月華の末裔

ゆうき 純

修正版 第1章

登場人物


ヴァレン  都キュクロス・アスティラトからの逃亡者

ジェニ   ヴァレンが保護する娘 

ティリー  ヴァレンが保護する娘  


アウグスト ヴァレンたちが逃げ込んだ集落の長

エレン   アウグストの妻

ターイシュ 集落の子供


賢王  バータル

賢王妃 ジェイド


聖王  ツーラン

聖王妃 タルジュ


レイズル 薬草師

キアラン 墓掘人




章前


《デュオミリアの年

 すべてが滅びた

 地はうねり湧き立つ海に都は消えた

 大瀑布ケイマルスの底

 そこに真の宝が在る

 冥府の底に眠る

 深く静かに》


 一羽のカラスが、力強い羽ばたきでまっしぐらに空へ翔けあがった。

 夜明けの気配に追われる薄闇に、たちまち滑らかな紫黒の体躯が溶け込む。ぱっと見、尾羽を怒らせ餌をついばむ街角のカラスと大した違いはないが、そのくちばしが実に鮮やかな黄色だった。そして、金茶色に輝く目は、相当な知性をうかがわせて全てを見逃さない。

 風を求めてぐるりと大きく旋回するカラスの下には、南を大瀑布ケイマルス、西は悠久の大河ハーディーンに守られた八芒星型の都市が広がっている。安定した気候に恵まれた豊かなローデヴェイク国の首都、人口十二万余を抱えるキュクロス・アスティラトである。

 都の人々が目覚めるより前にカラスが飛び立ったのは、首都中心に位置する王宮殿の一角にある近衛隊の塔の最上階からだった。国防を担う右府の軍の中でも精鋭部隊の彼らは色鮮やかな旗で誇らしげに塔を飾っている。

 しばらくそのあたりを舞って己れを脅かす動きがないのを見て取ったカラスは、最後にバサリと翼を翻すなり、まっ直線に北東を目指した。

 やがて街道を行く人も街も消え、たまに小さな村が散在草原を見下ろしながら、丸一日、カラスは飛び続ける。ようやく羽根を休めたのは峨々と聳えるローテェンガ大山脈の安全な樹の枝で、ダイヤモンドさながら煌めく星々を縫い留めた夜空に包まれて夢も見ずに眠る。翌朝早く、山脈から流れ落ちる銀灰色の霧雲に覆われた黒い森の上空に差し掛かかる時には、たくましい翼に疲労の影は微塵もなかった  

 深く鬱蒼とした森と雪原の境界を過ぎた頃、カラスは高度を下げ始める。

 その金茶の眼差しの先。

 空と溶け合う鈍色の雪原の、糸のように細い街道からさらに外れた辺りに、ニ百戸ほどの家々が寄り添う集落があった。

 すべてがまだ穏やかな眠りの中に揺蕩いながら。




1  小屋の中   逃亡者たち




(こんな綺麗な生き物が同じ世界に生きてるってのが奇跡よね)

 多感な年頃の少女ティリーは、ふう、とため息を漏らした。


 煉瓦を腰の高さまで組み上げた切り炉を囲んで設えたテーブルで、彼女の深緑の目は、真っ直ぐ姉娘のジェニに向けられている。

(神様も良い仕事をするわ)

 ティリーの向かいに座っているのは、妖精でも見たかと我が目を疑うような美少女だった。真っ直ぐ溶けて流れる銀の色合いの髪に、闇を削り出した漆黒の瞳。

(息をしているだけでうっとりだわ。動くたびにジェニの体の中から音楽が聞こえてくるみたい。ハープでも内蔵してるの?)

 じゅる、と異様な音が彼女の唇から出る寸前、ジェニの黒曜石の瞳がひたと妹に向けられた。

「よだれ」

「え?」

「心の声とよだれが出ているわ」

「え? しゃべってた?」

「七割ぐらい、だだ漏れていたわね」

 そのぶっきらぼうな言い方すらも、竪琴の糸を震わせるような馥郁とした響きを損なうものではない。

「っっうっっ」

 ティリーの、十代前半の少女だけに見られる円やかな頬が赤く染まった。

 姉娘のジェニの美は宝玉のように稀有なものだが、かたやティリーは生命力にあふれた愛らしさの塊。肩にかかる巻き毛は燻んだ赤茶色に豊かで、深緑の大きな瞳は、炉に燃える炎に映えてくるくると色合いを変えながら、魔法をかけそうなぐらい強い光を湛えている。

 思わぬ指摘にうろたえた彼女の腕と上体があわあわと泳いだ。

「踊らないでね」

 ジェニに、ぴしりと釘を刺されてしまう。

 妹ティリーには、都合が悪くなると全身全霊を込めた〔秘技・呪いじゃあああ踊り〕で全てを無かったことにしようとする悪癖があった。

「大抵の失敗は許してもらえる必殺技なのに、ひどい」

 可愛らしく唇を噛む妹が来年15になったら、あの踊りはキッパリやめさせましょう、とジェニは密かに心に決めた。変わった子供から奇矯な少女への進化は笑えない。

「いまここで貴女に踊(暴れ)られると、せっかく一緒に揃えた材料が吹き飛んでしまうでしょう?」

 自分に絶対服従の妹ではあるが、念のためチマチマした細工道具をそっとよけながら言うジェニの完璧なカーブを描く唇が、ふと笑みを掃いた。

「私、あの踊りは、好きよ」

 えへへへ、とティリーは盛大に照れる。

(理路整然としたリスク管理だけじゃなくって、細やかな気配りとフォローまで出来るジェニって、本当に素敵。才色兼備。矢でも鉄砲でも持ってこい、って感じよねっ!?)

 口元を拭って椅子に座り直す。

 しばらくは細工に集中することにする。

 乾燥した藁を固く編んだ紐に木の実や花を差し込んでいくのは、簡単なようでいて案外難しい。非の打ち所のない外見で全てが完璧に見えるくせに意外と不器用な姉の滑らかな額に十文字のイラつきシワが寄ったりするのも眼福。

(もう、ジェニってば。まだ16で、これだもの。《幼さが抜けるに従って、内面からさらに増していく美しさ! それを至近距離で無条件にずっと見ていられるなんて、私以上に幸せな人間がいるだろうか? いや! いない!! 羨むが良いわ、全世界!!》)

 理性の飛んだ文章は、ティリーが書き綴っている〔あね様観察日記〕のためだ。またも垂れかけたヨダレを、ティリーはこっそり拭った。


 心地よい沈黙の中、炉の中央で小さく燃える炎は、揺らめく色と微かな音で心を和ませる。灰の中に埋もれていた枝が弾けて、一瞬、鋭い音と共にパッと大きく火花が舞い散った。

 部屋の全体を照らし出した強い輝きはたちまち消えたが、ここでようやく残りの一人が顔を上げる。分厚いテーブルに屈み込んで何やらせっせと書き綴っていた男、ヴァレンだった。娘たちのやり取りなど、たぶん両耳の間を流れ去っていたのだろうし、またジェニとティリーからは、その存在すら忘れられている。そんな哀愁漂う中年男が両脇の娘たちに尋ねた。

「お前たち、朝からなにをやっているんだ?」

 朝食の食器を洗い終わるや、娘二人は一心不乱、色をつけた木の実や乾燥させた果物を堅く綯んだシメ縄の間にちまちまと編み込んでいく作業に没頭していた。縄の主材料はイネ藁と言うらしい。米粒として食卓に供されていない状態のものを見るのは、ヴァレンには初めてだった。

 質素ながら栄養満点の食事が終わって、かれこれ三時間は経っている。興味を引かれたにしても今更のようだが。

 年長の方が、

「奉納の準備」

 ぼそり。

『お前のためには息も語彙も無駄にする気は全然無いのよ。ウザい。放っておいて。さもなきゃどっか行って』の気配が、ジェニの完璧なカーブを描く眉の間からビームとなって放たれている。

 いまだヴァレンの顔から疑問符が消えないのを見て取った年若の娘ティリーが、姉をちらりと見て、やれやれと肩をすくめた。

(もう。いつだってタイミングが悪いのよね、おじさんって。盛り上がっている最中か、鬱陶しい時にしか入ってこないんだから。いま、あね様はドングリを立て続けに三個も床に落としちゃってひそかにお冠なのよ。これって可愛すぎない?)

 それでもこちらはちょっと社交に長けている。

「冬麦の刈り入れが終わったら、花月の《春祭り》をやるんですって。わたしも、あね様も、この冬を生きのびられた事に心の底から感謝しているの。だから飾りを聖堂の祠に奉納しようと思って」

 それを聞いたヴァレンは、猫のように背を丸めて書き散らしていた紙切れをそっくりバッサリ潔く傍の箱に投げ入れて、誇らしげに笑った。年の頃三十を越えた顔が、人懐こい少年さながらにクシャクシャと崩れる。

「どういたしまして」

 それに対して返されたのは外気より冷え冷えとした2組の視線だった。

 あげく。

「そうじゃない」

「私たちをあなたの雪穴から救ってくれた集落の人達に、よ」

 ジェニの発言を待ってからティリーが続ける。

 姉の言葉は本質を穿つが、語数が圧倒的に足りないのを妹が補完するシステムが、完璧に機能しているのだ。

「なんだとお」

 ヴァレンは憤怒と立ち上がって、不当な扱いに対する怒りと悲哀に顔まで半分覆ってよろめいてみせた。長々とした地道な書き物作業のあいだ折りたたむように座っていた足が痺れたのが丸わかりなのが残念だったが。

「あの雪穴を俺が作らなかったら、助けがどうのという前に死んでたぞ」

 彼の主張は、実に正しい。


(去年の冬…)

 もうほとんど三カ月も前になるのか、と痺れた足でバランスを取りながら、ヴァレンは改めて月日の流れの早さに驚いた。気分的にはせいぜいまだ一カ月かそこらなんだが。


 あれは三冬月の半ばを過ぎて、雪が分厚く大地を覆い、一日の大半が薄墨を流したように暗い頃だった。かすかな円盤のように見えていた太陽はとっくに鬱蒼とした森の向こうに姿を消して、白々と月に照らされた雪原は、どこまでも光を跳ね返す鏡面さながら。たまに雪の上に青白い影を落とす大木も、一枚の葉も残らない枝を氷で飾っている。

「なんだってんだ! このザマは!」

 真冬の夜の静寂を破る叫びを連発するヴァレンだった。

 これがいつもの冬だったら。去年まで当たり前に過ごしていた冬の夜だったら。こんな気分が沈むばかりの夜には、大瀑布のほとりの宝珠と呼ばれる首都キュクロス・アスティラトロス中心に位置する聖堂の寝室で、ぬくぬくと寝酒を味わうってのが定番だったのに。

「なんで俺はこんなところにいるんだ!! 《都知らず》だぞ!!」

 首都を馬車で出て10日も草原を北上すると、険しく聳えるローテェンガ大山脈に至る。その峰々を越えて首都からは見えない側の麓からは、またも深々と暗い森と雪原が続く。その地は、首都の住民たちが微かな侮蔑を恐れに滲ませて《都知らず》と呼び、おそらく一生行こうとも思わないだろう場所だ。僻地も僻地。ど僻地だ。まともに箱馬車で旅をしたって一ヶ月近くかかるようなところで。

「なにやってんだ、俺は!!!」

 うおおおおお

 血を吐かんばかりの絶叫。いや、凍りついた唇が数箇所で裂けたので、本当に血が飛んだ。

 そんな我が身に鞭打つ所業無しでは、今にも気を失いそうだった。

「なんだこりゃ。涙が出る端から凍っていくぞ」

 もはや右も左も分からない雪原で、月明かりを浴びて狂ったモグラのように、新雪を深さ30センチほど掻き分けて、長さ2メートル、幅はそれより弱冠狭いいびつな穴を作った。三人がギチギチに固まって寄り添えるぐらいのものだ。

 ヴァレンは、掘って掘って掘りまくった。そんな重労働の道具が、焚き付け用に拾ったただの板切れだけだったとは驚きだ。後からやたらと痛む腫れ上がった手首を見たら、板切れで擦れて真っ黒な内出血状態だった。

 自分のマントを犠牲にして、その上に雪を叩き固めて天井を作り、さらに、耐えられる限界以上の寒さに高速でわななく上下の歯を踊らせつつ、外から外壁になる雪を積み上げ、そしてそれが陥没しないことを無茶苦茶な跳躍と創作ダンスで確かめ、今度は狂った穴熊に変身したが如く。ひたすら中の雪を掻き出し、内部空間を確保。

 聖堂の宿舎のぬくぬくの羽布団の中で小さかった甥っ子どもに読んでやった絵本の描写には、こんな超弩級の苦しみが伴う情報など、カケラも無かった。

「なにが『スノーマウントで楽しい雪祭りの夜、うふふふふ』だ!!!!」

 火事場の馬鹿力は瞬発力だが、これは火炎地獄を裸足のウサギ跳びで横切るような、終わりの見えない苦行だ。

 そんな目にあうような行いはしていないってのに。

 してないよな。してないぞ、たぶん。ええい、知ったことか。

「うおおおおお」

 吠えた。吠え続けた。

 それが意識を保つ唯一の方法だったから。伝説の狼男の正体は、まさに今のヴァレンのように自暴自棄になった遭難者の悲しい叫びだったかも知れない。

 その間、か弱い二人の娘達は、とうとうここで力尽きた馬の死体の影で辛うじて息のある紫色の肉塊になっていた。馬も少女達もよく頑張ったが、とっくに限界を超えていたのだ。自分だって超えている。

「先に気絶した者勝ちか、ちくしょう!!!」

 昔、王宮の優雅な狩に同行した猟師が、「もうこれでおしまいかとなった時、馬の腹を割いて中に入って暖をとった」云々の武勇伝を披露したことがあったが。

 いや、無理無理無理無理。丈夫な生皮を割いて内臓やら骨やら掻き出して空洞を作れっていうのか? 食事用の小刀一つで? 今のヴァレンには、これ以上余分な気遣いや作業に体力を割く余裕などないから、可憐な娘二人はまとめて団子にしてカビ臭い毛布に包んで置いておくしかない。

