第51話 悪の具現

 阿鼻叫喚。それがこの場を現す最も良い言葉だろう。

 空中に無数に張り巡らされた紅の糸により、果敢にもあの紅の靄をまとった怪物グレイに向かっていた黒装束の数人は捕縛され、全身を捻じられ操り人形のごとく、空中にぶら下がっている。


「もう嫌だっ!!」

「あんなのに勝てるわけねぇっ!!」


 黒装束の二人が、一目散で屋敷の外へと逃亡を図り、


「こ、こら逃げるでないっ!」


 裏返った毒酒の指示が飛ぶ。

グレイは億劫そうに握り拳をつくり、右の人差し指と中指を伸ばし、夜空へ向けて折り曲げる。


「い、いやだぁっ!!!」


 逃亡を図った二人の黒装束は、空中へと持ち上がり、まるでボロ雑巾のように絞られて行く。肉が拉げ、全身の血液が地面にぼとぼとと零れ落ちていった。

 既に、残り数人になった数人の黒装束たちも、涙を流し、両膝を付き、腰を抜かし、失禁し、脱糞し、ただ神への慈悲の祈りを捧げ続ける。


(あれは、本当に人?)


 小刻みに打ち鳴らす自らの歯を自覚しつつも、サトリは何度抱いたかもわからない自問をしていた。

 あんな現象、エルフ族に言い伝われる伝説の英霊たる聖霊王でもなければ、起こせやしない。いや、そもそも、あれはそんな清廉な存在ではない。もっと、この世の悪をより集めたような――。


「ぐぎゃあっ!!」


 最後の黒装束たちが、断末魔の声を上げて燃やされていく。

 風の壁により、出口を塞がれその中で炙られ焼き殺されたのだ。

 人である限り、感じざるを得ない恐怖というものが存在する。あれの存在は、そんな根源的な恐怖を引き起こさせる。

 現に、敵として相対しているわけではないのに、サトリは怪物化したムンクや毒酒なんかより、グレイの方がはるかに恐ろしかったのだから。

 だからこそ――。


「やるじゃねぇか。でもぉいいのかぁー? 他の場所に餓鬼共を捕らえて――」

「お前は、黙ってろ」


 言葉は最後まで続かず、ムンクの頭部が燃え上がる。

 グレイは微動だにせず、バケモノの僕と化したサトリと同じ冒険者の組織クランに属していた仲間達を眺めていた。

 彼らを見るその紅に染まった瞳には、怒りや憎悪は含有せず、強い憐憫の感情のみが色濃く宿っていた。


「おい、聞こえているか? 今からお前達をそのくそったれな呪縛から解放してやる。最後にお前の仲間に、言いたいことはないか?」


 グレイの叫びに、仲間達の全身がビクンと動き、突如、薄気味の悪い笑みが消失する。


『殺せぇ!!』


 ムンクの足に口が生じ、部下達に命じる。その始めて生じたムンクの怒りと焦燥をたっぷり含んだ声にも、仲間達は皆ピクリとも動かない。

 ただ、代わりに、目から涙のように緑色の液体が流れ出始めた。


『どうしたっ!? この俺様の命令だぞ! 早くその餓鬼を殺せぇっ!!』


 ムンクの頭部らしきものが盛り上がり、顔を形成しながらも、凄い剣幕で捲し立てる。


「ア……クウ……さん、ごめ……ん」


 メンバーの黒髪の青年が、すまなそうに声を上げる。彼は元来、曲がった事が嫌いな人物だった。本来こんなクズのような所業に関わるような者ではなかったはずなのだ。


「すいま……せん……こんな……つもり……じゃ」


 頬を緑の涙で濡らしながら、金髪の青年が懺悔の言葉を述べる。彼は泣き虫でいつも、ムンク達、厳しい先輩冒険者にどやされて、良くサトリに助けを求めてきた。


「アクウさん……もうしわけ……ござ……せん……サト……リのねえさん……アクウさん…………クを頼み……す」


 スキンヘッドの男が、すまなそうに呟く。彼はメンバーのまとめ役。兄貴的な存在だった。すっかり変わってしまったが、元々は責任感の強い男だった。それが、なぜムンクのあんな卑劣な行為に手を貸していたのか。それはサトリにもわからない。

 ただ一つわかることは、皆、今のこの気持ちだけは心の底からの言葉ということのみ。

 なぜなら、全メンバーが口にするにつれて両眼、口、耳から緑色の液体を垂れ流し、その顔はドロドロに溶解していたのだから。


『役立たず共がぁっ!!』


 ムンクが右腕を上げるも、


「だから、少し黙ってろといっている」


 不機嫌な声を契機に、ムンクの頭部に黒色の雷が落ち、悲鳴すら上げずに、緑色の液体となって四方に飛び散った。


「オイラの方こそ……気付いてやれずにすまん」


 アクウは、顔を涙と鼻水でびしょびしょに濡らしながらも、顎を引き小刻みに震わせていた。

 

「アクウ! 顔を上げろ! お前達の家族が命を賭して伝えようとしているのだ! その最後の雄姿、見届けてやれ!!」


 グレイから檄が飛び、アクウは顔を上げて身を震わせる。

 

「「「いままでありがとう」」」」


 つきものが落ちたように皆はそう微笑む。同時に炎の壁が頭上から静かに落ちていき、全ては塵へと変わる。

 サトリにとってアクウのみが執着対象であり、他の人間などただの野蛮な猿程度にしか思っていなかった。そのはずだったのに、強烈な喪失感と悲しみ、後悔がシャッフルされごちゃごちゃとなり、わけがわからない。ただただ、ひたすら涙だけが止まらなかった。


「おい、グレイ! 毒酒が逃げたぞ!」


 冒険者ギルドの英雄であり、元Sランクの冒険者――赤髪の死神ガイウスが、グレイに叫ぶ。


「そちらは問題ない。既に追跡済みだ。それより、復活するぞ。気を付けろ。少々、厄介な気配だ」


 グレイは一点を凝視しつつも、右手で十分に距離を取るように指示を出してくる。

 そのとき――。


『ムンクの有する魔王種の種の発芽が確認されました。ムンクは【スライム公爵】から、【魔王ムンク】へと進化いたします』


 無機質な女性の声が頭に反芻したのだ。

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