33 茫々たる肖像と地図


 新市街のターミナル駅に程近い場所に構えられた軍警本部。そこでは新人の軍警達が会議室に召集され、手元に資料が配られていた。総勢五十名ほどの新人達は真新しい制服に身を包み、年齢は十代から二十台後半までと幅広い。それほど広くない会議室に喧騒が広がっており、それぞれ次の任務に向けての意気込みや抱負を語り合っていた。


「起立!!」


 扉が鈍い音を立てて開いた直後に騒めきは鎮まり、全員が一斉に席を立った。会議室に一人の初老の男性が入室してくる。ツカツカと教壇へ一直線に歩いてきたかと思うと、新人達へ向き直ったのだった。


 音もなく、一糸乱れぬ敬礼を受け、男性は手で着席を促す。


「おはよう。諸君は明日から初めての任務へと向かう。厳しい訓練を乗り越えてきた君達には大いに期待をしているよ。任務には危険が伴うが、諸君らの若い力を遺憾無く発揮していってほしい。」


 会議室の右から左までゆっくりと視線を移しながら激励の言葉を口にするこの男は、オガール軍事警察ジャイレン本部統括司令官のハンス・ルーガント大佐。ジャイレンの軍警本部を取り仕切る責任者である。引き締まった巨躯は威厳に満ち溢れ、右側の額から頬にかけては大きな傷跡が刻まれている。赤茶色の髪はぴっちりと纏められ、新人達を見遣る明るい黄緑色の瞳は鋭くも暖かい。


「国境警備や災害時の救助活動は勿論だが、何と言っても治安維持が最も重要な任務となる。ヘレアン戦争集結から十年の節目を迎えた今もオガールには周辺諸国の難民達が流入し続け、特にここ数年はそれによる弊害が顕在化している。難民によってオガール市民が不利益を被ること、それによって市街地での大規模な武力衝突が起きることは絶対に阻止しなければならない。今後は君たちの中でもトールケイプ地方を出てより他国との国境沿いに近い都市へと向かう者も、国境を超えて任務に当たる者も出てくると思うが、絶対に上官の指示は遵守して任務に当たるように。」


 そこでハンスは一息つくと続けた。


「そして最も警戒すべきはフィンドと呼ばれるカプセルを摂取し、理性を持たぬ凶暴化したリスベニア兵達だ。諸君らも既に聞き及びの通り、フィンドはついにトールケイプ地方にも出没が確認された。首都ジャイレンに奴等の手が及ぶのも時間の問題となりつつある。いや、水面下では一般市民に溶け込んで我等の目と鼻の先に潜伏している蓋然性も高くなったといってもいい。カプセルの影響によって脳の欲求に忠実であることは勿論、痛覚が麻痺している者、並外れた身体能力を持つ者等その影響は戦後十年経った今でも未知数だ。カプセルの摂取量によって程度は違うものの、リスベニア兵に接触したらフィンドであるかをまずは見極めるのだ。今ではカプセルが闇に渡り、一般人へも広がりを見せている。視野を広く保ち、先入観を捨ててとにかく警戒を怠るな。」


 ハンスの厳しい言葉に、新人達は微動だにせずに背筋を伸ばしたままだ。喉を鳴らす音が僅かに聞こえたが、皆聞こえないふりをしていた。誰も彼もフィンドに対する怖気を拭い切れていないのは同じだからだ。


 カプセルは、戦後十年経ってさえ成分の研究が進んでいない。粗悪品が出回っていることも一因だが、フィンドの遺体を検死しても成分が一切検出されない点が厄介だった。押収されたカプセルの内容物を分析しても、解毒薬を開発できる程の研究者はそれこそ世界屈指の科学大国でもあるリスベニアから招聘しなければならない。しかしリスベニア政府にいくら要請を掛けても諾うことはない。そもそもカプセル自体が自国から流出したものではないと主張しているので、一切関与しないというのがリスベニアの言い分である。永世中立国の立場のオガールとしては、これ以上リスベニアの暗部を突くような真似をして衝突が起きる可能性と、難民を無条件で受け入れている国としてこれ以上フィンドを産まないよう牽制を掛けることの二つを天秤にかけるしかなかったわけだが、最終的には国同士の衝突を回避する道を選んだのだ。国管轄の研究施設を持たないオガールでは、それが壁となり殆ど十年前と状況は変わっていない。


ハンスは手元の資料を捲り、新人達にも参照するように指示を出す。


「フィンドの中には一流の戦闘能力を持つ軍人達も多いだろう。凡ゆる武器を使い、鍛え抜かれた身体を使って死線を掻い潜ってきた奴等は熟してきた場数からして諸君らとは天と地ほどの差があることをまずは認識して欲しい。加えて恐怖心を失ったフィンドは躊躇する事なく武器を向けてくる。それほど遠くない時期に全員フィンドの処分を生業とする『彼等』の援護にまわってもらう。任務に軍警所属の上官がいない場合は必ず彼等の指示に従え。手元資料は、ここジャイレンに拠点を置く武装集団『ハウンズ』についてのものだ。」