 永遠の、たった一人の苦闘の末に、とうとうあとは入り口を塞げば零度を保持する空間を築き上げた。

「えらい。俺、えらい! やれば出来る子なんだよね、俺!」

 なにもかも極限のヴァレンは、高らかに笑いつつ一人語り。すでに正気を手放している。

 小さな入り口からジェニとティリーを雪穴に引っ張り込み、火打ち石を乱打して馬の鬣を燃やした微かな炎のそばに転がした時には、その偉業を讃えるべく世界の果てまで響くような勝利の凱歌を歌いたかった。音楽教師を号泣させたほど真正の音痴だろうが、なんだろうが。

 彼もしかし、そのまま雪の上に潔くぶっ倒れて気を失ったのだ。

 ヴァレンを包む暖かで慈悲深い暗黒。

 そして、次に目覚めた時、彼らはこの集落の医療舎の寝台でぬくぬくとしていたという次第。

 七百人の集落にたった一人の医療師シャードは温厚で親切な老人だった。

「あの切羽詰まった状況にしては、よく出来たスノーマウントだったぞ、うむ、実に驚くべき労作じゃ」

 そこで彼はフムムと口髭を噛んだ。

 どう言ったらヴァレンを傷付けずにすむか考えたようだ。二、三分頑張ってみたものの、どう繕っても駄目だと諦めた彼は事実を告げることにした。医療師の悲しい使命だ。

「惜しむらくは、換気用の穴が無かったことだねえ」と。

 運良く雪が止んだ翌日の朝がた、死んだ馬の体を突つきにカラスが群れていなかったら。

 空気穴が無いスノーマウントが村はずれに忽然と出現した事に村人が気づかなかったら。

 中で倒れていた三人がその日の昼の太陽を見ることはなかっただろう。


(それからの集落での生活は、本当にあっという間だ。三ヶ月? 確かなのか? 暦を間違ってめくりすぎていないだろうな)

 からくも命を救われた三人はすっかり体調も元に戻り、暖かな衣服に包まれ、こうして長閑に額を付き合わせているのだ。

 ただ普通に一日を過ごせることが、こんなにもありがたいとは、思いもよらなかった。あてがわれたのは丸太と煉瓦の素朴な小屋だが、去年の初秋からずっと人生の底辺を味わってきた彼らには、まるで天国。雨風がしのげて、台所の炉の火が絶える事はなく、布団まである! 床の分厚い敷物にキスしろと言われたって構わない。なんなら舐めたって良い。

「ああやって不完全燃焼で死ぬと、死体でも血色は良いそうよ。わたし、いつも顔色が悪いって言われていたのだけれど、それでもピンク色になるのかしら」

 14になったばかりのティリーは、若いくせにやたらと分別臭いところがある。

「燻製にピンクの血色は必要ないでしょう」

 16才のジェニの指摘は正しいのだが、いつも何処かがズレている。

 三人の誰もが身体の一部を失わずに済んだのは、稀なる僥倖だと分かっていた。無論、あの医療師シャードの腕が卓越していたこともある。

 世界中の美を集めたようなジェニに、「世の中の元凶は全てコイツだったと判明したぞ」とばかりに全力で睨まれたヴァレンは、あの時の、凍傷の手足に再び血が巡り始めた痛みと地面に倒れて作ったコブの疼きを思い出して、狼男さながら牙を向いてグルルと唸った。

 幼児向け絵本に出てくるスノーマウントの挿絵に空気穴が描かれてなかったのが、俺の責任か? そもそも設計図と工作手順と、さらに注意事項付きの絵本なんか、あるのか? それを買わなかった俺が馬鹿なのか? 

 とんでもないぞ。作者、出て来い。

「俺は労働者タイプじゃないんだ、初めて作ったにしては上出来だ」

「初めてで最後の作品になるところだったじゃないの」

「箱入り息子だったから、そんな実践的知識がないのも当たり前だぜ」

「箱入り息子の成れの果てオヤジなんて、かけらも存在価値が無いわ」

 ふふん

 遠からず、こんな態度ですら取られてみたいと願う輩が列を作るだろうジェニの頭上に、中年男は肩幅以上に足を踏ん張って仁王立ちになった。

「なあにをおっしゃるかね!」

 大人げない。

「俺が集落にとって役立つ男だと一目瞭然だったからこその大歓迎だろうが。見ろ! いまや、ご立派な学舎の特別講師さまだ。聖堂や王宮の通り一辺倒なお仕着せ教育なんざとは、ひとあじ違うぜ」

 のたくる字で書きなぐった紙を拳の中に握りしめて「けっ、なにが賢王聖王の二柱政治だか」と吐き捨てた。

 国民に衣食住に困らない生活を保証し、教育の充実とそれを普遍的なものにするのは、為政者の当然の義務だ。なにを偉そうに。

「世間知らずの田舎者に、俺の博識振りをありがたがってもらわにゃならん。お前達に俺の苦労がわかってたまるか」

 と悲哀たっぷりのヴァレンに娘達からは氷の反応。

「ふん」

「残念だけど、まるでわからないわね。わかりたくもないし」

 二人の娘のハモリの見事さ。

 真冬の遭難から目出たく生き延びた仲間というだけではない、彼らの絆はもっと強いはずなのに。どうしていつも俺だけ仲間外れなんだ。ここまで忌み嫌われるのは何故だ。

 なにか? 俺は人の形をした害虫なのか?

「いいか、あくまでお前たちは、おれの付属品なんだぞ」

「私たちの方が麗しいからこその歓迎よ」

 ジェニの透き通ったメゾソプラノの呟きは、数音節でも雪崩より破壊力がある。

「そうよ。長期的に見たら、近い将来、色々な問題の種に変わるおっさんより、もっと長いスパンで人生の潤いになるのが確実な娘二人の方が価値があるのは、疑問の余地もないわ。特にこの程度の生活レベルのド僻地ならね」

 年下の娘ティリーの発言に、ヴァレンの顎が落ちた。

「おまえ、いま、なにもかもを、ものすごく見下しただろう」

「お互い様だわ」

 ツンと鼻先を天井に向ける。

「だいたい、これから冬になろうかって時に、森に逃げ込むとかありえない」

「ありえない」

 主旋律にアクセント。その完璧な二重唱に、深々と降り積もる雪の中を、娘二人を全抱えにして生き延びた男はむくれかえった。

(ろくな装備も金もなく、それでも命懸けで追っ手から守ってやって、この言われざまか? 俺たちはローデヴェイク国中から追われているんだぞ?)

「ともかく都から離れる方向にしか選択の余地がなかったんだからな。他に良い方法があったってなら、言ってみろ。それより、あのとき、リアルタイムでいえよ」

「う~ん、なかった?」

「あってたまるか」

「もしかして、ハーディーン河を北に遡ったら良かったんじゃない?」

「足場が良ければ追っ手も来やすいよな。目撃者だって増えるだろう。山に逃げ込めば冬眠せずに飢え切ったクマとかが襲ってくるかもしれないぞ。お前らを背負って猛獣と素手で戦えって? 森の方がまだリスクが低いぜ」

 森に何がいるかなんか知らないけどな、とは、さすがに自滅体質のヴァレンもこの場では口に出さなかった。

「もっと南に下って、ケイマルス大瀑布に沿って行くってのはどう?」

「なにがなんでも背水の陣を敷きたいのか? 追い詰められて終わりだろうが。あそこから飛び込めってか。一番高さが低いところで25メートルはあるんだぞ」

 ひとの技か、そりゃ、とヴァレンは手拳で空を切って見せた。

「後知恵と無責任と机上の理想論も、良い加減にしてもらいたいもんですな、まったく。はいはいはいはい、いたよ、王宮にも聖堂にもそういう『自画自賛・自称天才・実はアホな役立たず』なのが山ほどな」

 蘇った怒りがよほど激しかったのか、手の中の鉛筆が真っ二つ。

「人のやることになんでもかんでもケチをつけてグズグズ言うなら、せめて代わりの案を出せ。こき下ろすなら、いっそてめえがやってみろ」

 最後はとても滑舌の良い「ふざけやがれってんだ、すっとこどっこいめらが」で締めた。

 そこまで大道芸を披露して気が済んだのか、自分で蹴散らした労作を拾い集める。幾つかの数式に赤でバッテンをつけて消し、そこから新しい数式に繋げてある。どうやら既存のやり方の改良型を説明するものらしい。意外とマメに分かりやすさを追求している。確かに学舎で重宝される性質だろう。整然とした数字を見ていたら落ち着きが戻って来たようだ。

「まあ、かくいう俺も、あの頃はそんなアホウの一人だったわけだが。時間はかかったが、気づいただけマシじゃないか」

「直さなければ、アホなまま」

 年かさの娘のコメントは、全く容赦がない。

「お前たち。ちっとは年長者への敬意ってのを払ったらどうだ」

 無料だぞ、と要らないことを付け加えるから嫌がられるのだ。

「都合の良い時だけ若さを強調する癖に」

「十代にとっては二十歳の壁は果てしなく高いのよ。三十なんて世界の果てだわ。一日の会話のおおかたが自分語りで始まるようじゃ、もう化石とおんなじようなものでしょう?」

 二人掛りでとことん打ちのめされたヴァレンからは、もはや瀕死の唸り声しか出ない。

 雰囲気の修正のために無難な話題に変えるか、と実は三人ともに思っているのだが、妙な意地が邪魔をして、焚き火の音を背景に、まことに居心地の悪い沈黙が続いた。

 さほど広くはない小屋だ。

 調理用の石組みの壁暖炉がある台所のスペースを中心に、しかし、中を仕切る壁はなくて、せいぜい40平米ほど。壁に立てかけた梯子段を上がってロフト仕様になった二階には、ちょっとした仕切りで二つに区切られたスペースにそれぞれ寝台が置かれてあるが、真っ昼間からそこに隠れるための十分な理由がない。

 仕方がないので、さらに不毛なにらみ合いは続く。

「お! ちょっと待て!」

 さすがに10代の娘たちと同じレベルの戦いの不毛さに気づいたか、いや、もっと重要な事に思い至ったヴァレンが声を上げた。

「俺は聖堂の祭司だぞ」

 だから何よ、の視線はとても冷たい。

「春の奉納をやるなら、本職の俺が取り仕切るのが当たり前だろう。なぜ俺に儀式を頼まん。なんのための聖堂の祠だ」

 依頼どころか声すらかけて貰っていない。このままだと娘たちが集落の住人達と楽しくキャッキャしているのに、そんなイベントが行われていることも知らず囲炉裏ばたで冷や飯をモグモグ食んでいたかも知れない。たった独りで。

「ひどくないか?」

 本職の祭司を差し置いて、だれが祭りを取り仕切るんだ。

 確かに、この集落の聖堂の祠は、医療舎の片隅に紐一本で区切られたスペースに雑に置かれていた。祠本体の凹みや擦り傷もひどい。こんなものを聖堂が寄越すはずはないので、どうやらあちらこちらに放り投げられ落とされてきたらしい哀れな歴史が推察できた。だから祠とセットになっている診断機器も、ヴァレンが見た事もないぐらい損害を受けていた。年老いた医療師のシャードが、昼ご飯のスープを繊細な操作板にもろにひっくり返してしまい、それをズブ濡れの雑巾でガシガシ拭いていたのを確かに見た。これでは、まだ多少は機能するとしても、せいぜい初期の風邪とか軽い外傷の対応が出来れば御の字。本来果たすべき新生児の検査と都の聖堂との連絡もまともにできるかどうか、甚だ疑わしい。

 ここの集落の住人にとって、聖堂の価値など、この程度のものなのだ。

 だが、祭りは祭りだろう。

 国をあげて植月にとり行われる《豊年天授祭》の前に、近隣の耕作地や放牧の民が集まる各地の《春祭り》がある。その起源は、厳しかった冬を無事に生き延びたかどうかの生存確認と、間もなく始まる春の労働に十分な人手があるかを確かめるための殺伐としたものだったらしいが、ともかく祠に感謝の祝詞をあげるのだ。秋冬から蓄えた様々な品をたくさんの麹蓋に盛り上げて、祝詞の後は即座に無礼講の大宴会に突入だが、形だけとはいえ、祝詞は大事じゃないか。

「都じゃ、俺、けっこう偉かったんだぞ」

 過去の栄光をブツクサ語る中年男は、確かに実にウザい。

「ありがたみがない見てくれだからじゃないの?」

「存在が無駄」

 心臓に深々と打ち込まれた杭の如き真実にヴァレンの呼吸は止まった。同情の気配が少しでもないかと娘達を見つめるが、さすがに自分らの所業の情け容赦なさにバツが悪くなった彼女らは、目を合わせようとしない。


 真鍮製のドアベルが、鈍くのどかな音を鳴らしたのは、そんな時だった。


 自分の尾を呑む蛇さながらな膠着状態に陥った彼らだったから、このタイミングで表の扉の鐘を鳴らした来訪者を踊りあがらんばかりに歓迎しようとした。

 しよう、と思ったのだ、本当に。

 だが、鐘の音の余韻も消えないうちに、爆発したかのように扉が開くようだと話は別だ。簡略なものではあるが、とりあえず鍵を掛けた上に、習慣になっている心張り棒もかかっている。それなのに。なぜ、来客の手に鍵が握られているのか。そして、もう一方の手には、扉の隙間に突っ込んで心張り棒を押し上げたらしい、でっかい諸刃の剣がある。

 人のうちに抜き身の刃を持って、入って来る? 

 これはドアベルを鳴らす礼儀正しい襲撃なのか?

「一家団欒、仲良きかな。けっこう、けっこう」

 朗々とした重低音。

 扉から差し込む日光をほとんど遮るような巨体を揺らして、闖入者は愉快そうに笑った。辛うじて笑い声と判断出来る咆哮で、繊細な雲母の窓が割れるかもしれないが、どうやら友好的訪問らしい。

「長〈おさ〉」

 家の主、ヴァレンは、げんなりと返す。

 その声と表情に、ティリーは正しくヴァレンの意図を読み取った。

『扉に下げた鐘を鳴らせば良いってもんじゃないだろう。

 せめて返事を待てよ。

 なんであんたがうちの鍵を持ってるんだ。

 心張り棒の意味を知らないのか?

