35 弾けた静寂


「ルツ。」


「…。」


「ルーツ!着いたぞ!」


「あ?あぁ、うん…。」


 同期のコリン・テトラがルツの肩を叩いたのと、列車が任務の地に着いたのは、ほぼ同時だった。


 出発して早半日。

 初任務の地は、ジャイレンから東へ二百kmほどの場所に位置するバイロンという農村だ。駅からオートモービルで数時間走り、漸く着いた時には陽が沈む直前だった。


 数日前からフィンドと思しきリスベニア兵の目撃証言が相次いでおり、放火や家畜の盗難、農作物が荒らされるなどの被害が出ている。人的被害にまで及ぶのは時間の問題であることもあり、今回ミジャンカとともにルツとコリンが派遣されたのだった。


 ルツにとっては記念すべき初任務の筈であったが、彼は全く以って気の進まない任務にとうとう着いてしまったかと溜息をついた。故郷を離れてから慣れない生活が続いたせいで睡眠不足が常態化し、欠伸も出る。コリンが呆れたように口を開く。


「お前…指令受けた時からそればっかりだな。上官がいたらどやされるぞ。」


「いいんだよ、いないんだから。」


 放っておけとコリンに向かって片手を振るルツ。任務への緊張感よりも、違う意味で早く終わらせてしまいたい気持ちの方が遥かに大きい。


 合同任務にあたる筈のミジャンカとは現地合流することになっていた。近くの街で元々別の調査に出ており、終わり次第バイロンに到着する手筈になっているからだ。ミジャンカと列車で丸一日一緒に過ごさなければならない事態が回避できたおかげでまだ気が楽だったが、ルツにとっては数日前の件の大失態は誰にも話せないものであったので、ミジャンカがコリンに口を滑らせるのではないかと気が気ではなかった。


「それにしても、やっぱり農村なだけあって静かだなぁ。本当に田舎って感じだ。月が出てないと夜中は真っ暗だぞきっと。」


 コリンが、薄暗くなっていく空を見上げながら呟いた。ルツも周りを見渡す。長閑な田園風景が広がる村で、道も舗装されていない。耳をすませば虫が微かに鳴き始めていた。


 フィンドの被害が出たとは思えない程に静まり返っている村。それぞれの民家同士も離れているので見える灯りも疎らだ。


 二人は、ミジャンカが到着する迄の間に村人から情報収集をすることにした。それほど軒数もないので手分けして回ればきっとミジャンカと合流するまでには多少報告できる情報が得られるだろうとルツは踏んだのだ。


「じゃあ、僕は川からこちら側を回るから、コリンは反対側を頼むよ。」


「あぁ、でも大丈夫なのか?俺たち二人しか派遣されていないのに単独で動いてしまって。」


 コリンが少し眉を寄せてルツへと問う。一瞬ミジャンカの到着を待つべきかという考えがルツの頭をよぎったが、ハウンズの彼を自分達新人が村の入り口で手持ち無沙汰なまま突っ立って待つことはなんとも滑稽に思えてならなかった。


「もう陽も落ちてるし、村人が休んでから訪ねるわけにもいかない。小さな村だから二人で分担した方が早く終わるよ。」


「それもそうだな。じゃあ、またあとで。何かあったら無線で連絡を取り合おう。」




         ***



「ここも特に収穫はなし、か。」


 ルツが五軒村人の家を訪ねた時点で、目ぼしい情報は思ったほど手に入れられず仕舞いだった。それぞれが村で起こっている被害についてはある程度把握してはいるものの、面倒ごとに突っ込みたくないという理由や得体の知れないものへの恐怖で一同に口数は少ない。そもそも村人の識字率が低いこともあり、外部の情報が入ってくるスピードもジャイレンとは段違いに遅いのだろう。『フィンド』という言葉自体を知っている者自体がいないのだから。


「難民もいないし、昔からの人たちが住んでいるのだろうなぁ。にしてもあのおばさん、大丈夫だろうか。」


 三軒目に尋ねた家の女主人は、唯一饒舌に色々なことを教えてくれた。


 ルツと同じくらいの歳の息子が三日前にジャイレンへ買い出しに行ったこと、放火されたのは家畜の為の干し草を保管していた自分の納屋だったこと、二つ隣の家で買われていた豚が一頭盗まれたこと。


 夫には先立たれ、一人息子が買い出しに行っている間には毎度寂しい思いをしていると嘆いていた彼女は、久しぶりの話し相手がきたとばかりにルツが相槌を打てば打つほど口が回るようだった。


