29 誓いと祈り
商店の明かりが消え、すれ違う人も疎らになり始めた頃。
ペネトラール地区を東西に貫く大通りから一本裏に入った小径を足早に歩く。本来であればどんなに少なく見積もってもあと二時間は早くローリア社を出られたはずだというのに、気付けば日付が変わるまで早数刻も無いこの時間まで拘束されることになってしまった。
毛程の興味もないイレイズの部屋の仕様の話から始まり、それがやっと終わったと思えばあそこから「ここからが僕の本題なんだけど、」と新しいコーヒーまで運んでくるあの中年男。しかもその本題とやらがまるっきり馬鹿に出来ないフィンドの情報だった為結局席を立つに立てない状況になってしまったのだ。
「次から次へと遠慮もなく…。」
早ければまた数日も経たずジャイレンを発つことになろう。ジャイレンを挟んで真反対の地域それぞれでフィンドの被害が報告されている。現状ジャイレンにはフィンドを処分することを生業としている武装集団はハウンズしかないので、二手に分かれて向かうしかない。オガール全域で見ても数える程で、その殆どは他国との国境近くの街に拠点を置いているケースが多かった。国境を超えてくるフィンドを迎え撃つ為には好都合だろうが、カプセルの蔓延に伴って加速度的に増えているフィンドを処分出来る程の人材はそういるものではない。軍警から派遣されることも珍しくなくなったが、数ヶ月も経たぬうちにその数も半分以下に減ってしまうのが現実だった。それではフィンドの処分数–則ち手に入れた紋章の数とは余りに釣り合わない。
処分の際、俺達は奴等の軍服から紋章を切り取る。その紋章を軍警に提出することによって報酬を得ているのだ。リスベニア兵士が身につけている紋章には情報媒体が埋め込まれており、その媒体を回収することによってフィンドの個人情報を特定することができる。ローリア社にはフィンドによって構成されている犯罪組織についての膨大な情報も保管されているので、うまくいけば収集した情報媒体と付き合わせて組織の活動の実態を把握することも可能だ。効率的にフィンドの数を減らす為にはとにかく情報戦を制するしかない。
リスベニア兵が自分の軍服を捨てることは稀だ。フィンドでなくとも、戦勝国として、そして未だ謎の多い「大義」のもとに戦ったという誇りを持っている兵士が殆どだからだ。フィンドであればカプセルを飲んだ時の記憶に執拗に固執するので尚更だろう。
己の意思で選択している以上は、自分達の本業がフィンドの処分であり数を熟さなければ身入りにも響くという日常を恨んだことはない。しかし只ですら予定外であったハルトでの出来事で疲労は溜まる一方だ。
拠点に帰ってきた頃には、既にガイとイリシャの居る二階の灯りは消えていて、三階も外から確認する限りでは小さなランプが一つ二つ申し訳程度に灯されているようだった。
「セラウドさん、お帰りなさい。」
「起きていたのか。」
三階の扉を開けると、そこには窓辺に両肘をついて外を見つめるイレイズだけがいた。奴らは既に休んでいるのか、警邏に出ているのかはわからなかったが、そこにはいなかった。
俺がまた小言を言うとでも思ったのか、イレイズが少しだけ眉を下げ、手に持っているマグカップを持ち上げた。
「すみません。寝付けなくて少し外を見ていたんです。」
枕が変わると眠れなくて、と小さな声で呟く。それを信じるのであれば昨夜も寝台では殆ど寝れなかっただろう。疲れはピークを超えている筈だ。このままでは明日から控えている新生活を前にして身体が保つはずがない。
「ローリア社の記者であれば、船の上だろうが木の上だろうが、それこそ立ったままでも寝られるようにしろ。毎日ベッドの上で寝起きできる生活ではなくなる。それはお前もわかっているはずだ。」
「はい。勿論。」
「ならもう休め。明日の午前中には迎えが来る手筈になっている。荷物も今日のうちにまとめておくんだな。」
気付かぬ間に再び窓の外に目を移したイレイズを一瞥し、水を一杯飲もうとコップを捻った蛇口の下へと置く。一気にあおれば錆臭い味が口内に広がり、一瞬嚥下するのに躊躇したが無理やり喉の奥へと押し込んだ。久々の味が身体に沁みる。水道管の取り替えくらいは早急にやらねば、これは頂けない気がしてきた。
「セラウドさん。」