 しまってくれよ、その恐ろしげな刃物。

 まあ、隠さなきゃならないものは無いし、そりゃあこの小屋はあんたの集落の所有物だけどさ。それでも俺たちの居住権とか、プライバシーとか、諸々微妙なものはどうなるんだ。

 それはそうと、ご機嫌良さげでなによりだ、こんにちは』

 相手を呼ぶたった一言に、これだけの疑問と文句と礼儀正しい挨拶をニュアンスで込められるとは。

 ティリーは毎度のことだが、大人社会の交流の煩雑さに目を見張った。

 そして、ふだん傍若無人に見えるヴァレンが実はかなり気弱で打たれ弱く、本当に言いたいことは胸の奥の〔波風を立てるよりナアナアにしとくか池〕に沈める傾向が顕著なのを見抜いてもいた。

(ちょっと可哀想かも)

 さすがに良い年をした男が〔秘技・呪いじゃあああ踊り〕をやるわけにいかないものね。

 まあ、ともかく。

 ヴァレンの細やかな感情の機微は、いきなりの来客には全く通じなかった。

 海の氏族出身の特徴あらわな巨漢が小屋に入ってくると、いきなり余分な空間が消え失せる。ヴァレン、ジェニ、ティリーの三人が、素人の急作りのスノーマウントで死にかけたところを助けてくれた集落の長アウグストは、まだ三十半ばのくせに古武士のごとき雰囲気を漂わせていた。怒らせれば、あっという間に一人で一連隊を滅ぼす狂戦士に変貌するのは、火を見るより明らかだけれど。

 空間だけではなくて、空気まで不足するような心持ちがするのは、これはヴァレンが村長に対して、やたら萎縮しているせい。


 集落の医療舎に収容されて三日後、ナスビ色だった顔色もほぼ普通に戻った彼らを訪ったのが、長のアウグストだ。

 仲良く枕を並べる三人には、ちょっとした秘密があった。

 はっきり言えば、命に関わる秘密だった。

 ところが、初対面のアウグストが極めて友好的ににっこり笑った瞬間。

「俺たち、都から追われているんです」

 非力な少女を二人も連れて孤軍奮闘したヴァレンは、聞かれもしないのにツルツルとそう白状してしまい、十代の多感な娘達の大いなる顰蹙を買ったのだった。これまでずっと彼らを守ってきた善行と差し引きで辛うじてマイナスにならなかったようなものの、ヴァレンの評価は地を這った。

「だって。まったく勝てる気がしないもん」

 温和な巨漢が見舞いを終えて去った後、有らん限りの非難と軽蔑を込めて睨みつける娘二人に、ヴァレンは、いっそ開き直った。

 彼とて180センチをちょっと越える身長と、それに釣り合う体重をしているのだが、そのヴァレンをして接近戦はぜったいに避けたいと思わせる集落の長。「凶暴」のカテゴリーに入る二メートル近い身長と、筋肉だけで練り上がった重量級の体格。林檎一つくらいあっさり握りつぶしそうな、その掌の大きさと厚みは、人ではない。そして、なまじ整っているだけによけい凶悪さを増すと言う御面相の持ち主だ。海の氏族のお手本のような芯まで日に焼けた粗削りの造作の中に、いとも優しげに緑灰色の目が笑っているのだが、おおかたの人間がそれに気付く前に正常な判断が出来なくなるほど怯えてしまうので、その穏やかさにはなんの意味もない。

ともかく、首都の王宮近衛隊と聖堂警ら隊の両方から追われる身であることを告げたヴァレンに「そりゃまた、難儀じゃったなあ」とだけ返して、これから彼らが滞在するための小屋の鍵を寄越したアウグストに対しては、多大な恩義とそれを上回る疑問だけが残ったのだ。

(しかしまあ、とりあえずは、命を救って貰った上に、寝泊り出来るところも手に入った。もう安全って事じゃん)

「いえーい、ラッキー」と指先で鍵をクルクル。

 娘らにおちゃらけてみせたヴァレンの立場は、いまだ回復の兆しを見せない。

 だから、アウグストの傍若無人な、はっきり言えば犯罪行為に等しい乱入に直面したヴァレンは、「窮鳥も懐に入れば撃たれまい」で慈悲を請い「まな板の上の鯉」の悟りを開いた境地と表現するより、首根っこを掴まれて毒蛇の前にぶら下げられた子猫さながら「これぞ絶体絶命!!」の心地だった。

 ヴァレン達を大きな掌の上で思い通りに踊らせる長は、「ふむふむ、綺麗に使っておるな」と満足気に口の中で呟き、「はいよ、ちょいとごめんなさいよ」と一番心地よい家長の席に、どっかりと腰を下ろす。アウグストにやんわりきっぱり押しのけられたヴァレンは、それでも明確に文句を言えない弱い自分への歯痒さに『ええい。俺は乙女か』と、そっと唇を噛む。過激な自虐ツッコミに自ら気分まで悪くなっては全く立つ瀬がない。

「ヴァレン殿、ジェニ、ティリー。元気でやっとるようで、なによりじゃの」

 有無を言わさず小屋の支配者となったアウグストは、古武士らしく喋り方がやたらと爺むさい。

 元気そうだとまとめられた冷や汗まみれのヴァレンは、ヨロヨロと別の椅子に座りなおした。

 アウグストが、そんな彼を一センチ刻みに観察しているのを感じる。これまで三ヶ月の集落の生活の間、長が穏やかな雰囲気を保ちつつも時折殺気に近い圧の視線を投げてくるのに気付かぬヴァレンではなかったが、なにせ脛に傷を持つ身。ひたすら沈黙を守って、心の中の〔ナアナア池〕に身を沈める方を選んできた。

 今は、特に、だ。

 全身を透過するような視線は、もはや肌にむず痒さを感じさせるほどだった。こんな風に改めて観察されるような事を、俺は何かしたか? 

 いやいや。アウグスト相手に無駄な好奇心を抱いてはいけない。百害あって一利なし。

 いよいよ殺処分されるのだろうか。

 抵抗しようにも、どう転んでもアウグストの方が彼より強い。

 特に、こんな密室に閉じ込められて目撃者もいない状況で。いや、娘二人がいるのだが、彼らはためらう事なくアウグストの側に着くだろう。

 まさに孤立無援。下手に自分から行動を起こすなんてとんでもない。

 好奇心は猫をも殺すというし。

 猫の方が自分より機敏なのはわかりきっている。

 そして、誰も、彼を守ってはくれない。

 よし、じっとしている以外の選択肢がないことは証明された。

 哀しい。うわあ、哀しさが止まらない。

 孤立無援の極みの悟りに到達して、脂汗に塗れながら懸命の平静を装うヴァレンに対し、アウグストは悠揚迫らざる一礼で最低限の礼儀を払ったのちは、姉娘ジェニから差し出されたワインの杯に口をつける。本人的には至極普通に振舞っているつもりで、周囲を真っ平に踏み潰して行くタイプだ。

 力作〔あねさま観察記録〕を秒刻みでつけているティリーは、ジェニがうちで一番良いカップでワインを供した後、かすかに頬を桃色に染めてアウグストをちらちら見ている事に気づく。

(え? まじで?)

 将来の絶世の美女確定少女の健全な媚びに全く動じない視線を投げて、心尽くしのワインの謝意を表したアウグストは、ようやく用件を切り出した。

「実は、厄介ごとが起こりましてなあ」

 何が起こるか予想のつかない状況で言質を取られないためには、ともかく自分からは喋らないことだと、昨今急速に学んだ小屋の住人三人は、ただ沈黙を守った。

 対して、わずか二百戸あまりの集落の長も、相手の頭の中まで見通す、そのくせ、どこかからかう様な眼差しで、新参者を見守る。

 こういう場合、すでに手の中にワインを持っているアウグストに利がある。ちびちび啜っていれば完璧な場繋ぎ。のんびりと考えを巡らせたりする。

(元気になってなによりだ。そのくらいは言ってやるべきかな。だが、こうして色艶よく毎日を送れるようになったのも、わしらのおかげだ。なんせ、この三人ほど家事能力が完全に欠けた人間も珍しい。都から逃げてきたのだと、えらくあっさり白状したが、普段の生活から極端に乖離した逃亡者か。たちまち素性が知れるじゃないか。この家を使い始めてじきに、1日に何度も台所から吹き上がる炎と悲鳴に、仕方なく近所が持ち回りで食事を差し入れてやって、日々に必要な掃除や手入れも交代で教えた。そんな交流の中で、次女のティリーがびっくりするほど刺繍が上手なことがたちまち知れ渡ったな。見たこともないような手技に、女達が列を作って教えを請うたおかげで、どの家の飾りも、今ややたらとラブリーでファンシーだ。絵姿を売りたいほどの長女は、若者たちの憧れと労働意欲を限りなく掻き立てているときたもんだ。あまり露出するより隠してチラ見せの方が効果があるってのは本当だな。娘たちにひきかえ、残りのこの親父はいかにもつぶしの利かない奴に見えたものだから、せいぜい未就学児のお遊戯の相手ぐらいなら出来るだろうと期待値ゼロのまま学舎に送ったら、この男は《楽をしようとかえって極限まで労力を使う》、自分だけがすごく損をするタイプで、おかげで子供らの学力向上は目覚ましい。まあ、ここにきて三ヶ月。集落への貢献が、やっと初期の負債を上回り始めたと言うところか)

 アウグストの考えはこうやってかなりの回転速度でめぐらされているのだが、表情筋一つ動くことがない。何世代も荒海と結びついてきた海の民の特徴と言える、他の追随を許さない忍耐力のなせるわざだった。

 結果、かなり長い沈黙が垂れ込めたまま。

 さっきの家庭内の三竦みなど可愛いものだった。

 一番打たれ弱い男、ヴァレンが、とうとう咳払い。

「ええと。なにか、私らに出来ることでも?」

 にんまりと、盃の上から切れ長の目だけ覗かせて、長は微笑む。

(うわあ、わるい)

 ヴァレンは、いっそ感嘆した。

(これほど傑出した外見の良さでも隠しきれない性格の悪さって、あるんだ)

「そんなご親切に申し出て下さるなら、手伝っていただこうかのお」

 口調と外見が全くそぐわない。ここまでわざとらしい茫洋とした風情には、実にイラっとさせられる。ヴァレンの堪え性は、こんな性悪な駆け引きに耐えられるものではなかった。学びの道は長い。

 相手の忍耐の糸が切れたのを正確に見て取ったアウグストは、罠にかかった獲物ヴァレンを捌きにかかる。

「うちのものが、死体を見つけてしまいましてな」

 いつの間にか長の後から小屋に入ってきていた少年が、いきなり襲われた亀のように首を縮めた。長が開け放したままの扉をそっと閉める行儀の良い子供の怯えようは哀れだった。

「覚えておいでか、ターイシュじゃ」

 ああ、そりゃ、もちろん。

 居候の住人たちが頷く。

 しばらく医療舎で療養した後にこの小屋をあてがわれた時、色々と世話をやいてくれた、はしっこい子供だ。上の娘ジェニを初めて病室で見た瞬間、派手にすっ転んでいた。

「これが」

 長のアウグストの豊かな低音の声は日頃になく冷たい。まさに不吉な嵐の気配。

「十日前に、森にキノコを探しに行ったついでに、死体を拾ってしまいましたんじゃ」

 いやいやいや

 そんな、裏庭に迷い込んできた犬か猫を語る様な口調で言うこと? 

 ターイシュはまだ11だろう? そんないたいけな少年が受けたショックは?

 ヴァレンと娘コンビの意見が一致することは滅多にないのだが、これはその珍しい場合だった。

「うっかり者は、これだからいかん」と長はさらに吐き捨てた。

 哀れなターイシュは、もう半泣きだ。

(憧れのジェニの前でわざわざ失態を暴くなど、なんと厳しい、しかし効果的な教育方針だろう)と、ヴァレンはぼんやりと考えた。学舎のやり方も、すこし考え直す必要があるかもしれない。集落の日々の生活の基準がこんなに過酷なら、授業中の私語に対して綴り方20回の罰なんぞ砂糖菓子みたいなものだ。

「どこのどなたさんか知らんが、うちで不法投棄は困る」

「私らじゃ、ないです、よ」

 おずおずと、集落の部外者/新参者の男は挙手をして言ってみたが、たちまち柳眉を逆立てた娘達に噛みつかれた。

「わたしら、ってなによ」

「罪を告白するなら、ちゃんと単数で」

 そこかい、とヴァレンは悲しかった。

「ああ、大丈夫じゃよ」

 長アウグストは朗らかに笑う。状況がこんなでなかったら、うっとりするようなバスバリトンだ。

「あんたたちには一日中交代で見張りをつけてあるから、そんなことは疑ってもいないしな」

 いやいやいや

 さらりと、とんでもない事とありがたい事を並べましたよね、とは、またしても言えなかったヴァレン。

 じきに、のみこみ続けた言葉で〔心のナアナアの池〕が決壊しそうだ。

 アウグストは、そんな中年の危機には目もくれず額の縦筋を深くする。

「なかなかの手際で殺してあったが、その後が、いかん。三日も経てば腐敗が始まるんじゃから、その前に獣道に運んでおく。そんなちょっとした手間を惜しんで、そのまま放っぽり出したもんだから、小僧なんぞに見つけられおって」

(いや、だから、こういう場合は、小僧を気遣ってやろうよ)

 村長の後ろでガチガチにしゃちほこばっているターイシュを見るヴァレンの目は、同情にあふれた。

「で、話はこれからでのお」

「はあ」

(まだ、続きますか)

 すでに並々ならぬ疲れを感じたヴァレンは、まるでお前が犯人だと名指しされ死刑判決を受けたかの様な風体。

「とりあえず墓地の端に埋めたんで、明日あたりに掘り出して、お前さんのスノーマウントに運んでおくれじゃないかい。よろしゅうおたの申しますわいなあ」

 古武士モードに婆さん風味も追加されたが、そんなことはどうでも良い。

「はあ?」

「そのぐらい経つと、たっぷり振りかけた石灰が良く働いて、ちょっと見にはどうやって死んだかがわからなくなるじゃろう?」

「空気穴のない出来損ないの雪室で窒息した間抜けが、春先に雪が溶けたらじんわり腐ってたのが発見されたって感じ?」

 集落の周辺に住む鳥や獣が喜んで食欲を満たした部分が多ければ、なおのこと正確な死因など判らない。

 ヴァレンのモゴモゴした回答に、「私たちがそうなるはずだったのよね」と娘たちがコソコソ。

「良く出来たのお、その通りじゃ」

 うむうむ。

 アウグストの笑みは慈愛に満ちた父親のよう。慈父が要求する内容では、まるでないが。

「では、よろしくなあ」

 村の長は満足そうにさらにふむふむと一人うなずいて、盛大な「よっこらしょお!」の掛け声と共に、ひらりと身軽に立ち上がった。

「いやあ、良かったのお、ターイシュ。ヴァレン殿が快く引き受けてくれたから、明日の朝イチ、日が昇る前には、道具を届けるようにな。お前の不手際の後始末をしてくださるんじゃ、眠いなどと文句を言うでないぞ」

 ポンと肩を叩かれた少年の体が1メートルほど飛んだ。

 万事思惑通りに進んだことにすっかり満足したアウグストは、「日の出前に道具が届けば、ヴァレンも逃げられまい」などと、無粋な事はもはや口にしない。念押しの重い視線を向けただけ。

「さあて、行こうかの。これ以上余計なものを見つけんように、明るいうちに帰らにゃならん」

(明るいうちなら、何かあっても無視できるんかい?)

