めてのご馳走を口いっぱいに頬張っていた。


 それが、娘の笑顔を見た最後だった。


 もう一度見たい。娘に会いたい。


 そう願うと、気付けば娘がそばにいた。奇跡だった。


「…た、…いま…。と、さんが…帰った、ぞ…。」


 今年十五になる娘は元気そうで、短い髪が似合っていた。大きな目は更に大きく見開かれたがそれは一瞬のことで、無言で自分の隣に座った。男のような服を着ていても、妻に似て美人に育っていた。


 しかし顔の横一線の傷が何とも痛々しく、その顔に浮かべられていたのは何とも言えない表情だった。自分の帰還は歓迎されていないだろうが、それでもこの十年口に出すことも憚られるような悪魔の所業を重ねた自分が最後に娘に別れを告げられるとは思わなかった。


 戦場に行くときに言えなかった別れの言葉。もう時間がないだろうが、旅立つ今言葉を遺そう。どうか、届いてくれ。


「遅く…な、って…、ご、めんよ。」


「…。」


 娘は、何も言わない。視線を逸らさずに、静かに自分を見下ろしている。


「ルーナ…、おこ、ってる…かい?」


 十年ぶりに口にした、娘の名前。何も言わないルーナは自分の帰りが余りにも遅くて、随分と機嫌を損ねているだろう。


「いいえ。自分は怒ってませんよ。」


 随分と他人行儀だし、笑ってはくれないが、返事をしてくれた。それが嬉しかった。


「お、前は…父さ、んの…宝、物だ…。」


「…。」


「ず、っと…お前を…思ってる。


 幸せ、に…なりな、さい。」


 どうか戦争のない未来で愛する人と結ばれ、満ち足りた日々を送って欲しい。それが、何よりの願いだった。


 父親として何もしてやれなかった自分が親らしい言葉を遺して死ねることがこれほどにありがたいことだとは思わなかった。


「ルー、ナ…。」


「…はい。ここにいますよ。」


 目の前のルーナは、自分の血塗れの手の上に自らの手を乗せてくれた。そして本当に微かだったけれど



「最後まで、自分が側にいます。」



 笑ってくれた。




 あぁ。幸せだ。涙が溢れた。


「あり、…が、と…なァ。」



「…お疲れでしょう、もうおやすみなさい。」



 そうだな、眠ろう。


 次に目覚めるときには…



『お父さん、お帰りなさい!』


『ただいま。遅くなってごめんよ。ルーナ、怒っているかい?』


『待ち草臥れちゃった!でも、いいの。帰ってきてくれたから怒ってないわ!



 お父さん大好きよ!』




 笑顔のお前を、父親として抱きしめたい。








 


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