28 案じる者たち
なかなか私に荷物を持たせようとしないハワードさんから、引ったくるようにして抱えた野菜や日用品の入った大きな紙袋と共にミジャンカさん達と一緒に拠点へと帰ってきたころにはもう月も空高く上がっていた時間だった。私が丘の上から街中の建物を一つ一つ指してあれは何か、と質問攻めにしてきたお陰で大分時間を食ってしまったようで、気付けばすっかり遅くなってしまっていた。
「只今戻りました。すみませんね、お待たせしてしまって。」
「あらお帰りなさい。ご苦労様。」
ソファに腰掛けて銃の手入れをしていたベルーメルさんが微笑みながらこちらを見やる。布で銃身を拭いてふっと息を吹きかけるその様子は同性の私から見ても動揺するほど艶美なものだった。
「あれ?セラウドは上階かい?」
「あぁ、あいつなら野暮用があるから少し出てくるって言ってたわよ。」
「オイオイ随分遅かったなァ。どこで油を売ってたんだァ?」
ベルーメルさんの傍から不機嫌そうに歩いてくるカースティさんは苛立ちを隠せない様子で、顳顬に青筋が立ってるのが見える。
まずい。よく考えたらこの時間から夕食の支度が始まる訳で、今日は日中列車の中で軽食を取ってからは殆ど何も口にしていない。初めて見るものだらけで気が張っていた自分は空腹など感じる余裕がなかったものの、彼等は当然の事ながら腹が減っているに決まっているではないか。
「ご、ごめんなさいカースティさん。お二人は悪くないんです。景色がいいからと、丘の上まで連れて行ってくださって…。街に来て間もない私に気を遣ってくださったんです。」
ミジャンカさんとハワードさんの優しさに甘え、時間も忘れて付き合わせてしまった事を悔いた。世話になっている分際でありながら、これ以上の迷惑をかけることはあってはならないというのに、自分は何をやっていたのか。冷や汗と申し訳なさで背中が冷えた。
「私の所為なんです。ごめんなさい、皆さんお腹も空いてるのに、私…。」
私より頭一つ分以上背の高いカースティさんを見上げ、自分の胸に手を当ててミジャンカさんとハワードさんの前に進み出る。その様子を見たカースティさんは一瞬目を見開いたかと思うと、頭の金糸に手を入れ、軽くため息をついた。
「…別に怒っちゃいねェ。落ち着いて飯食える事自体珍しいし空腹なんて大した事ねェわァ。何ともなかったなら、それでいい。」
そう言うカースティさんは私から目を逸らしてしまったが、その声音はぶっきらぼうでありながらも、心なしか柔らかかった。私の背後で、ミジャンカさんとハワードさんが顔を合わせて笑いを溢していたが、それには首を傾げるしかなかった。それに対して、何かカースティさんが口を開こうとしたが、一瞬迷ったように足元に視線を向け、頭を軽く振った。
「いいから早く材料よこせ、今日はもう遅いから煮込みにしちまうからよォ。」
床に置かれた荷物をヒョイと持ち上げ、私の横を抜けて颯爽とキッチンへ歩いていくカースティさんを、私は追った。
「まさか、夕食の準備はカースティさんが?」
「なんだよ悪ィかァ?これでも一通りの家事は出来る。いいからねーちゃんは座って待っとけ。疲れてんだろォ。こういう時は慣れてる奴がやった方が早ェんだからよォ。」
滅相もない。とんでもない。早いは早いだろうが、自分も一人暮らしで自炊はしていたのだから野菜くらい切れる。生憎私は人の機嫌を損ねておいてソファで踏ん反り返っていられるほど図太くない。そんな私に構わず袖を捲り上げて調理用具を手際良く出していくカースティさん。
「いえそんな!悪いです、私もお手伝いしますから!」
「イレイズイレイズ。」
慌てる私の肩をちょいちょいと突く感覚に振り返ると、そこにはベルーメルさんがいた。
「いいのよ任しておけば。その間にお風呂済ませちゃいましょうよ。ハルトを出てから
「お風呂…?」
思ってもみなかった風呂という単語。どうしようかと決めあぐねる私の手を引っ張って部屋を出ていこうとする彼女の手の力は思いの外強い。