 哀れヴァレン。せめてターイシュのためにまぜっ返してやろうか、とは思うのだが舌は強張ったまま。そして「なんで俺たち、いや、絶対に俺だけに押し付けられるのは明白だが、なんでそんなことを?」の真相に導くでっかい疑問の塊は、どこからも誰からも綺麗さっぱり無視されたまま、彼の傷付きやすい心に秘めた〔ナアナアの池〕に沈んでいくのだった。




2  首都キュクロス・アスティラト   聖賢王



 夜が明けようとしている。

 体全体が沈み込む柔らかで巨大な寝台で、起きた早々、すでに疲れ切ったように溜息を漏らした聖賢王ツーランだった。

(またも一日が始まるか)

 ちぇっ。やれやれだ。

 本来、ローデヴェイク全土を治めるのは、叡智を極める王宮の賢王と、滅した文明の奇跡を秘めた聖堂を司る聖王の二柱。平和に栄える国とは言え、その重責を、今や一身に背負っているのだ。ちょっとやそっとの眠りでどうにかなるような疲労ではない。そうじゃないか? 

 

 時間の経過と共に、首都に目覚めのざわめきが満ちてくる。

 その都市を上空を舞う鳥たちの眼を借りて見下ろすと、真っ先に注意を引かれるのが都の中央に位置している王宮殿だろう。

(つまり、ここだ)

 直径二kmの正円の敷地内の建物は柔らかな真珠色に輝いている。闇の中に淡く浮かび上がる王宮殿は、同じく内側から光りながらそびえる城壁と、鮮やかなコバルトブルーの水が満ちた深い環濠で堅固に守られていた。

 王宮殿の敷地のほぼ半分を占める城館〈パラス〉には賢王を頂点に国を運営する八省が置かれ、常時四百人近くが活動し生活している。

 建物の南東部は賢王の居館になっており、王個人に仕える住込みの30人がいる。ツーランの起床から就寝まで、その世話にだけ明け暮れる連中だ。彼が夢路をたどる間も、何人かは眠らずの任に就いている。聖堂に籠っていれば良かった聖王だった時より、ツーランを取り巻く人数もその奉仕の内容も増えた。便利と思う時もあれば、煩わしいと感じる時も倍加した。朝の目覚めから午前の公務に就くまでの時間を、やんごとなき聖賢王様に快適に過ごして頂くべく、最低十人ほどがもう寝室近くにウロチョロしているのは確かだ。今朝は、まだしばらくは誰にも邪魔されたくない。

 こうやって寝台に横たわったまま、世界が自分を置き去りにして回っている感覚を味わうのは嫌いではない。いや、かなり好きだ。

 分厚い扉越しに廊下を軽やかに走る足音がかすかに聞き取れた。ちょっと首筋が緊張したが足音はそのまま去って行き、自分を危急に必要とするものではないとホッとする。いい歳をした男が目覚めた瞬間から「わしは知らんぞ、放っておいてくれ」なのは情けないが、俄かに責任の増えた王の本音なんざそんなものだろう。

 絶対に扉の前に陣取って聞き耳を立てているはずの侍従に起きた気配を悟られないよう、じわりと寝返りを打って窓の外を見やる。これは聖堂で培った得意技だ。隣で眠る妃のタルジェすら、彼が夜明け前に目覚めていることに一度も気づけなかった。

 分厚い乳白色の雲に覆われた空に、まだ冬の気配は濃い。

 街道の彼方から眺めれば、《ローデヴェイクの宝珠》と讃えられる首都キュクロス・アスティラトも、灰色の霧の中にぼんやりとその輪郭を沈めているはず。

 街中で勤勉なパン屋がぼちぼち表戸を開けるかどうか思案する頃には、彼の城の中は、もうとっくに忙しい。

 夜明けの太陽の気配もない時刻に、早番の召使いや衛兵が不寝番と交代する。疲れ切った不寝番は目を擦りながら強張る足を引きずって厨房に向かう。寝所に転がり込む前に温かなスープとワインの一杯にありつくためだ。そうした連中と昼過ぎから次のシフトのためにやってくる連中のために厨房は一日中カマドの火を落とすことなく忙しい。もちろん王やお偉方のための準備も、特別に区切られた区画で従僕の監視のもとで大車輪。

 そうやって、王宮の営みは寸暇の眠りも取る事なく続いてきたのだ。

 決まりきった作業は、人の心と体を癒すのに役に立つ。どれほど深く傷ついても、日々の単純で変わらぬ流れの中に戻してやることが大事だ。実際の効果の程は疑わしくとも、表面が取り繕われる事に意味がある。

 とりわけ、四百年も平穏だった王宮の生活が根底から崩れ去るところだったことを考えれば。


 王宮殿の深奥が最も高貴な血に染められたのはつい半年前、夜長月も末で、秋の《豊饒天喜祭》を間近に控えた夜だった。

 直轄の王宮騎士団に守られているはずの賢王バータルが、居館の最奥で、しかもなんと自分の寝台のうえで叛逆者に弑されたのだ。

(寝巻きのまま布団越しに剣で突き刺されるとは、男の死に様としては情けないものよな)

 ツーランは実の兄の死に様を、冷笑を浮かべてそう思う。

 賢王妃ジェイドは深傷を負いつつも聖堂に逃れようとしたが、居館と聖堂を結ぶ通廊まで来て力尽きたようだった。なかなかな根性だ、と義理の姉を初めて認めたものだ。いつだって色鮮やかな小鳥みたいに着飾って綺麗な声で囀るしか能がないと思っていた。

 兄夫婦が無惨に殺された時、禊の儀式で聖堂奥深くに籠っていたツーランは、騒ぎに気づくや自ら剣を握って聖王麾下の武者揃〈もののふのそろえ〉の先頭に立ち、瞬く間に叛逆の徒を打ち破った。捕らえた賊どもを大広間に引き立ててきたら、首謀者が栄誉ある右府の衛の副師団長と判明した。信じられない事態に全員が衝撃に凍りついた僅かな隙を捉えて、彼は即座に自害してしまった。

 そしてそれから数日の間に、さらに多くが捕らえられたり、更迭されることになった。青天の霹靂の騒ぎを引き起こした副師団長が宮廷八省〈ホーフ〉の兵部省大臣の甥で、右府の衛でも重用されていたから「首謀者が死んだので、これにて一件落着」とはならなかったのだ。

 腹心の部下の大逆に関与したのではないかと疑われた右府の衛大元帥は、声高に無実を訴えたが完全には潔白を証明できず、今日に至るも軍刑務所での裁判待ち。もし無実が証明されても、退役を強いられて生涯厳しい監視下に置かれることになるだろう。

 ローデヴェイク建国以来初の《大逆の乱》を防げなかった責を問われた兵部省大臣は自宅蟄居の身だ。僅か数日で、げっそりと半身ほどにやつれてしまったと聞く。幸か不幸か、彼と甥の副師団長との長きに渡る不仲は周知の事実だったので、蟄居が解ければ兵部省に戻ることは出来るだろうが、こちらも明るい未来は奪われたも同然。

 朝陽の中に王宮殿の全ての塔に翻った賢王の死を告げる喪の旗と、大正門から整然と繰り出した重武装の四衛の兵達は、鳴り止まぬ鐘の音と共にキュクロス・アスティラトの住人を恐怖のどん底に陥れた。

 以来、大逆の真相解明のため、謀反に関連したと疑われた者への容赦ない捜査は国内の至る所で少しも手を緩めることなく続けられ、聖王の軍勢に捕らえられた謀反の兵士に対して慈悲は無かった。彼らに手向かって殺された者たちは非情にも火で焼かれたのだ。賢王妃すらも、彼女のために作られた装飾品が奪われていたせいで、遺骸の下で焼け残った衣服から辛うじて判別できたくらいだ。無条件の忠誠を誓うべき賢王夫妻を殺害した上に、恥知らずにも減刑を訴える者達に民からも同情はかけらも集まらず、申し渡された死刑判決は速やかに執行された。

 街道を守る衛門将は予備役兵士も動員して最高度の厳戒態勢を敷いた。首都では日没後の外出は身分職業を問わず厳禁。外部から都を訪れる者は、完璧な身分証明書と都内に住む複数の身元引受人の提示を要求され、全ての荷を調べられるまで例外なく城壁外に留め置かれる。当然、一人につき半日近く検証が掛かることもあった。日が落ちると同時に全ての城門は堅く閉ざされて、刻限までに都に入り損ねた人びとが、貴賤に関らずギルドの自警団と右府の衛の厳しい監視のもとで野宿を強いられたものだ。

 都内の住人たちは気の毒なほど行動を自粛するわ、出入りを禁止された王宮殿をしょっちゅう肩越しに振り返り、真珠色の壁と濠を越えて自分たちにまで災いが降りかかりはしないかと怯えていた。

 だが、妄想に近い恐怖に震えていても暮らしに全く余裕のない時期だ。城壁外の耕作地では、一番人手が必要な収穫の重労働。冬の期間を乗り切って来年の生活を賄う交易もしなければならない。倉庫に蓄えはあれど、のほほんとしていられるほどではない。

 賢王と御一家は気の毒だったが、いつまでも弔意を表して家の中に篭ってもいられない。軍功華々しい聖王が新たに聖賢王として立ち、都の治安があっという間に安定して我が身に及ぶ直接の危険がないとわかれば、なおさら忙しい。その後の極寒の時節を暖かな家の中で乗り切って年が新しくなるや、のんびりする間も無く恒例の労働に勤しまなければならない。

 かくして。

 大逆の夜から一ヶ月。喪が明けて以前と変わらない単純な日々が無事に続くようになると、失われた遠い他人に想いを馳せることもない。もはや悪夢として人々を苦しめる記憶ですらないのだ。城の中の生活とて、庶民のそれと変わりばえするわけではない。


 人生なんてそんなものだ、とツーランは柔らかな布団の中で思うさま手足を伸ばした。

 まさにここで、彼が横たわっているこの寝台の上で殺された実の兄、賢王バータルの面影が、夢の中で彼を苦しめる事はない。

 兄の長子は五年前から行方がわからず、第一王女は遠く辺境の自治領に嫁いだ。第二王女ルーアンも反逆者に拉致されてしまった。よって、亡き賢王バータルの弟であり聖王であるツーランが両位を兼ねる聖賢王となるのは、実に道理にかなっている。この処置は前例がなかったわけではないが異例でもある。「あくまで暫定的なことだ」「安易な処置は望ましいことではない」とか言い立てるのは歯牙にもかからない小者だけで、ツーランとしては全くもってどうでも良い。

 彼以外に正当な候補者がいないのだ。雑音は雑音に過ぎない。

 聖王だけを務めていた時より、もちろん多忙になった。

 民衆から見れば《聖王》はお飾りだ。

 ローデヴェイク国を穏やかに繁栄するべく治め、王宮から民の生活を守っているのが賢王なら、聖堂の頂点に立つ聖王とは何者か。偉大であったかつての世界が滅びてから二千年。これからもずっと、滅びた文明の片鱗を独占して民に利益を分け与えるべく聖堂が存在し続けるために、その必要性を民草に納得させる象徴だ、と考えられている。

 まあ、正しい。それで十分だ。本当はなにをするか、何をしなければならないかは城壁と濠に隔てられた世界で蠢く奴らの知るところではない。

 春には今年の豊作を祈願する《豊年天授祭》が植月に、夜長月には豊かな秋の収穫に感謝を捧げる《豊穣天喜祭》が、ローデヴェイクの国を挙げて行われる。

 二週間続く祭りでは、国中外から首都キュクロス・アスティラトに集まってきた商人が、王宮殿の外濠から都を囲む《第二の壁》までの大小全ての広場に店を広げ、競い合って商品を売り捌く。祭りの間、ギルドはありとあらゆる創意工夫を凝らして財布を肥やそうと目の色を変える。強欲を絵に描けるとしたら、まさしく諸ギルドの長たちの姿になることだろう。

 祭りの最大の出し物は、なんと言っても王宮殿の門を開放して広大な庭園で繰り広げられる仮面劇だ。二千年昔に滅びた文明がいかに偉大だったかを根拠もなくでっち上げたもので、それに乗じて饗される出し物を加えると、都は数百人を越える役者、音楽隊、吟遊詩人が溢れかえる。あの例の馬鹿げた歌をみんなががなり立てるものだから合唱曲に思えるほどだ。

《デュオミリアの年、すべてが滅びた

 地はうねり湧き立つ海に都は消えた

 大瀑布ケイマルスの底

 そこに真の宝が在る

 冥府の底に眠る

 深く静かに》

(くだらん。なにが言いたいのか、まるでわからん)

 そうして熱狂が盛り上がった最終日に、いよいよ聖堂の奇跡の顕現となる。聖堂と聖王の有り難さを、愚民どもに見せつける時だ。聖堂が司る奇跡無くして、この豊かな国は成り立たないのだと、居合わせた全ての者の記憶を刷新するための重要なイベントだ。

 饗宴の間も堅く閉ざされていた聖堂の純白の塔に聖王が現れ、美しい音楽に満たされた首都の空に鮮やかな二重の虹を見せる。今年の豊作を確かに告げる天授の春の雨は、感動の涙を浮かべる連中の体を優しく濡らす。秋には暮れなずむ薄曇りの空から雲を七色に染め貫いて煌びやかに幾筋も降り注ぐ太陽の光の梯子だ。

「こんなことが出来るのか。ああ、ありがたいことだ。人智の及ばぬ力を、確かに聖王様は持っておられるのだな」

 年に二回の奇跡の大盤振る舞いに観衆は感涙歓呼、拍手喝采、大満足。次の祭への期待と、山ほど買い込んだ荷物と軽くなった財布を抱えて家に帰ると言う次第だ。買い物の荷物の一番上に聖堂のありがたい札と聖王の美化された絵姿がのっているのは、当然のことだろう。

