31 突き動かすもの


「それじゃあ、確かにイレイズちゃんの身柄は預かったよ。」


 去り際にアルゴは笑いながら言った。とんでもない娘さんを引き受けてしまったのかもしれないねと。それを荷物を持ちながら側で聞いていたイレイズは気恥ずかしそうにしていたが、拠点を発つその時、俺の方へと向き直って言った。


「私は前に進みます。セラウドさん達のように。歯を食いしばってしがみ付いてみせます。ハルトで私を助けて頂いたこと。そして私を導いてくださったこと。ずっと忘れません。」


 拠点もローリア社の本社も宿舎も同じ地区にある。何もなければ本社に出入りする俺たちとはそのうち会うこともあるかもしれない。それでも彼女はハルトのあの日からずっと一緒に行動してきた俺達と別れる。違う日々を送る。一つの区切りになる日であることは間違いなかった。


「俺に対して恩義を感じる必要はない。お前はお前の役目に生きろ。それだけで、いい。」


 アルゴは俺に日々のイレイズの様子を伝えて欲しいかと問うてきたが、必要ないと断った。保護者役はここまでだ。何よりイレイズが望まないだろうし、未熟であるうちに俺達と必要以上の接点を持つことで危険に晒される可能性が高くなるだろう。


 元気でやれ。

 抱え込むな。

 どんなに忙しくとも飯は食え。

 何か困ったことがあったら言ってこい。

 

 今の俺はそんな一般的な餞の言葉すらかけてやれない。近くにいても次生きてイレイズに会う機会があるのかすらもわからない。


 それでも。


「はい。では、また。」


片手を高くあげて別れを告げたイレイズは、満面の笑みだった。


 そして、『さようなら』という言葉を使わなかった彼女に、俺は自分自身も聞き取れないほど小さな声で応えた。


「あぁ、またな。」


 それは、無意識だった。



         ***


「たまには『次がある別れ』だって、あってもいいんじゃないかい。」


 飛沫が飛ぶほど高く掲げたティーポットから寸分の狂いもなくカップに注ぐハワードが、静かに口を開いた。暫し遅れて鼻腔に爽やかな、それでいて仄かに香る柑橘の匂いが届く。


「何の話だ。」


 ソファの窓際の席で肘掛けに体重を任せていた俺は、ハワードに目をくれることもなく居住まいを正す。気配を消していたのか、あまりに俺が呆けていたのか、いつの間に帰っていたのかもわからなかったハワードがハーブティを淹れ終わっているのを見る限り、だいぶ時間が経っていたのだろう。疲労が多少溜まっていることを差し引いても気が抜けすぎている己に自嘲した。


「ご婦人はいつの時代も強い。私たち男が思っているよりも遥かに逞しいものだ。私はずっとそう信じてきたし、彼女もきっといい記者になるんじゃないのかな。」


 俺の前に置かれたカップを見れば、僅かに湯気が立ち、黄金色に揺らぐ。口元にカップを持っていったハワードは、香りを楽しむように一息つくと、目を細めて窓の外を見遣る。


 ハワードの群青色の瞳に映るものは、座っている俺からはわからない。わかったのは、飄々として掴みどころがないこの男が、僅かに目を伏せ、目線で何かを追っていることだけだった。窓際に背を預け、肩越しに広がる街並み。眼下にあるのはいつもの賑やかな風景だったが、その視線の先にあるものを詮索することはしなかった。したところで、こいつは笑ってはぐらかすのだろうから。


 俺からの視線にすぐ気づいたハワードが再びカップに口をつけたかと思うと、そこにはいつもの余裕のある奴の顔があった。注ぐかい、とまだハーブティーが入っているポットを指さすハワードに頭を振って否を伝える。


「今日はいい天気だね。涼しいし過ごしやすい。次の仕事は分散して向かうことになるのだろう?セラウドも少し休むといい。私は出てくるから、カースティに伝えておいてくれるかな。」


「あぁ。但し奴が文句を垂れない程度の時間には戻れ。面倒な愚痴に付き合うのはごめんだ。」


 夜に全員食事を同時に摂らねば片付けが一度に終わらねェとぶつくさ不満を口にするカースティの顔が浮かぶ。ハワードも同じのようで、それは勿論と俺の顔を見ることなく階下へと消えていった。


