9 彌縫の果て
月が雲に隠れていることに気付いたのは、足を止めてから随分と時間が経った後だった。祭りの光で街が煌びやかに照らされていたせいか、この西の入江に広がる青い闇が目を完全に覆い隠していた。街灯も寂しく点々と佇んでいるだけで、夜道を照らす役目は殆ど果たせていない。
外套を羽織ってないおかげで、夜風に体が震える。今の自分の定まらない気持ちと同じ様に風に揺蕩う髪すらも疎ましかったが、手で搔き上げることもなく、ただただその場に立ち尽くしていた。
幼子の様に泣いた。
目が溶けてしまいそうに痛い。
きっと腫れていることだろう。
咽び泣いている様を誰にも見られたくなくて、気が付けば家に帰るでもなくこの場所にいた。思えばここが、私の出発点だった。無意識のうちに足が向いたのだろう。
幼かったあの日、襤褸布だけを纏って、共存と文化の国と謳われたオガールを目指して難民船に乗り込んだ。何も持たない孤児と成り下がっていた当時の私には、たった一本の蜘蛛の糸だった。
国に、カストピアに残る道もあった。しかし忌まわしい記憶に押しつぶされる恐怖に負け、私は外つ国で生まれ変わる道を選んだ。
そう、逃げたのだ。
長い船旅の中で病気で亡くなる人もいた。未来を悲観して海に飛び込む人も。それでも私にとってはオガールに行くことが『普通の人』になれる最後の手段だったのだ。だからこそ、立ちはだかる壁に立ち向かう覚悟があった。あったつもりだった。
途中で嵐にあって船が座礁した時だって希望は捨てなかった。陸まではもう少しだった。生きたい気持ちしかなかった。
ハルトのこの西の入江に打ち上げられた時は、見たこともない神様が私に生きろと言ってくれた気がした。そして入江に倒れていた私を、マザーが拾って孤児院で育ててくれた。同じカストピア人だったマザーは、特に私の気持ちに寄り添ってくれた。彼女に支えられ、『普通の人』と同じ生活を手に入れることが出来たことが嬉しかった。
だからこそ、何も知らない余所者にこれまでの苦労を蔑ろにされた気がして腹が立った。私自身を否定された気がしたのだ。
「…寒い。」
今日一日何も食べていないことに加え、肌寒い風の所為で余計惨めになってきたが、どうしても祭りの華やいだ空気の中に入ることが出来ず、戻れないでいた。しかし現実問題このままだと確実に風邪を引く。腫れた目を擦り、空を見上げた。
「帰らなきゃ…。」
自分もいい大人ではないか。余所者に言われたことなど気にせず日常に戻ればいい。自分の人生だ。胸を張ろう。他人に後ろ指さされることなど、何一つしていないのだから。
頭の中ではわかっていた。しかし。
『己の求める答えしか期待しない問いは単なる自己満足だ。』
「…っ。うるさい。うるさいうるさいうるさい!」
銀髪の彼が言い放った言葉が頭を巡り、これまで薄氷の彌縫で守っていた心を切り裂く。何度目かもわからない視界の歪みに嫌気がさした。最早泣き叫ぶ力も残っていなかったと思っていたのに、心が叫べば何も考えずとも声は出る。しゃがみこんで白磁の滑らかな砂浜に手をついた。
「そんなことくらい…言われなくてもわかってる…。」
その時だった。
背後の砂を踏みしめる音に気付いたと同時に頭に衝撃が走り、私の意識は闇に沈んだ。
視界が黒く染まるその刹那、不快な下卑た笑いが聞こえた気がした。
***
宿の食堂で勝手に喋る女将の全く耳に入ってこない世間話に適当に相槌を打っていると、お目当てのものが届いた。流石は腕利きの情報屋。三時間では見くびり過ぎた様だ。俺は、次は時間指定をさらに早めるとしようと北叟笑んだ。
報告書の包みと一緒に届いたものは、一枚の写真だった。
そこに詰まっていたのは、哀しすぎるほどに深い親の愛そのものだ。我が子を思う余り、息絶えるその時まで口にすることのなかった親としての思いが一枚の写真としてこの世に残されていた。
記憶の中に根付く一瞬の時を、目に見えるものとして残す事のできる唯一の物。それは哀しくも美しい。両親の記憶など遠い過去のものになってしまった自分とは縁遠いものだと自覚しながらも、不思議といつまでも眺めていられた。
過去は、忘れられることはあっても訣別することは出来ない。生きていく限り、トラックレコードとしていつまでも残り続ける。記憶の中に留まるものか、物質としてかの違いはあったとしても。それと向き合うか、逃げ続けるかはどの選択をするかにかかっている。
そう、どちらの選択も出来る。
出来るからこそ人間は苦悩し、足掻き、立ち止まる。それが人間としての業であり、責務であると思えてならなかった。
それでも人は救いを求める。そしてその救いが己の過去そのものであることだってある。
色褪せた一枚の写真が、その救いであるようにと、俺は柄にもなく思った。
粗同刻に奴らは帰ってきた。その顔は一同に険しい。一瞥するだけで、調査内容が如何か手に取るようにわかった。奴らの顔を見た女将も流石に空気を読んだのか、どうぞごゆっくりとそそくさと食堂を出て行った。
