11 騒擾


「セラウドとミジャンカ、うまくいっているかしら。」


「見る限り変わりはねェなァ。もう少し待とうや。」


 夏とはいえ、海から吹き抜ける夜風は肌に感じられる程度とはいえ何とも冷たい。陽が上がれば気温も上がってくるのだろうが、大地が水平線から照らされる迄が刻限だ。


 全てを片付けねばならない。


 ベルーメルが肩を抱きながら、そしてカースティが双眼鏡を手に丘を見遣る。二人が潜入しているであろう孤児院は、断崖絶壁に佇む陸の孤島のようにも見えた。

 雲がすっかりと晴れ、大きな月が西の山際まで傾いている。

 海面に月光の白い帯が浮かんでは消えていく。何とも静かな夜だ。


 ピピピ…。


 ハワードが懐中時計を手に取るのと同時に静寂を破り、小さな電子音が鳴った。


「私だ。」


 ハワードが腰に取り付けた端末に手を伸ばして応答ボタンを押す。インカムの向こうから聞こえるのは数百メートル先で偵察中のセラウドだった。


『そちらに変わりはないか。』声は抑えているが、こちらに状況を問うセラウドの声には心なしか焦りが見えた。何かあったのだろう。


「不自然なほど静かだよ。何かあったのかい?」


『リスベニア人の子供が一人見えない。先手を打たれたかもしれん。』


 ハワードがインカムを抑えながら眉を顰める。そして、無言でベルーメルとカースティに向き直った。


 この二人に何があったかを伝えるだけなら、それで十分だったからだ。


『何か起こるとしたら小舟の見つかったその入り江が最も可能性が高い。動きがあったらすぐに…』


 そこまでセラウドが言いかけた時、ベルーメルが勢いよく背後の岸壁の方向に振り返った。空気の変化をいち早く感じ取ったからだ。


 そこには、昼間何の気なしに通り過ぎた古びた木造の小屋があった。昼間の案内人は、釣りをする街人の為の休憩所と言っていたか。


「灯りがついている…。」


 有り得ないことだった。灯りもさることながら、薄らと赤く曇っている窓の向こうに人影が見えた。無論、先程この場所に三人で到着した時には人の気配などなかった。となると、小屋に灯りがついたのはそれより後だということになるが、常識的に考えてこんな夜中に釣りに来る物好きがいる筈がない。

 

 ならば一体何者か。

 考え得る可能性は一つだ。

 

 腰のホルダーに手をかけながら、ゆっくりとベルーメルが小屋に向けて足を進める。事と次第によっては腰の愛銃を抜かねばならなかったからだ。


 跫音も、空気を掻き分ける気配すらも消して小屋へと向かうベルーメルの赤い目は、厳しく細められていた。目の前の小屋一点を見つめ、じりじりと近付いていく。


「おい、ベルーメル…。って、ん?」


 カースティが振り向いた時には、既にベルーメルは小屋の壁に背を接し、中の様子を伺っていた。背中越しに壁に手をつき、耳を研ぎ澄ませて静かに中の様子を伺う。

 声は聞こえない。間違いなく人の気配はするのに奇妙に感じながらも中を探り続けた。しかし待てど暮らせど状況は変わらない。壁伝いに静かに移動し、来るべき時に備えて扉へと手をかけた。

 

 その時だった。「手を挙げなさい!」


 壁に僅かに開いた隙間から一迅の風が吹き抜ける。

 その刹那、ベルーメルは小銃を取り出し扉を蹴破った。


 しかし。


「…?」

 室内には、誰もいなかった。あったのは、申し訳程度に置かれた長椅子と部屋の隅に設えられた棚、そして隙間風に揺れる蝋燭だけだ。ベルーメルは小銃を構えたまま、信じられないように立ち尽くした。


「おい!どうしたァ!」


「確かに人の気配がしたのよ。蛻の殻だなんて、信じられないわ。」


 そうだ、有り得ない。これまで幾多の修羅場に直面してきたこの自分が本能的に感じたのだ。疑う筈がない。考えが一瞬凍結したかのようだった。


 人が四、五人入れば窮屈に感じる程の空間。中心に立ち、小屋中を一通り見回す。

 何かある筈だ。そう信じて調べていた時、カースティが何かに気付いたように小屋の一点を見つめていた。


「カースティ、何?」


 そこには、小屋の壁を覆うほどの大きさの棚が一つ。三段になっているにも関わらず、何も置かれていない棚だった。カースティが顔を近づけたかと思えば、棚の一段を指で撫でた。指の跡は、つかない。


「この棚だけ埃が溜まってねェなァ。」


 思わず呟いた。ベルーメルもその声に反応する。


 よくよく考えると、只ですら狭いこの空間に、使いもしない棚を置いているのは不釣り合いに見えた。しかも、同じ小屋内にあるがたついた古びた長椅子に比べ、この棚は比較的新しい。最近と言わずとも、長椅子が設置された時期よりもかなり後に置かれたものであることがわかる。

