23 道

 


 イレイズは宿まで見送りに来た。


 一晩中体力も気力も使う環境にいたはずなのに、それを微塵も感じさせない彼女の背中は伸び、その佇まいも凛としていた。


 もう正午も近い時間帯になっていたが、商店街の店の端々には、まだ祭りの飾りが風に揺れている。祭りは昨日で終わったはずだというのに、鼻に入る食欲を掻き立てる肉の匂いや酒の香りは朝の澄んだ空気に負けることなく確かに残っていた。


「祭りの次の日は、いつもこんな感じなんです。真夜中まで続くものだから。」


 俺が思ったことを読んだのか、匂いがついちゃうのでお洗濯も出来ないんですよ、とイレイズは困ったように答えた。そして、改めて俺たちに首を垂れたのだった。


「本当に、皆さんにはお世話になって…お礼の言葉もありません。」


「イレイズさんもお身体に気をつけて。お渡しした薬は忘れず飲んでくださいね。」


 ミジャンカが調合した痛み止めの薬は、メリルが丘の上で詰んだ薬草で作られたものだと後で聞いた。イレイズが目を細めて頷く。


「はい必ず。ありがとうございます、ミジャンカさん。」


「元気でなァ姉ちゃん、ちゃんと飯食えよォ。」


 カースティがイレイズの栗毛をクシャクシャと撫でる。それにイレイズが嬉しそうに笑った。


「ふふ、カースティさんったら。私はもう大丈夫です。…父の思い出が背中を押してくれるから。」


 まだ両手に握りしめられたままの写真とフィルム。イレイズは、慈しむように再び写真を見つめた。


 あの後、俺は報告書に記載されていた情報提供者…ヴィリアス・パーハップの最期を看取ったカストピア兵の連絡先を、イレイズに手渡した。彼女は父の意思を組んで、自分を探し続けてくれた恩人へ必ず手紙を書くと言っていたが、それが今は楽しみで仕方が無いのかもしれない。


 その情報提供者は、新聞社に写真を持ち込んだ時、フィルムだけは現像せずに自分の手元に大切に保管していたらしい。新聞に載せて不特定多数の人間にばら撒かれるより、ヴィリアスが最期まで案じた愛娘が見つかったその時。彼女が最初に見るべきものだと思ったと。それを伝えた時、イレイズはまた泣いた。


「フィルムは、現像するのか?」


「もう少し経ったら。色々考えていることがあるんです。」


 しかし、今のイレイズはその手に握られている写真に写った幼い日と同じように、いい笑顔を浮かべていた。自分に降りかかった不幸の記憶と向き合うことを恐れてはいないように見える。家族で過ごした束の間の幸せを改めて噛み締めているのだろうか。


「セラウドさん。私、スタートラインに立てたような気がします。勿論迷いながらになるでしょうけど、前へ進んで行けるように…父と母に誇れる生き方が出来るように、努力します。」


 晴れやかな清々しいイレイズの顔。昨日見た、変に吹っ切れた顔というよりは、憑き物が落ちたようなすっきりした顔だった。


 カースティの隣にいたハワードが、イレイズの背後の荷物を指差してイレイズに問う。


「でも、本当に君これからどうするんだい?やはり街を?」


「ええ。私、父の遺志を継ごうと思います。教科書通りの表面的なものではなく、ヘレアン戦争の真実の姿を紐解く新聞記者を目指したいと思います。父が導いてくれた夢です。カメラは難しいですけれど、ペンで勝負できる記者になれたらいいですね。」


