18 安慰


「おい!やめろ何やってんだァ!」



自分の両腕を誰かの手が掴んだ。背中が立たされ、身体を後ろへと戻される。


 カースティさんだった。私は思わずその手を振り解こうとする。褐色の肌へと爪立て、必死だった。


「いやあ!離して!殺してぇ!」


「な…っおい!!やめろって言ってんだろうがァ!!いいから俺の目を見ろォ!」


「死なせてよ!もう耐えられないの!もう何も、私には何も…っ」


 何も無い。その言葉が口から出てくる刹那、小さな呻き声が聞こえた。


「先生…?どうしたの?」

 その声に私の意識が戻る。腕の中に視線を落とすと、気怠げに目を擦りながら私を見上げる大きな目があった。


「メリル…。」


「どうしたの?砂だらけ。」


 綺麗にしないと。とメリルは腕を伸ばして私の髪についた砂を優しく払った。強く力の入った眉間が一瞬で緩み、抱きしめる。力が入り過ぎたのか、メリルの喉から微かにう。と息が漏れる。


「メリル、どこも痛くない?苦しくない?」


「大丈夫よ。でも、変な夢を見たの。マザーが独りで泣いてたんだよ。」


 マザーという言葉に、心臓が跳ねた。まだ薬が抜け切っていないのか、メリルは虚空を見つめながらゆっくりと続けた。


「スカーフが無くなっちゃったから、夜孤児院の門の外に探しに行ったの。今日はまあるいお月様で丘の上は明るいから、門の前ならいいって夜マザーがお花摘みを許してくれたんだ。その時に失くしたと思って。」


「そしたら…?」


「急に眠くなっちゃったの。」


 夕食に遅効性の薬を混ぜていたのだろう。子供達が怪しまないように、薬が効き出すタイミングで外に連れ出したのだ。


「夢の中では暗い場所にいて、風が塩っぱかった。起き上がったらね、マザーが隣にいたの。ずっとずっと私に謝るんだよ。ごめんなさい、ごめんなさいって。」


 私は徐ろに聞いてみたくなった。


「どうして、マザーは泣いていたの?」


「よくわからない。そのあとは覚えていないの。また目の前が真っ暗になっちゃったから。夢の中でも眠くなるなんて、不思議ね。」


 無邪気に笑うメリル。その顔を見ると何も言えなかった。

 

 マザーの涙。それは本当に単なる夢だったのだろうか。


 私は、今まで一度もマザーが泣いているところは見たことがなかった。冷静沈着で理路整然と子供達と向き合う人だった印象しかない。でも、もしかしたら。あれ程までに闇を纏った様を見ながらもそう思わずにはいられなかった。


 何も言わずにずっと考えこむ私を見てメリルは首を傾げる。そして思い出したように言うのだ。


「ねえ先生。私の新しいお父さんとお母さんは?」


「え…。」


 そこで改めて気づく。彼女は自分の身に起こったことを何も知らないということに。


 新天地で新しい家族と一緒に幸せな日々を送ると信じて疑わないメリル。純粋で希望に満ちたその顔は、全てを知った私にはあまりに眩しすぎるものだった。


 そして頭に過ぎったことがある。


 この子には、美しい記憶だけを残してあげたい。


 それは自己満足かもしれない。しかし、こんな年端もいかぬ子供に、育ての親が自分を売ったなんて凄惨な事実を話して何になる。


 セラウドさんが全てを知りたいという私の声に応えてくれたことを思い出す。


 でも、この子は子供だ。知るのは早すぎる。もう傷つけられる心配もなくなった今は、健やかに育って欲しい。それだけだ。ならば、私が我慢すれば良い。


 笑え。いつものように。

 そして辻褄を合わせろ。


「あのねメリル。孤児院が火事になっちゃったの。みんなも別の街にバラバラに移ることになって…。それで、お父さんとお母さんも落ち着いたら迎えに来ますって。」

 

