21 永訣


「ここは…。」


 先ほどまで闇に包まれ、血生臭さが充満していた礼拝堂。火は鎮火していたが、壁は崩れ、廃墟と化していた。青銅の扉はひしゃげ、隣を流れる小さな水路には爆発の衝撃で散った外壁や尖塔の欠片が見える。


「一体何の真似ですかイレイズ。」


 マザーはうんざりといった様子だが、イレイズは一点を見つめて、納得したように言った。


「やっぱり…。思った通りでした。」


 彼女が指差したのは、水路を挟んだ先にあった倉庫。数時間前まで自らが監禁されていた場所だった。


 大きく崩れた礼拝堂と比較すると、壁が少し焦げているくらいで殆ど無傷に見えた。水路を挟んでいることによって、炎が燃え広がることもなく、そのままの姿を保っていた。


「火薬の匂いでわかります。ここには、爆弾は仕掛けられていなかったんですね。」


 すうっと息を吸い込むイレイズを見て、俺は彼女が言わんとすることに察しがついた。


「成程な…。」 


 こんな街娘が火薬の匂いの濃淡で発火元がわかるのは感心したが、それによって導き出された仮説がある。


 マザーは、邪魔になるイレイズの自由を奪ったのではなく、爆発から守ろうとしたということだ。


 最後のリスベニア人だったメリルの取引が終われば、次にいつリスベニア人の子供が来るかもわからない。また、昼間にイレイズを襲った身内が返り討ちにされたことも知ったのだろう。次の取引がいつになるかわからない上、自分たちを排除し得るものがハルトの街にやって来たことを察知して、証拠隠滅の為全てを焼き払おうと考えてもおかしくはない。


「マザーは、この敷地内が爆破されることをご存知だったのでしょう?でも、倉庫だけはリスベニア兵が詰所に使用していたから、爆発される施設からは除外されていた。当然私を見張らないといけないから、私が監禁されるのは必然的に倉庫になる…。だから私が爆発の被害を受けることはないって、わかっていたはずです。」


 マザーが目を見開いた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに顔を背け、馬鹿馬鹿しいとでもいうように息を吐いた。


「昔からあなたの想像力には感心しますよ、イレイズ。」


「本当は礼拝堂も無事の筈だったんだろう?礼拝堂から連れ出す時のあんたの顔…。こんな筈じゃないって顔だったからな。イレイズに退出を促さなかったのも、礼拝堂が爆破されることを想定していなかったからじゃないのか?」


「そうか…。油が撒かれていたのは、マザーが自らの意思で火を放つ為だったのですね。」


 ミジャンカも納得したように呟いた。


 つまりはこうだ。


 マザーの意思に反して、礼拝堂が爆破された。大方、フィンドが口封じの為にマザーも巻き添えにして爆死させるつもりだったのだろう。結局はマザーの手にかかって自分達が命を落とすことになったが、事切れる前に爆破したのはある種の執念だったのかもしれない。


 子供達の寝舎が木っ端微塵になったことを踏まえると、あの場所に使われた火薬の量は最も多かった筈だ。しかも一夜の宿を求めた俺達に宛てがわれた小屋は、その寝舎からほど近い場所に位置している。念には念を入れてということなのだろう。ご丁寧に一番吹き飛ばされる可能性の高い場所が選ばれたというわけだ。


 しかし、考え方を変えれば、こう読むことも出来る。マザー一人で、フィンド達の目を欺きながらイレイズも子供達も守ることは物理的に不可能な訳で、しかも最悪のタイミングで俺とミジャンカが孤児院の門を叩いた。万が一俺達が狼に食い殺された場合、通報を受けた軍警が調査にやってくるのだから面倒ごとが増えてしまう。とすれば残された道は一つだ。引き入れて例の小屋に寝泊まりをさせ、俺達が爆弾に気づいて子供達を脱出させる可能性に賭けたと。これなら爆破されても証拠が全て無くなった後の話なので、仮に軍警が来たとしても問題はない。


 最終的にはハワードが呼んだ軍警と麓の孤児院の主人の手で子供は助け出されたわけだが、それだってどうなっていたかわからない。いくらハワードの勘が鋭くても、フィンドから情報を引き出せなければ、結局子供達の命は失われていた可能性が高いからだ。そして俺自身も、情けないことにメリルがいないことに気を取られて寝舎を離れてしまった。