 自身の手に握られたフィルムを、胸元へと押し当てる。まるでフィルムに誓いを立てるように、イレイズは目を閉じて言った。


「あら、素敵じゃない。イレイズならきっといい敏腕記者になれるわ。」


 ベルーメルが髪をかきあげ、イレイズへと歩み寄る。少し照れ臭いのか、イレイズは首を小さく傾げた。


「やっぱり、ヘレアン戦争にはまだ隠された真実がたくさんあると思うから。みんなが知っているのは、リスベニアとカストピアの二大国から始まった世界大戦であるということだけ。知らな過ぎるんです。自分たちの人生を変えた大戦のはずなのに、空白が多すぎる。『無知』から、そして『忘却』から次の悲劇は簡単に生まれてしまう…だから学ぶことを忘れないでほしいと、私はいつも子供達に言ってきました。だから、今度はそれを国中に、そして外つ国まで広く伝えていける人になれるように、努力します。もう二度と、何人たりとも悲しい思いをしないように。そして哀しい罪を犯さずに済むように。」


 同じ銀色の瞳が俺を見る。そして、俺の前へと歩を進めて来た。


「あの、それで大変厚かましいのですが、ひとつだけお願いがあるんです。」


「…言ってみろ。」


「これを。」


 差し出されたのは分厚い封筒。厳重に封がされたそれはずしりと重い。


「この手紙を、どうかジャイレンのローリア社の本社へ届けて頂けないでしょうか。」

 

「何?」


 異常にクリアに耳に飛び込んできたローリア社と言う名前に、俺はイレイズと目線を同じにする。


 その目には、怯えも恐れもない。あるのは目の前の壁を打ち破り、前に進もうとする決意だけだ。父の愛を自覚したことが、これほどまでにイレイズを強くしたのだろう。ハワードが俺の後ろから俺の手に握られた封筒を見やる。


「ローリア社と言うと、所謂あのローリアタイムズを出している新聞社のことかい?」


「はい。ローリア社であれば、この街にいては知ることのできない外つ国の情勢や膨大な情報に触れることも出来ます。ちょうど新聞で募集を掛けていたのを見つけたので、手紙を出してみたいんです。」


「確かに、姉ちゃんはオガールでの生活も長いし、読み書きも不自由ないだろうが、大丈夫かァ?」


「働くにしても、学校はどうするんです?」


「勿論今すぐにどうにかなるとは思っていません。いきなり押しかけても、伝の無い難民の私が雇ってもらえる可能性は低いでしょうし、本社を訪ねる前にまずは手紙を出しておこうと思って。学校はジャイレンに分校がありますから、そこに籍を移そうと思います。着いてからでも手続は出来るようなので。」


「いや、にしてもちょっと待てェ。」


 カースティもギョッとした顔だ。俺の顔を瞥視しながらお前何とか言ってやれと困惑しているようだった。基本的にカースティは女子供には殊の外甘いが、流石にこれは、と眉間に皺を寄せていた。自分にはイレイズを諭せるほどの言葉選びは荷が重すぎると踏んだのだろう。


 そしてこいつのことだからただの思い付きで何かとんでもないことを言い出すのではと言う気はしていたが、よりによってこの朝の数時間で調べ上げてくるとは思わなかった。


「あら、いいんじゃない?それなら行き先も一緒ってことでしょう?私たちとジャイレンまでいらっしゃいよ。」


「てめェまた藪から棒に思いつきで無責任なことを…。」カースティが噛み付く。


「お黙り優柔不断男。どうせ遅かれ早かれジャイレンには来るんでしょう?なら幸便じゃない。列車の乗り方すらわからないなら、誰かがついててあげないと危ないわ。」


 確かにベルーメルが言うことは的外れではない。しかもよく考えたらこいつはハルトの街から出たことはないだろうから、列車の切符を買うどころか、俺たちの足ですらここから半日以上かかる駅まで一人で行くことすらも儘ならないに違いない。それで余計な厄介ごとに首を突っ込まれて、たまたま関わった俺たちに軍警から連絡が来る可能性もある。身元を引き受けに行かなければならない羽目になるのは正直御免被りたいところだ。