『気味悪いったらありゃしないよ!納屋まで燃えちまって、臭いも消えやしない!あんた、大変だろうけどちゃんと悪いやつとっ捕まえてもらわないと困るよ!頑張んな。』


 そう言って、畑で取れたトマトを振る舞ってくれた。大きく熟れたトマトはそのまま齧ればほんのり甘く、爽やかな酸味が鼻を抜けて乾いた体にはありがたかった。彼女の息子が出かけていることはともかくとして、他の二つの情報は既にジャイレンにいる時から報告書に上がっていた既知のものであったが、夜分に訪れたにも関わらずに差し入れまでくれた彼女に、ルツは故郷の母を思い出して口角を上げた。


「(母さん、元気にしてるかな。)」


 後でコリンに分けようと、貰ったトマトを腰の衣嚢に仕舞って一歩前へ踏み出したその時だった。


…パンッ!!



「…へ?」


 何が起きたのか分からなかった。


 下半身に広がっていく不快な水っぽさ。

 手を這わすとヌルッと纏わりつく何か。

 月明かりの下に手を広げてみると、それは薄らと赤かった。


「う、うわあぁぁあ!!(血、血か!?撃たれたのか!?どこから!?)」


 思わず手を制服で拭い、ルツは再度自分の腰元へ手をやる。痛みはない。不審に思って恐る恐る自分の掌を嗅いでみる。つい先程まで自分の口の中に広がっていた酸っぱい匂いが香った。ここで初めて、先程トマトを仕舞い込んだ衣嚢が弾けたことに気づく。ほっと息をつくがその瞬間じわじわと恐怖が足元から這い上がってきた。


「(もし、僕があの場から動かなかったら、今頃…っ)」


 間違いなく骨盤に銃弾が貫通していた、と。


 訓練とは違う。自分の命が保証されているわけではない任務に放り込まれている現実を思い知らされた。背負っていた小銃に手を伸ばすが、相手が視認できない状態ではどうしようもない。


「…っ、コリン…!そうだ、知らせないと!」


 ここでルツは初めて単独行動を取ったことを後悔した。何度無線のボタンを押しても何故かノイズばかりで通じない。それほど広くない村とはいえ、自身を銃撃してくる『敵』がいることがわかった以上は灯りもつけられない。大声でコリンの名を呼ぶことすらも出来ない。焦りと恐怖で腰を抜かしそうになったが、とにかくコリンと合流することを最優先にしてルツは走り出した。


「(走れ、走れ!村の入り口まで!)」


 無線が通じないことにコリンも気付いているのなら、先ほど別れた場所まで戻っているはず。そうであってくれとルツは願った。数百メートルが長い、本当に長く感じた。


 足が縺れながらも川に沿って走り続けていた時だった。ふ、とルツが足を止める。人影が見えたからだ。振り返って確認しようとする。


 せせらぎが聞こえる。月明かりが反射して、砕け散った水飛沫が光っていた。一つの人影が、川の中心に立っていることでその川の深さが大人の膝頭くらいまでであることがわかる。


「あの!危ないですからすぐに建物の中に入ってください!宵に紛れて狙撃されるかもしれないんです!」


「ひ…い……め、ん…」


 先程ルツ自身が撃たれた場所からかなり離れたこともあり、声を張ってその人物に注意を促す。相手も何か言っているようだがその人影は動かない。川の中心にいるせいで自分の声が聞こえないのかと再度口を開くが、ルツはそのままピタっと硬直する。


 ちょっと待てよ、と。


「(そもそも、おかしくないか?)」


 いくら夏とはいえ、夜に着衣のまま一人で川に入るのは何の為だ。魚を取るため?洗濯をするため?いや、どれも夜でなければならない理由などない。しかも、あの人影は仁王立ちしたままで全く動かない。ただ、壊れた人形のようにブツブツと何かを呟いている。


「も…じい、ひ…い…。めん、も…ご…ん。」


 少しだけ冷静になって頭がクリアになってきた状態で、ルツの脳内で当たり前の疑問がぐるぐると回る。そして、目を凝らすとその人物が着用しているのが重厚な長袖の軍服であることにも気付いた。そして、息が不自然に上がり、口からたらりと覗くのは粘ついた涎。何を言っているかまでは聞こえないが、ブツブツと誰に聞かせるでもなく呟かれているのは同じ言葉だろう。完全に正気の沙汰ではなかった。


「(まさか、まさか…っ!)」



 フィンドだ!



 ルツが小銃に手を伸ばすのと、そのフィンドが黒い『何か』をルツの方へ投げるのは同時だった。


ドオオォォォォオン!