扉を出て、上階への階段を登って行く。灯のない階段が、窓から差し込む月の光で薄らぼんやりと照らされていた。上りながら振り返って私を見下ろすベルーメルさんが、悪戯っぽく笑う。
「カースティなりに気を遣ってるのよ。全然怒ってないから大丈夫。あいつは見掛けと言葉遣いで損するタイプだから、気にしなくて良いわ。」
要は、思っている以上に思慮深い人だということだろうか。ベルーメルさんが早くいらっしゃい、とどんどん階段を駆け上がっていってしまうので、私はそこまでで考えるのをやめてしまった。
上階に着いて扉を開けると、そこに広がっていたのはタイル張りの水場。天井近くから貼られた縄には数個ハンガーが掛けられている。掃き出し窓の外にも物干しが設られているのを見る限り、日頃の洗濯はここで行われているようだ。奥には簡易的な衝立があり、下の隙間からはバスタブの足が、天井に視線を移せば固定されたシャワーヘッドが見える。
ハルトで一人暮らしをしていたときのアパートの自室には当然バスタブなんて大層なものは無かったので、不覚にも少し心が躍ってしまった。
「すぐ洗っちゃうからちょっと待っててね。」
「べ、ベルーメルさん!お風呂洗いなんてそれこそ私…、、、が?」
今度こそ、とベルーメルさんの手を制そうとしたときだった。
衝立の隙間から動く黒い影。微かに聞こえたタイルを駆ける爪の音。そして足を掠めるざらついた毛の感触。喉へと込み上げてくる波打つ感覚。
本能が危険信号を発する。
何も考える間も無く足元へと視線を移したその刹那。
奴が、いた。
「チュー。」
「ぎゃあぁーーーー!!!」
痙攣して座り込んでしまった役立たずの足を恨みながらも、私は叫んだ。腹の底から。
「ちょっ、ちょっとイレイズ…」
「いやあぁぁ鼠!私鼠はダメなんですうう!」
立てないならば、と自分でも驚くほどの速さで扉まで後退った時、背中に温かい物がぶつかった。
「おわっと…大丈夫ですか?一体何が」
「ミジャンカさあぁぁぁあん!!」
ミジャンカさんが男性であることも忘れて、半泣きで身を寄せる。彼は一瞬呆気に取られたようだったが、状況をすぐに理解したようで、私の背中をぽんぽんと規則的にゆっくり叩き始めてくれた。
「二ヶ月でやっぱ出ちゃいましたか。」
「えぇ。あららベニヤで塞いでた壁の穴がまた…。やっぱり古い建物は駄目ねえ。駆除も本格的に頼まないと。」
「ひっく…うえぇ…」
久々に天敵と相対したお陰で、続いていた緊張が一気に吹き飛び、それと同時に涙が溢れる。鼠如きにここまで追い詰められる自分が情けなく、恥ずかしかった。ベルーメルさんが申し訳なさそうに笑いながらしゃがみ込み、私と視線を合わせた。
「ごめんなさいね、嫌な思いさせちゃって。うーん、参ったわねぇ…。この分じゃ今日お風呂借りにいったほうがいいかしら。」
「い、いえ…大丈夫です…」
「だって、つい今し方まで鼠が這ってたお風呂なんて嫌でしょう?」
「う。」
その時、私とベルーメルさんの様子を見ていたミジャンカさんが、それなら、と指を立てた。
「2人で公衆浴場でも行ってきたらどうですか?」
「…公衆浴場?」
聞きなれない言葉だ。漸く止まり始めた涙を拭い、顔を上げる。ベルーメルさんがわかりやすいくらいにご機嫌になっていた。
「そうね!その手があったわ!」
「ジャイレンはオガールで唯一天然温泉が湧くんです。疲れにも効きますし、オススメですよ。一番近いスパなら歩いて行ける距離ですし、せっかくですから。」
公衆浴場も知らないなら天然温泉とやらにも入ったことはないが、話を聞く限りだと保養施設の一種だろうか。ベルーメルさんがいつのまにかタオルや着替えを纏め、私に手渡してきた。
「どうせ食事だって時間掛かるんだから、今のうちに行ってきましょ。嫌だわ私ったら何で気がつかなかったのかしら!ね、着替えなら私の貸してあげるから、そうと決まったら出発よ。」
「は、はい…。」
当然遠慮はあったが、彼女の勢いに気圧され、結局諾うしかなかったのだった。
***
「はぁー…。最高。空いてるし癒されるわぁ。今夜は月が綺麗ねえ。」