 ただ、それでもどうしても確認したいことがあった。こいつの覚悟がどれだけのものか。


「イレイズ。お前、ローリア社が一体どんな新聞社なのか詳細まで調べたのか?」


 俺は顳顬に手を当て、長く息を吐いたのちに言った。


「お前が父親の遺志を継いで記者になる道を志すのは至って結構なことだ。しかし本当にローリア社である必要があるのか?表向きは一般紙を発行する民間の新聞社だが、軍警の息が最もかかっている新聞社と言っていい。世界各国に支社を構え、情報網も限りなく広いのはお前にとっては好都合だろうが、軍警との関係が深い分それなりに危険な情報に触れる機会も多くなるだろう。父のように絶えず命の危険に晒される可能性だって高くなるんだぞ。」


 ローリア社の裏の顔を知っている者は限られている。政府関係者、軍警、そして俺たちのような輩がその限られた者に該当するのだろうが、間違っても目の前の街娘が縁のある世界ではない。いや、縁を持つべきではないのだ。


「俺たちのようにオガールに限らず各地に散っている残党狩りを生業としている武装集団は他にもある。そいつらへの情報提供を主だって行なっているのはローリア社だ。平穏な日常からかけ離れた、命を狙われる仕事もある。常に緊張を強いられるぞ。お前にそれが耐えられるのか?」


 生半可な覚悟では、この手紙をおいそれと託されてはやれない。


 絶望という谷底から這い上がる為に必要なのは、生き甲斐だ。気概だ。精神論でしかないと言われようと、本質はそれ以外の何物でもない。だが、それも生きていればこそ。死んでしまうことはその這い上がる為の崖壁の崩落を招き、それに巻き込まれる事と同意だ。彼女は、まさにその可能性に手を伸ばそうとしている。


 ジャイレンまで連れて行くことは、吝かではない。この街にいられなくなった以上は生活の安定を求めて大都市に出る事は筋が通っている。それについてとやかく言うつもりは毛頭無いが、オガールの市民権も持たない難民の彼女が歩もうとしているのは荊の道だ。荊だけではない。若しかしたら、燃え盛る炎や、凍てつく雪すらもある途方もない道なのかもしれない。


 その道を歩もうとするイレイズから、俺は目を離さなかった。


 同郷の人間に対する憐れみとはまた違う。しかし目の前の娘は、目眩く『日常』に耐えられるのだろうか。俺は憂慮した。


 そう、俺は関わってしまったからだ。イレイズ・パーハップという人間に。



「セラウドさん。セラウドさんは仰いましたね。私の前に広がる無限の選択肢が全て、私にとっての『可能性』であると。それに正解はないと。正しいものにするかは全て私次第だとも。」


「あぁ。」


「私は、『可哀想な自分』に酔うつもりはないんです。だって、私は自分で選べるんですもの。己の生きる道を。なら、後悔しない道を選びたい。後悔しないことが、私にとっての『正しさ』です。」


 そう、言い淀まずに口にしたイレイズは、ついぞ俺から視線を外す事はなかった。


 昔、似たようなことを言ったやつがいた。そいつの顔も名前も今となってはもう思い出せないが、そいつも真っ直ぐな目をしていた。


 死が待っているかもしれないにも関わらず、そいつは言った。


『あなたは、選べる。自分の道を。ならば、思った通りの道を歩んでください。どうか後悔のないように。それが、あなたの生きた軌跡になるのならば、私は手をお貸し致しましょう。』



 あれは、いったい誰だったのか。

 それがわからないまでも、この言葉が記憶に残っていると言う事は、確実に俺を形作る一部になっているのだろう。


 そしてイレイズも自分のスタートラインを選んだのだ。それも途方もない厳しい道を、自分の意思で。心に大きな壁を自分自身で作って立ち止まっていたはずの彼女は、もういなかった。

 

 その為の道標があの父親の遺品だったのであれば、それを彼女に与えた俺は、最早何も言う事は出来ないのだろう。



「それが、お前の答えなのか。」


「はい。」


「死ぬかもしれないぞ。俺たちが守ってやれるわけでもない。それでも、行くのか。」


「たとえ志半ばで命を落とすことがあったとしても、私は後悔しない道を選びます。」



 イレイズは俺と同じ銀色の瞳を細め、柔らかく笑った。

 

「…たとえ、生まれ変わっても。」


と。

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