30 試し
「やあ、初めまして。ローリア社のアルゴ・クラトレアです。」
朝、ペネトラール地区の中心に立つ鐘楼から街中に鐘の音が響き渡る頃。昨日コーヒーを四杯も出して散々俺を引き止めたアルゴが訪ねてきた。
「なんであんたが来てんだ…。」
大方人手が足りなくて世話役になるはずの記者が来られなかったのだろう。昨日と上も下も全く同じヨレヨレの服を着た彼は、相変わらず頭を掻いている。ここまでのこのこやってくる時間があるのならシャワー浴びる隙くらいはあるはずだが、典型的な独身男のアルゴは全く気にしているそぶりはない。仮にも編集局長であるはずのこの男からは、一大企業の重役としてのオーラは欠片ほども感じられなかった。
自分と歳の違い先輩記者が来るとばかり思っていたイレイズは瞠目し、へらっと締まらない笑顔を見せて手を差し出してきたアルゴの手をおずおずと握った。
「は、初めまして。イレイズ・パーハップです。こちらのセラウドさんのご紹介を受けまして…。あの、お世話になります。」
「いやぁなんのなんの。若い娘さんが来ると聞いて助かったよ。野郎ばかりの職場だけど、みんないい奴だから、困ったことがあれば言ってくれて構わない。本当は今日君の世話係になる筈の子が来る筈だったんだけど、生憎急な仕事が入ってね。丁度面談方々僕が来たってわけさ。」
よろしくよろしく、と握った手を振るアルゴにベルーメルは髪をかきあげてため息をついた。
「ちょっとアルゴ。若い女の子だからって手出したら許さないわよ。その時はどうなるかわかってるわよね?」
口元を歪ませ、座っているアルゴを腕を組んで睨め付けるベルーメルにアルゴは握りっぱなしになっていた手を離した。両手を顔の高さまであげ、降参のポーズを取る。
「や、やだなぁベルーメルちゃんったら。いやー相変わらず今日も別嬪さんだね!君と仕事できるセラウド君たちが羨ましいよ、うん!」
その口振りが気に障ったのか、ベルーメルの額にうっすら青筋が立つ。只でさえアルゴが日常的にベルーメルの胸元に視線を迷わすので印象は最悪な上に、ベルーメルが何度もやめるように文句を言っている『ちゃん付』も半永久的に続けるつもりのようで、それが気に入らないベルーメルからのアルゴに対する攻撃は止まらない。
「大体、お茶汲みばかりさせるつもりじゃないでしょうね?」
「それについては問題ないよ。そんなお飾り人員は、うちには必要ないんだ。」
その瞬間、ベルーメルが己の鼻先に突き付けてきた指先を躱すと、アルゴは緩んでいた表情を正してイレイズの方へと向き直った。突如自分に背中を向けたアルゴに、ベルーメルは口惜し気に口を開こうとしたが、真意をすぐに汲み取ったようでそれ以上は何も言わずに席を外した。
ベルーメルがその場を立ち去ったことに加え、他の奴らも別の用件で外に出ている。俺を含めた三人のみが残ったこの空間で、場の空気が様変わりしたことをイレイズも感じ取っていた。瞳を伏せるもそれは一瞬で、すぐに背を伸ばして目の前のアルゴを見た。それを確認したアルゴが口を開く。
「改めて遠路遥々、ようこそジャイレンへ。僕たちローリア社は君を歓迎するよ。」
「ありがとうございます。」
「セラウド君から君のことは聞いている。君の働きには期待しているよ。…その上で、一つだけ確認させて欲しい。」
『確認』という言葉にイレイズの肩が僅かに反応した。膝の上で緩く組まれた手も同じタイミングで小さく固まり、アルゴから次に放たれるであろう言葉を待っていた。
「君はカストピア人だそうだね。戦時中も、ハルトの街でも随分と辛い思いをしたことも聞いている。その上で敢えて聞かせて欲しい。君は、昨日まで共に仕事をしてきた仲間が突然死ぬかもしれない日常に、身を置く覚悟はあるかい。」
「仲間の死に対する…覚悟。」
イレイズが問いを反芻する。そこに、感情はなかった。
