15 嗤う女

 

 礼拝堂の中は、いやに静かだった。


 イレイズをハワード達に託し、街に避難させてからあの女の元に向かう筈だったが、ここにはまだイレイズがいる。


 先程まで自分が監禁されていた倉庫、己を襲ったフィンドが息絶えている場所を見向きもせずに、イレイズは静かに俺達に付いて来た。その隣に、礼拝堂はあった。他所者を寄せ付けまいとする大きな青銅の扉に守られたそれは、なんとも立派で荘厳な佇まいだった。


「危険が伴うかもしれん。絶対に俺達から離れるな。」


「わかっています。後ろにいますから。」


 それは、最低限の取り交わしだった。イレイズもそれをわかっているのだろう。素直に頷いた。


「いきますよセラウド。」

「ああ。」


 俺とミジャンカは扉に体重を掛け、少しずつ開いていく。少しずつ、徐々に。


 ガコ、と耳を劈く音と共に扉が開き切ったが、そこに広がっていたのは想定以上の光景だった。

 窓際には小さな灯の揺れる幾つものランプ。鼻を突く血腥さの中に漂うフィンド特有の甘い臭い、そして薄暗い中でもわかる血溜まり。僅かに油の匂いも混じっているようだ。


 俯せに倒れていた者達は、既に息絶えていた。吐血した死体を見ると、床に爪を立てていたり、喉を掻き毟った痕跡があった。泡を吹いている者もいる。


「毒殺か…。」


 振り返ると、イレイズの顔には既に玉の汗が浮かんでいる。ミジャンカが背中を摩るが、「大丈夫ですから…。」と強がって見せるのがやっとの様子だった。


 ただ、どうなっても真実を知りたいと言っているこの娘の目が湛える決意は本物だ。決して目を逸らそうとはしていない。懸命に戦っているのだ。恐怖と。


 その時だった。礼拝堂の中に動く影が一つ。ミジャンカが即座に矢を番え、軋んだ弓がギギ、と鈍い音を生んだ。


 いつからこの地獄絵図の中に立ち尽くしていたのだろう。俺たちの方にゆっくりと向き直ったかと思うと、その人影は長い腕をランプに伸ばし、自らの顔を照らし出した。イレイズの目がみるみる開かれていく。震えた唇から微かな空気をまじえて声が漏れる。



「な、んで…。どうしてあなたが…」


 

 肌の一切を隠す黒い修道服。

 化粧気のない白い肌。

 顔に刻まれているのは苦労の末に浮き出たであろう小さな皺。

 

「邪魔になったものは殺すか。随分と派手に散らかしたものだな、マザー。」


 子供達に慈愛溢れる笑顔を向けていた女。手にキスを落としたミジャンカに戸惑いながらも顔を赤らめた女。そして、今はイレイズを冷たく見つめる女だった。


 俺には答えず、目を向ける素振りすらなかったが、その女は貼り付けた笑顔を浮かべて言った。目は笑わないまま。


「イレイズ。怪我をしているのですか?」


 極めて冷静なその声が礼拝堂に響き渡った時、イレイズの肩が僅かに跳ねた。まさかいの一番に自分に言葉がかけられるとは思わなかったのだろう。外套から手を出すと俺の腕に自らの腕を絡めた。

 そうでもしなければ、膝が笑って今にも倒れ落ちるに違いなかったからだ。


「可哀想に。こちらにいらっしゃい。手当てをして差し上げましょう。」


 死体に囲まれたまま、ランプを掲げる女はさながら『悪魔』だ。


「い、嫌…。」


「随分怖い思いをしたのですね。もう大丈夫ですよ。私が…」


「おい。いつまで続けるつもりだこの大根役者が。」


 俺は盛大な舌打ちとともに、狂った様に優しいマザーを演じる女の台詞を遮った。すると、マザーは小さく息を吐いて口角を上げた。そして、漸くイレイズから目線を俺へと移したのだ。片頬に手を当て、困った様に眉を下げる。