 結果論かもしれないが、マザーは、最終的には何があってもイレイズ『だけ』を守ろうとしたのかもしれない。全員守れないのであれば、せめて自分が一番大事にしていた『愛娘』だけは助けようと。そう思ったのではないか。それが、たとえイレイズを幸せにしないとわかっていても、彼女にはそうするしかなかったのだろう。



 マザーはイレイズの目に耐えかね、顔を俯かせてるように見えた。


「どう思って頂いても自由ですが、今更仮定の話をされたところで何にもならないでしょう?私は自分の手に掛けるばかりか、何十人ものリスベニア人の子供を売り捌き、憎くて仕方のない筈のリスベニア兵に加担して来ました。もう、疲れたのですよ。セラウド様、あなた方がこの街にいらした時に、運も尽きたようです。」


「ねぇマザー。後悔しているでしょう?」


 いつの間にか、イレイズはマザーの前に立ち、マザーの肩に両手をかけていた。


「メリルが言っていました。あなたが何度も謝りながら涙を流していたと。売られていくメリルの傍で、リスベニア兵の云う儘になるしかない自分を呪っていた。違いますか?」


 悪事を重ねた己の心の弱さ。深淵に差し込んだ一筋の光は、時には自分の醜い場所を照らし出す。その光は、良心という名の己を戒める唯一の箍だ。


「奴らとともに悪事に手を染め…その成れの果てがこれだ。これこそが、ハルトの街に流れ着いた時のあんたが望んでいた、未来か?」 


「み、らい…。」


 見開かれた目。その目に映っているのは、俺ではなく、目の前に立つ娘だ。


「燃え盛る寝舎の前で…炎に渦巻く絶望の中で過去のマザーに会いました。私、今なら死にたくても死にきれない、弱い自分を呪うあなたの気持ちが…よく分かるの。でも、それが他者を傷つける剣であっていい理由には成り得ない。そうでしょう?」


 イレイズは、傍らでマザーを拘束する軍警が歩を進め始めたらどうなるかわかっているのだろう。重罪人としての未来が待つ、哀れな女の人生がどのような結末を迎えるか。だからこそ、せめてその口から聞きたかったのだろう。自ら犯した罪に対する、心からの懺悔を。


「ねぇ、お願いマザー。仰って…後悔してるって。」


 イレイズの声が震える。肩を掴む手に力が入る。マザーの修道服に深い皺が刻まれていく。


 記憶の中の優しいマザー。それに縋り付くイレイズ。それを責めることなど誰が出来ようか。祈りにも似たその願いは、イレイズを救うことの出来る最後の砦だったのだから。


 自らの意思で真実を受け止め、昨日までの日常を捨てたイレイズ。しかし、例え強がっていても、天涯孤独の街娘であることに変わりはない。感情の防波堤が決壊するのを、必死に抑えているようだった。


 これまで全く光の映らなかったマザーの目が揺れるが、その瞳は閉じられ、イレイズから逸らされた。


 そして、静かに呟いた。


「私の人生に…唯の一つも後悔はありませんよ。」


 風が吹く。イレイズの瞳が見開かれた。

 瞬きも、呼吸すらも忘れたように、イレイズは動かなかった。


「でも…。敢えて未練を申し上げるとすれば。」


 そんなイレイズを他所に、マザーは瞳を閉ざしたまま、微笑みすらも浮かべて続ける。


「貴女に、もうパンを焼いてあげられない事…でしょうか。」


「え…。」


「あなた昔から全然食べない子でしたからね。私がいなくなった後、痩せていってしまわないかと、心配ですよ。」


「待って下さいマザー…。こんな、こんな時に何を…っ」


 予想もしていなかったマザーからの言葉に、イレイズは戸惑っているようだった。遠くに行ってしまうマザーから不意に出た、慈愛に溢れた言葉。

 

 会って間もないながら、確かなことがある。


 マザーは、イレイズを本当に慈しんで育て上げた。きっと、記憶の中の我が子に重ねていた部分はあるだろうが、もしもカストピアで命を落とした我が子が生きていたとすれば、イレイズとそう年は変わらない筈。唯一のカストピア人の子供だったとあれば、格別の愛情を注いで不思議はない。そして、それと比例するようにリスベニア人への憎しみが彼女の中に跋扈した。