空になったコップをシンクへと置こうとしたのと粗同時に、背後から声をかけられた。
「私、今日皆さんとたくさんお話をしたんですよ。」
イレイズは眦を下げ、両手を握りながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。振り返るように、自分に言い聞かせるように。その声は夕刻明日からの生活の見通しを問うた俺への返答では到底見受けられなかった至極穏やかなもので、耳障りのいいものだった。
ハワードとミジャンカに連れられ、丘の上でひと時を過ごした事。帰りが遅くなってもカースティが自分には文句ひとつ言わずに夕飯を作って出してきた事。ベルーメルとスパに行って星を眺めながら語らった事。
奴らには珍しい安穏とした落ち着いた夜の話だった。
「友と呼べるような人もいない私は、本音を出すことがどうも苦手です。自分を守ろうと取り繕うことばかり考えてしまう癖は、暫く治らないかもしれませんが…。」
「…。」
「考えなしに『大丈夫』という言葉を使うのは、今日からやめます。」
自分を追い詰めるのではなく、自然と前を向いて進んでいきたいから。
イレイズは言った。
「そうか。」
俺はそれ以上は聞かずに口を噤んだ。聞いて欲しいと思うのであれば、きっとイレイズの方から話すだろう。そんな俺の様子を見て、ふっと笑ったかと思えばイレイズはマグカップの中身を一気に飲み干して俺に再び向き直った。
「改めてありがとうございます。私の選択を尊重してくださって。選んだ自分の道に足跡を残せるように、足掻いて生きていきますね。セラウドさん達のように、違った形でどこかの誰かの道を少しでも照らせるように。それが出来るなら、たとえ自分の様が」
格好悪くても、無様でもいいですよね。
最後に聞いたイレイズのその一言が、妙に胸の中にストンと落ちた。
夕刻感じた違和感は、既になかった。
元来、彼女が進もうとしている道は体裁を取り繕えるような生易しい道ではない。あれだけの気迫で俺たちに頭を下げてきた娘だ。十分過ぎるほどわかっていたはずだろう。しかし、それでも俺の中に引っ掛かりがあったのは、彼女の実態と理想の解離が大きかったからだ。
身を守る術を持たぬ娘。育ての親を、第二の故郷をあのような形で失くした娘。世間知らずで、弱みを見せることを大きな恥と思う娘。
背が届かないのならば踏み台を使えばいいではないか。
一人でついていけないのであれば、馬を使えばいいではないか。
俺がローリア社に赴く前に話した彼女は、周囲からそのような助言を受けてたとて決してその通りにはしなかっただろう。したくもなかっただろう。
しかし、今は違う。イレイズの晴々とした顔はハルトの丘で見たものとはまた違う、愁眉を開いたものだった。
「突然ごめんなさい。どうしても、セラウドさんの顔を見たら伝えたくなってしまいました。もう休みますね。」
肩にかかったストールを直しながら、おやすみなさいと一礼して俺の隣を通り過ぎて行こうとするイレイズ。殆ど無意識のうちに俺は口を開く。そ
「一切の間違いもない小綺麗な生き方があるとすればそれは作り物だ。雨に打たれ、泥を舐めるからこそわかることがある。そしてそれは、間違いなく自分を救うものだ。」
気配ではた、と足を止めたのがわかる。こちらは振り返らない。俺も誰もいない目の前を見たままだ。
「俺は武器を取ることを選んだ。それが自分の役目であると思って生きている。お前のように、ペンやカメラを手に死んだ父親や見ず知らずの人間の為に過酷な道を選ぼうとする殊勝な心掛けはない。自分たちのために、自分の大切なものを守る為に戦う。それだけだ。」
「…はい。」
「ただ同じものがあるとすれば、先の大戦…ヘレアン戦争の空白を追うことへの執念だ。その為なら俺は…俺たちは何だってする。お前のようにな。」
だから、彼女が「同じ道」を進む以上、そして自分が関わったが故に大きな選択をした人間である以上は願う。
他でも無い自分自身へと立てる誓いでもあろう。
待ち受ける悠久なる道程を憂懼することなく進めと。
どうかその志が冬永なる孤独と塗炭を超克し得るものであれと。
それは呪いにも似た、切なる祈りだった。
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