オガール ジャイレン&バイロン編

25 ジャイレン


 扉を開けた瞬間に漂ってきたのは鼻を突く埃臭さだった。

 俺は思わず鼻を押さえて顔を顰める。刺激は鼻だけに止まらず、目にも直接伝わってくるのだからタチが悪い。


 たった二ヶ月程の留守だったと言うのに、まるで何年も人が寄り付かない廃屋よろしく、すっかり室内の空気は変わってしまっていた。埃臭さに混じって何となく黴臭い気もする。耳を澄ますと微かに物音も聞こえるのだから、また壁の罅割れから溝鼠が侵入したのだと悟る。


 床の彼方此方に出来た黒いシミ。その近くに置かれた数個のバケツを見ると、全て上まで雨水が溜まっていた。雨季から乾季に変わるこの時期によく降りがちな大雨の所為だろう。屋根の修繕を後手に回していたツケがこのような形になることは予想が出来ていたが、やはり本格的な夏の到来を思うと、暫く雨は降らないだろうからもう少し後にしようと思う。


 前提条件として、建物の築年数が半世紀を超えていることを考えるとそれも合点が行くと言うものだ。修繕関係は纏まって済ませた方が費用対効果も大きい。


 そして毎度のことではあるが、帰った日は大体室内の清掃で終わってしまう。オガールはジャイレンのペネトラール地区の丁度中心地に位置する古びたこの四階建てのビルが、俺達の拠点となっている。


 ため息一つついて、背負っていた荷物を勢いよく下ろすが、それに非難の声を上げたのはベルーメルだった。


「セラウド、埃立つんだからもう少し静かに置いて頂戴!」

 唯でさえキーキーと響くその声は、脳天をダイレクトに金槌で殴打するかの如くだ。手際よく締め切っていた窓を開け、空気の入れ替えを行うミジャンカが首だけこちらに向ける。そして扉の前で荷物を持ったまま立ち尽くしていた娘に席を勧めた。


「ほらほら皆さん。お疲れでしょうから一休みしてから片付けに入りましょう。イレイズさんはこちらにどうぞ。ゆっくりなさってください。」


「どうもすみません。お邪魔します。」


 イレイズが、申し訳なさそうに会釈するとゆっくりと室内へと足を踏み入れた。その顔には薄っすらと疲れの色が見える。ベルーメルが駆け寄ってソファの席へと導くが、イレイズは少し困った顔をしたかと思うと確認するように俺を瞥見した。それに俺は軽く眉間に皺を寄せて言い放つ。


「いちいち俺の方を見るな。さっさと座れ。」

 俺の憎まれ口にも、この数日間ですっかり慣れたようだった。イレイズはホッとした顔で頷くと静かに腰を下ろす。


「ほら飲めェ。疲れてんだろォ。」


 いつの間に淹れてきたのか、カースティがマグカップに入ったハーブティーを手渡す。


「ありがとうございます。」


 イレイズは両手で受け取ると、目を閉じてマグから立ち上る白い湯気をすうっと吸い込んだ。その瞬間表情が和らぎ、口を付ける。


「おいしい…いい香りがします。」


「あァ。ハワードの趣味でよ、色んな茶葉があんのよ、此処には。」


「ちょっとカースティ、私にも淹れて。」


「ざけんなァ!テメーでやれテメーで!」


「いいじゃない!ポットから注ぐだけでしょ、やりなさいよ!」


 今日も今日とてベルーメルに扱き使われるカースティを尻目に、俺はイレイズの向かいに腰を下ろした。色褪せた木の椅子が、ギイと軋む。その音に、彼女は顔を擡げた。


「ハルトを出てから三日。『外界』はどうだ。」


「外界…ですか。」


 イレイズは膝の上にマグを置く。そのまま視線もマグに移し、水面に揺れる自分を見つめていた。少しだけ口角を上げて口を開く。


「ふふ。外界だなんて、セラウドさんって言葉選びが独特ですね。でも、確かに難民としてオガールに流れ着いてからハルトから出たことはありませんでしたから、初めて見るものばかりで。」


 目線をマグから窓の外へと移す。この地区では五階以上のビルはこの拠点しかないので、家々の屋根がよく見える。先程まで薄い雲で覆われていた空もすっかりと晴れ渡り、オレンジ色の屋根が青い空に映えていた。