「本当に。あなた方を招き入れたのは過ちでした。」


「黙れ。黒幕はやはりあんたか。」


「そう思われたから、ここに来たのでしょう?それにしても酷いじゃありませんか。」

 イレイズまで連れてくるなんて、とマザーは続ける。


「せっかく寝かせていたというのに。」

 その一言で、マザーがイレイズを拐かすようフィンドに指示を出していたことが分かった。あの男は嘘をついてはいなかったことになる。


「何処かのお喋りがその子に口を滑らすのではないかとは思っていましたが、セラウド様がイレイズとこちらにいらっしゃったということは、彼も死んでしまったのですね。」


 そしてまた続けるのだ。清々しました、と。ミジャンカも底知れぬ狂気に眉を顰めていた。


「全て話して貰うぞ。お前がしたことも、犠牲になった『子供達』のこともな。」


 その言葉を聞いた瞬間、イレイズが息を飲んで俺の腕を引く。視線をイレイズにやると、彼女の目は濡れていた。首をいやいやと小刻みに横に振りながら。


 どうやら最悪の状況が頭を過ぎった様だが、マザーがイレイズを諌める様に言う。


「安心なさい。子供達は無事ですよ。私が手を掛けることなどしません。」


 イレイズは理解が追いついていない様だったが、マザーの話を順々に聞いて言った方がいいと判断し、俺からは何も言わなかった。その様子を見たマザーが満足そうに再び笑みを浮かべた。


「セラウド様。私は、逃げも隠れも致しません。全てをお話し致しますわ。その前に、つまらない昔話を聞いて頂きたいのです。」


 するとマザーは、まるで母が我が子に寝物語をしてやる様に静かに口を開いた。



        ***



 カストピアに、未婚でありながら幼子を抱える一人の女がおりました。


 その女は、貧しいながらも息子を育て上げる希望を胸に、静かに終戦の日を待っておりました。空襲に怯え、いつ爆弾に吹き飛ばされるやも知れない恐怖に慄きながらも、腕の中の我が子を思えば乗り越えられると。そう信じて毎日を暮らしていたのです。


 しかし、女の住んでいた街にリスベニア軍が侵攻し、地上戦が繰り広げられました。空からの攻撃に加え、街角に潜む兵士から飛んでくる銃弾からも逃げ惑うことになり、女は精神的にも追い詰められていきました。



 運命の日は、とても暑い日でした。太陽の光が肌を焼き、食べ物も水もないまま廃墟の中でじっと我が子と日が暮れるのを待ちました。でも、その子にはもう限界が来ていたのでしょう。空腹を訴えて泣き始めてしまったのです。お腹をすかせた、年端もいかぬ子供に泣いてはいけないという戒めは効きません。

 女が口を塞ぐしかないと思い立った時、泣き声に誘われてやって来たのは、リスベニア兵でした。彼らは親子を視界に捉えると、女の命乞いを聞く前に傍で泣き叫ぶ幼子に機関銃を向け、銃弾を撃ち込みました。


何度も、何度も。嗤いながら。



 気付いた時には、悪魔たちはいなくなっていて、只の肉塊と化した幼子の前で女は泣き叫びました。でも、体に余分な水分は残っていなかったので、涙は出ませんでした。


 そこから女は逃げることをやめました。死んでもいいと思ったのです。我が子の元に行けるのならそれでもいいと。ただ、自死する勇気も気力も残っていなかったので、誰かに殺して欲しいと。そればかりを考えていました。でも、そんな女の願いも虚しく季節は一巡りし、終戦の日を迎えました。


 もう誰も自分を殺してくれない。そう思った女は、難民となり、もう一度果たせなかった嘗ての夢を追いかけることにしました。


オガールに亡命した女はハルトという街に流れ着きました。そこで修道誓願を立てて修道女となり、同時に同じ敷地内の孤児院で子供達の世話をすることとなったのです。


 戦争で親を亡くした、心に傷を負った子供達を育て上げる。血の繋がりがなくても、自分を慕ってくれる子供達に女は精一杯の愛情を注ぎました。民族の違いに関わらず、子供は可愛いものでした。女は確かに幸せだったのです。


 ある日のこと。施設にいた十歳のリスベニア人の子供を着替えさせていた時、子供がおやつを待ちきれないと言って泣き出してしまいました。女は困って泣きやませようとしますが、泣き声は止むどころか強くなって行きます。その様を見た女の脳裏には、嘗ての光景が浮かびました。空腹に喘ぎ、泣き喚く今は亡き我が子の顔です。 


 その時女はふと思ったのです。何故我が子は死んだのに、敵国のリスベニア人の子供がのうのうと年を重ねていけるのか。我が子も生きていれば丁度この子くらいの年頃の筈。生きていれば。


 でも、もう我が子は戻ってこない。大人になれなかった。骨を拾うことすら許されなかった。何と口惜しいことか。あの子だけなんて不公平だ。あの子もきっとそう思っている筈。ならばこうしよう。

 

 リスベニア人の子供は、大人にならない様にしよう。


 そう思った時、女はまだ泣き続ける目の前の子供の首に、手をかけました。

 雑巾を絞る様に、長い時間手に力を入れました。指先にボキリと鈍い衝撃が走るまで。すると体から力が抜け、子供は泣かなくなりました。その子供が只の肉塊となった時、女は一人で笑いました。




嗤い続けました。


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