26 丘の上にて

 太陽が西へと傾き始める頃になると、これまでの暑さが嘘のように涼しくなる。窓から吹き抜ける風が、先程まで室内に充満していた黴臭さを跡形もなくかき消して、駆け回っていた溝鼠もどこかへ行ってしまったようだった。


 いつもより人手があったこともあり、室内は粗方片付いて生活が出来るくらいまで見栄えが良くなった。それまで床に膝をついて刷子がけをしていたイレイズが伸びをしながら立ち上がり、捲り上げていたスカートの裾を降ろす。世間知らずなのか何なのか、男の前でも全く恥じらいがないこの娘には違う意味で感心してしまう。


「悪いわねえ。すっかり手伝って貰っちゃって。」


「いいえ、これくらいお安い御用です。」


 バケツの中に刷子を放り込んで濯ぐイレイズの後ろから、ベルーメルが顔を覗かせた。ベルーメル自身、ずっと男の中で生活をして来たことを考えると、自分と同じ世代の女性がいることは素直に嬉しいのだろう。ジャイレンに来るまでも、来てからもずっとイレイズのことを気遣っている様子だった。


「イレイズ。少し良いか。」


 イレイズが掃除道具をまとめたことを確認してから、俺は席を勧めた。イレイズは軽く頷き、静かに腰を下ろした。既にガイとイリシャはいなかった。


「お前、明日から大丈夫なのか。」


 俺から飛び出す話の予想はしていたのだろう。イレイズは全く表情を変えなかったが、膝の上で重ねられていた両手が、僅かにスカートの生地を掴むのを俺は見逃さなかった。


「当然だとは思うが、この街に親類がいるわけでもないんだろう。そんな状態で、明日からの生活はどうするつもりなんだ。」


 別に詰問しているつもりは毛頭なかったが、ミジャンカが隣から口に出さないまでも「もう少しソフトに聞けないんですか?」と視線で野次を飛ばしたのを見て、イレイズの眉が下がっていることに気づいた。


 そもそもこいつはハルトから出たことがなかったのだから、ジャイレンに来て初めて見聞きすることも多いだろう。ローリア社も大きな新聞社であるから、住む場所も生活も全く問題はないだろうが、精神面は別だ。幼少期から長く過ごしたハルトを出て、たった一人で身を立てていかなければならない現実を、どこまで受け止められているのだろうか。


 イレイズは首をゆっくりと横に振る。


「勿論。もういい大人ですから、いつまでも皆さんのお世話になるわけにはいきません。慣れるまでは多少時間が掛かるでしょうけれど、一つ一つ片付けながら何とかやっていきます。ご心配には及びません。」


「…そうか。」


 大きな覚悟を持ってハルトの街を出たのだから、しっかり考えてはいるのだろうが、一言くらいは弱音を吐くだろうと思っていた。友人がいるわけでもない遠い街にやって来て、一抹の不安もないなんて出来過ぎたことがあるわけがないのだ。


 端から俺達はこの街の勝手もわからないこいつがすぐに何とか出来るとは思っていないし、ローリア社での見習いと言う形ならばその給金だけで暮らしていくのはなかなかにしんどいだろうと踏んでいた。肩入れとまではいかないまでも、イレイズをそれなりに案じているベルーメルは何かと世話を焼きたがるだろうことは想像に難くなかったので、彼女の精神状態を改めて確認しておきたかったのだ。


 経験上、慣れ親しんだ日常から逸脱すると人間は立ち止まる。必ずだ。その理由も大体は似通っていて、どう手を貸してやれば足を踏み出せるかもわかっていた。


 それだけ、茫漠とした明日への不安を抱えて蹲り、座り込んできた人間を山ほど見てきたのだ。


 イレイズの覚悟を聞いたあの日の場面が頭の中に甦る。不自然なまでに大丈夫と言い切る彼女には、何かが足りない。


「大丈夫ですよ。ここは難民に加えて、移民も多いですから。自分たちも含め、外つ国の方へは寛容な街です。焦る必要はないと思いますよ。落ち着いて生活を立て直しましょう。」


