24 風


「うん、合格。」


 ぽん、と両手を叩いたハワードが、いつの間にか俺の隣に進み寄ってきていた。


「だよね、セラウド?」


「へ?」


 イレイズがぱちくりと目を瞬かせ、俺とハワードを交互に見やる。軽く息をつき、わざとらしく俺の名前を呼んだハワードに一瞥してから、イレイズとの距離を数歩詰めた。


「人材は資源だぞ。己の護身も儘ならない学生の見習いを、いきなり命を賭すような現場に放り込むわけがないだろう。最初は当然下積みだ。」


「え、いや、あの…。」


「酷いわ、本当にセラウドったら性悪ね。最初からそうやって教えてあげたらよかったじゃないの。」


「まぁまぁ、セラウドなりにイレイズさんの覚悟を見たかったんですよ、きっと。」


 本当に言葉足らずね、とネチネチ文句を垂れるベルーメルを煩わしいと思いながらも、照れを隠すように指先で赤くなった頬を軽く掻くイレイズを見れば、困ったように恥ずかしいように眉をハの字に下げていた。


「…もしかして私、結構恥ずかしいこと言ってました?」


「いいえ。確固たる志が伝わりましたよ。」


 ミジャンカがクスッと笑いながらも助け舟を出していたが、当の本人は搔くだけではあきたらずついには頬を両手で覆ってはぁー、と深いため息をつき始めていた。


「生まれ変わっても後悔しない道を選ぶ、か。大した心算だな。」


「と、当然です。恥ずかしいですから、そんな繰り返さないで下さい。」


「いや。冗談抜きでその水準の覚悟を決めて貰わねば話にならない。だが、先程の啖呵が嘘でないと言うのなら、俺は最早何も言うまい。」


 つい昨日まで幸せな日常の中に生きてきたのに、フィンドによって突然色の変わった世界へと放り込まれる者の現実は悲惨であることが殆どだ。そんな人間達と邂逅するのが彼女の日常になる。無論精神を病んで挫折する者も多い。お綺麗な意気込みだけではひと月と持たない世界だ。


 それでも彼女は這いつくばってでも前に進もうとするのだろう。頑固で、使命感に溢れたこの娘なら、或いは。


「ジャイレンは内陸だ。一番近い駅までは馬で向かう。俺たちは列車の発車時刻に合わせてハルトを出る。早急に荷物を纏めてここに戻って来い。ぐずぐずするようなら置いていく。」


 俺のその言葉で、弾かれたように顔を上げたイレイズ。


「じゃ、じゃあ…!」


「手紙を渡すくらいなら直接ローリア社を訪ねろ。それくらいの世話はしてやる。」


 そう、それが彼女に関わってしまった自分たちの責任を果たす事にもなるだろう。一滴の雫が大きな湖面を揺らすように、目の前の街娘との裏路地での出会いがこれ程までに大きな人生の選択へと繋がろうとは夢にも思わなかった。だが、それが結果だ。


「良かったわね、イレイズ。私いつもむさ苦しい野郎の中にいるから、道中女の子がいるなんて嬉しいわ。」


「おい待てェ。聞き捨てならねェぞそれは。」


「何よやる気?これしきのことでめくじら立てるなんて、本当に狭量な男って嫌ねぇ。」


「てめェェ…。」


「あーはいはい二人とも抑えて。」


 俺の後ろで火花を散らすベルーメルとカースティを、慣れたように宥めるミジャンカの会話が耳に入るが、いつも通りとんでもなく下らないので振り返ることすらもしなかった。当のイレイズはその様子を見て一瞬瞠目したが、ふっと相合を崩すと俺に向かって深々と頭を下げた。


「また、お世話になります。」


 イレイズの栗色の髪を靡かせる風は、突き抜けるような青空と街を照らす高くあがった太陽に向けて、通り過ぎていった。


 止まることなく風が吹く。


 大きな風が吹き抜けるように過ぎて行ったハルトでの日々が終わり、本拠地のジャイレンへと向かう時間は刻一刻と迫る。


 明日をも知れない俺たちにとっての日常は綺麗なものでもないし、万人に胸を張れるようなものでも決して無い。


 その日常に一人のカストピア人の娘が一陣の風のように入り込んできた。

 

 それが、一つの出来事として終わるもので無いことは、この時の俺には既に分かっていたのかも知れない。


 丁度この日から、うんざりするほどに繰り返し見ていた例の空虚な、何の変哲も無い夢を見ることが目切り減ったからだ。


 それに気付いたのは、ジャイレンに帰ってきてから一週間ほど経った時のことだった。

 

 

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