「でも、移動は想像以上でした。まさかジャイレンがこんなに遠いところだったなんて。」


 生まれてから列車にも馬にも乗ったことのなかったこの娘には、確かに険しい道程だったことだろう。道中岨道を馬で通る時にも、同じ女性であるベルーメルが平然としていることにイレイズは心底驚いていたのだ。寝台列車の時刻表も有って無いようなもので、結局出発も到着も半日遅れだった。彼女にとっては、揺れる車内で、しかも硬い木の寝台で夜を明かすのも結構な苦労だったに違いない。


 戦後、難民対応の見返りとしてリスベニアから技術者を受け入れてオガール国内で本格的に始動した鉄道計画も、機能するようになったのはここ数年のことだ。オガールは、技術という点では到底リスベニアには及ばない。それはその他の国も同じだ。戦勝国としての権利を剥奪されているとはいえ、世界宗教シルベスト教団の教都を擁しているリスベニアに大きな顔をするには、外つ国の技術者に頼らざるを得ない状況を打開するのが必要だろうが、それも結局難民政策の前では後回しにされてしまうのが現状だった。


「これでも大分線路は伸びたのよ。ほんの二、三年前まではジャイレンの中でしか鉄道は整備されていなかったから。私たちみたいな半端な流れ者にとっては格段に便利になったわ。」


「そうなんですか。それでもハルトから一番近い駅までも、馬で一日掛かるのは驚きました。」 


「本当に悪かったわね。オートモービルを使えれば一番良かったのだけれど…。」


「いえ、いいんです!そうして欲しいと言ったのは私ですから。」


 まだ鈍痛が取れないのか、片手で腰をさするイレイズに、ベルーメルは苦笑していた。

 オガール国内では、未だに陸上移動の筆頭は馬だ。オートモービルはまだまだ普及が進んでいない。


 リスベニアとワヴィンテでは、貴族は勿論庶民ですらその半分が所有しているオートモービルを、オガールの地方都市で日常的に乗っているのは政府王族関係者を除けばせいぜい軍警と貴族、そしてノーブレスと呼ばれる他国からの裕福な移民くらいだ。オガールではノーブレス以下の人間は、基本的にオートモービルの貸し出しを行っている業者から借りるのが一般的だが、その費用も決して安くはない。ジャイレンまでは、ハルトでの仕事で軍警から受け取った小切手を換金出来る場所もなく、そもそもあまり懐が潤っているとは言えない俺達が無駄金を使うという選択肢は最初からないわけで。俺の頭の中では、多少時間が掛かったとしても必然的に大分節倹が利く馬という手段に行き着いた。


 ただこれについては予想通りベルーメルとミジャンカが異を唱えた。乗ることは愚か、馬に触ることすらも初めてであるイレイズが落馬する危険性や体への負担を考慮しても、馬での移動は現実的ではないと突っかかって来たのだ。連れて行くことを諾うのであれば、安全面も万全にするのが筋であると。

 しかし、意外なことに、俺が口を開くより前にイレイズが首を横に振った。


『いいんです。私がお願いして連れて行って頂くのですもの。セラウドさんの仰る通りにします。』


 説得を続けたベルーメルも、頑固なイレイズの前では形無しだったようで、結局最後は折れた。保護者の役割を負うことになった俺達に対しての、イレイズなりの気遣いだったのだろう。さすがにイレイズを連れてとなってはいつもよりペースを落とす必要があった為、俺たちだけで移動するよりも凡そ倍の時間が掛かった訳だが、駅に到着して一人で馬から降りられないほどに疲れ切っていても、彼女は何の弱音も吐かなかった。


「んー。でも本当に気持ちのいい天気。すっかり晴れましたね。」


 イレイズが一息ついて立ち上がる。まだ半分以上中身が入ったままのマグを窓際に置き、桟に両手をついて身を乗り出し、空を見上げた。


 その時だった。扉越しに内階段を登ってくる足音が反響するが、何故か少し嫌な予感がする。それは一人のものではなく、そのうちの二つは勢いよく駆け上がってくるのが分かった。大きな音を立てて扉が開かれたのは、その数秒後のことで、茶髪とアッシュグレーが同時に覗く。