 去年の《豊穣天喜祭》は、大逆の乱の悲劇からじきだったため、増員された治安維持の兵士の列に容赦なく誰何され小突かれ道を譲りながらで、当然ながら祭りの雰囲気も売り上げも直滑降で下り坂。雲を貫く光芒も心なしか薄れるのが早く、民衆の歓声も、果たして声を張って良いものか迷うように上下した。何があろうと王宮に定額を納めなければならないギルドの爺いどもの恨めしげな顔を見るのは痛快この上なかったが、春の《豊年天授祭》はそうもいくまい。ここで盛り上げておいてやらないと、なにか不都合が生じたら全て彼のせいにされかねない。

 亡き兄バータルの冠を、表向きは不承不承引き継いだ聖賢王ツーランは、思うところ多しである。

 中庭の厩舎から馬が引き出され、近衛騎士団の訓練が始まる音がしてきた。半年前に、彼らが仕える唯一無二の賢王バータルをむざむざと殺されたばかりだ。厳しい訓練に励むのも道理だろう。しんと静まりかえる聖堂の内壁で隔てられていた王宮側の騒音が、どれだけ多かったかに驚かされる。

 ほどなく躊躇いがちなノックが聞こえるだろう。国を背負う者がいつまでも惰眠を貪ることは許されない。責任を負う者が以前と変わらない行事をこなす姿を見せねばならないのだ。

 ノックに応えて唸ってやると、仰々しい巻紙を持った家令が恭しく体を屈めて入って来る。それから上から下まで派手な衣装でビシリと決めた彼はベッドの脇に直立不動で立ち、勿体ぶって巻紙を止めたリボンをほどいて、そこに記された今日の予定を読み上げる。毎朝の恒例行事だ。

あのけったいな節をつけた朗読にいつかは慣れることなどできるのだろうか。笑いをこらえて無表情を保つのは、本当に苦労する。家令が出ていくと、腹筋の疲れで一仕事済ませた達成感がすごい。

 さて、今日はどんなものか。

 王宮に滞在する客がいるなら、その地位に応じたもてなしだ。

 誰か居たかな、と寝たまま器用に首をひねる。

 去年の騒動の後すぐに首都キュクロス・アスティラトを訪ねて来たのは、うちの力が落ちているかどうかを明からさまに覗きにきた輩だ。

「賢王バータル様に心からの弔意を表します。さぞご無念でいらしたことでしょう。聖賢王ツーラン様にはつつがなくお過ごしになられますように」と、何種類かの決まり文句を面白みもなく組み合わせて棒読みし、そのくせ、目の端では何か掠めて取って帰れるおこぼれはないだろうかと探し、迷った振りで隅々まで嗅ぎ回る太々しい神経の連中だ。実に愚かしく、浅ましい。

 だが。本当に危険なのは、あの時姿を見せなかった奴らだ。年が変わって落ち着いたと思われる頃に現状を見極めに現れる者たちとか。もしくは、いまだに現れない連中とか。

 今日、宮廷〈ホーフ〉の広間で持て成しの宴がはられるようなら、朝10時から正午まで、または夕方5時から8時まで費やす三品の正餐になる。その場合はこれから寝室で取る朝食は軽くしておいた方が良いだろう。王の食欲で国の力具合を計られては叶わない。

 正式の宴の席は、聖賢王、その係累に続いて客人が座り、さらに聖堂から高位の祭司、身分の高いギルド、俗人とつづく。要人勢揃いの宴を用意させるほどの重要性が客になければ、あっさりした料理二種類とチーズが出される程度。面倒なのが、「実は重要な客なのだが、それと悟らせたくない」場合。朝にツーランが挨拶を済ませた後は夕食の時間まで常に広間に軽食と飲み物が置かれ、気軽さを装って、王や高位の者との「偶然」の邂逅で心地よい会話が可能になるように設えられる。彼らが散策するだろう場所に絨毯をわざわざ敷いている癖に、実に嘘くさい。

 王が目覚める前に、そうした段取りは全て決まり整えられる。彼、やんごとなき聖賢王ツーランは、粛々と手順に従っていれば良いのだ。

 こんな風に世界は回る。


 差し込み始めた朝陽で心地良かった怠惰な空気が追い払われた。

 これまで、聖堂の彼の部屋からは、太陽が没した後の夜空に星が輝き始めるのを飽く事なく眺めていたものだが。 

 王宮殿の賢王の居室に移った最初の朝から、ツーランは一人で眠った。横に寄り添うはずの妃のタルジュも、いつもそばにあった二人の息子たちの姿もない。

(連中の顔を見たのはいつだった? 一昨々日だったか?) 

 昼食の席で、久しぶりに会った下の息子のオルヴァリオが「いつお父様は聖堂に戻ってくるの?」と聞いた。長男タビーアは「自分たちが居館〈パラス〉に行くのだ」と切り返し、そのまま二人で大騒ぎしながら父親の視界から消えて行った。

(残念だな。どちらも不正解だ。お前たちが王宮に来ることも、われがまた聖堂で暮らすこともない。なあに、子供はどこだろうと育つものだ。「三歳まではドブを見せようが宝石を見せようが同じ程度に喜ぶ」とはまさに至言だ)

 妻のタルジュ妃は、ただ黙って彼の顔を見つめただけだった。言いたいことが、尋ねたいことが山ほどあるのに、それが許されない辛さに顔色をいっそう青ざめさせて。いまだ聖王妃の印だけを纏っているのは、あれは沈黙の訴えのつもりだろうか? 

(あの女は、自分だけがわれを理解している、己れの愛だけがわれを支えられると信じている。これも不正解だ。だが、一途な盲信は、自分の愛が至上のもので、決して揺るがないと思い込んでいる女は、その幸せな状態をみずから手放そうとはしないものだ)

 ツーランは寒々しく笑った。ひどく酷薄な光が目に浮かんでいることに、それと気づくことはない。遠ざけた妃の面影に囁く。

「しばらくそうしていると良い。お前の裏切りをわれが許す気になるまでな」


 そうだ。

 こんな風に、世界は回っているのだ。

 つつがなく、事もなし。

 誰が不幸になろうが、息絶えようが。

 以前は毎朝目がさめるたびに、彼が知らないうちにカーテンの向こうで世界が滅びていてくれないだろうかと願っていた。

 いまやツーランだけが、独り、彼のみが知る戦さをしているのだ。この世が平穏で変わることがないのが当たり前だと思いこんでいる連中のなかで。

 だから、構わないだろう。今や彼自身がその滅びに手を貸せるのだと、目覚めるたびにちょっとばかり心踊る思いをしても。




3  アウグストの集落のはずれ   ヴァレンと娘たち



「怪しすぎない?」

「もろ変質者よね」


 仁王立ちのヴァレンに付き添う娘たちは非難ごうごう。


 つい先日までの、顔に切りつけてくるような冬の風は去り、まだ日陰では身震いが出るほど冷たい空気も、どこか命の芽吹きを含んで初々しい。

 そんな初春の兆しの中、ヴァレンの風体は、と言うと。

 なめした革バンドを張り合わせて雲母ガラスを挟んだゴーグルで目を守り、手は麻布を巻きつけた上から分厚い革の手袋をはめている。上下に分かれた作務衣は三枚重ね。さらに昨日せっせと縫った繋ぎを着込んだ。これは作業が終わり次第、即座に焼却するつもりだ。

 全身を固めたヴァレンは雲ひとつない青空を恨みがましげに見上げる。

(あまりにも労働日和だ。ここまで徹底的に言い訳のタネにならないほど良い天気にならなくたって、よさそうなもんだ)

 インスタントミイラ中年男は嘆いた。

「しょうがないだろう、こうしないと危ないって言われたんだから」

 村の共同墓地が石灰を主とする土壌で、「仮り埋めした不審者の死体にはさらに念を入れて石灰を振りかけてあるから、お気をつけなされや〜」と、気抜けする口調で物騒なことを、確かにアウグストは言った。

「長は、石灰が目に入らないように、って言っただけじゃないの」

「10グラム食べたら死ぬとも言ったぞ」

「石灰の粉を、まんま10グラムも食べられたら、いっそあっぱれよ」

「どっちにしろ、十分に危険ってことじゃないか。『死体を直接素手で触りなさるなよ』だと? そんな事するわけないじゃないか。何考えてんだ、あの男は。俺は『石橋を叩いて渡る』ところを、念を入れて叩きまくって橋を落として渡らない男なんだからな」

 用心深さを誇っても、ここまで過度な防御を重ねるのは病的な域に入る。口と鼻はもちろん、髪の毛も露出しないように何重にも布で頭全体を覆う用意周到ぶり。巻きつける回数が多すぎた一回目は、あやうく呼吸ができなくなるところだった。

「一人前の男だと思っていたら」

「仕方ないだろう、俺の心臓はノミより小さい」

「威張ってるわ、この人」

「情けなさが過ぎない?」

「だから、一緒に居てくれるだけで良いって、言ってるじゃないか」

 な? な、頼むよ、な? と大の男が、たおやかな若い娘達に拝み倒す。手を合わせ足踏みも加わってなりふり構わない。

「これから掘り起こすのは死体だぞ。それも、わざと身元がわからなくしたような代物だ」

 ぶるぶると濡れた犬のように震えた。

「怖いじゃん」

 着膨れした大きな拳を二つ、顎の下で「キャッ」と並べて見せても、まるで同情を感じない。

 ヨッコラよちよちとヴァレンが移動を始めた。こんな厳重装備で家から出発したせいで、墓地に着くまでに普通の三倍は時間を食ってしまった。これ以上立ち尽くしていたら、明け方を迎えてしまうかも知れない。

「ほんとに、破損した人体がダメなんだ。聖堂の獄で拷問に立合わなきゃならなかった時なんか、こっちが拷問だ」

「ちょっと、ちょっと」

 娘らの足が止まった。

「あなた、聖堂の中で、そんなことをしてたの」

「なにを、いまさら」

 彼らの保護者を任ずる男がいかにもバカにしたように見下ろしたので、娘二人してそのまま踵を返そうとするのを、猛烈にあわてまくって止める。

「そういう汚れ仕事のない政治があったら、こっちが教えて欲しいぜ」

 まだ娘たちの目が氷点下に冷たいので、状況をできるだけ理解してもらおうと、無駄な努力を続ける。

「考えてみろよ。『おお、見よ、大瀑布に聳える偉大な都。長い繁栄を享受する美しい王都』」

 マスク越しにモゴモゴした声で、吟遊詩人の流行歌の冒頭の詠唱を始めた。気分だけは朗々と語っている。

「その都キュクロス・アスティラトを支配するのは、賢王の王宮と聖王を頂く聖堂だ。軍も司法も、公共施設はきっぱり所属が分けられているんだぞ。おまけにそこに職業ごとのギルドがわんさかあるわ、自由区民までいるんだ。そんな複雑な仕組みがうまく回る裏には、色々な事情があるのが当たり前じゃないか」

「俺だって嫌だったんだからな」と膨れ上がった蓑虫ヴァレンが強調すればするほど哀れさが増す。

 ジェニとティリーは、ふう、と可愛らしいため息をついて、また歩き始めた。

 どうやらここで見捨てられることはないと見て取ったヴァレンは、俄然元気を取り戻す。根っから調子に乗りやすい男なので、ここは多少自分の事を知ってもらうのも悪くないと考えついたらしい。世代差の自覚がないおっさんの自己語りは総じて面白くないのだと悟っていない典型例である。若い頃の自分も周りの説教親父に辟易としていただろうに。

「な、知ってるか。拷問ってのは実に加減が難しいんだぞ。痛めつけすぎては、『こっちが聞きたいと望んでいるだろうと、そいつが思ったこと』しか言わないしな。あとで利用したいどうかで、扱いも拷問のレベルも変わる。使えそうな奴だと、釈放するまでに出来るだけ早く健康体に戻してやらないといかんだろ? 解放してやったことでこっちに感謝しつつ、今後は逆らわず、おとなしく使われてくれるのが拷問の妙だ。こんな奴、要らんって可愛げのない奴は、適当に喋らせた後で相手側に返してやるって方法もある。本人は『敵には屈しなかったぞ』と英雄並みに大威張りだが、古巣の連中がそいつを信じるかどうか。何故冷遇されるかわからずに、不平不満が溜まった挙句、結局こっちに寝返ってきたりする」

「ほらな? 色々工夫しなきゃならんのだぜ、難しいんだ」と首を振るが、娘たちの目が氷のビームを発している事には、手製ゴーグルが邪魔で全く気付いていなかった。

「たとえば俺自身だが」

 いきなり話の論点が変わったので、いましも向きを変えようとしていた娘たちの足が止まった。

「こう見えて打たれ弱くてな」

「はい?」

 聡明過ぎるほどのジェニさえ意味が分からない。

「やられる前に全部白状するタイプだ」

 ティリーが、おそるおそる感想を述べる。

「それって、かえって信じてもらえなくない?」

「そうなんだ。心の狭い連中だぜ」

 自分で何かが納得できたのか、頭部の狭い可動域いっぱいにうんうんとうなづく。

「ほんとに痛いのはいやなんだよな。考えただけで全身鳥肌だ。だから指を挟まれたり爪を剥がされたりしなくたって、知っている限りのことを全て喜んで教えてやろう。さあ、なんでも聞いてくれ、拷問なんか要らないよって素晴らしい心がけなのに」

(いや、それ、とてつもなく胡散臭いから)

 娘二人の今度のため息は、多感な少女たちには似合わないとても深く重いものだった。

「どうしてあんなに人の善意を信じない、心根が歪んだ連中ばかりなんだろうな。生まれ育ちの問題か、やっぱり?」

(こんなのを殺さずにいてやった尋問者は、実はとても優しい人じゃないかしら)

 全身をぐるぐる包んで外界から遮断されたヴァレンは、相手の心の機微になど、とんと気付かない。

「拷問に立ち会うのも苦手だったなあ」

 遠い目。

「名人がいたんで、任せっぱなしにしていたんだが、どうしても俺が直接質問しなきゃいけない時とか、あるじゃん」

(じゃん、って)