 それに先程から首元を掠める潮気をたっぷりと含んだ湿った風。それによって揺れる蝋燭の火。

 一つの考えに至って、ベルーメルは声を荒げた。


「カースティ!この棚どかして!」

「あァ?一体何を…。」


「早く!間に合わなくなるわ!」


 目を剥いて滅多に見ない剣幕で捲し立てるベルーメルに、カースティは疑問符を打ちながらも棚に手をかけ、脇へと移動させる。そこにあったのは小屋の壁。


 ではなかった。


「なんだァ?この道はァ…。」


 そこに広がるのは、人一人通れるほどの闇、もとい道だった。小屋が岸壁に接している面の一角がくり抜かれていることから人工的に作られた道だろう。耳をすますと波音がする。十数メートル先の外海に繋がっているようだった。


「こんなところ通られたら死角もいいところだぜェ…。小舟がなくなったのも、外海に移動されていただけってことか。」


 カースティが苦虫を噛み潰したように、闇の向こうに見える月光に照らされた漣を見つめていた。そしてふと目線を落とすと、足元に赤い何かが見えた。カースティが一歩踏み出して拾い上げると、それは麻で折られた小さな布だ。カースティの手元を見たベルーメルが目を見開く。


「そ、れ…。」


 見たことがあった。

 無心になって衣嚢の中に入っている『モノ』を弄って取り出す。

 昼間に入り江で拾った赤い麻布。既に塩を吹いていたが、濡れているか否かの違いだけで、それは同じものだった。


「子供用の、スカーフ?ちょ、ちょっと貸して!」


 ベルーメルがカースティの手元から布を引っ手繰り、布に目を凝らす。子供特有の細い柔らかな髪が一本紛れていた。

 それは自身と同じ黒い髪。

 そして、布の端にはこの布の主の名が施されていた。


 その様子を先程の場所から見ていたハワードが全てを察する。小走りで小屋に向かいながら、ハワードはセラウドに応答を続けた。


「セラウド。今ベルーメル達が外海への隠し通路を確認したようだ。今から向かうよ。」


『急げ。思ったよりも時間がない。』


「任せたまえ。ところで、念の為なのだけどその行方不明の子供の名前を教えてくれるかい。」


 既にハワードは、ベルーメルが刺繍を見ながら呟くであろう名前を聞ける位置にいる。

 だからこそ確認したかった。その答えが分かり切ったものだとしても。



 『「メリル。」』


 

 セラウドとベルーメルの口からその名前が紡がれたのは、同時だった。



        ***



 もう何時間経っただろうか。先程まで感じていた湿気を含んだ生温い風も、壁の向こうで誰かが床を歩く振動も感じなくなってしまった。


 入れ替わりになるように、朝方特有の薄ら冷たい空気が肌を掠め、私は思わず身震いする。夜明けまでそれほど時間がないのだろう。遠くで微かに鶏の鳴く声が聞こえた気がした。


「今、何時なのかな。」


 秒針だけが聞こえている状態が長く続いていたので、そろそろ時間が気になってきていた。人の気配がしないことを改めて確認して、頭を左右に振る。視界を奪うために巻かれている布が緩んできていたからだ。手足も拘束されているので、視界を開くにはこれしかない。


 世界が揺れる。左右に向くたび後頭部の鈍痛が更に強くなるが、徐々に布が口のあたりまで下がってきた。口を開け、歯と顎を使って布を首の方へと誘導していく。


「はあ、疲れた。」


 漸く布を取り払い、目を開ける。数時間ぶりに視界が開けたが、やはりまだ暗い。天井を見上げ、自分が閉じ込められている空間が思っていたよりも広い場所であることに気づいた。


 鳥目なので目が慣れるのに時間がかかったが、心なしか見覚えのある場所だった。天井近くにある鉄格子の嵌められた小さな窓。埃っぽい空気もどこかで嗅いだことのある匂いがした。


 頭をフル回転させて、思いつく限りの場所を一つ一つ上げていく。奉仕活動で掃除に行った時に立ち寄った港の厩舎近くの物置も同じくらいの広さだった。しかし天井はこんなに高くない。一度だけ入ったことのある町役場の資料庫。いや、あそこには窓なんてなかった。もっと、もっと身近な場所のはずだ。最近はあまり入る機会もなかったが、数年前は毎日のように嗅いでいた匂いだったからだ。


 それに気づいた瞬間、頭に一瞬電流が走った気がした。


「礼拝堂の倉庫…?」


 そうだ。間違いない。日に当たらない立地にある所為で子供の頃から鼻を突く黴臭さ。水路を挟んで礼拝堂の真隣に位置するこの倉庫にはよく出入りをしていたのを思い出す。視界を奪われていたとはいえ、何故わからなかったのか。余程思考が遥か彼方へと飛んでいっていたことに今更ながら気付く。


