20 願い
すっかり小さくなった火から細く天空へと伸びていく煙が処彼処から立ち上る。
それは雲ひとつない、深く澄み渡った青い空に吸い込まれては消えていく。
孤児院の主人が、カースティとベルーメルに連れられていくその時に、沈黙を守り通していたイレイズが口を開いた。
すまないと思うのなら、子供達を守って欲しいと。それが自分の切なる最後の願いであると。そして、彼に向けてイレイズも深く首を垂れたのだった。
彼女は、頭を下げて自分に詫びる、この悲劇の片棒を担いだ男のことを、最後まで詰る事はなかった。自分に降りかかった恐怖すらも押し殺して、静かに子供達の幸せだけを願っているように見えた。
イレイズも、自分自身の目の前に聳える大きな壁と向き合わねばならない時期が来たことを悟ったのかもしれない。
彼女はこの短い時間の中で、自分の心に広がっていった深淵を自らの力で照らそうと足掻いていた。自らの傷口を抉りながらも、自分自身の力で。
大切なものを喪った時。
誇りを汚された時。
秘密が露呈した時。
己を哀れんだ時。
信じていたものが間違いだった時。
そんな時にふと現れる深淵は、音も無く人の心を巣食う。
しかしそれは無限ではない。人を永遠に閉じ込める牢獄にはなり得ない。イレイズ自身が、それを証明しようとしている。
頭を上げたイレイズの顔には、悲しみはなかった。ただまっすぐと、自戒の念に押しつぶされそうな主人を見据える。そして言うのだ。
「おじさん。どうか身体に気をつけてね。ありがとう。」
本当のことを話してくれて、と。
優しく柔らかな笑顔を浮かべて、イレイズは主人の皺立った小さな手を両手で握りしめた。
「あぁイレイズ…。君もどうか達者でいてくれ。私も残された人生を、君の願いと共に生きていくよ。いつも君を思う。子供達は、どうか任せておくれ。」
彼もイレイズの手を握り返す。それとともに紡がれたのは誓いにも似た言葉。嘘偽りない決意だった。
「さぁ、行きましょう。」
ベルーメルに促されるとゆっくりと手が離された。そして主人は俺達に再び頭を下げ、カースティとベルーメルに連れられて去って行った。
イレイズから託された二十人子供達の待つ、自らの孤児院へと。
主人の小さな背中が見えなくなってから、俺はイレイズに声をかけた。
「任せていいのか。あの男にお前の大切な子供達を。」
イレイズは俺に向き直り、深く頷いた。その顔には、もう迷いはなかった。
「はい。私信じてますから、彼のことを。」
「自らを他力本願といった、あの男のことをか?」
それを聞いたイレイズが、小さく困ったように笑う。そして俺の肩を叩いた。
「いいんですよ、それで。だって、人は生まれて死ぬまで、結局は誰かの助けがないと生きられないじゃないですか。それを他力本願というかわかりませんけれど、おじさんは考えていました。無力な自分に何ができるか。私は、それが知れてよかった。」
軍警ですら手が出せない、無差別に人を殺す可能性のあるフィンド相手に立ち向かう勇気が持てなかったとあの男は言った。だから俺達を待っていたと。
彼のいうことを信じるのであれば、街で一定数マザーを支持する者もいただろう。マザーの悪事を知っても尚、彼女を守ろうとする圧力もあったのかも知れない。それが正しいことではないとわかっていたからこそ、圧力に屈せず、『哀れな』マザーの為にも俺達に全てを託した彼の勇気に、イレイズは理解を示しているようだった。
「そして、私もきっと似たようなものです。だってあなたがいなければ、私は大人になれませんでしたもの。そうでしょう?マザー。」
イレイズは、風に攫われる自らの髪を抑えながら、静かに佇むマザーの方へ向き直った。軍警に両手を拘束され、後は連行を待つばかりの彼女は、既に被っていたベールが外されていた。
腰まで伸ばされていた、白髪の混じった燻んだ長い銀色の髪。ベールを外されたことで髪が露わになり、既に神に仕える身分ではなくなっていたことを示していた。
それは、彼女がもはや聖職者ではなくなり、罪人に成り下がってしまったことの表れだ。その姿を見たイレイズの顔には一瞬憂いが見えた。
マザーは一つ息をついて、口を開いた。
「ええ。私と同じカストピア人の子供だったあなたを、それは大事に育てて来ました。まさかこんな形で裏切られるとは思いませんでしたけれど。お別れ出来て清々しますよ。」
それは相変わらず淡々とした、全く感情の読み取れない声だったが、イレイズにはもはや恐怖も戸惑いもない様子だった。目を伏せたかと思うと、再びマザーを見据えてゆっくりと歩き出した。
「ねえマザー。私裏切ったと思われてもいいんです。恨まれても構いません。でも、お別れする前にお聞きしたいことがあるんです。」
その言葉にマザーは微かに眉を顰めた。両脇を固める軍警がこれ以上刺激するのは危険と考えたらしい。俺に対してマザーの連行の許可を出すよう目で訴えていたが、すぐに手で制した。
昨日まで、都合の悪い真実から逃げ続けた一人の少女が、自らの道を切り拓こうとしている。もうこれが最後になるのなら、それを止めるべきではないだろう。軍警の隣に立っていたミジャンカも同じことを思っているのか、微笑みを浮かべて頷いた。
「マザー、どうか教えてください。」
イレイズはマザーの影が踏める程の距離まで近づいて足を止めた。
「リスベニアの残党達に、私を拐わせたのは何故ですか?」
予想通りの問いだったのか、マザーは眉間の皺を解き、ため息交じりに口を開いた。
「わかりきったことでしょう。この都合の悪い方々に、あなたから余計なことを言われては堪りませんからね。」
結局はそれが仇になりましたが、と肩を竦めて物臭そうに応えるマザーは、一刻も早くこの場所から立ち去りたい様子だった。同時に、イレイズがあまりにもまっすぐ自らを見据えてくるからか、それに対して居心地の悪さを感じているようにも見えた。
「そう仰ると思いました。でも、それだけじゃないでしょう?」
そしてイレイズは、徐に爆発によって折れ曲がった礼拝堂の尖塔を指差したかと思うと、俺達についてくるよう促したのだった。
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