「名人も俺がいるとやりづらそうでな。どう我慢しても、やられてる奴より先に悲鳴がでるし、やっぱり吐いちゃう」

「吐く」

「そう。こう、うげっと」

「うわ。すっごい、いや」

「さすが名人で、俺がいる時は薬に切り替えた。警告と情報徴集だけの時は、死ぬ寸前で止めて蘇らせる。匠の技だ」

 あこがれるよな、と言われても。

「でも、意外と俺の怖がりっぷりが役立つ時もあったんだぜ」

 妙な威張り方をする。

「俺がここまで怖がるからには、この先の拷問がどんなに酷くなるんだろうかって、勝手に想像して落ちる奴もいたからさ。な。匠の無駄を省いてやれたんだ」

 もこもこよちよち移動するミノムシが転ばないように両側を進む娘たちは、もはやツッコミを入れる気力も失って、哀しい視線を交わし合った。


 やがて。ヴァレンの歩みでやたら時間を取られたが。

「あーあ、着いちゃった」と可憐な娘たちに付き添われた、良い歳をした頑健な男がボヤく。

その1。墓地の敷地の端っこで石灰の中に埋めた死体を掘り返す。

その2。去年逃亡中のヴァレン達を生き絶えるまで運んでくれた哀れな馬の毛皮に死体を包んで、荷車で郊外に広がる草原まで運ぶ。ただし、集落の境からは、もうだいぶ雪が溶けているから、荷車の轍のあとを残さないように死体を降ろして、担ぐなり毛皮に載せて引っ張るなりして進む。

その3。死体を、現在半分溶け残っているスノーマウントの中に仰向けに安置する。下手な小細工は要らない。

その4。出来損ない雪穴から戻りの足跡は余分に持たされた熊の毛皮で平すこと。

 意外なほどの達筆で書かれたアウグストの指示は微に入り細に入り明確で、その意図は実に疑わしいものなのだが、この集落にこれからも隠れて暮らすからには従うほかない。

「さ、掘るかね」とツルハシを背から降ろそうとした時、20メートルほど先の茂みの中から巨大な影が立ち上がった。その勢いは「爆ぜた」とでも表するべきか。その男はヴァレンより優に二回りはでかい。村長のアウグストも、このデカブツには負けるだろう。聳え立つ体躯に相応しい雷鳴のような声が轟いた。

「墓荒らしか!!!」

 三人が、あまりに突然のことに立ち尽くすのに被せて

「死ねや!!!!!」

 この距離を一気に詰める超重量級のケダモノの突進に、地面が揺れた。

 その瞬間!

「待て!!!」

 ヴァレンが、手作りマスクをむしり取った。

 その電光石火ぶりは、まさに奇跡。

「おれだ!!!」

 だがしかし。

 ケダモノの攻撃を止めたのは声ではなく、続くヴァレンの行動だった。

「娘を、盾に!!!???」

「うわ、さいってーーーー」

 ケダモノと、若い方の娘ティリーから全く同じタイミングで声が漏れた。

「ほんっと、さいってーーーー」

 がっしと肩を掴まれてケダモノの面前に突き出されたジェニの唇からダメ押しの台詞がはかれ、それと同時に墓地の隅々まで、鮮やかな拳打ちの音が響き渡ったのだった。




4  アウグストの小屋



「なぁんとまああ。自分の娘を盾にした、となあ」

 ブシュウウウーーー

 集落の長アウグストの地を揺るがすため息に、咎められているヴァレンは吹き飛ばされるかと思った。さらなる追い打ちは、世界中から集めた汚物を眺めるが如き視線の冷たさで、もう「生きて帰ってすみません」と土下座したくなる。

「まあ、お前さんが人外に卑劣な輩で臆病卑怯極まりなく、獣にも劣る外道だって事実はさておいてじゃな」

 朗々と響く超低音の声がとても豊富な語彙で獲物を切り刻みにかかった。此処に至って、ようやく自己弁護の必要性に目覚めたヴァレンがアウグストを遮る。

「ちょっと、ちょっと、ちょっと」

 姉娘ジェニにグーで殴られた頬が華々しく真っ赤だ。喋ろうとすると頭蓋骨全体が痛い。

「もともとあの死体を作ったのが、あんたの村の新参墓掘人だったって方は? そっちはお咎めなしなの?」


 場所は、墓地から移って集落の長アウグストの家。


「まだ、なにか、ほざく? どこまでも、汚らわしい、わね」

 華奢な拳を冷たい水で冷やしているジェニに一節ごとに区切って吐き捨てられて、折れた心はさらに踏み躙られたが、

「待てって。俺はあいつをよーーーく知ってるんだ」

 台所で昼ご飯を振舞ってもらっている大男に呼び掛ける。

「やっほーい、キアラン。元気だったか」

 墓地での遭遇後、切れた唇からだらだら血を流すヴァレンの不明瞭な指示に従って、身元不明の死体を軽々とスノーマウントに運び、すごく手慣れた偽装工作を施したケダモノならぬ大男キアランが、にっこり手を振り返した。

 長の妻エレンは相当な料理上手で、そのシチューとこれまた自家製のパンで餌付けされた猛獣は、すっかり牙を抜かれて大人しい。見上げると首が痛くなるほどのガタイの墓掘り人も、このぐらい離れた距離から見れば割と美形のうちに入る。食事のマナーも完璧だ。仕草なんかも意外と可愛らしい。それでも頑丈な金属の檻の向こうにいたら、なお良かったかも知れないが、ヴァレン達に与えられた小屋と比べるとかなり広いアウグストの家でも、流石に頑丈な金属の檻を置く余裕はない。アウグストが壁から外してきた巨大な剣だけが彼らを守る手段だ。守ってくれるかどうかはこれからの成り行き次第である。ヴァレンは平静を装いながら必死だ。

「去年の都の騒ぎ以来だな。懐かしいな、覚えているか。お前の友達、聖堂のしがない祭司のヴァレンだぜ」

 とてもわざとらしい名乗りにアウグストの眉が、ちょっと上がった。

「うん、久しぶりだね、ヴァレン」

 ほらな、とヴァレンは村長と娘たちを振り返る。何故か誇らしげ。

「あいつは綺麗なものが好きなんだ。常識で測れんぐらいに愛しているんだ。だから、お前に毛筋ほどの傷すらつけることは、無い。絶対にあり得ん。自分が死んでもお前にぶつかる前に止まる奴だ」

「そうだとわかっていたからと言っても、娘を自分の盾にするかしら」

「俺が立ち塞がったとしても、あんなでかくて頑丈なもんが弾みでかすりでもしたら、骨の一本ぐらいじゃすまんだろうが。それに、俺、お前らの父親じゃないし」

 自己弁護のために、つるりと重大な情報を漏らす。本当に、もし尋問されるようなことになったら、垂れ流す情報量の多さに相手の方が驚くだろう。情報が正しいかどうかの確認のために拷問する必要が生じるかも知れない。

「男として、だろうが。ジェニの言いたいのは」

「人としての、資質の、問題よ」

「修復できない人間関係の溝って、こうやって生まれるのね」

 巻き起こる非難の嵐に

「俺に多くを要求するな!! 仕方ないじゃないか!! ほんっとに怖かったんだから!!」

「おお、これが噂の逆ギレかの。ほ。初めて見たわい」

「言い訳の、タネが、尽きたのね」

「二進も三進も行かなくなったパニック衝動の表れよ」

「分析するな!!」

 ふんぎゃーーーー

 哀れ、ヴァレン。もはや錯乱状態である。

 妹とアウグストの力も借りて思う存分に卑怯者ヴァレンを責めたジェニは、憑き物が落ちたケロリとした顔で、お茶をすすった。こうなると、また彼女は御簾の後ろの姫君で、必要最小限の言葉しか発しない。

 仕方がないのでティリーが、真相解明に乗り出すことにした。

「で、あの人は、あなたのなんなの」

 台所のテーブルの猛獣から、またも純朴な笑いが投げかけられる。美味しいシチューをパンで拭って食べている限りは、自分のことが話題になっていても構わないと示す鷹揚な姿勢だ。そして傍に立つエレンも、キアランが目を見張る食欲で自慢のシチュー鍋二個目の消費にとりかかっていることに単純に充足感を味わっているらしい。

 どこからも棚ぼたの助けが降ってくることはないと理解したヴァレンは、しぶしぶ白状。

「俺のお抱えの使用人だった」

「聖堂で、そんなもの、許されて、いないでしょう」

 ここだけははっきりさせる、との気迫でジェニが口を挟んだ。彼女のこれまでの人生そのものが聖堂にあったと言えるので。

「もちろん非公式に決まっているだろう」

『こっそり?』

『飼ってたの?』

『あのデカブツをか?』

 娘達とアウグストの交差する視線が沈黙のセリフを飛ばしあった。

 いや、しっかりと口に出されていたのだが。

「ひとさまに、絶対大っぴらにできない?」

「不適切な、いかがわしい関係ってこと?」

「おおおう」

 このメンツの中では一番寛容なエレンまで向こうの台所でそっと身を引いたので、

「違う!!!!」

 ヴァレンは慌てて否定する。

 赤の他人の性癖は心の底からどうでもいいが、自分への誤解は許さない男だ。

「俺専属の暗殺者の一人だ」

「はあ?」

「愛人の方が良かったか?」

「だが、俺にも好みが」と続けようとしたヴァレンの頭に、アウグストの掌が降って来た。そりゃあちょうど背後に居はしたが、人の頭を掴むのはやめなさい、とヴァレンがジタバタする。

「ちょおっと待ってくださらんかのお」

「なんだい、爺さん」と返したくなるノホホン口調であるが、出元は筋骨逞しい美中年狂戦士である。おまけに視線を逸らせないように馬鹿でかい手でジリジリと頭蓋骨を締め付けてくるので、全然愉快な気持ちにならない。

「いま、暗殺者の一人、と言われたかの? しかも専属とな? 全部で何人いたんだ?」

『そこ、今、突っ込むところ?』

 きっと見上げるヴァレン。

『今でなくても、実に突っ込みたい』

 はったと見下ろすアウグスト。

 徐々にヴァレンは涙目になった。

 いや、やめて、その辺で。頭と首の可動域を越えそうになっているから、本当に、勘弁して。頭蓋骨の強度の限界を試したくなんかないんだよ。秘密の情報ならいくらでも漏らすから。

「こいつの兄貴も暗殺者だ」

「あらまあ、あの優しそうな薬草師さんが人様を殺してお金を貰うなんて。そんなひどいことをしていたの? まあまあまあ、それはびっくりだわねえ、ねえ、アウグスト」

妻エレンののんびりコメントに「金貨だと思って拾ったら得体の知れん動物の死体だったみたいじゃないか」と、アウグストはいたって不機嫌に返した。

「死体と金貨を間違えたら、そりゃいくらなんでも本人の責任だろう」と、現状も立場もろくに考えないヴァレンは、案の定、頭を叩かれる。良い音がした。

「いまターイシュを行かせておるが」

 十日前に死体の発見者となった不運な少年が、墓掘り人キアランの兄レイズルを呼びに医療舎まで走らされている。ターイシュは長専属パシリで、それだけ目端がきいてはしっこいということだ。だから、キアランがざっと大まかに隠した死体を見つけてしまったりするわけだが。

 ふうむ、と唸ったきり慌てる様子のないアウグストに、長の家に一緒に向かう途中で《薬草師レイズル》が《暗殺者レイズル》に変貌したとしても、ターイシュならなんとか切り抜けるだろうと思っているわけだな、とヴァレンは考える。

 11かそこらの子供にそんな能力がある集落が、ますます怪しいものになってきた。それでも「よもや危険はなかろうがな」と呟いたアウグストは、少年に何かあったらレイズルとキアランを顔色一つ変えずに殺すだろう。ついでにヴァレンもだ。じろりと向けられた視線に、彼が受け止められる以上の殺気を読み取り、ヴァレンは必死で手を振った。

「大丈夫、大丈夫。契約していないオフの殺し屋ほど無害なものはないって」

な、キアラン。

そうだよな?

俺、間違ってないよな?

 ヴァレンの同意を求める語尾はちょっと震えていて、わざとらしい口調の明るさが台無しだ。

「どこまで長が怖いのよ」とは、当たり前ながらジェニの一言。

 鍋の回収を手伝うべく妻に呼ばれたアウグストが、やっと彼の背後を取るのをやめたので、ヴァレンはそろりと安全圏に移動。

 つまり、娘二人のそば。

 三人のコソコソが始まる。

 もっぱら中年男が娘たちに糾弾される図であるが。

「どう、なって、いるの」

「この時点で俺に聞く?」

「じゃあ、せめて、あんたの暗殺者兄弟についてぐらい、話しなさいよ」

「俺たちよりだいぶ早くからこの村に住み着いたみたいだな。あの騒ぎの翌朝に城門が封鎖される前には都を出ていたらしい。事態を見極める能力と実行力が素晴らしいじゃないか。さすが、由緒正しい暗殺者の家系だ」

 真から感心した態でヴァレンが言うので、娘二人も、そんなもんかなあと腹満ちておとなしいケダモノを見やる。

「あいつと兄貴のレイズルの親父は聖堂の祭司で殺し屋だった。あの世の幸せを祈ってやりながら殺すなんて実に人道にかなっているだろう? 」

「誰もが俺たちを必要とするくせに、俺らが困っても誰も助けてくれない。親父が病気で死ぬ前に助けてくれたのは、あんただけだった」

 エレンに言われてワインの入った壺を運びながら、キアランが口を挟んだ。意外と柔らかく耳に心地良いテノールの声をしている。スノーマウントで死体の処理をしながら陽気な歌を口ずさんでいたが、なかなか見事なものだった。

「な、律儀な男だろ?」

 ずいぶん久し振りに自分を肯定する存在に会えてヴァレンはとても嬉しかった。

「手練れの暗殺者は、さっさとこっちのものにしておかないと危ないじゃないか。敵に雇われたらどうする。それに、いざ必要になってから探しても、間に合うわけがない。あいつらは飛び抜けて凄腕だ。あの双子を雇っているってだけで俺の身の安全は保障されたようなもんだからな。そのうえ、暗殺の仕事が入ってない時でもちゃんと真面目に墓掘人と薬草師として働いているんだぜ。常に雇用が保証されている。賢いだろう?」