 ミジャンカが夕日で淡く橙色に染まった窓際に背中を預けながら言った。それには、イレイズも安堵の表情を漏らす。ミジャンカが自分と歳が近い青年であることを知って、親近感が芽生えているようだった。


「見通しが立っているのならいい。おい。ミジャンカ、ハワード。手が空いているなら買い出しにでも行ってきたらどうだ。」


 今の今俺が何を言っても「大丈夫」以外の言葉は出てこないだろう。彼女の様子を見て考えることが一緒であろう二人に、俺は声を掛けた。


「そうですね。もう夕刻ですし、構いませんよ。」


 ミジャンカの発言で、各々が「これ頼むわァ。」「私もお願い」とメモを渡して行く。いつもの光景だ。


「うーん今日はいつにも増して多いですね…。イレイズさん、人手が足りそうもないので、すみませんが一緒に来て頂けませんか。」


「あ、はい。私でよろしければ。」


ミジャンカがニッコリとイレイズの方へと向き直る。俺としては清々しいほどにこちらの意思が通じているようで楽だったが、当のイレイズは自分にお呼びがかかるとは思っていなかったようで、ソファから立ち上がるのに若干の時間がかかっていた。



         ***



 店の軒先で、一人空を眺めていた。


 陽が山の向こうへと姿を消し、西から紺碧が空を侵食していく。ゆっくりと一日が終焉に向かい始めるこの時間になっても、雑踏と喧騒が混じり合い、街から人が消える気配はなかった。

 同じオガールの中にいた筈なのに、見慣れない様式の建物が数多く並び、ハルト以上に異民族が多い印象を受けた。見たこともない商品が売られ、飛び交う言葉の中にも一部訛りが聞こえる。


 本当に自分が遠いところへ来てしまったのだとここに来て実感していた。それは寂しさでも虚しさでもなかったが、先程から心に湧き出てくる、名付けあぐねるこの感情をどうしたものかとため息が漏れた。


「イレイズさん、お待たせしました。」


 そこにミジャンカさんとハワードさんが荷物を持って店から出て来た。ハワードさんから一つ受け取ろうと手を伸ばすが、「ご婦人に重いものは持たせられないよ。」と渡して貰えなかった。人手が少ないからとついて来たはずの買い出しなのに、自分はほとんど手ぶらに近い。


「すみませんね、お待たせして。久しぶりに帰って来たので調達するものが多くて。あと一箇所寄らせてください。」


 申し訳なさそうに頭を軽く下げるミジャンカさんに、何も言わずに頷いた。むしろこれから自分の持つ荷物が出来るのだろうと思うと、少し気が楽になったくらいだ。


「いつもお二人が買い出しを?」素朴な疑問を口にする。


「いいや。一応持ち回りってことになっているけど、セラウドは基本的には買い出しに行くことはないかなぁ。大体ベルーメルの時はカースティが荷物持ちに駆り出されてるけどね。」成程。想像が容易すぎて思わず笑いが込み上げて来た。