「ぐ…っ!」


 ルツの数メートル手前で弾けたそれは爆音と共に閃光が辺りを照らし出し、昼間のような明るさになるもそれは一瞬のことだった。投げつけられたのは恐らく手榴弾だろう。しかし爆発の規模が大きい。川の中から投げられたにも関わらず、立ってられないほどの爆風がこちらまで届いたからだ。加えて風下にいるせいで砂塵がなかなか引かず、視界が悪い。


「ごほ、ごほっ。や、奴はどこだ…っ?」


 膝をついたルツが再び小銃を構え直し、安全装置を外して辺りを見回す。相手が完全に殺しにかかって来た以上は身の安全を守ることが第一だ。その為には発砲もやむを得まいとルツは覚悟を決める。月明かりが漸く届くほどに視界が回復してきたと思った時だった。舞い上がった砂埃の中から石が投げつけられる。ルツの額に当たったそれは、鈍い音を立てて地面へと転がった。


「痛…。な、何なんだよ!」


 虚を突かれながら足元に転がったそれを何の気無しに拾い上げる。ルツは手にその感触が伝わった瞬間、自分がどれだけ愚かしいことをしたのかを悟った。


 それは、小さな手榴弾だったからだ。


「しまっ…!」


 爆発する!双眸を見開き、叫び出そうとした時だった。


「それを真上に投げて!」


 少年の声が響く。ルツは、状況が理解出来ないながらも膝を曲げ、自身の頭上にいつの間にか高く上がった月を目掛けて手榴弾を放った。すると宙を舞う手榴弾に真横から何かがあたり、それと同時にルツの立ち位置から『数メートルずれた位置』で、爆発した。


「なっ…(何で一瞬であんな離れた場所に!?)」


 空中で爆発した先程の手榴弾が、この辺一体を覆っていた砂塵を一瞬にして吹き飛ばした。そのおかげで、別の人物が立っていることにすぐに気付いた。


「ご無事ですか?コルベットさん。」


「コ、コラケム様!!」


 ルツの目に数日前迷っていた自分に声をかけて来た時と同じ、落ち着いた様子で立っているミジャンカの姿が飛び込んでくる。その手元を見ると、握られているのは小石。


「間一髪でしたね。小型の物でなければ重傷は免れませんでした。危ないのでそいつから離れてください。」


 ルツは呆然とする。ミジャンカは何の武器も構えていない。弓も背中に固定されたままで、彼が指先で弄んでいるのは唯の石だ。


「(まさか…あんなに視界が悪い中で僕が空中に放った手榴弾を…投擲で?)」


 そうルツが考えを巡らせるのが遅いか早いか、ミジャンカが持っていた石を指弾していつの間にかルツの背後に立って腕を振りかぶっていたフィンドの目を撃ち抜く。その距離は十メートル以上空いているというのに、だ。


「ひ…ぎゃあああああ!」


 叫び声が木霊する。その声でルツが我に帰ったように小銃を構え直してミジャンカの方へと小走りで駆け寄っていく。ミジャンカと背中合わせになったことで冷静さを取り戻すのに時間はかからなかった。その様子にミジャンカは一瞬微笑んで、状況を手早く整理する。


「コルベットさん、いいですか。今現在この村にいるフィンドは三人です。自分がここにくるまでに一人処分しましたので残りは貴方に手榴弾を投げてきたそのフィンドを入れて二人。まずはこのフィンドを片付けましょう。貴方は極力動かずに、自分がすぐに駆けつけられる場所で待機していてくれますか。テトラさんは先に合流して無事を確認していますのでご安心ください。」


「は、はい…!」


 すらすらと言い淀むことなく必要な情報だけを簡潔に口に出すミジャンカ。ルツはコリンが無事であることがわかったことで大きく安堵していた。ルツの乱れた呼吸が整えられていく。


「先程自分が処分した一人を含め、奴らは身体中に釘や針の巻かれた手榴弾などの爆弾を多く抱えているようです。不用意に至近距離で発砲すると暴発してこちらが致命傷を負う可能性があるので銃は使えません。自分が何とかします。」


 ルツの返事を待つ前に、ミジャンカがふっと消える。それは瞬き一つの時間で、その瞬間には目を潰されて蹲っているフィンドの頭上にいた。空中で体を捻り、懐から小刀を出すとフィンドが頭を上げる時間も稼がせずに、頸を音もなく切り裂いた。血飛沫が上がり、フィンドが声を上げることもなく倒れ込む。音もなく着地したミジャンカは小刀を一振りして血を払うと、膝をついて倒れたフィンドの耳元に顔を寄せ、ルツが聞こえないほどの小さな声で囁いた。


