13 遅疑



 本来であれば、天井近くから飛び降りた衝撃でジンジンと痛む筈の足の感覚など、感じる余裕はなかった。床から顔を上げた私の目に映るものは、どす黒く濁った深淵だ。


 一瞬呆気にとられたリスベニア兵は、ランプを高く掲げて私がいた天井近くを照らした。小窓の存在を知らなかったのだろう。私の当初の目論見に気付いた男は、私の胸倉を掴んで手を振り上げた。


「この女、窓から脱走しようなんぞふざけた真似しやがって!」


 同時に顔に飛んできた痛み。昼のデジャビュにも思えたこの流れの中、目の前のリスベニア兵に叩かれた衝撃で腰から派手に倒れこむが、構わず起き上がる。負けじと両手で男の軍服を掴んだ。唇を切ったのだろう。鉄の匂いが口の中に広がるのを感じた。


 目の前にあったのは男の胸。その胸にあるのは黒き双頭の大鳥。何故か無意識のうちに悪魔の鳥を、この手で渾身の力を込めて引き千切ろうとしていた。


「おい!何をする離せ!」


 思ってもみない抵抗だったのだろう。焦った男は私の髪を掴み、引き離そうとする。


 私は痛みに顔を顰めながら、男に静かに問うた。


「あんた今なんて言ったの?子供達を、マザーをどうする気なのよ。」


 自分でも驚く程低い声だった。自分でない誰かが発したものなのではないかと思える程に。しかし地を這うような、憎しみと怒りの篭もった声に、男は察したのか大袈裟に笑って見せたのだ。


「何だ小娘。何も知らねえのか?」

「一体何のことを云っているの?聞いてるのは私よ!答えて!」

「は!臍が茶を沸かすぜ。あのババア、てめえに何も話してねぇとはなぁ。」


 誰のことを言っているのか。初老の女性はマザーしかいない。まさかマザーのこと?


 おのれこの外道。私の唯一無二の恩人のことまで愚弄するつもりか。


「許さない。マザーのことまで。あんた達みたいな悪魔に貸す耳なんてないわ!」


「お前、何か勘違いしてるぜ。」


 かわいそうになぁ。そう云い乍ら、いつの間にか私の髪を解放していた男は両手で私の手首を強く掴んだ。


 その瞬間、先程自らの手の拘束を解く際に負った傷にモロに触れられ、稲妻のような痛みが腕を駆け抜けるが、唇を噛み締め、必死に声を殺した。視界が涙で歪むのを堪えて、男を睨みつける。その様すらも男の粗野な好みなのか、黄色い歯を見せて更に嗤う。


 何を言っても耳を貸さないつもりだった。どんなことでも。


 直に騒ぎを聞きつけた軍警がこのリスベニア兵達を捕縛してくれて、子供達もマザーも無事に保護される。きっと朝日が昇ってからも昨日と同じ、平穏な日常が続いていくと信じて男を睨みつけた。


 体術も武器の扱いも心得ていない私が出来るのは、それだけだった。


 そう思っていた。この男が口を開くまでは。


「お前を拐えと命じたのは、お前が母の様に慕うあのマザーだったんだぜ。」


 呼吸が、止まった気がした。何も聞こえなくなる。一瞬で手首の痛みも無くなった。


「は、…何を、そんな出任せを。」


 絞り出した声は、先程とは打って変わって吐息が漏れた様に掠れた今にも消えそうなものだった。思わず笑ってしまう様な嘘の筈なのに、何故か顔が痙攣を始めた。ひくひくと口角が引き攣る。掴まれた手首を解こうと抵抗する力すらもなくなってしまっていた。


「何処にお前みたいな何も持っていない、天涯孤独の小娘を拐う利点があるんだよ。俺達はな、依頼されたんだよ。お前の『マザー』にな。」


 嘘だ。嘘に決まっている。徐々に呼吸が速くなる。心臓が痛い。頭の中で、ぐらぐらと何かが高速旋回している様な感覚に襲われた。


「お前が『奴ら』をこの街に引き入れたんだろ?これ以上余計なことをされちゃ迷惑なんだよ。それに、これまで散々稼がせてもらったしなぁ。もう潮時なんだよ。」


「一体何を言っているのよ…誰を引き入れたっていうの!?」


 男の言葉がずっと遠くから聞こえる気がした。身に覚えがない。誰のことを言っているのか。そしてマザーは私の知らないところで一体何をした。稼がせたとは何か。カストピア人のマザーがリスベニア兵の利になる協力などする筈がない。

 


 でも。


 ここにマザーはいない。

 それどころか、夜明け近くになるというのに今までマザーの足音すらも聞こえなかった。こんな時間に普段誰も立ち入らぬ倉庫で物音や声がするのであれば様子を見に来て然るべきなのに、それすらない。