「ふふ。何となく想像できます。」


 私の様子を見て、ミジャンカさんが不意に口を開いた。


「ガイの礼儀がなってなくて、すみませんでしたね。」


 ミジャンカさんのその言葉に、ふっと頭が冷やされる。同時に向かい風が吹いたこともあり、一瞬息が止まった気すらした。

 振り返ると、二、三歩後ろにハワードさんとミジャンカさんが佇んでいた。


 気付けば中心街から少し外れて、街灯も疎らになってるが、ちょうどガス灯の逆光になって二人の表情を窺い知ることは出来ない。


「別に私は…。」


「子供の戯れです。彼が言ったことを気にする必要はありませんよ。」


『仕方ねえって!こいつらと数日一緒に居ただけじゃ、何もわからねえよ!』


 脳裏に、茶髪の少年が屈託のない笑顔で私に言い放った言葉が蘇る。何てことはない、本当にその通りの筈なのに、妙に心が痛かった。


 私よりも少し身長が低いミジャンカさんが年上だとわかった時。男性であると知った時。

 羞恥心はあれど別に心は痛まなかった。ただ、ガイの言葉が痛かったのだ。

 武装集団である彼らは私とは違う世界の人間だと思っていたので、私のような一般人が彼らの領域に立入れるとも思わない。寧ろ特殊な仕事をしている彼等に肩入れしすぎるのは危険であることもわかっていた。ただ、この数日行動を共にして来て、今となっては早くも一番距離が近くなっていた彼らの素性も、私は何も知らないのだ。


 自分がいかに孤独であるかを再認識してしまったのかもしれない。


 足元に目線を落とし、首を垂れたままの私に痺れを切らしたのか、ゆっくりとミジャンカさんが歩き出し、私を追い越していく。それにはっとして、慌てて後を追った。



 夜空が広がり、ポツポツと空に針で穴を開けていくように星が瞬き始める。数えきれなくなったその時には、東の山際から薄っすらと欠けた月が顔を覗かせた。

 ふと空から正面へ視線を戻すと、街灯がないのにも関わらず月光で銀色に染め上げられた峠道が開けている。商店が並ぶ地区からは大分離れ、なお彼等は歩き続けた。


「あの、どこへ…?」

 ミジャンカさんはその問いには答えない。


「君に見せたいものがあるのだよ。」


 ハワードさんもいつも通り柔和な笑顔なままで、人差し指を悪戯っ子のように口に押し当てた。

 

 それから程なくしてミジャンカさんの足が止まり、私の方へ向き直ったかと思うと、先ほど月が上がって来た山の方を指した。不思議に思って、その指先を追う。


「わ…。」


 そこに広がっていたのは、夥しいガス灯で照らされたジャイレンの姿だった。

 まるで天空に輝く星がそのまま降って来たかのような、燦々と光り輝くその姿に目を見開く。

 山々に囲まれ、大きな川が中心部を流れる水に恵まれた豊かな大都市。橋がいくつもかかり、奥に見える一際目立つ王宮は神々しく照らし出されていた。


「本当に綺麗…。こんなに、美しい街だったなんて…。」


「ここはジャイレンを見渡せる丘でね、夜景は格別なんですよ。街を囲うように連なるスピナ山脈は、この街を守る要塞です。あの山の向こうにあるハルトから、列車でずっと回り込んで来たんです。街を貫くアルテ川は、スピナ山脈から長い時間をかけて滲み出て来た雪解け水が流れています。」


 ミジャンカさんが一つ一つ指しながら、私の方を時折向いて話してくれる。


「アルテ川をずっと辿ると、エアリス海に通じているんだ。君の故郷…カストピアと接する海にね。」


「それで、私をここに…?」


 それには、彼等は答えなかった。それでも、眼下に広がる光の瞬く街を見ているだけで、心にじわじわと温かいものが広がっていく。


「どんなに遠い場所にいたとしても、必ずどこかで故郷と繋がっています。自分たちもそうでしょうし、勿論あなたも。」


 街を見下ろしながら、優しく微笑むミジャンカさん。


 何故私はこの人を子供だと思ってしまっていたのだろう。こんなにも聡明な彼を。


 子供の言葉を真に受けて、ほとんど不貞腐れていた私のことも見抜いていたのだろう。何も言わずにここまで連れて来てくれて、元気付けようとしてくれたのかもしれない。

 ハワードさんも街を見下ろしながら、静かに口を開いた。


「私達は真っ当な生き方は出来ない、所謂破落戸だからね。本来なら一般人の君と睦む事は憚られる立場なのかも知れない。でも、一度君と関わりを持った以上、君が助けを求めるのであれば出来る限り応えるし、手も貸すさ。それがセラウドの考えだからね。」


