7 黒
「あぁ。三時間以内に頼む。お前にかかればこれくらい何てことはないだろう。またこちらから連絡する。」
受話器の向こう側から聞こえる悪態を聞く暇もなく用件だけを告げて俺は手を下ろした。相手方はまた突拍子もないことを、とうんざりしているだろうがそれなりの働きはしてくれるだろう。そう云う奴だった。
殺人人形と化し、あるいは犯罪組織を形成して一般人を殺戮するフィンド達を『処分』することによって生活を繋いでいる中で、人間の心の深淵を覗くことがある。それは時として昨日まで日常にいた人間をも『黒』に染め上げてゆく厄介なものだ。
大切なものを喪った時。
誇りを汚された時。
秘密が露呈した時。
己を哀れんだ時。
信じていたものが間違いだった時。
箱の中で林檎が腐っていく様ににじわじわと広がる黒。一度その深淵に落ちれば、自力で這い上がることは並大抵のことではない。
そんな黒に染まった自分こそが正義であると信じて疑わないからだ。
そしてその歪んだ信念は、時には己の承認欲求を自ら満たす、甘美な麻薬になる。それに染められ、魅入られていることを自覚することもなく、道を踏み外すのだ。
戦争によって人生が狂わされたあの娘も、きっとそうなのだろう。そして、やっと掴んだ安寧の日々すら、或る物の犠牲の上にあるものであると思い知らされた時、彼女の深淵は更に広がるに違いなかった。
ただ、それは無限ではない。
その深淵に囚われたことのある身として、人を永遠に閉じ込める牢獄にはなり得ないことを俺は知っていた。
暗闇の帳を切り裂く一筋の光。悲劇の中であっても必ず小さな希望はある。
細く細く、遥か天より垂らされた蜘蛛の糸の様に。それを掴もうと手を伸ばすものが救われるのだ。
「もう電話は済まれましたか?」
「あぁ。突然済まなかったな。連絡を取りたかったので電話を借りられて助かった。」
背後に立っていたマザーに向き直り、電話を拝借した礼を述べる。人の良い笑みを浮かべたその修道女は、よろしければ、と茶の席を勧めてきた。
「カストピア人のお客様なんて本当に久しぶりで驚きました。セラウド様、と仰いましたね?」
街に一つだけある公営の孤児院は、街の中心から離れた丘の上にあった。斜陽の刻、窓の外に広がる海は澄んだ青から段々と蒼黒に染まりつつあった。
「祭りの日だというのに、この辺りはいやに静かだな。」
「街外れの孤児院ですから…。静謐に身を委ね、彼の戦争でお亡くなりになられた方々の御霊に寄り添って日々を過ごすのには大変良い場所ですわ。」
修道院の敷地内に建てられた孤児院だからだろう。私営の個人と比べるととても落ち着いた空気の流れる施設だった。
「国からの支援金があるとは言え、孤児院の運営もさぞご苦労が多いことだろうな。」
「子供達も育ち盛りですので、楽ではございませんが、信者の方からの施しも頂きつつ、慎ましくもお陰様で…。二十人の子供達もすくすくと育っています。有難いことです。」
「そうか。」
「子供達の教育も、この孤児院出身のカストピア人の大学生が手伝ってくれています。この孤児院の最後の一人を見送るまでは支援をしていきたいと言ってくれている子ですの。本当にいい子に育ってくれました。」
「ほう。それはマザーのご努力の賜物だろうな。」
誰のことを言っているのかは聞かなくてもわかった。しかし、妙な違和感に摘まれているかの様な居心地の悪さが次第に俺を取り巻いてゆく。
西日に目を細めながらも窓の外に目を向けて見た。すると中庭の中心に立つ実をつけた大きな林檎の木、そして庭を駆ける制服を身につけた子供達が目に入る。シンプルながらも洗練されたデザイン。首元のスカーフが全体のシルエットを引き締め、育ちの良い印象を受けた。今まで見た孤児院には広がっていなかった光景だ。
「マザー!今日のご飯は何?」
「ねえこの人誰ー?」
しかしそこは子供。マザーを見つけた瞬間きゃっきゃと屈託のない笑顔を見せながらこちらへと駆け寄ってくる。
「これ、お行儀よくなさい。お客様がおいでなのですよ。」
それをマザーは口に人差し指を当てて制するものの、子供達はなかなか落ち着かない。
「申し訳有りません。騒がしくて。少し失礼しますわ。」
「いや。子供は騒がしいくらいが丁度いいだろう。遊ぶのが仕事だ。」
席を立ち、蹲み込んで子供達と目線を合わせる。七、八歳の子供が多いようだ。困った様にため息をつきながら、マザーは台所に向かって行った。菓子を与えるのが一番静かになると踏んだのだろう。