「確かにね」

「素直に褒める気になれないのは何故かしらと思うけど、大したものだとは認めるわ」

 巨体の暗殺者が、嬉しそうにテレテレと足を踏み替えた。

「あいつの隠れ蓑の墓掘人、さすがのチョイスだろう? ガタイのデカさに加えて、仕事を気味悪がって、近づいてくるやつも少ないし、本業での死体の処理にも一石二鳥。まあ、女を口説くには向かなかったがなあ。ナンパの決め文句が『君の墓を掘ってあげたい』だぜ、無理だろ」

 キアランの山のように盛り上がった肩が、心なしか寂しそうだ。

「職業じゃなくてセンスの問題だと思うわ」

「言わないでやれよ」


「それは無駄な心遣いだねえ」


 そんな柔らかな笑いを含んだ声と共に、一陣の風に巻かれた花びらが部屋の中で舞ってから、ようやくみんなが戸口近くに佇む男に気づいた。

 ドアベルがチリンとも鳴らず、軋む音すらたてないように扉を開け、中に入って、もう一度扉を閉める。数歩進んで柱にもたれて此方を伺う。これだけの動作を終えるまで、だれ一人として小屋の中の者たちは、アウグストも含めてそちらに顔を向けることすらしなかったのだ。

 すんなりとした細身の身体を赤く染めた長いマントが包んでいる。緩いカールでうねる黒髪に、悪戯っぽくキラキラ輝く漆黒の両眼。右頬にかすかに縦に残る傷跡が、綺麗な顔立ちを奇妙に引き立てていた。自分の行動をここまで得意げに誇る表情さえしていなかったら、非の打ちどころのない良い男と呼んでやれるのに。

(なんだ、その花びらは)

 この青年の過剰演出に慣れっこのヴァレンは、やれやれとため息をついた。

 いつの間にか小屋の中に現れていたのはヴァレン専属暗殺者のレイズル。墓場で遭遇したキアランの双子の兄だった。

 ここで真っ先に反応したのは、下の娘のティリー。

 十歩の距離をすっ飛んで、台所の食卓に置かれたままだった鉄鍋を掴むと、ぐるりと回転しながら凶器として新参者に投げつけようとする。

「おまえ!!!」

「ルーアン姫!」

 少女の渾身の怒りに対して、嬉々とした声が返された。

 鍋の方は墓掘り人/暗殺者キアランが、片手で掴んで取り上げている。こちらも、移動の気配さえしなかった。

「まだ、ソースが残っている」

 キアランが軽い殺気まで込めて咎めるのは、人に、特に自分の兄に向かって3キロ近い鍋を投げつけようとする行為より、彼が食べ終わっていないシチューを奪われる事なのだ。

「お、お、おまえっ!!!」

 ティリーが眦を決して詰め寄る。

 その異様さに、ようやくヴァレンが事の容易ならぬことを悟り、娘を新参の男から引き離せる位置に立った。

 手練れの暗殺者レイズルが得意とする技は毒薬だが、接近戦でのナイフの名手でもある。そんなプロを相手取って、彼が、しかも素手でどうにかできる見込みはこれっぱかしもなかったが、いざという時はティリーを姉ジェニの方に突き飛ばせば、綺麗なものは死守するキアランが、ジェニにくっ付いてくる妹もまとめて双子の凶刃から守るはず。問題は、的を奪われて怒ったレイズルが、そんな大胆な行いをしたヴァレンをついでだから刺しちゃえってなるだろう事だ。ヴァレンが知るレイズルの沸点は低い。

(だから、俺は誰かを守るなんてごめんだったのに)

 走馬燈のようにこれまでの人生の断片が頭の中を駆け巡った。一人で悲壮な覚悟を決めている哀れな中年男を相手にもせず、レイズルはマントを翻して優雅に一礼した。完璧な宮廷作法だ。

「ルーアン姫。お久しゅう。あの後、無事に城から逃げられたようでなによりでしたね」

「母上は、死んだわ」

 歯を食いしばってティリーは辛い言葉を吐き出した。

「そうでしょうね」

 レイズルの黒い瞳は揺るがない。うっすらと笑いすらした。

「お出会いした時には、すでに致命傷を負っておられた」

 とりあえず現時点では命を拾ったヴァレンは大体のところを理解した。

 あの大瀑布のほとりに建つ美しい都の中心が、恐怖と絶望に震撼した夜。

 濠に守られた王宮深く。王の居室に叛逆の徒がなだれ込み、賢王バータルとその家族を襲った。賢王が寝室で抵抗する機会もなく無残に殺されたあと、妃のジェイドは娘ルーアンと共に凶徒から逃がれようとしたのだろう。王宮を、何の望みもなく逃げ回っている間にレイズルに遭遇し、ただただ夢中で助けを乞うたのだ。

 その正体を知る事なく。

「お前、お前は、母上が助けを求めたのに、なにもしなかった」

 レイズルは、娘の血を吐くような言葉に、またも冷たい黒翡翠の視線を返しただけ。

「重装備の兵隊相手に、どうしろって言うんだ」

 言葉を丁寧に繕うのもやめる。目の前の娘は、本当は彼を糾弾しているのではない。あの時なにもできなかった、そして生き残ってしまった自分を責めているのだとわかっていたので。その痛みを、怒りをまともに受けとめてはやらない。これは本人が自力で治さなければならない傷だ。慰めてやることは出来るだろうが治してはやれない。そして暗殺者に慰めを求められても、ただ困る。専門外もいいところだ。

「キアランならともかく、俺の自慢は瞬発力。欠点は体力不足だ」

 ひょいと肩を竦めて、あっさり自分の弱点を暴露。

「それに、あの時は何の契約もしてなかったし。なあ、旦那」

 と、いきなりヴァレンに話題を振ったので、こちらは娘の怒りの矛先が転じてくるのを、大いに怯えた。

 そこに、小屋が揺るぐほどの、大刀を鞘ごと床に叩きつける音。

「ターイシュは、どこだ」

 アウグストが鈍銀色の殺気を両眼から迸らせて低く聞いた。迎えにやった子供が、暗殺者だけを彼の家に入れるはずはないとわかっていたから。

 しかし、レイズルは、へらりと笑っただけ。

「あんまり足が遅いから、置いて来た」

「もうじき来るんじゃないかな」と、靴の爪先の汚れをチェックしながらの緊張感のなさに、さしものアウグストの殺気が、空気を抜かれた風船のように萎む。内心では自分の迂闊さに歯がすり減るほど歯ぎしりしたかったが。

 

 広大な森と草原、国内最高峰クラスの険しい山々が続く大ローテェンガ山脈に隔てられた首都で謀反が起きたことと、その詳しい事情は、事件勃発の三日後には既に掴んでいた。

 アウグストには、そうした国中に張り巡らせた優れた情報網がある。

 しかし知らせが届いてから数日後に、ふらりと村に現れた兄弟をどうやら無害な存在だと見て、とりたてて詮議することなく受け入れたのは自分だ。ここであえて自己弁護にはしるなら、「父親が死んでからフラフラ田舎を旅しているのだ」と語った腕利きの薬草師と、勤勉で体力自慢の墓守りはいつでもどこでも需要がある。こんな小さな集落ならなおさらだ。都の騒ぎから本当に間がなかったので、よもや関わり合いがあるとも思えず、まして首都からここまでそんな短時間で来れるわけがないと常識で考えてしまった。

 それからまた平穏な生活が続いて。

 謀反の電撃的鎮圧と、その最大の功労者ツーランが聖賢王として即位して二ヶ月ほど後、村の外縁の雪原で、致命的に不出来なスノーマウントの中で瀕死のヴァレンら三人を発見した。こっちは山盛りの裏事情が有りそうだったが、まあ、仕方がない。人命救助は無条件に行わなければならないと、彼の出身部族海の民の掟に従って助けたら、事態はどんどん混迷の態を奏してきた。

 だが、みんな俺のせいか? 善行は大抵の場合、報われないものだが、これはひどすぎないか。

 墓掘り人と薬草師が、実は暗殺者だと?

 ヴァレンが口を滑らせて認めたが、親子らしき三人も、実は親子ではなくて。

 で、一体、今度はなんだ。

 ルーアン姫だって?

 ここはともかく、落ち着かないと。


 立派な肺に空気をいっぱい取り込んで状況の把握に乗り出す。

「よかろう。では、まず、双子。お前さんらじゃ」

 ナニモンだ。

 簡単な質問だろう。これで誤魔化すようなら並べて真っ二つの輪切りにしてやる。

 レイズルが色気のある笑いを浮かべた。狂戦士に変貌する一歩手前のアウグストに睨みつけられている状況で、正体不明の若造の色気なんぞが意味をなさないのはわかっていようから、生来のタラシ体質らしい。

「ご覧の通り、双子の兄弟。俺が薬草師、弟が墓掘り人」

「器用ねえ、あなた達。で、暗殺者とどっちが副業なの?」

 危険極まりない兄にも皿を出してやりながらアウグストの妻エレンがケロリと聞いた。職業に貴賎無しがポリシーだとしても太っ腹すぎる。

「どっちも専門だからなあ」

「だよねえ、兄ちゃん」

 とことん外見の似つかない双子は無邪気に頷き合いながら、絶品シチューに没頭し始めた。妻が与えた餌に気を取られている限り、とりあえずの危険はないと見て、アウグストは今度は明らかな怒りを持ってヴァレンを振り返る。

「レイズルが、『ルーアン姫』と呼んだようじゃがな」

「賢王バータルと王妃ジェイドの第二王女よ、あなた」

 背後からのエレンの口振りは普段と全く変わらない。まるでジャガイモの種類を教えるようだ。

「うむ。なるほど」

 アウグストは、ちょっと困った。ここは、あまり緊張感をほぐさないでほしい。

 照準を再度ヴァレンに定め直す。

「都から逃げていると言ったな」

「う、嘘じゃないぞおお。医療舎で、ちゃんと最初から王宮と聖堂の手勢に追われているって言ったじゃないか。俺たちを勝手に親子扱いしてきたのも、そっちだろう」

 確かに。都の手づるからの情報で第二王女ルーアンが密かにキュクロス・アスティラトを脱出した事は知っていた。しかしその後行方不明になって足跡が追えなかった王女が、まさか自分の集落に現れようとは、流石に読みきれない展開ではないか? こうした情報の齟齬や欠落が、何よりアウグストを苛立たせる。

 ギリギリと歯を食いしばる夫に代わったのが、

「ティリー、ね」

 エレンの慈悲の微笑み攻撃。

 しかし、その朗らかな笑顔には、夫を凌ぐ圧力がこもっている。

 ヴァレンはこの家の力関係を、とても正しく把握した。一気に冷や汗に塗れた。

「逃げ回っている時に『ルーアン姫さま』なんて礼儀正しく呼んでいる余裕なんか、ないだろ? 誰が都にご注進に及ぶかわからないから出来るだけ人目を避けて来たが、ともかく、なんとか呼んどかないと」

「ここでは、大抵、『姫』ってだけ呼んでいたじゃないの。微笑ましいって思っていたのよ」

「偽名だけにこだわって、うっかり間違ったら大変じゃないか。何が何でも隠そうと思うから肝心なところでしくじるんだ。それに、ちゃんと『うちの』姫ってつけていただろう。だれが聞いてもイタい親バカ親父だ」

 俺が。

 ヘコみかけたが踏ん張った。

「木を隠すなら森の中。姫を隠すなら姫の群れ。だから、ここの女たち全員が姫と呼ばれる環境にいれば、隠れ蓑として完璧だろ? 八百屋の娘にも、酒屋のおばちゃんにも、みんなに姫って呼びかけていたら、一週間もしないうちにブーム到来だ。姫扱いされて喜ばない女は、いない」

 たいそう、きっぱり。どこからくる自信なのかはさっぱりだが。

 と、そこで、真正姫君ルーアン/世をしのぶ仮の姿ティリーが、怒りを爆発させた。雪原から助けられて三ヶ月。すっかり集落の生活にも馴染んだが、住人たちから姫呼ばわりされるたびに、どうにもホッコリしないものがあったらしい。

「なにが姫よ。誠意ってか、敬意が、まるっきりないのよ! 不敬罪ってやつじゃないの??」

「固有名詞がついてないんだから、かまわんだろ?」

 両腕を振り上げながら、真正姫は雄叫んだ。

「『姫ちゃん、白菜持ってく?』とか、あり得ない!」

 大人達を、燃え上がる翡翠色の目で、はったと睨む。

「白菜よ!!!」

 しばらく忘れられた態の暗殺者兄弟の辺りから、押し殺した笑いが漏れた。

「あなた、なんだか、荒いから」

 ジェニの声はとても柔らかく優しいのに全くフォローになっていない。

「どうせ私はヤサグレ姫よ! あね様を姫と呼んだら冗談にならないもの」

 ティリーの目に、うっすらと涙が滲んだ。

「あね様はとんでもないレベルの美人だから引きこもっていても許されるし、愛想無しでも神秘的、ぼんやり座っているだけでアンニュイ。いつの間にか崇め奉られて、おかげで鬱陶しいのも近寄って来ない。おまけに頭の中に聖堂図書寮丸ごと記憶している貴種生物だわ。それにひきかえ、私はどうよ。ただの元・姫よ」

 ちゅどんと小型に爆発した。

「王宮で姫だった時から、大した思い出は無いわ。普通の家なら、この程度でも、運が良ければ親バカに猫可愛がりされたりするのよ。学舎のクラスの可愛い娘ベスト5ぐらいにはなれるはずだわ。そうしたら卒業までとことんチヤホヤされるのよ。ところが、王宮じゃあ、まるっきり汎用タイプよ、悲しいまでに平均よ。侍女の方が、よっぽど綺麗だったりするわ。当たり前じゃ無いの、あっちは熾烈な就職競争を勝ち抜いてきているんだから。特殊技能でもあるならともかく、胸を張ってスタンダードよ。〔第二王女平均値〕っていうのを提案してやろうかと思ったくらいよ」

 くすっとジェニが、珍しく笑い声を漏らした。

「姫が普通に生まれて、何が悪いの!!!」

 とうとうティリーは沸点に達した。

「顔も頭も平均で何が悪いの。平均って立派じゃないの? うちの王家なんて、ここ二百年ぐらいで、やっと、持参金と治安維持目的に、自国の有力領主や近隣の国と婚姻関係で固めたぞ、って段階なのに。そんなに早々と美男美女がぽこぽこ出現するはずがないじゃないの。