 資料に記載されていたのは、顔写真が添付されたハウンズの構成員の簡単な情報であった。訓練漬けの新人達の中には、ハウンズが都市伝説と同等の存在と捉えていたものも少なからずいる。過酷な訓練を乗り越え、一通りの武術を身につけた自分達を遥かに凌ぐ強さを持つ若者達に、一同興味を寄せているようだった。女性や殆ど子供に近い構成員がいることも彼等にとっては衝撃だったことだろう。

 

「ハウンズは、カストピア出身のセラウド・ゲーティアスを筆頭としてリスベニア出身のベルーメル・サルベレット、ワヴィンテ出身のハワード・ルイージア、セレメンデ出身のカースティ・グリフィス、ガジャルウィンド出身のミジャンカ・コラケムの五人で構成されている。我々オガール人から見て外つ国出身者のみの武装集団だが、全員オガールの市民権を持つ者達だ。状況判断が早く最低限の時間で戦闘態勢を整えることが出来、戦闘面でも優れた能力を持った者ばかりだ。既にジャイレンからそう遠くない場所でフィンドの目撃情報も出ている。早速彼等と任務に向かう者もいるが、彼等の戦い様を見て学べ。決して自分一人の力でフィンドに立ち向かおうとは思うな。」



         ***


 新人軍警のルツ・コルベットが首を傾げたのは、もう何度目だろうか。手元の地図と目の前の建物に交互に視線を移し、眉間に皺を寄せて頭を掻いた。


「ここ、だよな…?」


 何度見返しても目に入ってくる情報は変わらない。ポタ、と音を立てて地図に水滴が垂れる。それが自分の冷や汗であることはすぐに分かった。


「絶対バンクス診療所って、言われたぞ…。」


 そうつぶやく彼の目の前に聳えるのは、竣工から早半世紀は経っているであろうビル。夕刻にも差し掛からぬ真昼だと言うのに、じっとりと薄暗い。戸口は鉄製のフェンスが三重になっており、外部からの侵入者を阻むかのようだ。


 ルツが本部所属の医師から使いを命じられたのは昼食を取ってすぐのことだった。軍警の人間なら誰でもわかるはずだが念の為と地図を渡され、件の診療所に調合を頼んでおいた薬を受け取りに行くという子供でも務まるような単純なものだった。そのはずなのに、地図に記載されているはずの目当ての診療所は存在しないばかりか、目の前に建っているのは自分の記憶に間違いがなければ泣く子も黙るフィンド処分専門の武装集団ハウンズの拠点のはずだ。実際に来たことはなかったが、いざ目の前に彼らの拠点があると思うとどこまでも高く聳える壁のように思えるのだから不思議なものだ。


 普段滅多にお目にかかれない本部の統括司令官から配布された資料に記載されていたのは彼らハウンズの簡単なプロフィールで、しかも添付されていた顔写真は狙っているのかたまたまそうなったのか、武器を構えて影が掛かっているどうにも顔色の伺えない不鮮明なものだったこともあり、ハウンズに関しては否応にも良くない想像ばかりが膨張していく。


 両脇が飲食店だったこともあり、バンクス診療所とやらの住所を改めて尋ねることも頭をよぎったが、仮にも街…いやこの国の治安維持を一手に担う軍警の端くれとしてのプライドが邪魔をする。田舎の両親からは泣いて止められ、十三の歳になる五つ下の弟は出発の朝には寂しさを隠すことなく己の真新しい制服に皺がつくほどにしがみついて無事の帰還を請うた。愛する家族をジャイレンから遠く離れた故郷に残し、強い使命感を持って軍警となったのだ。そんな自分が小さな診療所の場所すら見つけられずに、迷い子さながらの孤独感に苛まれて一人立ち尽くしている現状に頭をブンブンと振る。ルツは右手をわなわなと握りしめ、顔の高さまで上げると独言た。


「こ、ここで挫けては軍警の名折れ!僕はやりきる!自分でやり切るんだ!小銭を握り締めて煙草を買いに行かされた子供とは違うんだぞ!」


「あの」


「大体何じゃこの地図!大雑把にも程があるじゃないか!目印も書いてないし、方角もない!こんなのでわかるか!」


「すみません。」


「僕のせいじゃないぞ!断じて!僕の!せいではなあぁい!」


「もしもーし。」


「わあぁぁぁあ!…へぶ!」


 耳元で聞こえた少年のような声。ルツは全身の毛が逆立つ感覚に襲われ、気付けば自分でも驚くほどの大きな声で叫んでいた。咄嗟に真横に跳躍したが、自分が立ち尽くしていた場所が小さい裏路地だったことをすっかり忘れ、盛大に塀にぶつかったかと思えば顔から地面に叩きつけられた。耳元で囁いた人物もそれは想定外だったようで、一瞬呆気に取られるもすぐに鼻を押さえて声にならない悲鳴をあげるルツへと駆け寄った。


