14 覚悟
「あぁ。了解した。急げ。」
インカムの向こうからハワードの報告が入る。向こうはカタがついた様だ。こちらに合流する様に指示を出して、俺はインカムの電源を落とした。
「ハワード達は大丈夫ですか?」
「あぁ、無事終わったらしい。あとはこちらだけだ。」
「くしゅんッ」
響いたのは小さな嚔。俺の背後を歩いているイレイズに目を向けると、彼女は肩を抱いて小刻みに震えていた。今更ながら先程こいつの顔に水をぶち撒けたことを思い出す。濡れた服が体温を奪っているのだろう。
夏とはいえ朝方はまだ冷える。小さなくしゃみを繰り返しているのを見て、俺はため息をつきながら羽織っていた外套をイレイズの肩にかけてやった。
ふ
「ありがとう、ございます…。」
不恰好なほどブカブカの外套。ただ今し方まで人が着ていたものなのだから、温かいだろう。それに、こいつが風邪を引いたら後でベルーメルあたりにどやされると考えると、本気で頭が痛かった。
「怖い思いをさせてしまいましたね。すみません。」
ミジャンカがイレイズを気遣う。先程のフィンドへの仕打ちのことだろう。平穏な生活を送っている街娘に、要らぬトラウマを植え付けてはいないかと心配している様だった。
あの光景をイレイズに見せるべきだったのか、今となってはわからない。ただ、俺には一つ気になったことがあった。普通の一般人であれば耳を塞ぎ、目を背けるであろうあの場面を、イレイズは瞬きを忘れたように目を見開いて見ていたのだ。
それも、ずっと。
「いいえ。私が昼間あんなに失礼な態度を取ってしまったのに…また、助けられてしまいました。」
感謝はすれど、謝られることなど何一つありませんと。イレイズは微笑みながら言った。そして、俺の方を見て、イレイズは困った様に笑ったのだ。
「セラウドさんも。私が昼間食堂であなたに水をかけたから、その仕返しですね?」
クスクスと口元に手を当てながら、「本当、性格悪いです。」と俺の肩を軽く小突いた。
昼間見た街娘とは、別人だった。何かが吹っ切れた様な、変にすっきりとした顔をしていた。
それにミジャンカも違和感を覚えたのだろう。イレイズから目を離そうとしなかった。そんな俺達の考えることも、彼女はわかってる様だった。
「お二人とも、本当にありがとうございました。私…。自分が世間知らずな自覚はありました。でも、それは思った以上だったみたいです。」
中庭まで来たところで、青々と葉を茂らせる林檎の木の前でイレイズは足を止めた。静かに風に揺れて涼やかな音を立てる豊かな緑を見上げる。
「私は、この木が見てきたことを何も知らなかった。」
少しばかりの沈黙。俺たちも何も言わなかった。ただイレイズの口から紡がれる言葉を待った。
そしてイレイズは、風が止み、木の音もしなくなったそのタイミングでゆっくりと口を開いたのだ。
「昼間、セラウドさんに言われた言葉。今ならよくわかります。この街に流れ着いたあの日から、綺麗なものばかり見ようとしていました。そして子供達の前でも綺麗な人間でありたかった。完璧な人間でありたかったんです。」
とんだ猿芝居ですよね、と目を伏せ、独り言の様に呟くイレイズ。空はだいぶ明るくなって来ていた。
「でも、それが間違いだったんですね。私の理想は、いつの間にか見るべきものすら見えなくしていました。自分の都合の悪いものを遮断して、剥き出しの憎しみだけに縋っていた…。」
再び目を向けて俺達二人をまっすぐに見るその瞳は、覚悟を決めていた様に見えた。
この場所に来て、そしてハワードの報告を受け推測が確信に変わったこのタイミングで、イレイズが自分の考えを精算しようとしていたことに俺は正直驚いた。それがどれほど過酷なことか、どれほど自分を追い詰めることかわかって言っているのだから。彼女は、羽織った外套を握り締めながら続ける。
「もう、引き返せないところまで来てしまいました。昨日迄の日常にはどうしたって戻れない。それなら私は本当のことを知りたい。知るべきだと思うんです。私は、その日常の上に生きてきた人間ですから。」
この娘には、時間を掛けて己に降りかかってきた不幸な出来事を忘れる選択肢だって残されている筈だった。ただ、もう彼女はそれを望んではいなかった。俺と同じ故郷を持つ今のこの娘の銀色の瞳には、水平線の向こう側に朝日の昇る東の祖国が見えているとでもいうのか。
「逃げても、誰もお前を責めない。本当のことを知っても、お前の救いにはなり得ない結末が待っているやもしれない。それでもお前は」
念押しのつもりで、俺は諭す様にイレイズに言った。しかし、俺の言葉が終わるのも待たずに彼女の首は横に振られる。
「いいえ、セラウドさん。私はずっと逃げてきました。今日この日、あなた方に出会うまで。祖国からも、醜い自分の心からも。」
「…。」
「そして、真実からも。もう、前を向きたいのです。どうかお連れください。私を。何があっても受け止めてみせます。見掛け倒しの幸せな日常を捨てても…私は変わりたい。」
イレイズのその目に、既に迷いはなかった。
「来い。」
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