 オガールに流れ着いてから、ずっとイレイズと歩んできて、彼女が孤児院を出てからも、常に案じて帰りを待ち、そしてイレイズもそれに応えてきたのだろう。イレイズに対する愛情が本物だからこそ、これから自分を待つものを知りながら案じ続けるのかもしれない。


「私のことは何だっていいんです…お願いですから、後悔してると。たった一言仰って下さい!それだけでいいの!そうしたら、きっと、きっと…っ!」


 この会話は、全て軍警の耳に入っている。イレイズは、これからマザーを待ち受ける未来の苦しみを拭い去ろうとしているのかもしれない。それがどれほど小さなものでも。


 己の罪に対して後悔の念があるとすれば、きっと違う未来が待っている。そう信じて疑わない様子だった。


「イレイズ。色々と酷いことを言ってしまって、ごめんなさいね。ただ、我が子同然に育ててきた貴女が、いつのまにかこんなにもいい子に育ってくれて…。情けなくも眩しくなってしまったのでしょうね。」


 裏切り者。己のリスベニア人に向ける憎しみに染まり切らなかった愛娘。深淵を自らの手で照らして行ったイレイズを目の当たりにして、この女は、純粋な寂寥感と虚無感を抱いたのだろうか。


 歪んだ愛情だったかもしれないが、自分の味方でいて欲しい一心だったかもしれない。


 イレイズからの共感、同情、そして依存。それが、マザー自身の幸せだ。 


だからこそ、リスベニア人の子供にすら等しく愛情を注ぐイレイズに、苛立ちを感じていたのだろう。


 最も共感して欲しかったことに、彼女は終ぞ気付くことはなかったのだから。


 それが、結果的に裏切り者という言葉として、イレイズにぶつけられた。


 もう戻れないところまで来てしまった自分の足元が、音を立てて崩れていく。這い上がれない奈落の底へ落ちていくことを悟ったその時、隣にいた筈のイレイズは、光の降り注ぐ遥か上にいて、輝かしい未来を歩んでいこうとしている。自分とは正反対の道を。


 自分には二度と手に出来ない『幸せ』。


それを求めて自分の明日を切り拓こうとしている愛娘に抱いた、嫉妬。愛しているからこそ抱いた、人間らしい感情。


「貴女は、私のようになってはいけません。貴女には、未来がありますもの。私が自ら捨てた、未来が…。」


「マザー!」


 幾度涙したかわからないイレイズの目から、再び流れ落ちていくもの。頰を濡らし、マザーの修道服へと滲みを作っていく。


 目の前にいる女は罪人である。そう分かっていても尚、感情が濁流のように押し寄せているイレイズにとっては、唯の家族だ。


 今生の別れを受け入れられない、まだ幼さの残る少女の涙は止まらない。


「もういいだろう。行くぞ。」


 その様子を見て、埒があかないと踏んだ軍警がマザーを連行しようとする。それを見たイレイズが、軍警に詰め寄った。


「やめて、マザーを連れて行かないで!」


「おい、離せ!」


「待ってよお願い…っ私の、たった一人の家族なの!ひとりにしないで!」


 軍警の胸ぐらを掴むイレイズ。理性など、無くなっているようだった。髪を振り乱し、軍警を止めようとする。


「やめて下さい!イレイズさん、」


「いや、嫌ぁ!!マザーを返して!返してよ!」


 イレイズと軍警の間に入ろうとするミジャンカ。しかし、もはや半狂乱になっているイレイズにミジャンカの声など聞こえている訳がない。必死に縋り付くイレイズを引き離す為には、目を覚まさせるしかなかった。舌を打ち、足早にイレイズに近づく。


「おい、ミジャンカどけ。」

「セラウド…?」


 パンッ…!


 乾いた音が響く。その衝撃で、イレイズの手が軍警から離れ、派手に転げ落ちた。


「ちょっ、セラウドあんた何をっ」


「やかましい黙ってろ。」


 いつの間にか戻っていたベルーメルの声が背後から聞こえるが、俺は御構い無しにそれを遮った。軍警も鳩が豆鉄砲を食ったような顔で立ち尽くしていた。


「…。」


 俺の足元で、頰を抑えながら蹲るイレイズ。自分の身に何が起こったわからない様子で涙を流し続けていた。ゆらりと顔を上げたその頰は、赤く熱を持っているようだった。しかし、ここで優しい言葉を掛けたら意味がない。


