36 外道に落ちた日


「コリン!」


「ルツ!無事だったんだなよかった!」


「あぁ…。腰がトマト塗れで気持ち悪いけど、それ以外は何とか…。」


 ミジャンカと一度村の入り口まで戻ったルツは、一軒の民家を訪ねた。ミジャンカの指示で民家の中に退避していたコリンが出迎える。


「突然のことでしたのに夜分にご協力を賜り、感謝致します。」


 ミジャンカが丁寧に民家の住民に頭を下げた。ルツとコリンも同様に感謝を伝える。


「いや、とんでもない。まさか国境から大して近くもないこんな村にまで外人兵の脅威が及ぶとはねぇ…。恐ろしくて敵わないよ。」


「お察しします。ですが心配は無用です。今夜中に我々が捕縛して連行しますので。」


 ミジャンカはいつものように温和な笑みを浮かべる。コリンは特に気にしていなかったようだが、ルツはミジャンカの言葉に目を泳がせた。最後に残ったフィンドがどのような人物かは想像ができないが、先程のフィンドのように意思疎通が取れない状態では生きた状態でこの村から連れ出せる訳が無いからだ。村人の前では『処分』なんて物騒な言葉が使えないのは重々承知だが、先程の光景が鮮明に頭の中に再生されてしまう分、ここを出て最後のフィンドを捜索するのは気が進まなかった。



『慣れてください。』



 ミジャンカの言葉がルツの頭の中で反響するように何度も聞こえた。

 人が死ぬのを見るのは初めてだった。戦時中に知己が日常的に殺される毎日に身を置いていた人々には大変申し訳ないが、平和な田舎町で育った自分には縁遠い話だ、とルツは息を吐く。無論この仕事を選んでしまった以上はそんな甘っちょろい事は言っていられないわけだが、医者でもないのに人の死に慣れるということは、何とも業深いことの様に思えてならなかった。


 そして、ミジャンカが既に処分したフィンドも、先程心臓を突いたフィンドも銃を携行していなかったとのことなので、最後に残ったフィンドは間違いなくルツを狙撃した者である事もわかっていた。それも背筋を冷やす原因だった。


「ルツ、大丈夫か?何だか顔が蒼いぞ。」


「え?あぁうん。大丈夫だ。寝不足だよ。」


「では二人とも。行きましょうか。」


 三人は民家を後にした。


 日付が変わるまであと三時間余り。今日の寝台列車の最終が零時であることを考えると時間は然程残されていない。明日の日中にジャイレンに到着するには最終列車に乗るしかないからだ。聞けばミジャンカは明日の夕刻には他の構成員と共に別の任務へ向かわなければならないという。どれほど多く見積もってもあと一時間ほどで任務を完了させる必要があった。


「小さな農村ですし、奴が食べ物や寝床を確保することを考えれば夜中にこの村を離れる可能性も低い。見つけるのに苦労はしなさそうですね。」


「そうですね。」


 ルツがミジャンカの言葉に頷いた時、背後から声を掛ける者がいた。


「おや?あんたさっきの。」


 それは、先程ルツに情報提供をしてトマトを差し入れてくれた女性だった。ぎょっとしたルツが駆け寄って家に帰るように促す。


「あ、危ないですよ。こんな時間に出歩いちゃあ。」


「何さ、あんたらだってそれは同じじゃないか。」


 口を尖らせて女性がルツの鼻先を指でさす。ルツは困ったように両手で女性を制した。そよそよと夜風も吹き、女性がぶるりとお肩を震わせた。


「おぉ、肌寒い。」


「ほら言わんこっちゃない…。我々は仕事なんです、危険ですから本当に家から出ないで下さいよ。」


「そうは言っても納屋が焼けてから臭いも消えないし、風で家の中にまで臭いが入り込んでくるから嫌なんだよ!服まで臭うったら…。」


 明日には納屋も取り壊す予定だけど、と女性が続けた時だった。風下にいたミジャンカが眉を寄せて女性に話しかける。


「失礼ですが…夜何を召し上がりましたか?」


「へ?」


「肉を焼いたりは、してないですか?」


 唐突過ぎる質問に女性は首を傾げた。肉付きのいい頬に手を当てて答えに窮していると、銃声が響いてミジャンカの背後に控えていたコリンがぐらりと倒れた。


「コリン!」

 