「君は、自分の命を賭して僕と同じ仕事に身を投じようとしてくれている。その勇気と覚悟に敬意を表したい。だけど、僕はこれまで大勢見てきたんだよ。己の朋友を亡くして精神を病んで辞めて行った部下をね。」
アルゴは微かに眉を寄せながら静かに話し続ける。
アルゴは、新人に必ず問うてきた。
己が死ぬ覚悟ではなく、『己を支え、共に過ごしてきた仲間を失う覚悟』の有無を。
俺たちと同じ、明日をも知れぬ身であることを思い知らされるのが仲間の死だ。その死は決して安穏としたものではないし、骨をも拾えぬものであることも珍しくはない。下積みを終えればそのような場に赴くことにもなる。そしてアルゴは、彼女の覚悟を本気のものであると思っているからこそ、力がつけば危険な現場へと向かわせるだろう。躊躇いもなく。
「僕達の仕事は情報が命であり、それこそが全てだ。情報を繋ぐ為なら何でもする。首だけになっても、例え仲間を見捨てる結果になってでも、命懸けで得た情報を必ず持ち帰る。『自分が死ぬ覚悟』だけでは続けられない仕事だ。…僕達の本業はペンを持つことだからね。どれほど訓練を積んでも、フィンド相手ではハウンズのように人を守れる程の力をつけることは困難だ。だから、僕は君に過酷な選択を平気で迫る。それこそ息をするようにね。」
「…。」
「僕はいい上司にはなってやれない。君から普通の女の子としての人生を取り上げてしまうことになるだろう。それは今のうちから謝らせて欲しい。しかし、君が下積みでいる間に一人前になれるだけのことは全て教えよう。その上で、本当に僕について来るのかどうかを決めて欲しいんだ。」
アルゴの声は、既にイレイズの手を握った時とは比べ物にならないほどに低く、厳格で冷静なものだ。彼を見据えるイレイズは、瞬き一つしない。真一文字に閉じられた口元も動かない。
出会いこそが別れである世界。その厳しさを、アルゴはよく知っている。だからこそ包み隠さずに現実を話す彼は、誠実で信用できる人間だった。だからこそ俺はアルゴにイレイズを紹介することに決めた。俺の前で決めた覚悟が彼の前でも同じものたり得るかどうかを、関わった人間として見届けたかった。
たった数十秒であろう沈黙はなんとも長いものだった。あまりの目の乾きにイレイズの瞼が痙攣を始めたのと同時に、彼女は目を伏せて口を開いた。
「その質問に答える前に、私から一つアルゴさんへお尋ねしても構いませんか。」
「ん…何だい?」
想定外だったイレイズの言葉にアルゴは一瞬返答に詰まったが、彼の是を確認したイレイズは続ける。
「もし大切なものを失くすその時が来ても、私が涙を流すことは許されますか?」
アルゴは目を瞠る。俺も息を呑んだ。
イレイズの言葉だけではない。彼女の表情が余りにもこの場に似つかわしくないものだったからだ。
「戦場カメラマンだった私の父は、母が爆撃を受けて死んだ時に初めて泣きました。でもそれはほんの僅かな時間で、
「…。」
「でも、今ならわかります。父が、涙と引き換えに自分の役目を果たそうと必死で足掻いていたのだと。涙を流した分だけ、戦場に戻る強さを得ていたんだって。」
彼女は、イレイズは懐かしげに笑っていた。
穏やかに。僅かに眉を下げながらも目を細め、軽く口角を上げて。
「涙を流すことを許してくださるなら、私は強くなります。どんなことでも耐えてみせます。そして願わくば、大切な仲間を見捨てるなんて選択をせずとも済むように、一人前になるその日までに心も、そして身体も強くなってみせます。これが身の程知らずとも、傲慢だと思われても構いません。ですから、お願いします。」
私を使ってください。
イレイズは床に手をつき、アルゴへと深く頭を下げた。
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