34 或る医者


 災難塗れだった使いから宿舎へと帰ってきたルツは、かつてない喉の渇きに襲われていた。それを引き起こしているのは震える手に握られた一枚の指令書だ。


「嘘だろ…。」


 つい数分前、帰って早々精神的疲労でげっそりしていたルツを上官は呼び止めた。初めての任務を命ずる指令書を手渡し、頑張れよと肩を叩いて去っていった上官の背中を見送った後に何の気無しに指令書に視線を落とすと、一気に季節がひとつもふたつも進んだかのような冷気がルツの背中に流れた。


「ハ、ハウンズとの合同任務…?同行者はミジャンカ…コラケム…。」


 今は絶対に会いたくない『少年』の名前がそこにあった。


 田舎から出てきたときには人並みに出世欲もあった筈だが、今のルツの心中を占めていたのは逃走欲。兎に角逃げ出したくて堪らなかった。使いに出た際の盛大な勘違いの副産物である大恥を、絶対に知られたくないハウンズの構成員にこれまた盛大に晒してきたのだから。


それは数時間前のことだ。

 

          ***


「これが頓服薬一式と、睡眠を促進する導入剤、そして止血剤です。明細に用法と用量の記載があります。包帯とガーゼも入っているので、このままお渡しくださいね。」


「ハイ…。」


 ミジャンカは手にしていた明細を抱えていた袋に入れ、ルツへと手渡した。心なしか震える手。明らかに自分と目を合わせようとはしない目の前の若き新人軍警に、思わず苦笑いを漏らす。


 ズーンという効果音が真面目に聞こえてきそうなほどに肩を落とし、暇さえあればため息ばかりついているルツは、自分の体が普段の一回りほど小さくなっているように感じていた。


 つい先程配布された資料に記載されていた自分の上官と同列の人間をよりにもよって『君』呼ばわりした上に、ハウンズの拠点の一階が目的の診療所であったことも知らずに普段は閉鎖されている勝手口の前で右往左往していた自分をしばき倒したかった。いくら写真が不鮮明で顔がわかりにくかったとはいえ、これはないだろうとルツは自責の念に駆られるのみだ。


「新人の方はご存知ない方が多いですから気にしないでください。ここは、自分が在所している時だけ診療所の看板を出しているので。二ヶ月ほどジャイレンを離れていたものですから、事前に拠点と同一住所であることを知らされてなかったのであればコルベットさんが迷われるのも無理はありません。」


 ルツの心中を慮ってか、ミジャンカが完全フォローに徹するが、そんな彼の気遣いもルツにとっては切なく情けなく、そして申し訳ないものだった。眉をハの字に下げ、ぽつぽつとルツは言葉を紡いでいく。


「情けないです。まがりにも軍警の一員なのに、まともに使いすらこなせないとは。」


 ここで初めて、ルツは顔を上げて目の前に座る彼を見た。窓際の古びた木製の机の前に座り、回転式の椅子を九十度左に転回して自分に向き合っているミジャンカは、大きめの白衣を羽織って長い襟足を一纏めにしている。


 ルツは、拠点の一階が診療所になっていることに加えて、ミジャンカにもう一つの顔があることも本人から聞かされて初めて知った。それは、軍警本部から薬の仕入れを請け負っていること、ジャイレンにいる間は往診中心で医療行為を行う正真正銘の医者であることだ。何故配布資料を隅々まで読み込んでいなかったのか、ルツはますます自分の詰めの甘さを恥じた。


 ミジャンカは相変わらず苦笑いを浮かべながら、この際話題を変えてしまおうと天井を見上げた。

 

「古い建物でしょう。ここは元々オガール人の医師が営んでいた昔ながらの診療所でした。上階部分は自分達が生活の場にしていますが、このビルそのものがその医師から預かっているものなんですよ。」


 ミジャンカが天井を指さす。彼の指先を見れば、随分と昔からあるのであろう蜘蛛の巣が天井付近にへばり付いていた。埃も乗り、がっしりと構えられていたそれは、叩きで払っただけでは除去できそうもない。


「確かに年季が入っているようですが、ここの主は建て替えを検討されることはなかったのですか?あなた方ハウンズの拠点であれば、軍警からの予算も降りるはずですが…。」


「あぁ、それはありがたいですが異民族である我々がこの街に受け入れられていることだけで十分なのですよ。ジャイレンにいる間に寝起きが出来ればそれ以上は望みません。予算といっても大元は税金ですから。それに…」


 我々は日常的に贅沢出来るような上品な育ちはしていないので、とミジャンカは最後に一言添えた。


 一般人に害なすフィンド相手とはいえ、武装集団がジャイレンに拠点を構えることは、市民感情を考えると簡単なことではない。ノーブレスなどの移民や難民を除いたジャイレン市民はフィンドの直接的な被害を受けていない者が殆どであるし、彼らの脅威を知らない立場では抑得体の知れない異民族の若者が武装して街中に居座ること自体が由々しき事態なのだ。報復を受ける可能性も否定出来ず、その巻き添えになって無辜の民が命を落とすようなことにでもなったら、と。オガールを拠点とするフィンド処分専業の武装集団が地方に分散する理由として、仕事の得やすさ以外をあげるならばこれは大きな理由の一つとなろう。


 無論フィンドの報復を案ずるならばそれは今現在は杞憂に過ぎない。一般市民に溶け込んでいる可能性がゼロではないとはいえ、ジャイレン内部に侵入することは困難である上、仮にそれが叶ったとしても街中で武力行使に出ることは到底無理な話だろう。軍警による厳重な警備に加え、ジャイレンにはハウンズがいる。一般的なフィンドなら何の脅威にもなりはしない。


