32 日陰の民

 共存と文化の国-オガールは、六大国の中心に位置し、戦前は文化と経済の融合地点であった。そして戦後の今、世界で難民を無条件で受け入れる実質唯一の国であり、その首都であるジャイレンは、今日までオリエンタルな独特の文化を築いてきたオガールの象徴都市である。


ジャイレンでは、ハウンズの影響力の元未だフィンドの被害は出ていないものの、外つ国からの移民が多く、難民も加速度的に増加している今日では流浪の民も多い。路地では物乞いとなった難民が、その日暮らしに必要な小銭を恵んで貰おうと只管細い指を虚空にくねらせ、道ゆく人に首を垂れる。そんな光景が見られることも珍しくなくなった。


原則越境に規制を設けていないオガールでは、ここ数年フィンドの襲撃件数が激増している。当然オガール政府もフィンドの入国を牽制する声明を発表してはいるが、一般人の越境を制限していない分、国境沿いの警備は手薄のままだ。カストピアとの国境沿いの地方都市となるとそれは尚更のことで、いかにこれ以上国内のフィンドの増加を食い止めるべきか、その対策に政府高官は頭を悩ませていることだろう。そしてフィンドから逃れ、安定した仕事と生活を求めてオガールの中心部に位置する首都ジャイレンを目指す難民が増える事は至極当たり前のことで、フィンドや一般大衆にも汚染が広がり続けるカプセルの対応に大部分の人員を割いている軍警はジャイレンでも増え続けている貧困層の実情や軽犯罪の把握を後回しにしているのが現状だった。


ジャイレンの中心部ペネトラール地区は新市街と旧市街に分かれており、役所や街の主要施設は勿論のこと、その他ターミナル駅や銀行、郵便局、軍警の本部も新市街に位置している。生活の基盤となる施設が新市街に集中していることから、異民族との接触は旧市街と比較すると多い。


そうなると、異民族間でのいざこざや揉め事が起こるのも自然のことで、武力衝突を避ける為、政府はペネトラール地区においてローリア社を含む軍警関係者及びハウンズのような武装集団以外の一般人が許可なく武器を携行することを禁じている。


そのはずなのだが。


「食事に行こうとした矢先にこんな面倒ごとに巻き込まれるなんて、あんたって疫病神ね。私のこの空腹どうしてくれるの?」


「何ィ?てめェが銀行に行くから着いてこいっつーからわざわざ付き合ってやったのに、文句垂れるたァいいご身分だなァこらァ!」


 日陰になって日中でも薄暗い裏路地で、背中合わせにげんなりとした表情を浮かべるベルーメルと、その彼女の発言に青筋を浮き上がらせて不機嫌さを隠さないカースティが襤褸を纏い、ナイフを持った数人の難民に囲まれていた。


「使える現金が殆どなかったんだから仕方ないでしょうが!どうせ暇してたくせに本当に偉そうね!」


「こ、このアマ…っ!だから散々カードに慣れろってあれ程言ってただろォがあァ!?」


「おい女!さっさと金を渡さねえか!でなきゃ、どうなっても知らねえぞ!」


 手元の現金が底を尽く前にと銀行で小切手を換金した矢先、間の悪いことに踏み入れた裏路地で武装した難民と鉢合わせてしまったのだ。風下にいるせいか鼻をつく体臭が流れてくるあたり、何日も風呂には入っていないのだろう。目は落ち窪み、襟元から覗く鎖骨も大きく浮き出ている。まともな食事も取れていないだろうから手持ちも殆どゼロに違いない。


「おい!聞いてるのか女!」


そして、どう言う訳かカースティは眼中にないようで、彼等はベルーメルに矛先を向けていた。フィンドであるならいつもの調子で戦闘態勢に入るところだが、これが難民となるとそうはいかない。自分に直接攻撃を仕掛けてこない限りは、こちらから手を出すわけにはいかないからだ。


説得するのも骨が折れるし、金を渡すなどもっての外。強引に逃げようにも、無理に正面突破しようとすると皮と骨だけの彼等を怪我させかねない。


「あぁ、本当にもう…ん?(この人達、全員…)」


どうしたものかと考えていると、ここでベルーメルが気付いた。全員が揃って黒髪であることに。


漆黒の髪を持つ民族-彼等がリスベニア人なのは間違いなかった。そしてそれが自分に執拗に拘泥する理由であると何となく見当がついたのだ。


「そんななりしてても分かるぞ!お前その髪…リスベニア人だな!?小綺麗な格好で男と…お前みたいに金だけ持ってオガールで安穏としてる奴がいるから、俺達に皺寄せが来るんだ!」