「信じない、あんたの言うことなんて、信じるものか!私は、私はマザーを信じて…っ」



 信じたい。信じるべきだ。

 私の母だ。娘が母を信じずに何を信じられる。私は、娘として彼女を信じねばならない。


しかし、同時に心に生じるのは霞のように広がる、遅疑。



 リスベニア兵を孤児院に引き入れるなど、私の大切な、子供達を危険に晒す様な真似をしたのか。


 カストピア人として戦火に散った魂達への祈りを捧げていたのではないのか。


 ずっと私に隠していたのか。


 マザーを信じ、ここで過ごした私は何なのか。

 

 私の信じていたものは、間違いだったのか。 


「わからない…。わからないよ…!!マザー!私はどうすることが正しいのですか!?」



 激烈な喉の痛みを伴いながら私が叫ぶのと同時に、目から零れ落ちた温かいそれが地面に落ちるその瞬間。満足そうに嗤う男が呻いたかと思うと目の前から姿を消した。

 

 その直後、私の目の前に現れたのは眩いばかりの銀髪の青年。


「おい、無事か?しっかりしろ!」


 その人は私の肩を掴み、前後に強く揺さぶる。


 しかし茫然自失になって首の座らない私を見て、舌を軽く打ったかと思うと、丁度私の足元にあった水桶を掴み、私の顔目掛けて振りかぶった。目の前が透明な壁に覆われた。


「ゴホッ、ゴホッ…。」


 鼻に入った水がツンと沁みる。一瞬にして意識が覚醒するのがわかった。そして、目の前の青年が誰なのかも。


「セラウド、さん…。」

「あぁ。大丈夫か。」


 私と同じ、銀色の瞳が私を射抜く。助けに、来てくれたのだろうか。そんなことを考えていると、背後からゆらりと殺気を感じた。


「白銀の髪…カストピア人か?まさか手前例の…っ」 


 振り向くと、先程まで私の手首を掴んでいた男が左肩を抑えて背中を丸めていた。肩に刺さっているのは、一本の矢だった。それで呻いて倒れたのかと今更ながら理解する。


 それを認めた直後、背後から私の髪を掠める様に飛んで来たのは、同じ矢だった。

 それも2本。


「があああああ!!」


 それは、男の両胸に突き刺さった。男は断末魔を上げ、其の場に倒れ込む。


「イレイズさん、下がってください。」


 セラウドさんがまだ足が覚束なかった私の手を引き下がらせるのと同時に、私よりも背丈の低い細身の人物が弓を下ろしたのが見えた。


「ミジャンカさん…?」


 私の呼びかけに応える代わりに優しく微笑んでくれたのは一瞬で、すぐに横向きに倒れた男の方へと視線を戻した。ヒューヒューと息の漏れる音が響く中、ミジャンカさんは静かに問いかけた


「貴方は、獣畜生にも劣らぬ外道の様ですね。」


 無邪気な子供とは程遠いその声に、足元から冷たいものが這い上がってくる様だった。こちらにまで伝わってくるその静かな怒りは、私を冷静にするのに十分なものだった。


「どうですか?肺に穴が開くと、空気を上手く取り込めなくなって死ぬまで時間が掛かるんです。何と言ってもね、とにかく苦しいんですよ。」


 ミジャンカさんは駄々っ子を目の前にした様にため息をついたかと思うと、男の前で跪き、男の苦しむ様を見下ろしながらこう続けたのだった。


「それが、貴方に科せられた最後の罰だと思うが良い。」


 そう言って、ミジャンカさんは男の胸から紋章を引き剥がした。

 それは、慣れた手つきだった。


 行きましょう、とセラウドさんとともに私の背中を押すミジャンカさんは、昼間会った時のミジャンカさんだった。見苦しいものを見せて申し訳ない、と。そう私に平然と言い放ったのだ。今際の際に瀕している男には見向きもしないまま。


 私は倉庫を出る迄、その男から目を離せなかった。 


 赤い泡を吹き、のたうち回る男。その男は、何かを言おうとしていた。今際の際になって、最早何の意味も果たさなくなった肺に最後の空気を必死に取り込もうとしていた。命乞いをしようというのか。生への執着を隠さずに醜く足掻くつもりなのか。

 それでも保って数分だろう。苦しみ抜いて死ぬのだろう。その様を見ているうちに、自分の心を支配していた黒い深淵が揺らぐ。


 外にいたらしいリスベニア兵達は逃げた様だった。探して始末する旨をセラウドさんがミジャンカさんに伝えるのが聞こえた。


 倉庫の扉をミジャンカさんが閉め切るその瞬間に、男の声が聞こえた気がした。そしてそれが耳に入った時、頭の中に一迅の風が吹き抜けたのだ。

 

 消え入る様な小さな小さな虫の息とともに呟かれたそれは、確かにこう言った。




 『祖国、万歳』と。

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