 ルツが叫ぶのと、ミジャンカがコリンの身体を支えるのは同時だった。背中には血が滲んでいる。


「きゃああああああ!!」


 女性も突然の事態に頭がついていかず、叫び出した。瞬時に状況を察知したミジャンカが左手にルツと女性、右手にコリンを抱え上げると走り出す。


「うわ!」


 いきなり大の大人三人を軽々抱え上げたミジャンカに、ルツは言葉を無くす。重量も勿論だが、意識を手放しているコリンは全く体に力が入らない。そんな状態の大人をミジャンカが小さな体で肩に抱え、しかも全速力で走れていることが信じられなかった。


「(何なんだよこの馬鹿力…、一体こんな体のどこにそんな力が…!)」


 ふと、ジャイレンで目にしたあの光景が頭に蘇った。粗三階に差し掛かる程の高さに設置されていたハンギングブラケットに、一階の扉に手をかけて跳躍し、軽々と看板をかけたミジャンカの姿だ。



『(な、何だ?何が起きた?いくら子供で体重が軽いからって、相当な訓練を積まないとこんな身のこなし…いや、それでもこの高さは無理だ!)』



 あの時はパニックになるだけだったが、ルツはこの状態の中で瞬時に思い至った。


 ミジャンカの膂力は、見た目の何倍も強いのだ。並の人間がどれだけ健脚だろうと、あそこまで跳躍出来るはずがない。扉に手をかけたあの時、身体をで持ち上げたのだ。それこそ常識では考えられないが、あの状況下ではルツ自身そう考えるしかなかった。


「ちょっ…何すんのよあんた!」


 一言も発しないルツにはお構いなしに、恐怖からか女性がギャンギャンと騒ぎ出した。涼しい顔でミジャンカはそれを制する。


「喋ると舌噛みますよ!」


 そして数十メートル先にあった女性の家の扉を蹴破り、ミジャンカは三人を中に放り込むとすぐに扉を閉めた。


「コルベットさん、内側から鍵を掛けて下さい!テトラさんの止血も急いで!自分がいいというまで絶対にこの扉を開けてはなりません。出来るだけ家の奥にいて下さい!」


「で、ですがコラケム様、自分も!」



「これは『命令』です、ルツ・コルベット!」


 これ以上足手纏いになるわけにはいかない。無傷の自分が戦わずして何になるとルツは声を上げたが、ぴしゃりと発せられたミジャンカの一言に黙るしかなかった。


 ここではミジャンカが絶対的な上官だ。しかも新人軍警である自分の立場ではその命令に背けるほどの力量も持ち合わせてはいない。『命令』の一言にルツはグッと唇を噛むが、コリンに肩を貸してミジャンカの言う通り家の奥へと進んでいく。


「何なの?何が起きてるって言うのよ。あんな小さな男の子だけ外に残してどうするってのよ?まさかこれがあんたの言ってた…」


「しぃ!いいから黙って!騒がれたらあなたの安全は確保出来ません。ご協力ください!あの人に任せてれば大丈夫ですから!」


 任せていれば大丈夫、という言葉に何て他力本願なのだろうと恥じる気持ちもあったが、今は目の前の一般人の安全の確保とコリンの手当てが最優先だ。女性を落ち着かせながら、先程撃ち抜かれたのとは別の嚢に入れておいた包帯で、コリンの手当てをしていく。



「大丈夫かコリン、頑張れ!頑張れよ!」



         ***

 

 夜風が吹くなか、ミジャンカが弓を構える。目を閉じ、耳を澄ませて月明かりの影に隠れる『奴』の気配に意識を集中させる。普段背中を任せている仲間がいないので、ルツたちを放り込んだ家を背にして立っていた。中から先程まで聞こえていた話し声が遠くなり、聞こえなくなったことを確認すると、口を開く。