「そうだ!お前ら亡命者のせいだ!」


成る程、とベルーメルは腑に落ちた。


戦後、非人道的な戦争犯罪が存在したとしてシルベスト教団から一切の賠償金や敗戦国の領土割譲などの権利放棄を迫られたリスベニア国内では、それまで戦争に多額の国費を投じてきたこともあり、下層の平民は生活苦に瀕している。挙げ句の果てには、賠償金を宛にしていながら梯子を外された政府は平民に戦後大幅な増税を課した。戦中も国民から多額の戦費を、到底返済できない国債証券と半強制的に交換することで徴収してきたこともあり、蓄えも無く仕事も無くしたリスベニア人は徐々にオガール国内に流れ込んでいるのだ。


片一方で貴族や聖職者は戦後も変わらない生活を続けており、平民の中でも越境規制の掛かる終戦前に、他国へ移民として移り住んだ者も一部いる。貧困に喘ぐ目の前の彼らからすれば、ベルーメルは移民として国を捨てた不届き者に見えてもおかしくない。


 苦虫を噛み潰したような形相で血走った目を自分へと向ける男。その手に握られたナイフは震え、手の甲に爪を立てているのか、血が滲んでいた。ベルーメルは何を言うでもなく、喜怒哀楽いずれの感情も持たない涼しい顔でその男を見ていた。


「クソ…っクソォ!!何で俺たちが、こんな目に…っ許さねぇ…っ、逃げ得なんぞ絶対に許さねぇ!」


 目の前の男はナイフを両手で振り被り、何も言わないベルーメルへと一直線に向かってきた。その差は数メートルだ。


「この、裏切り者があぁぁあ!!」


ナイフが振り下ろされる。しかし、それは風を切る音すらも聞こえない軌道の定まらぬものだった。


「が…っ!」


ベルーメルの髪の毛に掠ることもなく、男の持つナイフは宙を舞い、カースティの足元へと飛んだ。男は目を見開き、己の手を打ったものを見る。ベルーメルの手には拳銃が握られており、その銃把の下部が男の指の骨を砕いていた。


「があぁぁ!!手が、俺の手がぁ!」


「ご愁傷様。でも先に手を出してきたのは、そっちよ。」


「な、何で女が銃なんか…っ!弱者に武器まで向ける気かこの卑怯者!」


仲間の男が顔を青くしながらベルーメルを睨め付け、罵倒した。それにもベルーメルは顔色を変えることなく口を開こうとしたが、させまいとカースティが声を発する方が早かった。


「てめェ…自分が何やってっかわかってんのかァ?見ず知らずの女に勝手に逆恨みしてナイフ振り回す奴に文句言う資格はねェよ。」


カースティが足元のナイフを拾い、痛みに手を押さえて蹲る男の目の前でそれを弄ぶ。


「武器を持つからにはこうなる事も覚悟するこったなァ。」


手元から恨めしげにカースティへと視線を移した男は、唾を吐きかける。当然カースティの顔に掛かる前に避けられた訳だが、それも彼の癇に障ったようだった。血色の悪い顔に嵌め込まれたような眼球は、血走っている上に心無しか黄色い。まともな食事を随分と摂っていない栄養不足からくるものだろう。


「お前に何がわかる!俺たちは奪われた!金も、生活も、家族も全て…!『何の為に起きた』かもわからない戦争のせいでなぁ!見えない大義とやらを信じた、その成れの果てがこれだ!所詮は見えるものしか自分を助けちゃくれない!それは俺たちのせいじゃないだろう!お前たちのように異国の地で平穏な生活をしている奴らを襲って何が悪い!結局必死にオガールに逃げてきても、リスベニア人ってだけで仕事も見つからない…!こんなの、こんなの納得できる訳が無いだろう!不幸な人間が日陰で喘いでいる中で平和を謳歌する人間が嫌いだ!」


 気付けば男は涙を流し、悲痛に顔を歪めて叫んでいた。その慟哭はカースティではなく、何も言わずに真顔で自分を見つめるベルーメルへと再び向けられている。


「何とか言え!この、この売国奴が!」


「てめ…っ」


「おい!そこで何をしている!」


 カースティが男性の胸倉に手を伸ばそうとしたその刹那、背後から武装した数人の軍警がこちらに気付いて駆け寄ってきた。男達が固まる。彼等の様子を見て異民族同士の衝突かと一人の軍警が溜息をついたが、ベルーメルとカースティの姿を確認してすぐに敬礼を取る。先程まで纏っていた刺すような気配を解き、カースティが片手を上げて「よォ。」と軍警達を迎えた。


