17 劫火
「きゃああああ!」
イレイズが腕の中のメリルを庇いながら身を伏せる。小柄なミジャンカも倒れぬように床に手をつき、カースティがイレイズに覆い被さった。
「おいおい何の冗談だこれはァ。」
「いけません!カースティ、早くイレイズさん達を連れて外へ!」
カースティが状況を把握しようと顔を上げるが、ミジャンカがすぐに避難を促す。敷地内で、そしてこの礼拝堂で何かが爆発したのは明らかだった。そしてそれが一つではないことも。
同時に、爆発の衝撃で礼拝堂の中に置いてあった数台のオイルランプが倒れ、床に落ちた瞬間に火が一瞬で燃え広がる。
「油が撒かれてたな…っ」
床が不自然に艶めいていたことに今更ながら気付いた。床がみるみるうちに火の海になる。血腥さの中に感じた油の匂いに、何故もっと過敏に反応出来なかったのか、自分の鈍った勘を恨んだ。元々証拠隠滅の為に、死体と一緒にここを焼き払う予定だったのだろう。
礼拝堂内が炎で明るくなったその瞬間。俺は既に息絶えていた筈だった、壁に背を預けたまま首を前に垂れていた一人のリスベニア兵に目がいった。礼拝堂内で、俺たちとマザーを除いて、たった一人だけ動いていたからだ。
その手に握られていたのは、明らかに起爆装置。それが分かった瞬間、そのリスベニア兵はゆっくりと顔を上げ、俺達を薄く嗤ったかと思うと、手から起爆装置が零れ落ちる。
何も言葉を発することなく、そいつは事切れたようだった。
「っち。おい!さっさと外に出ろ!!」
先程の爆発で柱が破損したのか、木造の礼拝堂全体が軋んでいるのがわかる。高い天井から壁が崩れ落ちてこない保証もない中で、俺は直立不動のまま何の反応もなかったマザーの腕を引っ掴み、外へと連れ出した。
マザーは目を見開き、心なしか唖然としているような、そんな気がした。
外に出てまず俺たちの目に飛び込んで来たのは、東から広がる曙を凌ぐ、まるで目を焼くような灼熱の火の海だった。空が赤いのも手伝って、地獄の様相を呈していた。
海から吹き付ける強い風に炎が煽られ、空高く無数の火の粉を舞い上げていく。
先程生き絶えたリスベニア兵が手に持っていた起爆装置は、複数の爆弾を同時に爆発させるものであることは一目瞭然だった。振り向くと見事な尖塔を誇っていた礼拝堂も、見るも無残に炎に包まれ、尖塔は耳障りな音を立ててゆっくりと倒れていった。
「何、これ。一体どうなってるの…?」
眠り続けるメリルを抱き、先程迄自分が居た礼拝堂に視線を向けたまま呆然と立ち尽くしたイレイズ。喉からヒューヒューと息が漏れる音がする。メリルを抱く手も震えが止まらない様子だった。
「みんな、殺される…。」
イレイズが喉から声を絞り出したその瞬間、彼女は駆け出した。
「待て!おい!」
「イレイズ!駄目よ危ないわ!」
唯ですら細過ぎる身体だというのに、昼から飲まず食わずの状態で何処に子供を抱えながら走れる力が残されているのだろう。その足に一切の迷いはなく、イレイズは中庭を対角線上に走り抜けて行く。
林檎の木が揺れる。
火はすぐそこまで迫っていたが、今は構っている余裕はない。只管駆け抜けるイレイズの後を追った。
***
宛も肺腑が焼け落ちる様な感覚に襲われながらも、足は無意識に動く。
風が熱い。喉が渇いて仕方がなかった。
それでも足は止まらない。礼拝堂からそれほど離れていない筈なのに、数時間走り続けている様な気すらした。
頭の中を走馬灯の様に駆け抜けていくのは、炎に思い出が灰に帰する悲しみでも、狂気が滲んだマザーの目でもない。私を慕い、『先生』と呼んでくれる子供達の笑顔だけだ。