 その場で浮かんだ、空虚な嘘。優しさのつもりだった。


「え?そんなぁ…。みんなとさよならも言えないなんて…。」


「ごめんね。でも、みんなもメリルが起きたら元気でねって、伝えて欲しいって…。」


 自分の口から紡がれる言葉が、自分自身の心を抉る。歪んだ顔を見られたくなくて、メリルを再び抱きしめた。


 確かに腕の中にある温もり。もう、この子しか残されていない。その事実を噛み締めたのと同時に、メリルを抱く手にも力が篭った。


 すると、私の頭越しに何かを見つけたメリルが私の胸を押し返した。不思議に思ってメリルの顔を見ると、その顔には花が綻んでいたのだ。両手で私の背後に向かって大きく手を振る。


 何事かと私も振り返ったその時。メリルが叫んだ。


「おーい!!」

「え…?」


 朝日が丁度水平線から顔を出したことで、私は目を凝らす。逆光になって判別するのに時間がかかったが、其処にいたのは小さな十九個の人影だった。目がすぐに慣れて、私は目を見開いた。


「み、んな…?」

 私の宝物が、其処にいた。


 子供達は裸足のままでメリル、そして私に向かって駆け寄ってきた。


「せんせー!」

「メリル!」

「わぁっ。」


 子供達の勢いに押され、私は思わず声を上げて後ろに倒れこんでしまった。唖然とみんなの顔を見つめる。着ている寝間着が少し汚れている子もいるが、みんな傷ひとつない。昼間祭りの前だからとなかなか授業に集中出来ていなかった、元気な皆のままだ。


「みんな…生きて、たの?」


 メリルは理解できない様子で私の様子を見る。しかし、その様子は滲んでほとんど見えなかった。私は精一杯両手を広げて子供達を抱きしめた。子供達もそれに応えてくれる。心にじんわりと広がっていく暖かいもの。心に染み渡る感覚に、私は目を閉じた。


「まだ、泣けたなんて…。」


「変なの!せんせーったら泣いてらぁ!」

 掠れた声が自然と出た。涙とともに。生きていてくれた。この事実だけで十分だった。


 歓喜の涙が頬を伝ったことも、更に嬉しかった。


「みんな、災難だったね。無事でよかったよ。」


 そして、もう一人の人影が近づいて来たことに気づく。顔を上げると其処にいたのは、麓で小さな孤児院を営む、子供達もよく知った人だった。


 


「おじさん…。」


 黒い額縁の眼鏡をかけて、無精髭を生やした彼は眉を下げながら近づいて来ると、私の隣にいたメリルの前でしゃがみ、彼女と目線を同じにして言った。


「やあメリル。疲れたろう。みんなの家がこんなことになってしまうなんてね。私も心が痛むよ。でも心配はいらない。他の街に行かなくて済むようになったんだ。これから先もずっとみんな一緒だ。新しい家で、みんなで暮らそう。」


「待って、おじさん何を…。」


 私の呟きを、おじさんはにこやかに目で制した。それを見て、先ほど私が混乱している頭のままメリルに話した作り話を彼が聞いていて、今も話を合わせてくれていることを悟った。


「おじさん!それ、本当?」


「ああ。本当さ。今からこの人たちがみんなを安全なところに連れて行ってくれるから、いうことを聞くんだよ。」


 其処にいたのは数人の武装した男性達。

 軍警とセラウドさんだった。


 するとメリルが嬉しそうにセラウドさんの方へ駆け寄って行く。


「お兄さんまた会えたね!」


 いつの間に顔見知りになったのだろう。セラウドさんは眉間に皺を寄せたものの、それはほんの一瞬のことで、抱っこをせがむメリルの両脇に手を通し、軽々と持ち上げた。


「わあい高い!」

「耳元で騒ぐな。うるさい。」

「あ、ひどい!」


 メリルは口を窄ませながらセラウドさんの銀髪をクシャクシャと掻き乱す。セラウドさんは、不機嫌そうな顔をしながらも「やめろ。」とは決して言わなかった。そして、徐ろに懐に手を伸ばし、取り出したものをメリルへと手渡した。


「あ。私のスカーフ!」


 それは、マザーがメリルにだけ渡していた赤いスカーフだった。そのスカーフに込められた意味を既に知っていた私は、セラウドさんを制そうとするが、それを彼は自然に遮った。


