16 落涙
「マ、ザー…。」
イレイズは、眼窩から目玉がまろび出ようほどに目を見開き、目の前の女から視線を逸らせずにいた。
リスベニア人とはいえ、罪のない子供を手にかけた。その事実だけで、イレイズの中に根付いていた優しいマザーの姿は幻のように消え去ってしまったようだった。
「あんた、その子供を殺した時に壊れたんだろ。」
「無抵抗の子供を手に掛けるなんて、禽獣紛いの卑劣な真似を…っ」
さすがのミジャンカも額に汗が浮かんでいたし、俺自身も寝覚めの悪い悪夢を見た気分がした。
「一度きり…此れきりにしようと思いました。でなければ、私は単なる人殺しになってしまう。ただ、そうもいきませんでした。」
「偶々流れ着いたリスベニア兵にその一部始終を見られていたからだろう。」
「ええ。この丘を真下に降りて少し行くと入り江がありますでしょう。そこから上がって来たリスベニア兵が海側から塀を越えて敷地内に忍び込んでいて。何とも間の悪い話です。」
フィンドにしても、カストピア人の修道女がリスベニア人の孤児を手にかける。そんな格好の強請り種を奴らは手に入れたのだ。そんな好機を逃す筈がないだろう。
俺の言葉にマザーは静かに頷く。眉間に深く皺を刻み、再び片手を頰に添えながら、心底困り果てた顔で軽く首を傾げるその様は、とても人一人殺した女の顔ではなかった。
それが、何とも言えない不気味さを際立たせていたのだ。
難民が犯罪を犯して軍警に身柄を拘束された場合、難民証明書は剥奪される。投獄される事は勿論のこと、自由の身となっても再発行の認可が下りることはない。つまり、亡命国の永住権を手に入れる手段も、故郷に帰る手段も永遠に潰えてしまうのだ。膨れ上がる難民対策、そして治安維持の為に定められたものに他ならないが、この女も生命線とも言える難民証明書を手放すわけにはいかなかったことだろう。口外しないことを条件に、子供殺しの一部始終を目撃したフィンドに加担していたことになる。
「当時、世界的に難民証明書の発行がピークでした。公営のこの修道院を頼ってハルトにやってくる孤児も急増してきた頃で、国からの補助金も間に合っておらず、この孤児院も深刻な財政難に瀕していました。公営であるが故に、国籍の違いを理由に子供の受け入れを拒否することもできません。孤児院そのものの存続も危ぶまれる程だったので、資金繰りに困っていました。ですから」
「口減らしも兼ねて、リスベニア人の子供を売り飛ばしていたと?」
ミジャンカのその言葉をマザーは否定しない。強請られていた筈が、利害の一致が見られた為にここまで長く共犯でいたのだ。
「仕方がなかったのですよ。当時の収容孤児を見ても、リスベニア人が半分近くを占めていました。孤児院の財政を立て直す為にも、彼らをまとめて何とかしなければいけないと思うのは当然でしょう。」
「それなら街の私営の孤児院にも受け入れを要請する方法もあっただろう。」
「初めからその考えは微塵もありませんでした。だって、そうすると子供達を引き取った方々からの『代金』が孤児院に入らないではないですか。」
「代金…。そんな、子供をモノのように…っ。」
残された子供達の為ですよ、とため息をついて目を伏せるマザーを、イレイズは信じられないと息を荒くしながら見つけていた。
「街中を通ると複数の街人の目に触れます。幸いにしてここは海辺。子供は薬で眠らせて夜のうちに入り江から運び出していたんでしょう。」
ミジャンカが言っていることをイレイズは聞き取れているだろうか。これ以上イレイズの心が保つかが懸念されたが、イレイズは腕の力を緩めようとはしない。ここまできたら彼女の意思を最後まで尊重し続けるしかなかった。
「既にご存知でしょう。彼らリスベニア兵は、難民証明書がありません。だから、リスベニア人の子供たちの持つ難民証明書が必要なのです。子供達も『使い道』は色々ありますから、身柄も引き取らせて欲しいと。その『代金』で、この孤児院の財政難は徐々に解消されて行きました。だからね、イレイズ。」