そのスパとやらは、買い出しに出た場所とは真反対の方角に位置する旧市街にあった。古い建物が並び、王宮にも程近い。
「本当ですね。私、こんな大きなお風呂、生まれて初めてです。お湯も凄く柔らかいんですね。」
客は疎らで、夜風にあたりながら浸かる外湯は心地よかった。灯りに湯気が照らされ、施設全体が霞掛かっているかのように幻想的な景色が広がる。
両手で乳白色のお湯を掬い上げると、それは肌に吸い付くような柔らかさで、とろとろと優しい感触だった。
最初は一糸纏わぬ姿で、しかも他人と風呂に入るなどとんでもないと思っていたが、入ってみれば不思議なもので、疲れが溶けて行く感覚とともに羞恥心も次第に軽減されて行く。
「ここの温泉はいいわよ。疲労回復にうってつけなの。ミジャンカ曰く傷の回復にも効くんですって。」
「へぇ…。確かに、お薬でも入ってるみたい。いい香りでずっと入っていられますね…。」
風呂の縁に両手を組んで枕を作り、その中に突っ伏すベルーメルさんがはぁ、と息をつく。
そんな彼女の背中につい目がいった。
仕事上ついて回るであろう不規則な生活もなんのその、白く滑らかな肌。こんなにも柔らかい泉質にも関わらず、すぐに弾いてしまうあたりとてもきめ細かいのだろう。脇から覗く豊かで柔らかな形のいい女性の象徴も、同じ人間とは思えぬほどに美しいものだった。
「うふふ。視線がこそばゆいわ。」
ボーッと見ていると、いつの間にかベルーメルさんが姿勢はそのままに真紅の瞳をこちらに向けていた。その顔は艶麗に上気していて、ふとこの上なく恥ずかしくなってしまった。
「す…っすみません…。とても綺麗なお肌だったので、つい…。」
「あら、ありがとう。でも目を凝らせば傷だらけよ。目立たないだけでね。」
ベルーメルさんが起き上がったかと思うと両の二の腕を縁へと預け、顔を星空へと向ける。その時、彼女の髪紐が外れたのだろう。黒く長い髪が縁に散らばった。
「ここに来てみて、よかった?」
空へと向いたまま、ふと問いかけられた言葉。些細なハプニングもあったが、彼女なりの気遣いがとても嬉しかった。
「はい、とても。」
私も同じように空を仰ぐ。
それから、暫しの間言葉は消えた。時を同じくして、客も私達以外は誰もいなくなってしまっていた。
「ねぇ、さっきここの温泉が怪我にも効くって話したでしょう?傷って、本人が負っていることすらわからずにいることも多いの。知らず知らずのうちに削られて、気付いた時には…ってこともあるわ。だから、切欠は偶々だったけれど今日あなたをここに連れて来られてよかった。」
「?」
ここに来てからは言葉少なだったベルーメルさんが能弁になり始めたことで、私は彼女に再び目を向けた。そして、ふと彼女が口にした言葉を反芻する。自分の身体を見回してみるものの、それほどの大怪我は負っていない。何のことを言っているのだろうと、一瞬理解に困った。
「あ、この手首ですか?でもこれくらい…」
ハルトで倉庫に拘束されて出来た鬱血痕。同じ場所に拵えた擦り傷もあったが、もはや痛みはない。
「違うわ。ここよ。」
いつの間に移動して来ていたのだろう。ベルーメルさんは目の前にいた。そして、私の心臓を探るように上から下へと手を這わせ、指で軽く突く。
「心もね、怪我をするわ。」
真紅の瞳がその指先を一点に見つめていた。
その瞬間、私の瞳が揺れる。
「寂しさも悲しみも、ここに澱のように溜まって行く。でもそれを無理に隠す必要はないわ。」
触れられた場所がじわじわと温かくなっていく。湯に浸かっているからではない。この温もりは、内側に広がっていくものだ。瞳の揺れは更に大きくなる。
「大変な思いをして見つけた安住の地すらも、育ての親もあんな形で失くして…それでもすぐに前へ進もうとしている。あなたは頑張り屋さんだから、大きな覚悟を持った子だから、『もう甘えは許されない』って思っているのかも知れない。」
「…。」