「大事ありませんか?すみません、何度もお呼びしたんですけど気付かれなかったようなので…。驚かせてしまって申し訳ありません。」


 その声にルツは未だ鼻を押さえたまま声の主の方へ向き直る。見かけは自分の弟とそう年も変わらない子供だった。焦茶色の肩につくかつかないかの柔らかな髪が目に入る。長めの前髪はヘアピンで止められ、紙袋を抱えたその人は申し訳なさそうに膝をついて自分の顔と同じ高さに視線を合わせていた。歳のわりに妙に落ち着いていて、多少の違和感を抱えながらも返答した。


「あ、いや、ぼ…いや本官こそ通行の邪魔をしてしまっていたようで。」


「いいえ。…あの、ここに何かご用事で?」


 ここ、とその人物が指をさしたのは先ほどから睨めっこしていた件のビルだ。慌ててルツが立ち上がる。


「いや!違う、ここではない!とある診療所を訪ねる道すがらで、断じて道に迷っていたわけで、は」


 焦って申し開きをしている最中に、ふとルツの頭に司令官の言葉が浮かんだ。


『ハウンズには協力者がいる。二人組の子供の情報屋だ。我々には困難な潜入捜査は勿論だが、専ら電測士として彼らの活動を支えている者たちだ。』


 子供、と言う単語が頭の中で反芻される。ハウンズの拠点の目の前で出会い、ここに用かと問うて来る人物など、該当するのは彼の言う情報屋くらいではないか、と。それなら目の前の子供に聞けば、自分が探し求める診療所など秒で見つかるに違いないはずだとも。街の人間に聞くのは妙に憚られるが、子供となれば話は別だ。ルツの中でそのハードルが一気に下がった。


「き、君はここで働いているのかい?」


 さくっと自分の目的地の場所を聞いてすぐに立ち去る算段だが、その為には目の前の子供の身元を正確に把握する必要がある。ルツはもし彼がハウンズとは無関係の子供だった場合、他の大人に聞いて回られて自分が赤っ恥をかく羽目になると考えたからだ。


「働く…まぁそうですね。あなたは軍警の方ですね。ご苦労様です。こちらへどうぞ。」


 スタスタとルツの脇を抜けて大通りへと抜けようとする彼の後をルツは慌てて追いかける。


「あ、違う別に彼らに用があるわけではなくて!一つだけ尋ねたいことがあるんだ!」


 ハウンズには一番この醜態を晒してはならない。余計なお世話を頼んだ覚えもないし、ただ道を聞きたいだけだったのに、どうしてこんなことになってしまったのかとルツは頭を抱えた。


「待ってくれ!新人の僕が彼らの手を煩わせるわけにはいかないんだ!頼むから一つだけ教えてくれよ!」


 はたと焦茶色の頭が目の前に来ていることに気づいた。足を止めた先程の少年が、ビルの正面の扉を開け、ルツに向き直る。


「少しお待ち頂けますか。」


 彼は紙袋を入ってすぐの床に置くと、中に立て掛けられていた木製の板を持って再び外に出てきた。長さは彼の腕程で、随分と古いもののようだ。少年はそれを片脇に抱えると数歩後退り、走り出す。そして軽々と半開きになっていた扉の上部に手をかけて跳躍すると小さなハンギングブラケットのフックに吊り下げたのだ。その様子をルツは瞬きもせずに見ていた。


「(な、何だ?何が起きた?いくら子供で体重が軽いからって、相当な訓練を積まないとこんな身のこなし…いや、それでもこの高さは無理だ!)」


 ルツが驚くのは至極当たり前だった。つい今しがた掛けられた木看板は、ビルの二階の窓縁よりも高い位置に揺れていたからだ。それを掛けた当の本人は涼しい顔をしているし、全く息が上がっている様子はない。


 そして、それ以上に驚いたのはその木看板に書かれていた文字である。看板そのものが随分と薄汚れていて、文字もだいぶ消えかかっていたので気付くのが遅れたものの、ルツはそれを無意識のうちに呟いた。


「バンクス、診療所?」


「はい。薬を取りに来られたのはあなたですね。どうぞお入りください。自分はミジャンカ・コラケムと申します。」


 目の前の少年が柔かに名乗った瞬間、ルツの喉からひゅっと乾いた音がした。


 

 

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