 そして、次に出てくるのはもう一つの疑問だ。


 一体何の目的で自分のような一介の街娘を拐かしたのか。


 今もまだ残る後頭部の鈍痛。殴打されてから目覚める迄の記憶は全く無い。しかし、痛みに堪らず後ろを振り向いた時、そこには昼間見た奴らと同じ格好をした男が立っていた気がした。そして、それが導き出すのは一つの結論。


 私を自由にしておくは危険と判断されたということだった。


 身寄りのない私に身代金を払ってくれる人などいない。懐にある難民証明書を見ればそれは明らかの筈だった。ということは金目当てではない。暴行が目的であれば夜の内にとっくに手が出されている。外つ国に売り飛ばされることが目的ならば、こんな身近な足のつきやすい場所に監禁される筈がない。要は、私の行動を制限することが目的なのだろう。私が、私を拐かした者にとって不都合な情報を持っている可能性だってある。それが一体何を指すのかまではわからないが、私がここから逃げ出した時に彼らが被る不利益はさぞや大きなものであるに違いない。


「ここから出なきゃ。早く…。」


 まずは手の拘束を解かなければ何も出来ない。確かここには今は使われていないテーブルがあった筈。古くなって角が削れ、釘がむき出しになったものだ。隅まで歩いて、背中沿いに手探りでそれを探す。ザラザラとした手触り。塗装が剥げ、細かな棘がささくれ立った表面を撫でていく。すると、小さな衝撃が走った。


「痛っ。」


 ここだ。錆びた棘が何本も出ている。そこに手首を持っていき、藁縄を宛てがってこすりつけた。


 藁縄だったのは不幸中の幸いだった。強度の強い麻縄や化学繊維製はそう簡単に千切れないからだ。


 数分後、鈍い音を立てて両手が離れた。衝撃で思わず前に倒れてしまう。手首は身体中の血液が集まっているのかと思うほど熱くなっていた。触れると鋭い痛みがある。摩擦で傷がついてしまったようだが、今は構っていられない。屈んでスカートを加え、手で力一杯引き千切る。膝上でそれを結んで動きやすくなった。鉄格子のある窓から出ることは出来ないので、壁を伝い、天井近くにある小さな小窓まで行くしかない。意を決し、窓の鉄格子に足を掛けた。


 この孤児院に来て間もない頃。中庭に立つ大きな林檎の木によく登った。ちょうどカストピア人の子供が一人もいなくて、最初は友達が全く出来なかったものだ。

 一人でいるところを見られたくなくて、塀よりも高い木の上からずっと海を見ていた。水平線の先に置いて来た故郷と思い出を偲ぶかのように、いつまでもいつまでも。


「まだ、体が覚えているのね…。」


 壁に手を掛けながら、少しずつ登っていく。手に時偶蜘蛛の巣が絡まるのに顔を歪めながら、汗も拭わずに上を目指す。今がまだ夜明け前で良かった。いくら陽が入らないとはいえ、視界が開けている状態で高い天井迄登るなど、恐怖で足が竦んでしまうに違いなかったからだ。


 もうすぐ小窓に手が届くところまで来た。天井近くの空気は下と比べると大分温かい。バランスを整え、私は窓に手を伸ばした。

 

 その時だった。バンという音とともに扉が開かれ、視界が急に明るさを取り戻したのだ。同時に足元を掠める風。


「あの小娘何処に行きやがった!?」」


 首を擡げて恐る恐る眼下に視線をやると、そこにはランプを持った一人の男。瞬時に心臓が煩く胸を打つ。身体がその振動で揺れているような気すらした。

 何故。これまで人の気配はしなかったのに、何故今になって。しかもその男は。



 リスベニア兵だった。


 しかも聞いたことのある声だ。私を殴った男に違いなかった。

 どうしたらいいのだろう。天井近くまでは男が持っているランプの灯も届かない。今のうちに窓から出るか。いや、違う。そもそも何故だ。


 何故、あの悪魔がここに…孤児院にいるのか。


 もしかして。私が拐かされただけでなく、子供達迄危害を加えているのではないか。そして、優しいマザーにすらも。


 また、奪うのか。私から全てを奪ったこの悪魔達は、私の大切な人達まで道連れにしようというのか。


 もしそうであったとすれば。


 頭の中が沸騰しそうだった。手が、足が震える。髪の毛が逆立つ錯覚も。恐怖よりも、憎しみに身体が煮え滾る気がした。そんな私を他所に、リスベニア兵が舌を打ったかと思うと憎たらしそうに壁を足蹴にし、扉の向こうにいる仲間らしい男に女を探せと喚いていた。


 そして。


「潮時だ。夜明け迄に全員殺せ。」

 

 それを聞いた時、私の中で何かが切れた音がして、同時に梁を掴んでいた手が離れた。


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