10 始動
耳元で規則的に刻まれる秒針の音に導かれ、私の意識は俄かに浮上していった。
しかし、目には戒めが施され、時計を確認することは叶わない。その瞬間に自分が拘束されている事はすぐわかった。暗闇の中、埃臭い腐った木の臭いが鼻を突く。
何がどうなっているのか。その疑問に応えてくれる者は誰もいなかったが、不思議なほど自分の精神状態は冷静だった。
後頭部に鈍痛が残ってはいたが、視界を奪われている分聴覚がいつにも増して研ぎ澄まされ、僅かな風の音、人が歩く度に下半身から伝わる床の振動が手に取るように分かった。湿り気のある肌に纏わり付く空気から、今が真夜中だということも。
久し振りの感覚だった。
ハルトに流れ着く前、孤児としてその日暮らしの生活をしていた頃。貧民街で独りでに身についたのは、自分がどの様な状況に置かれているのかを把握し、迫り来るであろう危険を察知して身構えることだった。
目に入らずとも、足音や気配で不思議と人数、属性を瞬時に把握することが出来た。人買い、マフィア、敗残兵…。孤児である自分を守る為だったが、その礎となったのは誰でもない父だった。まだ生きていた頃に、戦場カメラマンとして生き延びる術を身につけた父がよく話を聞かせてくれた。
爆弾が空気を切り裂く音は花火に似ていること、空気中の火薬の匂いの濃淡で火元を特定出来ること、そして殺しをする為に薬に頼る兵が大勢いること…。
「昼間のあの悪魔達も、そうだったのかな。」
血走った目と確固たる殺意に身が縮こまったが、今思えば組み敷かれていた私も、悪魔たちと同じ負の感情を剥き出しにしていた。
決して普通ではない今の自分の状況を理解しつつも、頭の中を占めるのはあの悪魔達、そしてそんな悪魔から自分を救い出してくれた、五人の若者だった。
銀髪の彼は、セラウドさんと言った。懐かしい匂いがした。故郷に咲き誇る水仙の香りだ。川べりを彩る金の翼。春の訪れを告げる使者…何とも美しい記憶だ。それが私をこんなにもセンチメンタルにしてしまったのだろうか。
カストピアに帰りたいと思ったことはない。両親の記憶に触れる勇気など、まだ持てる筈がなかった。禿頭の様に全てを焼き払われた故郷の無残な姿も見たくなかった。それを薄情だと思う人もいるだろうが、自分を『守る』為にはそうするしかなかったのだ。
それによって心に出来たのは瘡蓋。今日会ったばかりの人間にほんの一掻きされるだけで、脆弱にも剥がれ落ちる虚構だった。
「私には…抱えきれない。」
だから捨てた。悲しい過去を。両親の亡骸すらもこの手に抱けなかった哀れな少女を、記憶の底に封印した。
他者を守れる力を手にし、己を高め合いながら前に進む眩しい彼等。一人の私は彼らほど強くなれない。
それでいいではないか。
私にはマザーが、子供達がいる。
戦中悲惨な生活をしてきた。
悲しみと屈辱を乗り越えて手に入れたこの平凡な生活。それが今の私を形作るもの。
凄惨な幼少時代を耐え忍んだ故手に入れたもの。それの何がいけない。
私は、私はこのままでいい。私の人生に、何の誤謬もない。
きっとこれが正しい。
薄ら暗く、まだ目の前に開けない道が、燦々とした曙光に照らされている保証もない今、無用な冒険をする利もないのだから。
そう自分に言い聞かせると、不思議と心を逆撫でする激しい怒りは潰え、ただ暗闇に響き渡る秒針の音に耳を傾けた。
***
「街の中心から随分と離れていますね。この道を毎日登るのは何とも骨が折れそうです。」
子供の足腰は鍛えられそうですけど、といいながらも全く息を上げずに月夜に照らされた丘へと通じる坂を歩く途中、ミジャンカが振り返って街の方を見遣る。雲の切れ間から月光が降り注ぎ、小さなガス灯の火が転々と散らばる街。祭りも終わり、明日は日常に戻るのだろう。
「それで?本当に先程の作戦でいいんですか?」
ミジャンカは悪戯っ子の様に笑みを浮かべる。今の状況を楽しんでいる様にも見えるが、きっと内心はそうではないのだろう。外見以上にひと回りもふた周りも大人の思考を持っているこいつのことだ。しっかり考えているのだろうが、作戦決行者の向き不向きも少し考えて欲しいと心の底から思った。
「あぁ…。全く気乗りはしないがな。」
イレイズが姿を眩ましたと聞いた時、その行方には粗方見当がついた。
問題はその先だ。
正面突破するにも少々相手が悪い。頭が切れる人物であることはわかったし、警戒感も並ではない。また、取り巻く環境を考えると、武力衝突ありきで行くのも大きなリスクを伴うことは重々分かっていた。
そこでミジャンカが「作戦Aで行きたいのですが。」と提案したのだ。一歩間違えば茶番劇になりかねない、ある意味捨て身の作戦だった。