 しかし、どれほど安全性やハウンズの実力を伝えようにも、皮肉にもフィンドがジャイレン市内で出没しているという報告がない限りは証明のしようがない。それにフィンドに情報が抜ける危険性もある為、ハウンズの情報や行動は報道規制が敷かれている。ローリア社としても大っぴらに日刊紙の記事にも出来ないとなると、目で見える形で、武力に頼らない形で実際どれだけ市民に溶け込んで彼らの役に立てるかが問われてくるのだ。


「自分はガジャルウィンドからオガールに来た後に医学と薬学を修めたのですが、当時はペネトラール地区にあった大きな病院が閉鎖された後で深刻な医師不足の状況でした。偶々ではありましたけど、この診療所を営んでいた医師もオガールを離れて後継がいなかったこともありましたので、留守をお預かりする形で落ち着いたんです。」


 結局は生活密着型、それでいて常に需要が途切れぬ希少性の高い専門職である医者としての役割を果たすことが最も手っ取り早い上に受け入れられやすいという結論に至った。目論見通り今は医者としてのミジャンカを慕っている市民も多い。


「自分はジャイレンにいる間はこちらが本業になりますから。またここにいらっしゃることもあるでしょうし、今日覚えて帰って頂ければそれで結構ですよ。」


「は、心得ております。」


 ルツは立ち上がって改めて敬礼すると、ミジャンカもにこりと笑って軽く頭を下げる。そしてルツが手を下ろした時にぱし、とその手を取った。突然のことにルツは瞠目する。


「あ、あの何か…。また失礼でもありましたでしょうか?」


 それには答えず、ミジャンカはルツの指先を凝視すると手首へと指を這わせ、静かに目を閉じる。脈を測っているのか、口元に人差し指を当てて静寂を請う。


 自身の手首に添えられた子供のような手。十八歳の自分よりも小さな二十歳の体。こんななりでどれほど大きなものを背負っているのだろうとルツは考えた。医師になれる人間など一握りだ。それでいてフィンドと渡り合える程の力もある。ここまで来るのにどれほどの苦労があったのかと思うと、切なくなった。田舎に残してきたかわいい弟の面影が重なる。その瞬間だった。


 ルツはミジャンカの頭を空いていた方の手でくしゃりと撫でた。


「頑張ったなぁ。」


「…え?」


 ミジャンカが顔を上げてルツと目が合う。瞬きも忘れて、一、二秒の間どちらも思考が停止した。先に動いたのはルツの方だ。


「…あ。あ、いや!あの!これは違くて!」


 やってしまった、とルツは青褪めて手を咄嗟に引っ込める。壁際まで後退り、はくはくと浅い呼吸しかできなくなった口元を押さえた。


「(まずい、何をやってるんだ僕は…これは、これは取り返しがつかないぞ!!)…お許しください!つい!」


 自分を慕ってくれていた弟とつい重ねてしまったなど口が裂けても言えずに、ルツはその場に膝と手をつき、頭を床に擦り付けた。ミジャンカが山程のフィンドを処分している武装集団の一員とはとても思えぬほどに柔和な人物であることが今回の『つい』を生んだ。他の構成員がこの場にいたら本気で殺されていたのではと、ルツの胸の中では恐怖で心臓が煩い程に高鳴っていた。


 こんなことになるのなら、最初に逃げ出しておけばよかったとキツく目を瞑ったときだった。


「よく、こうしてご兄弟を撫でてあげていたのですか?」


「え…」


 ルツにとって予想外過ぎた一言を発したきり、ミジャンカは何も言わなかった。ルツが堪らずに頭を上げると、ミジャンカはルツが撫でた自身の髪に手を潜らせ、纏めていた襟足を解いて手櫛で梳く。


「し、失礼します!」


「あ…コルベットさん!」


 ミジャンカの顔色が窺えなかったルツはもう限界だった。ミジャンカの髪をいじる仕草が、自分の行動がいかに不快であったかを暗に仄めかしているように見えたからだ。最敬礼をしたかと思えば先ほど手渡された荷物を引ったくるように掴んで風のように退出していった。


「行ってしまいましたか。」


 ミジャンカは何も言わずにルツが出ていってキイキイと揺れている建て付けの悪い扉に目を向ける。


 ミジャンカにとってはルツの行動を不愉快に感じたわけでは無かった。単に髪が乱れたので解き直してしまおうとしただけだったが、それがルツの心を抉ることになったとは露知らず仕舞いだった。それどころか初対面の彼には不躾な質問だっただろうかとふと思い至った。そして、ミジャンカの中には、遠い日に何度も何度も自分に言い聞かせられた言葉が反芻されていた。


 思えばその人物は、よく自分の髪を慈しむように撫でてくれていたと。


『お前さんのその小さな双肩にどれだけ大きな物がのしかかっていることか、儂には想像も出来ん。代わってやることも出来なんだ。だが、儂は何があってもお前さんの味方だ。たとえお前さんが何者でも、自慢の教え子だ。』


『儂はお前さんを認める。己を誇れ。生きていてもいい人間であると。お前さんのその手は、もう人を救うことの出来る立派な医者の手だ。…頑張ったな。』




「…先生。」




 ミジャンカの呟きは、誰もいなくなった室内に留まることなく、誰が返事をするわけでもなくすぐに消えた。



 




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