「ねえねえ!お兄さんこの街の人なの?」
一人の少女が手を後ろに組みながら興味ありげに俺に近づいてきた。しかも。
「わー!お兄さんの髪の毛綺麗!キラキラだぁ。」
「…っ。おい、離せ。」
「すごいすごい!初めて見た!」
前髪を思いっきり掴まれた。不測の事態に思わず体がつんのめり、膝をつく。
「いいなぁ。私真っ黒だからキラキラな髪の毛すごく憧れちゃう。」
まるで新しい玩具を手に入れた様に俺の髪の毛を手にとってまじまじと弄る少女。本日何度目かもわからないため息をついたその時、少女の首元に巻かれていた赤いスカーフが目に入った。それに少女も気づいたのだろう。俺の髪から手を離し、披露するかの様にスカーフに手をやった。
「いいでしょ。マザーがみんなに作ってくれてるんだよ。」
スカーフの端には小さな刺繍。見るとそこには「メリル」とあった。
「お前の名前か?」
「うん!私メリル。」
周りに目を向ければ子供達一人一人の名前がそれぞれのスカーフに施されている様だったが、緑や黄色のスカーフばかりで、赤いスカーフはこの少女だけだった。メリルと名乗るその少女は可愛いでしょと言わんばかりにくるくるとその場で回る。
「赤はお前だけなのか?」
「うん。マザーがね、メリルは赤が似合うって。私赤好きだから嬉しかった!でも、もう明日までなの。ここを出るんだよ。お父さんとお母さんが出来るんだ。」
無邪気に笑う少女だったが、その途端先程から感じている妙な違和感がより一層増した気がした。いや、正確には自分の中にあった漠然とした疑惑が大きくなったというべきか。更に言えば子供達の中で黒髪はメリルだけだ。黒髪は普段見ているあの女も同じくで、ある外つ国出身者に多い色。一つ一つのパズルのピースが段々とつなぎ合わされていく。
「お前、ここに来る前は」口を開いた時だった。
「あ、マザー。」
いつの間に戻っていたのだろう。先ほどまでと同じく微笑んだマザーが俺の後ろに佇んでいた。
「ほら、あなた方いい加減になさい。もう夕食の時間ですよ。」
「はあい。」口を窄め、不服そうに俺の元から離れる子供達。マザーに促され、奥の食堂へと皆集まっていった。
「またねお兄さん!」
メリルが俺に向かって手を振ろうとしたが、マザーに早く食堂へ入る様促される。何も言わぬまま、俺は立ち上がってマザーに向き直ったが、心なしか先ほどの微笑みが陰鬱に濁っている気がした。
太陽が沈み、宵の口に差し掛かっているからではないだろう。
「さっきの黒髪の少女。今日までと言っていたが引き取り手が決まったとか?結構なことだな。」
マザーにとっては素朴な疑問な筈だった。しかし、彼女は一息置いて答えとは程遠い言葉を放ったのだった。
「セラウド様、申し訳ありません。お聞きの通り間も無く子供達の夕食の時間ですので、どうぞお引き取り下さいませ。」
其処に笑みはとっくに無かった。淡々とした口調で俺に向かって小さく頭を下げる。物言わずとも、明らかに俺をこの場所から立ち去らせたい、その一心が伝わって来た。
メリルの赤いスカーフ、黒い髪。そしてこの孤児院の立地。それぞれの糸が縒り束ねられ、一本の線に繋がるのを感じた。
「それは悪かった。電話を拝借しただけなのに、長居をして済まない。」
「いいえ。こちらへどうぞ。お見送り致しますわ。」
マザーの後をついて、子供達のいる食堂とは反対の回廊を通り、大きな扉に足を進める。来た時も通ったはずの回廊は夜の帳に包まれ、燭台の蝋燭の火が隙間風に揺らめいていた。
「お気をつけられて。」
俺はギイ、と鈍い音を立ててマザーに開かれた扉をくぐるが、薄ら寒い夜風が肌を掠めたその刹那、彼女の方へ向き直った。最後にどうしても言いたいことがあったからで、それは奴等にも普段から指をさされる俺の悪い癖だった。
「一つだけいいか?」怪訝そうに眉を顰めるマザー。何でしょう、と如何にも気が進まなさそうに口を開いた。
「あんたのその修道服…炭を流したこの夜に負けず黒い。この暗さではランプがあったとて足元が見え難いだろう。精々気をつけることだ。」
女の銀色の瞳が、煤けた灰色に変わる。そして気づけばその女の修道服は、訪れた夜の漆黒の闇に飲み込まれ、境目がとっくに分からなくなっていた。
「闇に足を取られぬように。」
女は、無言で扉を閉ざした。
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