「失敗るなよ。特に俺は面が割れているからな。余計なことは言わないほうがいいだろう。お前が最後迄やりきれ。」
「おや。自分の作戦立案で失敗したことは?」
「本当にいい性格だなお前は…。」
「お褒めに預かり恐悦至極ですよ、リーダー。」
結局俺は、確かに失敗した記憶がないだけ、こいつには何を言っても無駄なのだと悟らざるを得なかった。
つい数時間前にくぐった大袈裟なほどに大層な門を叩く。
丘の上にあり、修道院も兼ねているこの建物からは街をよく見下ろせる。祭りで湧いていた街も今は眠りの底にあるが、この孤児院は違った。ギイと地を這う様な重厚な音を立て、中から蠟燭の明かりの主が訝しげに扉を開けた。銀色の瞳が覗く。
「この様な時分に一体何のご用ですか?セラウド様。」
「夜分遅くに申し訳ないな、マザー。」
「子供達が不審がります。明日にしては頂けませんか。」
迷惑に思っている様を隠そうともせず、マザーは困惑した顔で俺を見る。蠟燭の火が中から吹き抜ける夜風に煽られ、影が大きく揺れた。
マザーの様子を見たミジャンカが、俺の背後から人のいい笑顔を浮かべて進み出た。
「大変申し訳ありません。どうか不躾をお許しください。誠に勝手ながら、実は一夜の宿をお願いしたいのです。」
予想だにしなかった申し出に意表を突かれたのか、マザーは扉から身を出し目を見開く。品定めをする様にミジャンカに問うた。
「あなた様は?」
「こちらのセラウドの連れでミジャンカ・コラケムと申します。ジャイレンでしがない街医者として診療所を構えております。」
ミジャンカが軽く頭を下げる。思いもよらない自己紹介にマザーは更に困惑を深めたようで、「はぁ…。」と首を傾げた。見た所大人への境界線にいると思しき年頃の子供に、医者と名乗られるとは思わなかったのだろう。俺も正直ここで身分を名乗る必要はなかったのではと思う。相手に無駄な混乱を与えてどうするつもりだこいつは。
「それで?お医者様が何故斯様な時間に?」
「はい。此方の丘迄熱病に効く薬草を摘みに参ったのですが、恥ずかしながら帰りの足を逃してしまったのです。この周辺は野犬も多く、露宿するには余りに心許ない。彼は私の付き添いで共に来てくれたのですが、夕刻お邪魔した孤児院が直ぐ近くにあると伺ったので参じた次第です。」
既に日付が変わっているこの状態で助けを懇願する人間を追い出す聖職者もいないだろう。
「それは、御気の毒ですこと…。」
マザーの目がミジャンカの腰に下げられた麻布に向けられる。何かが入っていると思しき程良く膨らんだそれは、マザーの疑心を溶かすには十分だった。訝しげな様子は未だ隠さずとも、マザーが決めあぐねているのが手に取るように分かった。もうひと押しのところでミジャンカが次の行動に出る。
「夜明けとともに失礼させて頂きます。どうか御慈悲を頂けませんか。」
今にも泣きそうな幼気な顔で手を合わせ、マザーへ距離を詰める。まだ幼さの残る目に月の光が見事に反射して、程よく濡れて見える。ここまで計算して距離を詰めているなら最早こいつには恐怖しかない。策士も策士である。
マザーも流石に参ったと言った具合に小さく息を吐き、俺達を迎え入れた。
「わかりました。どうぞお入りください。」
それでも俺をじとっと見る目は冷たい。俺が何か勘づいているとは思っているのだろうが、『純粋に助けを懇願する子供』の手前それは一瞬で終わった。
「あぁマザー。寛大な御心に感謝致します。これもプロフェリアより賜りし縁。その縁を胸に私も救済の道をともに歩んで参りましょう。」
ミジャンカがマザーの手を取り、小さく口付けする。その様は天空にメシアを見た迫害者が救いに歓喜する宗教画のように壮麗だった。
腹の内を知っている筈の俺ですら、本気で言っているのではないかとすら思えてくるのだからタチが悪い。
「お、お連れの方は何とも信心深いお医者様のようですね。」
心なしか顔を赤らめたマザーが咳払いをする。満更でもなかったようだ。
そして、マザーが背を向けた瞬間にミジャンカがくすりと笑みをこぼす様は…
「迫真の演技だったでしょう?」
何とも見事なものだった。
「荒屋で申し訳ありませんが、此方をお使い下さいませ。」
マザーに通されたのは、長屋になっている孤児院の寝舎と隣続きの小さな離れだった。しばらく使っていないのだろう、暗闇でも埃で空気が淀んでいるのが分かった。
「ありがとうございます。」
「何かお持ちするものは御座いますか。何分贅沢品や嗜好品は置いておりませぬもので、お出しできるものも少ないですが…。」
