22 形
幾許かの間、丘の上から海を見つめていた。
丘の上を忙しなく走り回る軍警の声も気にならない。火薬の臭いも大分薄くなって、いつも通りの潮の香りが身体中を包む。
既に高くなった陽の光が、海面を帯状に覆うように漂っている。幼い頃から見ていたその風景が、全く違う色を見せているように感じた。
暑さも、寒さも感じない。体の周りで風に遊ぶ髪のこそばゆさすらも。
私の中で、何かが終わったような気がした。
自分が自分じゃないみたいだった。
それはまるで、憑き物が落ちたようで。
「…っ。」
「イレイズ!」
海から空に視線を移した瞬間、頭の中がぐらりと揺れ、立ち眩みを起こした。堪らず地面に手をつき、蹲る。
「大丈夫ですよ、落ち着きましょう。そのまま腰を下ろせますか?」
背中を優しく摩ってくれるベルーメルさんと、腰を支えてくれるミジャンカさんの手。全身が鉛の錘をつけられたように重い。
大きく息をついて煩い心臓を鎮めようとする。急にどうしてしまったのだろう。
「気が張っていたのだろう。無理もないさ。碌に飲まず食わずで、気付けば朝だ。身体が悲鳴を上げていて当然だよ。」
「ごめんなさい…。」
ハワードさんが腰に手を当てて困ったように微笑んでいた。
「終わったなァ。すっかり朝になっちまった。」
カースティさんが、大きな欠伸と共に両手を空に返して背筋を伸ばす。それを見て、少しだけ体の強張りが解けたような気がした。
それと同時に、一晩のうちに負った身体中の傷が疼いてヒリヒリと痛み出した。それは、自分の『普通の人』としての生活が幕を閉じたからであると悟る。一番痛みが強かったのは、まだ熱を持つ自らの頰だったからだ。その頰に手をやるのと同時に目を閉じた。
現実を見なければいけない時が、既に来ていた。
自分と対話をする。これから自分を待っている道が平坦でないことはわかっていたから。それがたとえどの道であっても。
選択を放棄して立ち止まることは出来ない。時の流れがそれを許してくれないからだ。
決めなければ、ならない。
私は、背後に立つ銀髪の青年の方へと向き直った。手を膝に移して細く長く息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。そして、私は頭を垂れた。
その間、セラウドさんは何も言わなかった。ベルーメルさん達も。
言葉が全く出てこなかった。
今の精一杯の感謝の意を示したいのに、言葉が出てこない。もどかしくて、情けなくて仕方がなかった。
一度にたくさんのものが押し寄せたせいで、私の中の処理能力がオーバーヒートしている。もう頭痛はなかったけど、この役立たずの脳を取り替えてしまいたかった。
どれくらい経ったか、私は頭を上げる。
彼ら五人は静かに私を見据えていた。
彼らと私。その間には大きな境界線が横たわっているように思えた。
仲間がいる彼らと、独りの私。その現実を見るのが先だろうに、背中が変に冷えた感覚に襲われてしまう。今更寂しいと思ってもどうしようもないが、これに馴れるのは時間が掛かりそうだった。
「これからどうするつもりだ。」
「そうですね…。ひとまず、もうハルトにはいられませんから。この街を出て行きます。」
「行く宛はあるのか。」
「…。」
頼れる親類縁者もいない自分に、そんなものがあるわけがない。だから自分で作る。その為にしなければならないことは。
「セラウドさん、仰いましたよね。私には、『可能性』があると。課せられた十字架とともに切り開ける道があると。」
「ああ。」
「なら、まずはその十字架を受け止めて、背負う為の時間を下さい。それから、歩き出したいんです。今は、まだ迷子のようなものですから。」
私が出来るのはそこからだ。一歩ずつ歩き始めるしかないのだから。今の私は、スタートラインには程遠い、その遥か後方に立ち尽くしている。
一人の力でなんとかしなければならない。誰にも頼れない。そう思うと、腹を括る決心もつくというものだ。
「皆さんは、ハルトを出た後はどちらに?」
「ここの軍警の拠点に寄ってからジャイレンに戻るわ。寂しくなるわね。」
もう、彼らに会うことはないだろう。
私の人生を変えた、彼らとの嵐の二日間。まるで数年に及ぶような長い長い時間に感じられた。
それも、もう終わりだ。
「そうですか。でしたら中心街の方なので私がご案内します。」
せめて、恩人である彼らの背中を最後まで見送ろうと思った。門の方へ進むように促しながらどうぞ、と言いかけたその時、セラウドさんの口から、出るはずのない人物の名前が飛び出した。
「ヴィリアス・パーハップ。」
「え…。」
「お前の父親だな。」
何故、セラウドさんがその名を口にする。それよりも、何故知っているのか。心臓が再び大きく脈打つ。
「カストピアではそこそこ有名なカメラマンだったからな。パーハップという姓でまさかとは思ったが、少し調べさせてもらった。」
「そんな…人違いです。父はそんな大層な人じゃありません。」
「お前が十一歳の時からオガールにいたなら知らないのも無理はないだろう。彼の写真は、没後戦争の惨劇を伝える遺物として、高く評価されている。俺も実際カストピアにいた時に見たことがあるが、実に見事なものだ。」