「やっと帰って来やがったなセラウド!」


「お帰りなさいみんな。」


「おいガイ、イリシャ。お前達扉をぶち開けるなとあれ程…。」


「やあ、帰ったよ。賑やかだねぇ。」


 しまった。頼んだ仕事が何もないので、今の時間こいつらがいたのをすっかり忘れていた。そしてその状況を楽しむかのように、後ろからハワードが続く。コイツどうも見掛けないと思っていたら何しに外に出ていやがった。頭が痛くなるが、この際ひとまず置いておく。


 音に驚いたのか、イレイズが目を丸くして窓から離れて立ち尽くしていた。それに、ガイが気付く。


「あれ?なあなあベル姉、このねーちゃん誰だよ?」


「ガイ!人を指差しちゃダメ。ハルトからのお客様よ。」


 へえーと興味深そうにイレイズの側へと駆け寄るガイ。人見知りのイリシャに至っては、久しぶりの来訪者への警戒からか、落ち着かない様子で自身の灰色のお下げ髪を弄りながらイレイズを見上げていた。当の本人はというと、居心地が悪そうに、両手で身を抱いていた。俺に助けを乞う目線がまた鬱陶しいので放っておけとだけ言うが、それに納得のいかないガイが矢継ぎ早に彼女の身の上や俺達との関係を問い質すものだから、イレイズがどんどん小さくなって行く。さすがに哀れに思えて来て、ツカツカとガイの元へ言って頸根を掴んでイレイズから引き離した。ぐえ、と蝦蟇が踏まれたような声が聞こえたが特に気にしない。


「何しやがるこの鉄仮面!」涙目で俺を見上げるガイがギャーギャーと喚く。


「お前いい加減殺すぞ。人に物を尋ねる時には自分からだ。常識だろうこのバカが。」


「ガイったら落ち着いて…五月蝿くしてごめんなさい。」


 まだ言いたいことはある様子だったが、側にいたイリシャがガイを諌めてイレイズに詫びを入れたことで、部が悪いと思ったのか口先を尖らせながら「わかったよ。」と小さく呟いた。それにイレイズもホッとした様子だった。


「いやあ。ガイは身長と態度の大きさが逆だったらちょうど良かったのにねえ。」


 然りげ無く嫌味を零すハワードが上機嫌そうに笑う。それに苛つきながらもガイは自身を落ち着かせようと大きく息を吐き、投げやりながらも漸く名乗った。


「オレはガイ・ジェルダン。このビルの二階に住んでる。」


 ポケットに両手を入れながら、けっと不貞腐れた様に顔を横に向ける。そんな様を見てなのか、イレイズがクスッと笑みをこぼす。それを見たガイが顔を赤らめながらイレイズに詰め寄った。笑われたのが気に障ったらしい。


「な、なんだよねーちゃんも名乗れよ!」

「うふふ。ごめんなさい。私は、イレイズ・パーハップ。東のハルトという港街から来たの。あなたは?」


 ガイの後ろに隠れるイリシャに笑いかけるイレイズ。イリシャが人見知りなのはすぐにわかったのだろう。蹲み込んで、目線を同じにして距離を保つ。


 その様子を見て、イリシャがおずおずと顔を出す。少し警戒を解いたようだった。さすが孤児院で子供の相手をしていたこともあり、扱いが上手い。


「イリシャ・ルーヴァ。十三歳です…。」


 こう名乗るのが精一杯だったのか、声を尻窄みにしながら再びガイの後ろに隠れてしまった。イレイズが困ったように笑うが、イリシャは堪らず部屋の奥で寛いでいたカースティの方へと駆けて行った。


「あ。行っちゃった…。ところで、ガイ君は、幾つ?」


「ガイでいいって。オレは十五。イリシャはオレの相棒で、二人で情報屋をやってるんだ。専らこの鉄仮面の。」親指を立てて俺の方をさすガイ。それを聞いて、イレイズは何かを思い出したようだった。