マザーが手持ちのオイルランプに油を注ぎ、燐寸を擦った。ぼんやりと揺れる灯りが部屋全体をゆっくりと照らしていく。聞くとこの離れには電気が通っていないという。白い布で覆われた、古びた机と椅子が部屋の隅に重ねられているのが目に入った。ほぼ物置がわりにされているのだろう。
「いや、問題ない。」
「左様ですか。それではおやすみなさいませ。」
設えられたベッドに新しいリネンと毛布を置いていき、マザーは恭しく頭を下げると、静かに扉を閉めていった。
「何とか入り込めましたね。」
「あぁ。それにしてもお前、あそこまでやるか普通。」
「何がです?医者であることに偽りはありませんし、ここに来るまでに何頭も野犬が襲ってきたんですから、彼女にも取るべき行動を取った賢い人間に見えたと思いますよ。」
その野犬をまるで狩猟のように矢で射る様をマザーに見られていたら作戦どころではなかったはずだが、「うまくいったんですから結果オーライですよ。」と宣うミジャンカに何を言っても無駄なのは明白だった。
一層の事舞台役者にでも職を変えてしまえと心の中で呟いたのはここだけの話である。
「よし。ミジャンカ縄を。」
そう、のんびりと時間を持て余している場合ではない。ミジャンカは腰に下げていた麻布から、音も立てずに鉤縄を取り出す。まさかマザーも薬草の代わりに刃物が入っているとは思わなかっただろう。
「そうですね。セラウド、あまり時間はありませんし、マザーに気づかれる前に子供たちのところへ早く。」
「分かってる。」
ミジャンカが窓縁に打ち付けられていた鉄格子を鉤で器用に解体していく。かかった時間はわずか数十秒だ。
窓は何年も開閉されていないのだろう。サッシは錆つき、手で引くと鈍い摩擦音が響いた。
ミジャンカはオイルランプを開けると、中に入っていた油を懐に入れていた匙で掬い、サッシに潤滑油がわりに垂らす。すると、先程までの耳障りな摩擦音が嘘のように無くなり、窓はスーッと心地よいほど滑らかに開いた。
「ミジャンカ。お前が先に行け。」
「わかりました。すみませんが肩借りますよ。」
ミジャンカが身を乗り出し、雨樋に鉤を引っ掛けると、俺の肩に足を乗せ、縄を掴んでひょいひょいと屋根に飛び乗った。小柄なだけあって身のこなしが軽い。俺もすぐにその後に続いた。
屋根に登ると、修道院と孤児院のあるこの敷地の全体像がよく見える。屋根が月光を反射して青々と輝いていた。
自分たちがいる場所から対角線上に荘厳な尖塔が見える。鐘楼と同じくらいの高さもあるであろう立派な礼拝堂は、この街のランドマークなのだろう。海沿いに立っているそれは船乗り達の導きにもなるはずだ。
視線を戻して屋根伝いに、子供達の寝舎に飛び移る。
マザーの話を信じるのであればこの孤児院には二十人の子供達がいる筈だ。イレイズはまだ大丈夫だと踏んでいた俺は子供達が『全員』無事でいるかを先に確かめたかった。足早に屋根の上を移動する。
「セラウドこっちです。」
先に登っていたミジャンカが小声で手招いた。ミジャンカが自身の足元を指差す。そこだけが妙に明るく、月光がより明るく反射しているように見えた。
「天窓か。好都合だな。」
幸いにもはめ殺しになっていない天窓が付いていた。中の様子を確認するには丁度いい。
覗き込んで見ると、子供達が床が見えないように蒲団を敷き詰めて眠りについているのが見えた。枕元には其々の着替えが行儀よく並べられている。
しかし、順々に子供達を確認して最後の子供迄来た時、背筋に冷たい汗が流れた。
「数え間違えか?」
「はい?何か問題でも?」
「…十九人しかいないな。」
「何ですって?」
何回数えてもそれは同じだった。
そもそも蒲団自体が十九床しかない。空の蒲団がないのだから、用を足しに出ている子供もいないことになる。そして、同時に見知った顔が見えないことにも気が付いた。
只ならぬ気配を感じたのか、ミジャンカも天窓を覗き込む。
「セラウド、どういうことなのか説明してください。一体何が起こっていると言うんです?」
脳裏に、人懐っこく笑う黒髪の少女の顔が甦った。
『もう明日までなの。ここを出るんだよ。お父さんとお母さんが出来るんだ。』
少女は間違いなく明日迄と言った。なら今夜は皆と同じ床に就いておらねば不可解だ。
俺が一度目にこの孤児院を後にした時点で斜陽時だった。丸腰の一般人が、野犬に襲われる危険を払ってまで夜更けに孤児を引き取りに来る理由もない。逆転の発想をすればこう云うことになる。
その少女がこの孤児院から出る所を、誰にも見られてはならなかったと言うことだ。
その少女がいない。それが指し示すのは、最悪の事態だった。こんなにも早く動いているとは迂闊だった。
「ミジャンカ。ハワードに繋げ。」
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