そこまで言ったところで、マザーはイレイズに目線を移して微笑む。そして、彼女の心を軋ませる言葉を放ったのだ。
「その子たちのおかげで、あなたはそこまで大きくなれたのですよ。」
「やめて!」
マザーが言い終わるが早いか遅いか、イレイズが言葉を遮ろうと叫んだ。本当は耳を塞ぎたいだろう。目も逸らしたいに違いない。それでもイレイズは前を向き続けた。
それにしても使い道とはよく言う。マザーの言い振りから、偽造の為難民証明書を奪った後は奴隷市に出されたり、臓器売買された子供もいた筈だ。
この女の手でリスベニア兵に引き渡された子供達は、殺されている可能性が高かった。
人身売買を斡旋し、その報酬に金を受け取っていた事実。
この数年でどれだけのリスベニア人の子供が売り飛ばされたのか、どれだけの金が動いたのかはマザーの話だけでは見当もつかないが、マザーを強請っていたフィンドの後ろには決して小さくない『闇の支援者達』がいる。リスベニア兵は非合法組織という形で集団で行動している場合が多いので、マザーの爪牙にかかって床に転がっている数体の亡骸、先程俺達が始末したフィンド達、そして昼間イレイズを襲った奴らも規模はどうあれ一つの組織である筈だ。
フィンドがいつか帰国する為の自分自身の身分証明用にする他にも、奪われた難民証明書の一部は裏ルートで高値で売りに出されているだろう。そして別のフィンドがその対価を手にする為に殺人、盗みに手を染めていく。悪のスパイラルに陥るメカニズムがうまく回っているのは想像に難くなかった。
「食い扶持も減って助かりましたよ。当時カストピア人の孤児はイレイズだけでした。この子を育て上げる為なら、どんなことでもしようと。」
その言葉を聞いたイレイズが俺の腕に手を回したまま、一歩前に出てマザーに訴える。その目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
「マザー!私はそんなこと塵程にも望んでいなかったわ!自分がそんな汚い犠牲の上に生きていたなんて知っていたら、私、私…っ。」
「でも、事実あなたが立派な大人になれたのは『貰われていった』子供達の犠牲あってのことでしょう?」
何を今更、と悪びれずに、そして笑みも崩さずに平然と宣う目の前の女が、神に誓いを立てた身とは到底思えなかった。
「知らなかったあなたが悪いのですよ。そもそも、民族の隔てなく皆平等に生きていくなんて綺麗事が罷り通る程、この世界は美しくありません。汚らわしいリスベニア人が平然と生きていくなんて以ての外です。」
「その他でもないリスベニア人に手を貸していたのはあなたじゃないですか!確かに、私は何も知りませんでした…。それは私の所為です!誰も教えてくれなかったと非難するつもりもありません。でも、戦争は十年も前に終わったでしょう!?マザー、確かに息子さんのことは残念でした…っ!私も家族を戦争で奪われた一人です。でも、人の一生は全て戦争で染められるものではありません!憎しみに支配されて残りの人生を過ごすなんて不毛だって、私気づいたんです。だって何も生み出さないもの!そうでしょう?」
己を慕っていたリスベニア人の孤児達。己を襲ったリスベニア兵に対する憎悪。相反する感情の激流に翻弄されながらも、イレイズは必死に前を向こうとしていた。
「私、さっきリスベニア兵が死ぬ間際に呟いた言葉が聞こえたんです。『祖国万歳』って。それは、生への執着でも何でもない、純粋な祖国を思う気持ちでした。その瞬間、この人も私と変わらない一人の人間なんだってわかった…。マザーとも、他の誰とも変わらない一人の人間だわ!リスベニア人だからって例外なく憎しみをぶつけるなんて間違ってる!だから、もうやめてください!」