 ハワードはジャイレンに帰ってきて時間が出来ると一人でどこかへ消えることがある。そして仕事があるとふらりと戻ってくる。それは他の面子にも通ずるところがあって。

 衣食住を共にしているからと言っても、拠点に戻った後の四六時中の行動までそうというわけでもない。仕事があれば出発時間までに顔を揃える暗黙の了解はあるが、後は基本それぞれで過ごすことが殆どだ。買出しや情報収集など、必要な外出もある中で各々時間を作って体力が落ちぬよう鍛錬を継続する必要もあるだろう。何をしているのかわからないことだってある。俺たちにとってはその距離感が当たり前で、何をしているのか詮索し合わない間柄が気楽なのだ。


 気心が知れているとはいえ馴れ合う関係性とはまた違う。関わり合ったもの同士、そして最終的にはヘレアン戦争の空白を明かすという共通の終着点を持つ俺達の生活のサイクルは変わり映えがない。


 この拠点の元に集い、ハウンズとして仕事をするようになって季節が一巡りした。フィンドの情報を得て戦い、また帰ってくる。そして報酬を得る。その終焉は今の所見えない。


 抑、何を以って終焉とするべきなのか。

 武器を捨てられる日々が訪れるのはいつになるのだろう。それすらも今の俺にはわからないが、はっきり言えることがある。


 ヘレアン戦争がいかにして引き起こされたのか、それを突き止めたところでフィンドはいなくなるのだろうか。当然答えは否だ。


 スイッチを切るようにフィンドが消滅するわけでも、失われた戦前の平穏な日々が戻ることもない。だからこそ己の終着を見ることが足を止めていい理由にはなり得ない。かつてリスベニア兵として戦場を駆けた彼らとは対話もままならないし、カプセルを与えられるような末端の兵士達は俺たちの求める答えなど端から持ち合わせてはいない。


 それでも、万一の可能性に賭けて俺達はフィンドと対峙し続ける。フィンドこそがヘレアン戦争の空白を解明する緒であることは疑うべくもないだろう。ソファに立て掛けた剣を徐に撫でる。


 物心ついた頃からこの手に握られていた武器。俺の身を守り、フィンドを穿つ銀色に輝く剣。


 最初に誰から持たされたのかなど記憶にないが、これをまともに扱えるようになったのは戦後になってからだ。


『その程度で地を舐めていては到底生きて故郷の地を踏むことは叶うまい。その剣は飾りか?玩具に過ぎぬのか?』


『お前の覚悟は何の為にある。それすらも語れぬようならお前は母を失った赤子に等しい。覚悟は己を守る鎧であり剣と心得よ。己を守ることも、害なすものを打ち返す手段も持たぬ非力な生き物は跡形もなく淘汰されるのみ。』


 鍛錬をしてくれた人がいた。厳格な人だった。体力のない骨と皮だけの俺を肥溜めから引っ張り上げてくれた人だったし、剣の扱い方に止まらず俺に読み書きを教え、一人で生きる力を養ってくれた。


 俺はその人を『師範』と呼んでいた。今となってはもう会うことも叶わなくなったが、一日たりとも彼の教えを忘れることはない。


彼に会うまでは、それまで家畜以下の汚辱に塗れた環境に身を置いていたし、それは今だからこそ人間らしい顔つきをしている同居人達も同じことで。


 失い続け、痛みすら忘れる泥梨をくぐり抜けてきた。


 己と同じ釜の飯を食った仲間を一瞬にして焼かれる日々。


 己が禁忌の存在と指を指され、半端者としての生を強制される日々。


 己を己足らしめる存在を奪われ、嬲られる日々。


 己の手が憎しみを以って血に染まり、咎人として生きてきた日々。


 己の明日の生死すら他人の采配に委ねられた、呪われた日々。


 それらが全て、ヘレアン戦争によって齎された地獄だ。


 忘れない。忘れてなるものか。あの煮え滾る怒りを。全てを呪い、神すらも信じられなくなった惨劇を。


 許さない。許してなるものか。ヘレアン戦争を引き起こした元凶を。全てを焼き尽くし、愛する人々を分断した悲劇を。


 だからこそ、立ち止まることなどできない。自分の為にも、失ったものの為にも。


 ただ前へ進むのみ。それが、俺たち五人が貫き通す『正しさ』なのだ。

 


         



   

 

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