「失礼しました!ジャイレンにお戻りでいらっしゃったのですか。」


「おォ。つい昨日なァ。丁度いい、この難民達を保護してやってくんねェか。腹が減って気が立ってるみてェだから何か食い物も頼むわァ。」


 カースティは先程まで握っていたナイフを懐へと忍ばせ、何食わぬ顔で軍警に向き直ると親指で背後越しに男達を指した。男達はギョッとした顔で立ち去ろうとしたが、拳銃を持ち、いつでも発砲しかねないベルーメルが退路を塞いでいる為に動くに動けなくなっていた。彼女が拳銃を手に持っていることは、目の前の軍警達は気付いていないようだ。


「は、承知しました。しかし本官らは女性が襲われているとの通報を受けまして駆け付けたのですが、仔細をご存知ありませんか。通報が正しければこの界隈であると存じますが。」


「そういやさっき引ったくりが出たっつってたかァ。東の方へ走っていったみてェだし何なら俺達が追っとくからよォ。こいつら先頼むわ。」


 カースティが男達を両手で引き寄せ、軍警の前へと突き出す。男達は瞠目し、何か言いたげにカースティの方へと視線を向けようとするが、カースティが頭をがしりと鷲掴みにし、それを許さない。


「俺はお前達から難民証明書を取り上げるつもりはねェ。ただ一つだけ覚えておけ。自分が不幸であることが免罪符であるとは二度と思わねェことだ。偽りの免罪符を手にした人間が転げ落ちることは何とも容易い。女子供に手を出す奴はただの獣畜生だ。」


 カースティは、男達にしか聞こえない程に小さな、そして地を這う程に低い声で呟いた。


「獣に俺は一切容赦しねェ。次があるとは思うな。その時はあの世を見ると思え。」


         ***



 気付けば空には入道雲が広がり、朝から涼しかった空気はもう一段冷気を孕んできたような昼下がりを迎えていた。


「全く災難だったぜェ。慣れねェことすると碌な事ねェ…。おい、昨日ミジャンカ達が買ってきた材料がまだあるだろォ。拠点で食うぞ。」


カースティが溜息をついてベルーメルの方を見遣った。ベルーメルはとうに拳銃をしまっていたが、その視線は先程男達が連行された方向へと固定されており、長い睫毛が僅かに伏せられていた。それ程長く外に出る予定ではなかったので、ベルーメルは何も羽織ってはいなかったが、これほど涼しくなっても身体を抱くことなく、その場に立ち尽くしていた。その様子に首を傾げたカースティがベルーメルに近付き、その肩に手をかける。


「おい、お前まさか気にしてるんじゃねェだろうなァ?」


「よしてよ。生憎そんな繊細な心なんてとうに持ち合わせていないの。」


 はっとベルーメルがうざったそうにカースティの手を払う。特に声のトーンもいつも通りで、顳顬添えられた手越しに見た顔はとても憂いている女の顔ではなかったものの、彼女はただ、と続ける。


「戦勝国だからって『不幸』から逃れられるなんてことはないんだって、思っただけ。それどころか、世界を敵に回した分、助けを求める声は遮断されやすい。ある意味タチが悪いのかも知れないわね。」

 

 ベルーメルは伏せがちな瞳を、建物で随分と狭くなった空へと移した。


「決死の覚悟でリスベニアから脱出してオガールまで流れ着いてきたんでしょうね。強固な越境規制を敷いている国ですもの。逃げようとして国境沿いで射殺されるリスベニア人もどれだけいることか。運良く『死の境界線』を突破して来ても、世界が自分たちを見る目は決して優しくはなかったことに気付いて、自棄にでもなったのかしらね。」


建物は全て影で黒くなり、それほど高さがない筈のそれらは余計に己へと迫り来るかのように圧迫感が感じられるものだった。しかしそれも一瞬で、ふっと自嘲気味に笑みをこぼしたかと思うと、ぽつりと呟いた。


「まぁ、私が何を言ったところで、関係のない話だけれど。私は彼らの気持ちなんてわからない。…分かりたくもないわ。だって私、そもそもんだもの。」


風に靡く黒い髪を押さえる彼女の表情には影が落ちていて、カースティは口を閉ざした。美しくも気取らず、普段は明朗快活なベルーメル。尻に敷かれ気味でありながらも良き仲間として共に戦ってきたが、今の彼女を前にして下手なことは言えなかった。


「あぁ、でも一つだけ共感したことがあるの。」


「…なんだァ。」


「見えるものしか自分を助けちゃくれないってこと。」



ベルーメルは手に抱えていた袋から帯封の施された札束を一つ取り出して、噛み締めるように見つめた。そして言うのだ。



「だから、私がカードを使う日は来ないわよ。絶対にね。目の前のお金が、一番信じられるんだもの。」



その顔にはいつの間にか、普段と変わらない靨が似合う悪戯っ気に満ちた笑みが浮かんでいたが、カースティは見逃さなかった。


その眉が、僅かに落ちていたことに。





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