「もういい加減出て来ませんか。そんな甘ったるい臭いをさせていては、隠れている意味がありませんよ。」


幾分低い声で目を開けると、矢を番えて影に紛れた人影に向かって構える。ミジャンカが手を離すだけで、まっすぐ飛んでいくであろう矢。構えて数分が経っても、ミジャンカの腕が下される事はなく、疲労による震えも一切ない。膠着状態が続く。


「貴方に一つ質問があります。その答え次第では自分の一存で処分を猶予する事もできます。取引と捉えて頂いて構いません。」


「…。」


「どうしますか?もしこのままだんまりが続くのであれば、時間の無駄ですので自分はこの矢を放ちます。」


 キリキリと音を上げる弓。ミジャンカは鋭い目でその人影を捉える。

 

「ひひ、くひひひひひひひひ…。」


「…。」


 ゆらり音もなく月明かりの下へと出てくる男。その手には旧式の小銃が握られている。男が歩くだけで、宛ら砂糖を煮詰めたような、目に染みるような甘い臭いが漂ってくる。ミジャンカは構えた手を下ろさない。


「ひひ、お前…オガール人じゃ、ないなぁ?軍警でもないなぁ…。制服じゃないもんなぁ?若いなぁ…。歳の程は十四くらいかぁ?人生これからだなぁ?ひひ、くひひひひひひひひ。」


 小銃を自身に向かって構えてくるフィンドに眉一つ動かすことなく、ミジャンカは引き続き低い声で問いかける。


「もう一度言います。この取引に応じるか否か。」


 臭いの強さはカプセルの摂取量に比例する。明らかに先程のフィンドとは比較できないほどの臭いだったが、まだ会話ができるほどの理性と思考力は持ち合わせている様だった。カプセルに対する耐性が強い体質のフィンドなのだろうとミジャンカは考えた。


 その耐性がどこに作用するのかも人それぞれだ。脳への影響が軽微で肉体強化に作用する事もあれば寧ろ筋肉が落ちて脳の萎縮が著しく、少しの量で廃人になる者もいる。カプセルの種類もこの十年で何百種類に増えている。戦時中にリスベニア兵に広がっていったカプセルはたった数種類だった筈が、その作用に目をつけた者たちによって暗部に流れ、ここまで面倒な代物になってしまっていることにも、ミジャンカは怒りを覚えていた。


「ほぉお?まさか、オガールにいやに腕が立つ武装集団がいるって話は聞いたがぁ…お前みたいなガキが?ひひ、ひひひひひ!!」


「…。」


「いいさぁ、言ってみなぁ?くひひ!!」


 何がおかしいのか、下卑た笑いを止めないフィンド。これもカプセルの影響だろう。感情を制御する脳の機能が麻痺しているようだった。


 カプセルが体内に入る前は、喜怒哀楽のある極普通の人間だった筈なのだ。血を求め、人を殺すことしか頭になくなった殺人人形に成り果てても、結果として彼らを『殺す』ことを善しとする理由などどこにもない。しかし、カプセルによってたがが外れた彼らが一般人を襲う現実を前に、穏健的な手段でフィンドを遠ざけることなど不可能だ。


 それ故に自分たちは暴走したフィンドを『処分する』ことに躊躇いを持つ事は許されない。それが自分たちの役目だからだ。他の構成員がどう思っているかを推し測った事はないが、ミジャンカはそう自分を納得させ続けていた。取引を持ち掛ける際に『猶予』という卑怯な言葉まで使って。 


 罪なき者に害を及ぼし、それに味を占める段階まで行った彼らは遅かれ早かれ処分される運命だ。猶予とはただそれまでの時間を長らえられるだけの権利を与えるに過ぎない。先程のフィンドは取引を持ちかける前にルツを手にかけようとしていた。だからあのような形でしか問いかけることができなかった。それも結局は無駄だったわけだがとミジャンカは瞳を伏せた。


 ハウンズとしてセラウドたちとフィンドと相対して来たこの一年あまり。ミジャンカは会話ができる状態のフィンドには問い続けて来たことがある。彼らの命を奪う分、これ以上彼らの様な中毒者たちを出さずに済むように。そして、自分たちの…いや自分の目的を果たす為に。