「矢張り思った通りだったか。」
いずれにせよ、西の入り江の小舟の主が綾羅錦繍の祭火に湧く街人に危害を加える可能性を考えると、早急に処分せねばならない。
「あのねえちゃんにはどうする。本当のことを話すってのかァ?」
カースティが眉を顰めながら俺に問うてきたが、正直なところ決めあぐねていた。
「話して何になる?」
物臭で言っているわけではない。イレイズに真実を伝えようと伝えまいと、再び「あの場所」に赴かねばならなかった。
「俺はあくまで西の小舟について調べろと言った。奴らの目的も含めてな。今何処で油を売っているやも知れぬ一般人を探して高説を垂れる程暇ではない。そもそもよく考えても見ろ。『余所者』の俺たちの口から話して聞き入れると思うか?」
「それだけが理由ではないのだろう?」
ハワードが俺の前に腰掛けた。一息ついて俺の方を見遣る。
「一つの事実として彼女が一般人であることは認めよう。ただそれが真実を伝えるべきではないという理由にはならないさ。」
「だとしたらどうした。」
「いいや。ただ、昨日まで彼女の周りを取り巻いていた日常は間違いなく変わる。『無くなる』のだよ。何が起きたか分からないまま。それで、彼女は納得するのかと私は漠然と思うだけだ。」
俺たちの知り得た事実は、間違いなく彼女を奈落の底に突き落とすもので、事実を告げることは決して祝福されたことではない。知らせたところで信じていたものが間違いだったと悟った時、彼女が深淵に飲み込まれない保証など何処にもなかった。それが赤の他人から告げられたのなら尚更だろう。
真実を話しても話さずとも、イレイズの日常は様変わりする。それも俺たちの『所為』で。
何処ぞの馬の骨とも分からぬ余所者に平穏な生活を掻き乱され、あの娘は恨むのだろう。俺たちを。親の仇の如き激烈な憎悪を抱くのだろう。
ただ、それでもいいと思った。
どうせ二度と会わない小娘だ。後々までの世話は俺達には出来ない。する義理もない。ならば信じていた虚構が彼女にとっての『現実』であり続けるようにすることが、お互いの為だろう。
それで彼奴がすぐに新しい日常に馴致出来るなら、それもまた救いの一つの形になり得るのではと、そう考えたのだ。
だからこそ、俺が彼女に伝えようとしたことは一つだった。
…RRRR
宿の食堂に据え付けられていた電話がけたたましく鳴り響く。女将が席を外していたので、誰も出るものがいなかった。
「いいわ。私が出るから。」
最も近い席に腰掛けていたベルーメルが腰を上げ、受話器をあげる。
「もしもし。あら、朝はどうも。女将さんなら今外に行って…」
受話器の向こうは朝共に酒を囲んだ役場の街人のようだったが、一瞬にしてベルーメルの顔が曇る。顔に一筋の脂汗が伝い、見る間に食堂の空気が淀んで行った。
「ちょっと待ってちょうだい。セラウド、イレイズの足取りが分からなくなっているそうよ。」
「なんだと?」刻限は既に日付が変わる手前だった。
「祭りにも顔を出さなくて、自宅にも戻っていないそうなの。夕刻西の入り江に向かうのを見た人がいるそうなのだけど、まずいかもしれないわ。」
「あァ?待て。お前ら同刻に入り江にいたんじゃねェのか?」
カースティの問いかけに、ミジャンカが眉を顰めながら右手を上げた。
「確かにその時間に自分とベルーメルはいましたが、見かけてませんね。気付かなかっただけなのか、入れ違いだった可能性はありますが…入江に続く道でもすれ違いませんでした。」
最悪だった。奴等が動いたに違いなかったからだ。昼間の騒ぎが耳に入って、俺達と接触したイレイズを連れ去ったのだろうか。
「セラウド。今は御託を垂れる前に急ごうぜ。」
俺たちは正義の味方じゃない。だから人助けをする云われもない。しかしフィンドが一般人に危害を及ぼそうとしているのなら話は別だ。奴らが無辜の民を手にかけることは如何なる理由があろうとも許してはならない。自分達との邂逅が引き金になっているとしたら尚更のことだ。
イレイズがいなくなったということは、今夜起きるであろう一連の出来事の序章が始まったに他ならないとしか思えなかった。こうなってしまうと、俺たちに残された選択肢など一つしかない。
「…っち。」
俺は舌を打ちながら先程から手に握り締めていた小さな封筒を懐に押し込み、外套に手を伸ばした。
「時間がない。俺とミジャンカは街の外れの孤児院へ向かう。カースティ達は西の入り江に急げ。どうせ序でになるんだろうからな、夜明けまでに処分を完了させろ。」
そう、夜明けまでだ。それを過ぎた時、彼女の命がある保証はなかった。
「ったく、オメーも素直じゃねェなァ。任せろ。」
「そうね、私たちも後で合流するわ。」
どうか、この先に待っている悪夢よ。
過去に囚われた哀れな街娘に巣食う深淵を、これ以上広げてくれるな。
そして少しでいい。
差し込んだほんの一筋の光に、手を伸ばしてくれと。
心から思った。
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