死ぬ間際に祖国への忠誠の言葉を残したあの男は言った。
殺せと。潮時だと。
彼らは『ハウンズ』と呼ばれている武装集団だと言った。主にリスベニア兵を処分することが仕事であると。それも日常的に。それなら、セラウドさん達五人は私が思った以上にリスベニア兵の中では名の通った賞金稼ぎだったかもしれない。そう思えば、自分が拐かされた理由が自ずと分かった。
自分達にとって脅威である彼らに、共犯者であるマザーと最も近い位置にいる私が接触したからだ。
彼らは私を伝って必ずマザーに行き着くと。そうなると当然マザーに軍警の手が及び、自分達の基盤が崩れることになると考えたのではないか。
ならば危険分子である私を拘束して、彼らにとって最後の『商品』だったメリルが外つ国に売られるまで逃げ果せれば後はどうなってもいいと思ったのだろう。
彼らは証拠を残さない為に、丘の上を焦土にしようとしたのだ。それまで共謀関係だったマザーばかりでなく、罪のない子供達諸共。
「嫌…っ。そんなの嫌…」
させてたまるか。
しかし背筋を駆け上がる冷たいものに身体が震える。どうしようもない恐怖で腰が抜けそうになる。
私は今日まで何も知らなかった。情けなくて悔しくて、もう涙すら出てこない。でも私が何も知らなかった所為で犠牲になったリスベニア人の子供達がいる。彼らの恐怖と絶望の上に成り立っていた日々の中でのうのうと暮らしていた自分。
その日常は愛すべきものではなかった。もう戻らない。いや、戻るわけにはいかないのだ。
彼らに差し伸べられなかった手は何の為にある。
泣き噦る自身の頬を濡らす涙を拭う為か。絶望に髪を掻き乱す為か。
否。あの子達を守る為だ。私が守るのだ。
急がなければ。急いで子供達の無事を確かめなければ。その一心だった。
既に屋根に火が移っていた渡り廊下を突っ切り、平屋建ての木造の教室の角を曲がった時、私の足は止まった。
目の前に広がる光景に目を疑った。膝が崩れ、その反動で私の腕の中にいたメリルの黒髪が揺れた。
「寝舎、が…。」
子供達の寝舎が建っている筈の場所。そこには何もなかった。
あるのは、一面の焔と黒煙。
爆発の規模を見ても敷地内でいくつも仕掛けられていた爆弾で最も大きいものがここにあったのだろう。確実に子供達を消そうとしていたのだ。
頭の上で私に呼び掛ける誰かの声が聞こえた気がした。後方でいくつもの砂利を踏みしめる跫も。けれど、それは私の耳にはきっと入っていなかったのだろう。どうでもよかった。
世界が揺れる。
息が出来ない。
身体が熱い。
乾き切った喉がはちきれそうに痛い。
気が付けば目の前にあったのは地面だ。首を垂れ、額を地べたへ擦り付ける様に身体を折っていた。
同時に、余りに喉が痛むので気がついた。
私は、泣き叫んでいた。地面に散らばる髪も気にせず、目をこれでもかという程に見開いたまま。
「ああああああああ!」
阿鼻叫喚と共に私に込み上げてくる感情は何だ。それすらわからなくなっていた。
マザーは言った。自分があの子供達に手を掛けることはしないと。
それは、こういうことだったのか。
全てが崩れる音。自分がどうにかなりそうだった。
絶望が針を振り切ると、涙も出ないことを初めて知った。
殺して欲しかった。
子供達の元に行けるのならそれでもいいと思ってしまった。
ただ、自死する勇気も気力も残っていなかったので、誰かに殺して欲しかった。
肉塊と化した幼子を抱いて、自分と同じように泣く女の姿が見えた気がした。
女は壊れていた。
私の知っている女だった。
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