「ここ数年の間に、ジャイレンに診療所を構えていたオガール人医師がリスベニアに拉致された事件について、何か知っている事はありますか?」


「くひひ、オガール人、医師だぁ?」


「優れた科学技術は勿論、医療も世界屈指のレベルであるリスベニアが、態々リスクを冒してまでオガール人の医師を拉致して来たとなれば軍内でも情報は流れた筈です。拉致するのは彼でなければならない理由があったのでしょう。貴方の国は軍隊は目的の為なら『何でもする』。何でも出来る筈なのですよ。なにせ王家を牛耳っているのは他でもないリスベニア軍なのですから。」


 ミジャンカは回顧する。

 自分の恩師が連れ去られたあの日。黒い外套の下から覗いたのは間違いなく濃緑の軍服だったし、胸には悪魔の鳥がいた。彼らがフィンドだったかはいざ知らず、気がれたようにリスベニア兵を追い続けた。


 その日から、自分は外道に落ちたのだ。



『や、やめてくれ!もうこれ以上はぁあ!くそ!悪魔は、悪魔はてめえの方じゃねえか!!』



 恩師が自分に叩き込んだ医学を人殺しの道具にしてまでも、ミジャンカは彼の居所を探し続けたのだ。その為に、やっと手に入れたも一度は捨てた。人体の急所を、そして痛覚を最大限刺激する方法を知り尽くしたこの手は、恩師の居場所を掴む為なら何でもした。ある日気づけばそのまま歪んだ思考を持ったまま二十歳になったのだ。


 見てくれは少年のままで。それが何故かも分かっていたけれど、それとは別の理由もあると思った。


 きっと、自分がになったせいだと。



『助けて!何でもするか…ああぁあ!』



 そう、何でもした。



『お前は、人間じゃねえ!!返せよ、俺の腕を返せぇぇえ!!』



その度に、人間普通から遠のいていった。



『もう、殺して…殺してくれぇ!!』



 自分の貼り付けた柔和な顔は、肉に縫い付けられた仮面だと、思った。自分は決して優しくない。陽に当たらない場所で見る自分の手は、いつでも血に塗れていた。


 頭の中に蘇る阿鼻叫喚に、ミジャンカの表情が僅かに歪む。弓はキリキリと音を鳴らし続けている。そんなミジャンカの様子を知ってか知らずか、フィンドはニタニタと笑い続ける。


「ひひひ、知らねぇなぁ…。俺がリスベニアにいたのは十数年も前のことだぁ。リスベニアの国境は中にも外にも高圧電流が張り巡らされた分厚い壁が覆ってやがるからなぁ…。くひひ、一度も、戻っちゃいねえよ…。」


 ミジャンカはやはりとは思ったが、望んでいる答えは返ってこなかった。恐らくこの問答もこれから先何度も続くのだろう。しかし、自分は恩師が見つかるまではこの問いを止めることはないと思った。彼の『留守』がいつまで続くのか、そんな茫漠な疑問を恐れているからではない。優れた医者であり、また科学者としての顔もあった恩師だが、例によって粒揃いの学者が大勢いるはずのリスベニアに拉致されたその理由をミジャンカは知りたかった。それがわかれば彼の消息も明らかになるだろう。そしてそれがカプセルの成分解析、そして戦後の混乱に紛れて巧妙に隠されているリスベニアの『触れてはならぬ部分』に光を当てることに繋がると信じているからだ。


「そうですか。知りませんか。ならば…しかありませんね。」


 ミジャンカの目の前のフィンドは、先程のフィンドと違って思考力がある。意識がある。ならば容赦はすまいと、ミジャンカは唇を引き締めた。嘘をついているかどうかなど、矢を番えているこの手を離せばすぐにわかる筈であるとそう思った時だった。



『お前は、いつまでも外道に成り下がったままでいるつもりか?』



「!?」



『お前の肩は潰れるその時を待つばかりだ。なら俺達に寄越せ。その肩にのしかかった大きな荷物をな。背負ってやる。そして軽くなった分、お前の力を預けろ。そうすれば、お前は…



。』


 記憶の中でそう手を差し伸べたのは、他でもない白銀の髪と瞳を持った、彼だった。



 


 



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