それは、私が全く知らなかった父の功績だった。
評価もされず、家計も苦しい中で自分の縦にひた走っているのだとずっと思っていたから。私の中では、いつでもカメラを離さず、ずっと戦火の中に身を投じてきた父は、ただ使命感に突き動かされてシャッターを切り続け、無駄に死に近付こうとする人でしかなかった。遊んでもらった記憶など殆どないし、抱っこをしてもらったことも数えるほどだ。だから、私は父の職業が大嫌いだった。
「そう、だったんですか…。」
「お前に、これを渡しておく。」
セラウドさんが懐から取り出したのは、カメラのフィルムだった。私は弾かれたように顔を上げたが、彼は構わずそれを私に手渡した。半ば理解しないまま、両手でそれを受け取る。
手に乗せた瞬間、ざらついたラベルから黒い土埃のようなものが落ちる。ゆっくりと持ち上げてラベルに目をやった。
「もしかしてこれ…。」
遠い昔に何度か見たことがある。見知ったラベル。父が愛用していたものだった。
「俺たちのところで雇っている有能な情報屋がいてな。そいつに探させた。」
そういうと、セラウドさんは再び懐に手を伸ばしながら続けた。
「お前の父親は、ずっとカメラを離さなかったらしいな。爆撃に巻き込まれた時ですらも。…お前が川に消えた後、彼は亡くなるまでの短い時間に駆け寄ってきたカストピア兵に、抱えていたカメラを託したそうだ。そのフィルムは、カストピア兵に手渡されたカメラの中に入っていたものだ。ヴィリアス・パーハップの、戦場カメラマンとしての最後の仕事の全てが、この中にある。」
「これが…父の、最後の…。」
胸が熱くなる。焼けて無くなったと思っていた、父の生きた証。手のひらに収まる程の小さなフィルムの中には、父が命を掛けて、最期まで追いかけ続けた戦争の真実が詰まっている。それを理解するのと同時に、視界が歪んだ。
嫌いなはずだった。寂しさすらも感じなくなってからはほとんど口もきかなくなった。なのに、胸の中に広がってくるこの感情は一体何なのだろう。
フィルムを見て涙を堪える私に、セラウドさんが一枚の封筒を無言で差し出した。誰かからの手紙だろうか。
持つととても軽いし薄い。セラウドさんにこれは何かと目で訴える。それを、セラウドさんは頭を横に振って自分で見ろと促した。
特に自分に手紙をくれる人もいないし、と思って中を開けると、思いも寄らないものが入っていた。
一枚の黄色く色褪せた写真。皺々で端々が少し焦げている。写っているのは、なんてことはない親子が笑う家族写真だったが、驚いたのはそこじゃない。
「私…?」
そこには、幼い私と、在りし日の父と母の姿があったのだ。
中央でおめかしをして満面の笑みを向ける私を、父と母が微笑みながら挟むように座っていた。これはまだ街に爆撃機が来る前、私が七歳の誕生日を迎えた日に撮ったものだった。普段家族の写真を父が撮ることなんて滅多になかったから、よく覚えていた。
「お父さん…お母さんも…。」
戦争で焼けて一枚も残らなかったと思っていた家族写真。いや、それどころかいつも父は家にいなかったので、親子三人で写っているものはこれが唯一のものかもしれない。
「これを一体どこで!?」
「ヴィリアスの最期を看取ったカストピア兵が、彼の上着から見つけたものだそうだ。肌身離さず持っていたんだろう。」
「こんなものが…残っていたなんて…。」
「戦後になって、彼は新聞社にその写真を持ち込んだ。亡くなったカメラマンの娘の安否を確かめる為、新聞に掲載したんだ。偶然にも数年前にオガールに移り住んでいて、今回情報屋も直ぐに連絡を取ることが出来たらしい。」
何も言えなかった。涙を流すのは、言葉に詰まるのは昨日から幾度目だろうか。
形となって残っていた父の愛。
父の仕事。
ふと思い出した。川に落ちる直前、迫り来る爆撃も構わずに私に向かって叫んでいた父の目を。
カメラのファインダーを覗く鋭い目ではなく、眉を下げて優しい色を湛えた瞳だった。
独りにさせるけどごめんな。
寂しい思いをさせるけどごめんな。
そんな目だった。
でも…そうだ。最後に私にかけてくれた言葉は、間違いなく。
『お父さん!!』
『愛してるよ…イレイズ。』
慈愛に溢れた、娘への思いだ。
「私にとっての救いが…ずっと逃げ続けてきた己の過去そのものだっただなんて…っ。こんな、こと…!」
ねえ、お父さん。私は歩けるだろうか。星の数ほどある道から自分の未来を選び取って、紡いでいくことができるだろうか。
失敗しても、何か失っても、最後まで誇りを持って自分の人生を全うすることができるだろうか。お父さん、お母さんに顔向けできるような人間になれるだろうか。
今まで逃げ続けた分、心の強い人間に、なれるだろうか。
『イレイズなら、大丈夫だよ。』
優しい父の声が聞こえた。
「お父さん…っ!」
背中が、そして双肩が暖かかった。
父と母が肩を押してくれているような、そんな気がした。
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