 聞く耳持たず泣き噦るのは子供のやることだ。こいつには、そんな余裕などないことを思い知らせてやらなければいけなかった。


「俺は言ったな。逃げても、誰もお前を責めないと。本当のことを知っても、お前の救いにはなり得ない結末が待っているかもしれないとな。」


 イレイズの胸ぐらを掴んで立たせる。苦しそうに顔を歪め、俺の手を掴んで引き離そうとするイレイズに続けた。


「俺は逃げ道を用意した。それでもいいと思ったからだ。だがお前は自分で厳しい道を選んだんだろう!なら責任持って最後まで見届けろ!俺たちがして来たことを無駄にするつもりか!?」


「あ…。」


「何だお前は…。姦しく駄々捏ねたら元に戻るとでも思ってるのか?甘えるな!」


 ここまで言うつもりはなかった。

 ただ、イレイズの銀色の瞳を見ると、嫌でも遠い昔の光景が蘇ってくる。戦火の中で母親を亡くし、庇護を求めて泣き叫ぶ、幼子。


 泣いて戻ってくるものがあるのなら、いくらでも泣けばいい。その身が朽ちるまで。しかし、それが徒労に終わるのなら話は別だ。失ったものに執着し、前を向けなくなることによって遠くなる未来。一時の感情に流されて足を止めることが許されるほど、こいつは子供ではないのだ。


「セラウド、もうその辺で。」


 ミジャンカが俺を諌める。助け舟を出すのは、いつもこいつだ。俺はイレイズから手を離した。


 しかし、ミジャンカもイレイズに声を掛けたりはしない。他の奴らもそうだ。今それが取るべき行動ではないと、皆分かっているからだ。


 呆然と立ち尽くすイレイズ。再び頰に手を添え、込み上げる嗚咽を噛み殺していた。


「いいかイレイズ、現実を見ろ。お前は一人になる。」


「ひと、り…。」


「だがそれを悲観するな。人は生まれて死ぬまで、誰かの…何かの助けがないと生きられないというなら、お前自身がその『何か』を見つけるんだ。…それが、今のお前に課せられた十字架だ。」


 十字架。

 犠牲の上に成り立ってきた日常の代償。それは、イレイズが一生背負っていかなければならない枷なのかもしれない。


「自分の心の拠り所を見つけるまで彷徨うのもいいだろう。お前の前に広がる道は、星の数ほどある。どれを選んだっていい。その道の一つ一つを、なんと云うかわかるか?」


「…。」


「どれを選んだとしても、全てがお前にとっての『可能性』なんだ。正解はない。お前が思う通りに進むがいい。それを正しいものにするかは全てお前次第だ。」


 そこまで言った時、小さく笑う声が聞こえた。


 イレイズから視線を外して声の主の方へ向き直る。


「セラウド様…。ありがとうございます。私がかけてあげられなかった言葉を、全て貴方が仰ってくださいました。」


「マザー…。」


「イレイズ。もう時間のようです。元気に、幸せに過ごしておゆきなさい。…私からの、最後の願いです。」

 

 己の運命を受け入れたマザーの顔は、これ以上ないほど穏やかだった。



「泣いてはなりません。ほら、笑ってごらんなさい。」


「あ…っ。」


 あなたの笑顔が、大好きでした。


 小さく紡がれた、陽だまりのような優しい響き。


 拘束されたささくれだつ皺だらけの小さな手は、もう目の前のイレイズの赤く腫れた頬を撫でることは叶わない。それすらも、己の罰であると理解しているかのようだった。


 そしてお願いします、と軍警に自ら声をかけ、イレイズの元から離れていく。


 穏やかな笑顔の中に見えた、マザーの覚悟。贖罪の道。二人が異なる道を歩んでいく瞬間だった。


 それを悟ったイレイズは、唇を噛み締めたかと思うと、打って変わって晴れ晴れとした顔で、遠くなって行くマザーの背中を見据えた。


 その顔には、もう深淵の影は微塵も感じられなかった。


「ありがとう…お母様。愛してるわ。」


 あなたに会えて、良かった。

 

 悲しみを堪え、遠くなる背中へとかけられた愛娘の惜別の辞。


 振り返らずに行ってしまった彼女に、それが聞こえていたのかどうかはわからない。


 しかしイレイズの涙を攫って行った風はその声を乗せて、旅立つ彼女の傍を吹き抜けて行ったような気がした。

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