「情報屋って…まさかあの写真とフィルムを探してくれたのって…。」


「そ、オレ達。早かったろ。やっぱりあんたがあの写真のねーちゃんか。」


 ガイが誇らしげに胸を張る。自分の背中を押した思い出の品を探し当てたのが、予想外にも子供であったことに驚いたようだったが、静かに頭を下げた。


「あなた達だったのね。本当にありがとう。そのお陰で私、前に踏み出すことが出来たの。何とお礼を言ったら良いか…。」


「ま、まあな!それがオレたちの仕事だから。でもコイツ、本当に毎度毎度唐突でさ。あの時間までにハルトに届けさせるの、かなり骨折れたんだからな!おいセラウド、今回の報酬後でたんまり頂くから覚悟しとけよ!」


 照れ臭さを隠そうと、俺の方へ向き直るガイ。わかったわかったと受け流そうとするが、ガイが忘れんなよ!と念押しして来たあたり、これはさっさと払わないとあとが五月蝿い気がして来た。


「君は、ミジャンカさんと同じくらいの年なのね。」

 素朴な疑問だったのだろう。イレイズが呟いたその一言に、ガイはぽかんと目を見開いた。そしてすぐに吹き出した。


「ははっ。オレが?まさかぁ。そんなわけねーじゃんか。」


「え!?だって。背格好も似てるし、同じくらいかと思ったんだけど…ミジャンカさん、お幾つなんです?」


 イレイズが振り返って、横積みにされた本の埃を叩き片手に払うミジャンカに尋ねる。いきなり話を振られたミジャンカが「え。」と一瞬怯むが、困ったように頭をかきながら口を開いた。


「自分は二十ですよ。」

「え、ええぇ!?私より年上!?」

 両手で頬を覆いながらイレイズが発した声が裏返っていることに、ガイは更に笑った。


「ねーちゃんおもしれー!俺より五つも上なのに、やったじゃんミジャンカ兄!やっぱり若く見られるんだって!」


「年上なのは正直ビックリだったけれど、ミジャンカ兄ってことは…やっぱりそうかぁ。」ピタッとイレイズの表情が固まる。やっぱりこいつも多分に漏れずミジャンカと初対面の人間の大多数が抱く疑問を抱えていたらしい。


 イレイズの様子を伺っていたミジャンカが、更に困ったように笑うが、それを見たイレイズが何かを悟ったようだった。次にミジャンカが発するであろう答えも。


「イレイズさん。自分、一応男です。」

「で、ですよね。」

 

 その瞬間、イレイズと俺を除く全員の笑い声がペネトラール地区全域に木霊したような気がした。


「実は私、ミジャンカさんがあまりに物腰柔らかでいらっしゃるから、もしかしたら女性の方なのかも、と思ってしまっていて…。本当に失礼ですよねすみません。」


「はは。まァたまーにいるよなァ。間違えるヤツ。」


 カースティが未だに燻る笑いを抑え、涙目でイレイズの栗毛をクシャリと撫でた。


「どうやら、君が思っている以上に私達は複雑な集団のようだね。これだけでそんなに驚かれると、今後ローリア社での日々は心臓が持たないかも知れないよ。」


 ハワードもクックと笑いながら呟く。両手で顔をパタパタと仰いでいるイレイズに至っては、顔が茹で蛸のように真っ赤になっていた。


「すみません、紛らわしくて。」ミジャンカが火照りが落ち着かないイレイズの方へと扇風機を向ける。


「なんでミジャンカさんが謝るんですか!」

 ミジャンカの肩を両手で掴んでクワッと目を見開くイレイズ。常日頃生活を共にしている俺たちからしても、女性と見紛う中性的な顔と声は、二十歳を超えた青年にはとても見えない。眉間にしわを寄せたまま、ミジャンカをまじまじと見つめたかと思うと、はあーと長く細く息をついたのだった。


「仕方ねえって!こいつらと数日一緒に居ただけじゃ、何もわからねえよ!」

 ガイがイレイズの背中を叩く。


「そうだよね。うん、…そうだと思う。」


 その瞬間、ほんの少しだけイレイズの肩が落ちたような気がした。それにはすぐ近くにいたハワードとミジャンカも気付いたようで、何を言うでもなく目を見合わせる。奇妙な沈黙が流れて、ガイは「ん?」と不思議そうにイレイズの顔を覗き込んだ。


「何でもないよ。」


 顔を上げたイレイズは、いつものイレイズだった。

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