「動けないでしょう。今貴方の頸髄を切断しました。出血は多くはないですが呼吸を司る神経も同時に切ったので少しずつ息が出来なくなっていくでしょう。苦しいですよ。」


「が、は…っ!!め…ん…も、じいぃ…」


「貴方は死ぬ。でも、自分の質問に答えて下されば即死させて差し上げます。どうですか?」


「ひ、も…あ、あ、、ああああ…じ。」


 フィンドは息と一緒に喉から嗄れた声を出すのに精一杯のようだった。何かを言っているのも聞こえるがそれがミジャンカの問いかけに対して可否を伝えるものでないことは確かだ。少しずつひゅうひゅうと息遣いも下弱くなっていく。その様子を見て、ミジャンカは目を伏せるとぽつりと呟いた。


「…最早、意思表示すら出来ませんか。」


「ひ…じ…い…も…。ご、め…」


 自分の望んだ答えが返ってこないことを悟ったミジャンカは、無言でフィンドの胸元に手を這わすと、小刀をその左胸に垂直に突き刺した。


「(心臓を突いて…。)」


 目の前で一つの命が消えて行く様を、ルツは固唾を飲んで見ていた。フィンドは、突かれた瞬間黄色く濁った目を大きく開いたかと思うと、すぐに動かなくなった。首筋に手を当てて脈がなくなったことを確認したミジャンカは、胸に刺さっていた小刀を引き抜き、そのまま紋章を引き千切って懐へと収める。そして、目を見開いたままのフィンドの顔を少しだけ眺めて、そしてその目をそっと閉じさせた。


 ミジャンカは、会話が出来ずともフィンドが只管狂ったように同じ言葉ばかりを口にしていたことを思い返していた。耳を澄ませて理解しようと思わなければ絶対にわからないだろうその言葉は、確かにミジャンカの耳に届いていて。その様子からハルトで遭遇したフィンドとは比べ物にならないほどに多量のカプセルを摂取していたようだった。ミジャンカは、その影響でかなり脳が萎縮していただろう彼に最後の取引を持ちかけるのは些か非情すぎたかと自省していた。だからこそ即死させた。そして、何よりも彼の言葉は、カプセルを口にする前の彼の逼迫した状況を表現するには十分過ぎるものだったのだ。決して絆された訳ではなかったが、それがミジャンカを何とも言えない気持ちにさせた。



「『ひもじい、ごめん。』、ですか…。」



 彼にとっては国から捨てられ、食べる物もなく、只管人を傷つけ殺すことだけに支配された戦後だったことがこの一言に集約されている。


 ミジャンカの呟きは側にいたルツにも聞こえていて、その顔はどうしようもなく切ないものだった。その様子を見て、ミジャンカは口を開く。


「コルベットさん。軍警でいる以上はフィンドに情けをかけてはいけません。このフィンドはバイロンに来るまでも多くの無辜の民を殺している筈です。フィンドが『フィンドになる前』の人間くさい部分に心を軋ませることもあるでしょうが、慣れてください。それが出来ないのであれば、貴方は即刻この仕事を辞めた方がいい。」


「は…申し訳ございません。」


 ルツは小銃を傍に置き、膝を折ってミジャンカに首を垂れた。その顔が明らかに歪んでいたことにミジャンカは気付いたが、それに対しては気付かない振りをした。


「寝不足もあるのでしょう。早く終わらせて貴方は休んだほうがいいと思います。」


「え…。」


 ルツは目を見開いた。そんなこと一言もミジャンカには漏らしていなかったからだ。


「縦に線の入った爪、平常時なのに乱れた脈、意識散漫。完全な睡眠不足ですよ。そんな状態では正しい判断など出来るはずがないのです。この任務が終わったら診断書を書きますから、二、三日休暇を取ってください。」


 ルツは頭がパニックになったが、使いに出た時にミジャンカが突然自分の脈を診ていたことを思い出した。


「気づいて、らしたのですか…?」


「勿論。貴方が思っている以上に自分は大人ですから。」


 その一言に、ルツは息を呑んだ。


 そうだ。


 目の前にいるのは少年ではない。医者であり、フィンド専門の武装集団の一角を成すミジャンカ・コラケムなのだと。優しそうな柔らかい表情からは見当もつかないほど、彼は『大人』なのだ。それを、思い知った。


ミジャンカは片手を出してルツに立ち上がるよう促す。恐縮しながらも、ルツはその手を取った。


「さぁ、まだ一人残っています。処分せねば。行きましょう。」


「はい!」



 二人は走り出した。



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