「イレイズ。あなたは祖国から、そして第二の故郷からも離れて遠い街で再起しようとしている。誰にでも出来ることじゃない。それは誇っていいことなのよ。あなたは、本当にすごい子だわ。私が保証する。」
「ベルー、メルさ…」
「でも、その覚悟が自分を縛る枷になってはいけないわ。己の道に覚悟を持っても、人間的な感情まで押さえつけてはダメよ。自分に厳しくするのと同じくらい、優しくしてあげて。さもなければ、心に出来た傷は治らずに膿んでいってしまうものよ。人間はどう頑張ったって、完璧にはなれないんだもの。だから…」
息を呑んだ。
「心がいっぱいいっぱいになったら、泣きなさい。思いっきり。」
彼女の優しさが尊かった。
「あは、は…。敵わないなぁ…。」
自分では蓋をして見ないようにしていた、一人になると分かった時の寂しさや心に深淵が広がった時の寒さ。過酷な日を自ら進んで選択したハルトでの最後の日から、様々な青い感情と戦わなければならなかった。
だから覚悟という蓋で、それらを押さえ込もうとしていた。それが、自分の為だと思って。
「…私、一度弱みを見せてしまったら、せっかく決心したのにまたダメになるんじゃないかって怖くなったんです。だから、マザーとお別れしたあの日から、早く強くなろうって心に誓いました。」
彼等との短い日常生活の中でもとにかく遠慮をしようとしたのは、誰でもない自分を守る為だ。一人で何でもやらなければ。迷惑をかけないようにしなければ。それが覚悟であると。
しかし、ベルーメルさんの言葉を聞く限り彼等はそんなものはお見通しで。それこそきっと鼠が侵入できる程、容易に打ち破れるベニヤのようなものだったのだろう。
そんなことにも気付かなかった私に、彼等は少しずつその蓋を開けられるよう声を掛け続けてくれていたことに気付いた。
鍋の中で煮えたぎる感情は、蓋をしたままでは吹きこぼれる。もしかしたら火力の強さに耐えかねて鍋そのものが割れてしまうかも知れない。
あぁ、そうか。
後悔しない道を進むには、近道をしてはいけないのだ。周り道だらけでも、いいのだ。
覚悟という言葉の意味を、履き違えてはいけない。
「私、大馬鹿ですね。これから想像も出来ないくらい辛いことも待っているかも知れないのに…。また、自分を誤魔化す癖が出ちゃってたみたいで…。」
「イレイズ…。」
いつの間にか溢れていた、頬を伝う涙をベルーメルさんが両手で拭ってくれる。
「私…、寂しいと、思ってもいいんでしょうか…っ。この先辛い時は辛いと…っ、泣いてもいいんでしょうか…!」
「えぇ。間違えないで。あなたは独りじゃない。少なくとも私は、あなたを思ってる。リスベニア出身の私にも、蟠りを持たずにいてくれたあなたを、大事に思っているわ。」
「う…っ、うわあぁぁぁ!あぁぁあ!」
咳をきって溢れ出す嗚咽。私の泣き声は、湯気に紛れて空へと登っていく。
決意とともに抱いた、不安と焦燥感。
それが涙になって流れ出ていく。
私を案じてくれる人がいることが、この上なく嬉しかった。
『何ともなかったなら、それでいい』
拠点へ帰った時のカースティさんのこの言葉も、そうだ。
彼は「怒って」いたわけではない。私を心配してくれていたのだ。
身の危険はミジャンカさんとハワードさんと共にいたのだから心配はない。案じていたのは私の「心」だ。
二人に何か言おうとしていたのは、きっと。
私が拐かされたのが夜だったから。記憶がフラッシュバックして私が再びパニックになる事態を恐れたのだ。そう日も経っていないというのに、遅くまで長い時間連れ出すなと。
実際は、夜に苦手意識があるわけではないが、カースティさんの不器用な優しさに初めて気付いた。
丘の上からジャイレンを見下ろした時、彼等のことを知りたいと思った。知らないことが多すぎるから。
それでも一つわかったことは。
彼等は強いと同時に、胸が苦しくなるくらい優しい人たちだということ。
多くの悲しみを見て来た人たちだということ。
だからこそ、人を救える人たり得るのだと、いうこと。
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