直向きな想いを精一杯己の育ての親へと訴える。尚も涙を流し続けるイレイズを見るマザーの顔には影が落ち、表情を窺い知ることは出来ないが、冷え冷えとした礼拝堂の空気を伝って聞こえて来たのは、ため息だった。
そして、一言。こう吐き捨てたのだ。
「飼い犬に手を噛まれた気分ですよ、イレイズ。この裏切り者が。」
「…っ。」
その言葉に、イレイズの喉から小さな息が漏れる。隣にいるだけで心臓の声が聞こえてくる。彼女は、マザーの狂気に当てられ、言葉を無くしているようだった。自分の渾身の心の叫びがマザーに届いていないと知った絶望もあるだろう。
マザーは、偏に我が子を殺したリスベニア人への憎しみが体躯を巣食っている。 それを否定する者は例えカストピア人であろうと敵とみなす思考回路が出来上がっているようだった。
後ろで腕を組みながら、黙って聞いていたミジャンカが口を開いた。
「夕べ入り江を調べていた時、野草の茎に結び付けられた赤いスカーフを見つけましたよ。あれは、目を覚ましたリスベニア人の子供が自分がここから連れ去られたことを教えるために、近くの草叢に結び付けた物ですね。大方それがフィンドに露見して、茎ごと海に捨てたんでしょうが…砂浜に戻ってきていましたよ。」
その子の、執念でしょうね。とミジャンカはマザーを見据えながら言った。
「赤いスカーフは、リスベニア国籍であることを奴らに示す目印に使われていた。だからこの孤児院でリスベニア人のメリルだけが赤いスカーフを巻いていたのだろう。」
「メリル…?マザー!メリルは?メリルは今どこにいるの!?」
イレイズが目を剥いて大声でマザーに問うた。
あの子も『里親』が見つかったと言っていた。ならば次の犠牲者がメリルであることは火を見るより明らかだった。
マザーは勝ち誇ったかのように笑みを浮かべながら口を開いた。
一際通る声が礼拝堂に響き渡る。
「残念です。イレイズ。」
その言葉を聞いたイレイズは全てを悟ったのか、ふっとそれまで体を支えていた膝が崩れた。腕を引っ張られ、俺も体が傾くが。
それも途中で止まった。誰かがイレイズを背中から支えたからだ。
「それはどうかな、マザー。」
「ハワード、さん…?」
つい今しがた戻ったのだろう、奴らがやっと来たのだ。
イレイズを抱きとめるハワード、マザーへと銃を構えるベルーメル、そして眠る少女を抱えたカースティがそこに居た。イレイズは目を丸くしながら、事態を飲み込めていない様子で三人を交互に見回していた。
「おい。予定より大分遅いぞ。」
「すまないねぇ。ここに来て私の方向音痴が盛大に仕事してくれちゃって。」
「本当ハワードについて行った私達が馬鹿だったわ…。」相当あちこちウロウロしたのか、ベルーメルとカースティの額には汗が光っている。ハワードの絶望的な方向音痴は今に始まった事ではないが、この非常事態に発揮されるとは思わなかった。
「迷うくらいなら初っ端からインカムで呼び出せばよかっただろう。」そして灯りがついているのはこの礼拝堂だけなのに何故迷う。
とは言え、駆けつけたタイミングとしては悪くないのでこれ以上文句を言うことはやめておいた。
「あ、あの…。」
戸惑うイレイズに気づいたかのように、ハワードが柔和な笑みを浮かべてゆっくりと彼女を立ち上がらせる。
「やあ、立てるかい?」
「あ、はい…。」
少しふらつくようだったが、マザーが丸腰であると察して銃を下ろしたベルーメルがイレイズに駆け寄った。
「イレイズ!怪我はない?」
「ベルーメルさん…。」
「頬が少し腫れてるわよ。殴られたのね?」
ベルーメルは目尻を下げ、慈しむように静かにイレイズの頰へと掌を滑らせたかと思うと、一転首だけ俺の方へと向け、鋭い視線を投げかける。嫌な予感しかしない。
「ちょっとセラウド。何であんたがいながらイレイズが怪我してるのよ。」