「セラウドさんが…?」


「そう。ガイもイリシャも元々路上生活をしていてね。糊口を凌ぐ為に盗みを繰り返していたところを街人に捕まって、私刑にかけられていたのをセラウドが拾ったのだよ。ガイは普段あんな憎まれ口を叩いているけれど、セラウドはまごう事なき命の恩人だ。だからこそ協力関係が強固なのだよ。」


 知らなかった。あの二人がそんな過去を抱えていただなんて。孤児院にいた子供たちにはない雰囲気を持っていた自由気儘な子供であると。勝手にそう思っていたからだろうか。


「君は彼と同郷だからかもしれないけれど、セラウドは態度以上に君のことを気に掛けているよ。」


「そんなこと…。」


 別に彼等の仕事を考えれば難民と関わることなど日常茶飯事の一つだろうに、何故そう思えるのだろうか不思議で仕方なかった。


 私が眉を潜めて考え事をしている様を、ハワードさんは暫し見ていた。しかし再び街の方に視線を移したかと思うと静かに続けた。


「彼は頭が切れる人間だ。常人には見えなくてもいいものが見えるのだろうね。自分の行動でどのような結果になるのかも。だから我々が深入りすれば君の日常を壊すことになることもわかっていた。君に最初キツく当たっていたのもその所為だ。気付いた時には君は全てを知り過ぎていたから既に遅かったわけだけれど、それについては本当に申し訳ないと思っていた筈だよ。無論私たちも同じだ。」


「…。」


 巻き込んでしまったのはこちらの所為なのに、そこまで気に掛けてくれていたのだろうか。それに対しては非常に申し訳ない気持ちになった。


 ミジャンカさんは、何も言わずに私の側に佇んでいた。彼もハワードさんと同じことを思っているのだろう。


「結果的に、あなたの日常を壊してしまったことについては彼も自責の念を抱いているようです。我々があなたに関わらなければ、あなたは今こうして一人でジャイレンに来ることもなかったでしょうから。」


「いいえ!あなた方が来て下さらなければ、メリルも屹度殺されていました。それどころか、もっと多くの子供たちも犠牲に…。」


 そうだ。彼等は私の宝物を救ってくれた恩人であり、感謝はすれど恨むつもりはない。関わりを持ったのは私の意思であり、真実を知りたがったのも私の意思だ。それをどうしてもわかって貰いたかった。


「ですから、そんな事を仰らないで下さい。会ってそう間もない私のことをここまで世話して下さっているのだから…。」


「あぁ。セラウドも素直じゃないからね。本当は君には平穏な日々を取り戻して欲しいと思っていたはずさ。結果としては君の意志の強さに根負けしたわけだけれどね。それも私達と関わったが故であるならばと、彼は君を守ろうとしているんだ。裏切られる迄は、自分に関わった人間を切り捨てるようなことは絶対にしない。そんな人間なのだよセラウドは。現に生まれも抱える過去も違う私達が、今こうして異国の地で彼と仕事をしているのは、単に彼と関わってしまったからさ。身も蓋もない理由だけれど、本当のことだよ。」


 誰かが裏切ってくれたら、少し面白いかもしれないけれど。と悪戯っ子のように笑ってみせるハワードさんは、古い記憶を懐かしんでいるように見えた。


 彼等のことを知れる日はきっと来るのだろう。

 彼等に抱く好奇心が個人的なものか、自分の中に流れる戦場カメラマンの血が騒ぐからかはわからないが、ジャイレンに…彼等の側にいたら自分の生きる意味が見つかるかもしれないと。


 直感的にそう感じた。


 私は恐らく彼等の『人生の同志』にはなれない。

 でも、彼等の生きる道を見ることは出来る。そうすることで自分を取り巻く孤独を埋められるのかもしれないと思った。そうしたかった。


 自分を救ってくれた彼等のことを、もっと知りたいと。



 そう、思ったのだ。

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