「セラウドさん、それは…。」


「メリル。お前の大切なものだろう。」

「うん。マザーが手作りしてくれた大切なものなの。お兄さんが見つけてくれたのね、ありがとう。」


 メリルが両手でスカーフを握りしめる。縫い込まれた自分の名前を愛おしげに撫でながら、満面の笑みでセラウドさんに向き直った。心なしか、セラウドさんの口元が緩んだ気がした。優しい、顔だった。


「俺は今日仲間とこの街を発つ。その前に渡しておこうと思ってな。」


「そうなんだ。なんだか寂しいな。お兄さんのキラキラの髪大好きなのに。」


 名残惜しそうにセラウドさんの髪を手で梳くメリル。元気でな、とメリルの頭を撫でるセラウドさん。それを見て、私はスカーフのことは言い出せなくなってしまった。


 セラウドさんがメリルを下ろすと、控えていた軍警がこちらへ駆け寄ってくる。


「頼む。」


「はい。みんなおいで。」


 セラウドさんの指示で、軍警は子供達を門の外に止めてあった輸送車に引き連れて行く。


「それじゃあ先生!また明日ね!」


 何事もなかったように私に向かって手を振る子供達。私は小さく手を上げて応えた。


「ええ。さようなら。」


 そして同時に分かってしまった。「また明日ね。」と言えなかったことに。


 子供達にとっての明日と、私にとっての『明日』は同じものではないからだ。それに改めて気付き、私は手を止めた。


 既に子供達は見えなくなっていた。


 子供達が無事であったことが何よりも嬉しかったのに、彼らがいなくなった瞬間、心の中にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚に襲われる。ふと、疑問に思ったことを口にした。


「セラウドさん、どうして、メリルにあのスカーフを?」


「あいつにとっては優しいマザーが自分のために作ってくれた物だ。あいつにとって何であるか。それだけだ。」


 わかるような、わからないような気もした。でも、間違いなくメリルにとっては大切なものだ。セラウドさんはそれで十分だと思ったのだろう。


「メリルの中のマザーは、優しい母親であり続けるマザーだ。あいつはもうマザーには会えない。それなら一つ母親の形見があっても不自然じゃないだろう。いずれは思い出になる。」


「あ…。」


 そうだ。メリルだけじゃない。子供達はもう二度とマザーには会えないのだ。マザーが犯した罪も、獄中に繋がれることも、そしてその先のことも告げられぬまま、突然の別れに直面することになる。それは間違い無く今生の別れ。そんな何も知らない彼等が知った時に抱くであろう寂しさ、悲しさをセラウドさんは見据えているような気がした。


「いやあ。間に合ってくれたようでホッとしたよ。」


 深く息を吐きながら呟かれた声に私は顔を上げる。


「ハワードさん…どうして。」


「運搬役のフィンド達が吐いたよ。夜明けとともに修道院と孤児院の敷地を全て爆破する計画だとね。入江からここまで来る時に軍警に通報しておいたおかげで、彼らが子供達を救い出してくれたのだよ。強力な助っ人も加わってくれて、子供達にも不審感を抱かせずに済んだというわけさ。」


 そう言ってハワードさんは隣に立っていたおじさんの方へ顔を向ける。


「私の孤児院は丘の麓だ。子供達も変わらない環境で暮らしていけるだろう。二十人くらいなら敷地の牧場に新しく棟を建てればなんとかなるからね。」


「まさか旦那さんが孤児院を営んでいたなんて。やっぱりあの入江の案内役の人、嘘ついてたのね。」


 ベルーメルさんが驚いたように呟いた。メリルといいおじさんといい、一体どこで繋がっていたのだろう。セラウドさんがため息を吐く。


「朝から呑んだくれていたことも無駄じゃなかったってことだな。」


「呑んだくれなんて失礼ね。私たちの立派な情報収集のおかげで、最悪の事態は免れたんだから感謝なさいよ!」


 ベルーメルさんがムッとしたようにセラウドさんに詰め寄るが、セラウドさんはそれには構わず困ったように笑うおじさんの方へ再び向き直った。


「あんた、俺達の素性に気付いていたんだろう?酔った振りまでして情報を流したのは何か理由があったんじゃないのか?」


 おじさんは、その言葉にはすぐには答えなかった。



悲しい笑みを浮かべたまま、少し離れたところに立っていた人物を見据えていた。


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