「おい待て。俺達が来た時には既に…。」
「まさか、女の顔に手挙げさせておいて言い訳する気じゃないわよね?」
あとで覚えてらっしゃいと吐き捨てる目の前の女には何を言っても無駄らしい。俺に出来ることは心無しか痛む顳顬に中指と人差し指を添え、盛大にため息を一つ吐くことだけだった。
その様子を見ていたカースティが苦笑いを浮かべたかと思うと、少女を抱えたままイレイズの目の前に歩を進めた。
「ほらよォ、大事な嬢ちゃんだぜ。」
未だ呆然としていたイレイズが、カースティの顔から胸元に視線を移す。その腕に抱えられていた少女がメリルであるとわかったその時、一瞬で意識が覚醒したかのようにイレイズは大きく手を伸ばした。
「メリル!」
「っと、危ねェっ!」
メリルの頬を撫でる。それを見たカースティがそっと彼女にメリルを託した。
カースティからメリルを受け取りながら小さな寝息が聞こえてくることを確認したイレイズは、目を細めて顔に掛かる黒髪を優しく除けてやる。
「あぁメリル…。よく…よく無事で…。」
「まだ薬が効いてる。意識が戻るまで時間が掛かりそうだが、怪我もしてねェ。」
「よかった…。カースティさん、ありがとうございます。」
「ん。」
メリルを抱きしめたまま、イレイズは地面に座り込む。カースティもしゃがみ、イレイズの栗色の髪をくしゃりと掴んだ。それに安心したのか、イレイズは既に真っ赤になった目を閉じ、再び頬を濡らした。昼間もカースティに頭を撫でられて泣いていた様を思い出し、もしもイレイズに兄貴がいたらきっとこんな感じなんだろうと柄にもなく考えていた。
「三人ともお疲れ様でした。でもまだ終わってませんよ。」
ミジャンカのその一声で、俺たち五人は再びマザーの方へと向き直る。それぞれの武器を構え、更に冷たい視線を俺達に向けていたマザーを取り巻く空気は先程の勝ち誇ったそれとは全く違っていた。
「御仲間が集結された訳ですか、セラウド様。やはりあなたはハウンズを率いるものだったのですね。」
「商品が返品になったわ。残念だったわね人売りさん。」
ベルーメルが銃を構えたまま衣嚢からあるものを取り出しマザーの方へと示す。薄っすらと血痕のついたリスベニア兵の軍服の紋章だ。
「私達の日常はね、一般市民に危害を加えるリスベニア兵達を処分すること。その証として紋章を手に入れるの。」
「そのお話が誠であるならば、運搬役達も死にましたか。」
「一人は少しおイタが過ぎたのでね。ただ残りの二人はこのご婦人誘拐を指示した人物と人身売買の首謀者について聞いたらすんなりと話してくれたものだから。他にも色々有益な情報を教えてくれたので、そのまま軍警に引き渡したよ。組織の他の構成員も芋蔓式に捕縛されるだろうね。」
聞き分けのあるいい子達だったよ、と微笑みながら剣を抜くハワード。僅かにマザーが顔を歪めた。
ハワードの口ぶりからすると組織の規模、売られた子供達の身柄と難民証明書の行方等も聞き出せている可能性が高いだろう。それに加えてうちお抱えの情報屋のネットワークを使えば、組織の壊滅もそう時間は掛かるまい。
同時に軍警は恐らくこの孤児院に向かって来ている筈だ。軍警の到着迄マザーを足止め出来ればそれで全てが終わるだろう。
俺達はフィンド以外の人間は処分することが出来ない。そうなるとマザーの身柄は軍警に預けるしかないのだ。
「もう降伏しろ。あんたの長すぎた復讐劇もここまでた。」
俺達が出来るのはマザーを拘束するところまで。日頃より薬で狂乱した残党を相手にしている身からするとそれは息をするほどに簡単なことで。
何も言葉を発しないマザーの方へと数歩足を進める。
その時だった。
ドオオオオオオオォォォォォン!
けたたましい爆音とともに空気と地面が大きく揺れた。
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