『姫に生まれた不幸をどうしてくれるの』。そう訴えたら『小賢しい』と言われたわ。母上に! 実の母親よ。滅多に会えないけど、私を生んだ責任の当事者よ。11になったばかりの自分の娘に『小賢しい』ですって? 『そんなことはないわよ』ぐらい、人の礼儀として言えないのかしら。

侍女達には裏で『ぱっとしない』とか、『華がない』とか、もう、言われ放題。聞こえないとでも思っているのかしら。立派ないじめよ。

王宮に残った一人だけの姫だから、将来うまくいけば女王だけど、8年前にデルロイ自治領に嫁いで行ったサフィラ姉様が出戻って来たり、5年前から行方不明のバータル兄様がひょっこり生還したら、もう用無しよ。それで政略結婚のコマにされるなら、まだ使いでがあるって認められているわけだから後ろ盾もあるけど。万が一、下に新しく王子なんか生まれたりしたら、うちに居残ったって継承権争いのタネにしかならないじゃないの。そうなってから慌てて探す結婚相手は、まずうちの国に無害なのが第一条件で、あとはどうでも良いものね。相手も売れ残りだろうから、盛りに盛った肖像画に期待したら実物は致命的に不細工か、父様より年寄りだけど金だけはたっぷりの輩なんてのが定番よね。下手を打てば暗殺されるかも知れない。あんな暗殺者が同じ敷地の聖堂の同じ屋根の下にいるのよ! 同居人よ! 双子で脅威倍増よ!!! 地位と衣食住の保証と引き換えのオプションなんてこんなものよ。姫なのになんの旨味もないのよ」

「やってらんないわ~~~~」と奇怪な踊りを始めた。

 そのまま小屋を一周。テーブルに戻ってきて、

「だから」

 愛らしい少女が、肩幅以上に足を踏ん張って宣言した。

「死んでやろうと決めたわ」

 皆が、ぎょっとするが、姫は一向に気にかけない。

 そこはさすがの王の血統だ。

「夢の中の啓示ってのかしら?」

 小首を傾げる姿はいじらしく可愛らしい。

「『よおし、死んでやる!』って、ある日突然、爽やかに目覚めたのよ。死ねば、朝から晩まで非難されることもない、指を刺されて笑われることもない」

 ルーアン姫は腰に拳を当てて高らかに笑った。

「良いじゃないですか!!」

 そこで見計らったように水を飲む。

 小屋の中に否が応でも高まる緊張。

「ところが、これが意外と難しかったの。どこに行くにも誰かについてこられて、何をするのも見られているでしょう。その監視を掻い潜らないといけないのよ。いつもと変わりない様子に見せなきゃならないし。誰よりも、みんなの働いている時間や区域、城中の構造に詳しくなったわ。三週間、かかったわ」

 ふう、と少女は額の汗を拭った。

「でも、それで大逆の騒ぎからも逃げられたのだから、『芸は身を助く』って言うのかしら」

 ちょっと違う、とみんな思ったが、あえて指摘するものはいなかった。

「ともかくね。とうとう、居館の、城壁の端に一番近い通廊の脇にある階段を上がって、物見屋根の、ええと、武者走りって言うの? そこから濠に飛び込めば絶対死ねるとわかって、何度かルートを練習したわ。途中でだれかに見つからないようにね。で、新月の晩、不寝番の侍女に眠り薬を盛って決行したの」

 にんまりとローデヴェイク国の姫は笑った。

「そいつは、一番私の悪口を言ってる女だったから。私がその女の眠っている間に死んだら、どうやったって責任は逃れられないわよね。ざまあみろよ」

 自分が消え去る前に、きっちり仕返しはする。さすがの帝王学だ。

「動きやすいけれど死体が発見された時に見苦しくない格好に着替えて、通廊から控え壁の階段を登って、天辺に立ったら」

 ふっつりと声が途絶え、うつむいて黙り込んでしまった姫を、皆が気遣わしく見守った。

「ものすごい達成感だったの。『わたし、すごくない? 死のうと思って、ここまでやり遂げたなんて』って。『これを誰かに見せつけないうちは、死ねないわ』って、目的がすり替わっちゃったのよ」

 小屋の中の空気がハリケーンさながら揺らいだ。

 笑いたい。爆笑したいのだが、ことがことだけに、さすがに笑えない。

「だから、それからは」

 そんな優しい気配りなど、相変わらず全く意に介しない姫が明解に意思表示を続けた。優れた女王になった事だろう。

「良い子でいるのをやめたの。普通であることが私にとっての呪いなら、それで私が苦しんでいるのを隠すのをやめたのよ」

「どうやって?」

 恐る恐るアウグストが尋ねた。

「誰かが陰口を言っているのが聞こえたら、こうやって叫んで踊るの、『呪いじゃああああああ』」

 そして、さっきの奇怪なダンスを、もう一度披露した。

「私たちを守るはずの右府の衛の叛逆で父さまも母さまも殺されて、唯一の王位継承者だからって、しつこく追われて、それもこれも、理由はただ『姫だから』! どうよ!?? 立派な呪いでしょう!??」

 さらに髪を振り乱して〔秘技・呪いじゃあああ踊り〕を舞う姫を、そっと抱きしめて止めたのはジェニだった。

「なにを言うの。あなたが姫であることが呪いなわけがないでしょう。あなたは立派だし、本当に可愛いわ」

 数行にわたる言葉を発するはずのないジェニが、白魚のような指で、暴れて乱れたティリーの髪を梳かしつけてやる。逃亡のさなかに血よりも確かなもので結ばれた愛しい妹だ。

「ほらほら、大丈夫」

 たまには甘やかしてあげないとね、と柔らかく抱擁する。

 大変麗しい図なのだが、小屋の中の男たち全員がなぜか妙に居心地の悪い思いを味わう。ちょうどそこに戻ってきたターイシュが、その有様を目にした瞬間、足がいきなり六本に増えたかのような無様な躓きに加えて床上三回転の転びっぷりを見せたので、あながち心汚れた大人の歪んだ印象ではなかったらしい。

 アウグストが、さすがの長の威厳を見せた最初の立ち直りでゲハゲハと咳払い。

「こら、ターイシュ」

「はひゃあいっ!?」

 食い入るように抱き合う姉妹を見つめていた少年が、マムシに噛まれたかの如き反応を見せた。アウグストの深いため息と、エレンの遠慮ない高笑いに、少年は真っ赤を通り越したムラサキ色の顔色に変わる。

「なにか報告があるんじゃないのかの? レイズルに置き去りにされただけでは、ここまで遅れまいが」

「ああああああああ」

 哀れ、ターイシュがこの世に戻ってくるには、エレンの差し出す水コップ三杯が必要だった。

「ついさっき連絡が来たんだよ。四日前に都から正式に王女ルーアン探索隊が出たって。右府の衛に王宮近衛隊と聖堂警ら隊混成の六人編成の歩兵が十組。それぞれが二頭馬車に糧食をたっぷり積んでるから、しばらく都に戻る気はなさそうだって。そのうち三組がローテェンガの山越えする方向に向かってるそうだよ」

「やはり、な」

 集落の長は静かに目を伏せた。暗殺者キアランにあっさり始末されてしまった男の正体や目的、誰が雇ったかがわからないのが、なんとも苛立たしい。如何にも怪しい見知らぬ男が墓地に忍び込んで集落をこっそり観察していたからとキアランはもっともらしく言い訳をしていたが、自分の聖域を侵されたからブチ切れただけなのが火を見るよりも明らか。尋問もせずに簡単なやっつけ始末だけで放置とは。

『素人め。暗殺だけしか出来ん奴は、これだから困る』

 アウグストがジロリと睨んで来たので、犯人/暗殺者/墓掘り人キアランは、素早くエレンのスカートの後ろに隠れた。猛獣も野生の本能でこの場のヒエラルキーを実に正しく認識している。

「外に出るぞ。もしご都合がよろしいならご同行願えますかな、ヴァレン殿」

 怒りに顎を強張らせたアウグストにそんな皮肉たっぷりのセリフを投げつけられたヴァレンが、とうとう溜池に沈めて始末されるのかと覚悟しても仕方なかっただろう。市場に売られる子牛さながら、しおしおと長の後に従ったのだった。




5  集落の丘の上  ヴァレンとアウグスト



 集落の外縁から五分も歩くと、小さな丘がある。ほぼ平坦なこの辺りの草原からいきなり飛び出したヘソのような形だ。天辺まではせいぜい10分ほど。

 丘を登り始めた頃から、薄い霧が広がり始めた。地面を掃くようにして足元から身体をすっぽりと包んで濡らす霧で視界が柔らかく遮られる。

 この地方に特有の早春の霧雨だが、しっとりとした風情はともかく、体温を急速に奪う危険なものでもある。

 さしたる時間も経たずに骨に染みいってくる冷たさの只中、ぼんやりと浮かび上がる集落の長のシルエットは、海の底の遺跡に眠る彫像のようだ。思わず見惚れるほど神秘的な雰囲気を自ら惜しげもなく正しい姿勢のスクワットで打ち壊したアウグストはやれやれと顎を撫で回した。

(なんとも面倒くさいことになったもんだ。ただの住民の取りまとめ役には、荷が重すぎないか?)

 長と呼ばれていても、ここは宮廷〈ホーフ〉とギルドから認可される村ほどの規模はない。

 二千年前の滅亡から立ち直った人々が肩を寄せ合う首都キュクロス・アスティラトや、街道に沿った路村や商業町からも、あえて遠く離れた、ただの、集落。「村」に呼称が変わるギリギリの七百程度の住人がいるが、外界と、とりわけ中央とはできるだけ関わりを持たないようにしてきた。

 丘の上からは、集落の家々、開墾した畑、そしてわずかだが街道をも見渡せる。ローデヴェイク国内を縦横に延びる街道の中でも《都知らず》屈指の寂れた街道からここまでの道は雑草に埋もれる獣道レベル。途中の川に架かる橋は渡るのを躊躇うぐらいボロボロだ。身体を巡らせて彼方の山々の連なりを望めば、目に入るのは、身を隠すことのできない草原と、昼なお暗い鬱蒼とした森だけ。

 こうやってあからさまに「よそ者お断り」の雰囲気を醸し出しても、しかし、完全な孤立などあり得ない。

 この国では子供が産まれると聖堂に知らせる義務があるので、ある程度の人口を抱える集落には何をおいても祠が置かれる。有無を言わさず、聖堂百人隊が設置していくのだ。百人隊というのは、聖堂の教育課程中に右府の衛で軍事教練を修めた、祭司でありながら兵士。法師武者と呼ばれる侮れない連中だ。二十人が一組となって国内を巡回している。祠の設置をあくまで拒否すると違法集落と見做され、この聖堂百人隊と、張り切って応援に駆けつけてくる右府の衛の連合軍と真っ向から戦う羽目になる。そんな面倒は極力避けるのが正しい判断だ。あとは、街道の治安維持のために巡回中の衛門府の兵士たちが糧食の補充に立ち寄ったり。また最低限の取引がある商人の隊商も訪うし、極めて稀だが道から外れた旅人が助けを求めてくる事もある。ただし、そうした外部からの者には特定の区画の小屋を与え、早々に旅立ってもらったあとは集落から十分な距離を離れるまで一挙一動見逃すことはない。

 そうやって警戒を怠らずにいたと言うのに。

 アウグストは、この集落初の、外部から定住を希望したレイズルとキアランの正体がこれまで全く露呈しなかった事に呆れ果てた。

 双子の暗殺者だと? 

 同じ親から生まれたのも信じられないぐらい似ていないと思っていたら、共通項が暗殺者だとは。しかも副業が薬草師と墓掘人だ。受けた依頼によっては標的と同じ場所に長期間居なければならないこともあるだろう。見事な選択だ。特に兄の薬草師の方は、超レアな薬草まで網羅する知識の深さと調合の確かな腕だけではなく、見た目と愛想の良さに、若い娘たちがキャワキャワ浮かれていた始末。医療師シャードも、心に決めた後継者が、よもや彼の天職と対極にある暗殺者と知ったらショックで寝込んでしまうかもしれない。

 自分が仕事中の彼らのターゲットでなくて助かった、とアウグストは胸を撫で下ろした。双子が実力行使でかかって来ようが返り討ちにする自信はあるが、暴力沙汰に眉を潜める妻エレンの反応が怖い。彼女に怒られないためには先守防衛の証明が不可欠なのだが、あんな凄腕連中が相手だと最初の一撃が致命傷になってしまう確率が高い。

(悩ましいものだな)

 聖堂に雇われるぐらい凄腕の暗殺者に襲われるより妻の機嫌の方が大事と考えるのは、どこかおかしいのではないか? と言う認識は、彼には微塵も無かった。


 風が霧を吹き払っていく。

 視界がひらけて、遠く、集落の境界までが見渡せた。

 眼下の家々は、木の角柱で骨を組み、樹皮を付けたままの壁板を下向きに嵌め込んだスタイルが多い。

「ちょっと見だと、他の土地での泥壁作りと変わらないようにしてあるのがミソでさあ」

 大工の親方ヨーゼフは、そう大きく胸を張った。

 木材で骨組みを作り、細枝を組み合わせた下壁に粘土を塗り込むまでは、この国の標準だ。

 ヨーゼフの独創性は、ここから遺憾なく発揮される。

 まず、家の扉は外に向かって開く。攻めてきた敵が家に突入しようとする時、大抵は血気盛んに肩から突っ込むものだ。準備万端に破壊槌を持っていたとしても、そこで手痛く跳ね返されることになる。そして左側にある取手を掴んで自分の方に引いて開けるには、ほぼ大半の者が利き手である右手から剣を持ち直し、扉が開くにつれ、中にいる者に全身を晒さなければならない。敵が慎重な性格で複数でやって来たり弓兵に援護させていても、扉は外壁からその幅分奥まって取り付けられているから、結果、我が身を呈して家の住人を守ってしまうことになる。一方で、余所者に提供する小屋のドアが、これと反対に内開きなのは当たり前のことだ。ヴァレン達の団欒に乱入したアウグストの昨日の所業で、それは明らか。

 屋根は火に強い樹の幹や大枝を削ったアーチで補強された上に、太鼓橋のようなドーム状に板を並べてある。万が一火矢で攻撃された場合、壁の樹皮が燃え上がりにくいのに加えて、家の内側から天井部分を落とせば、近づいてきた敵の頭上にうまいこと落下する、らしい。実戦で試したことは、幸いにもまだ無いのでなんとも言えないが、ヨーゼフの工房の庭で小型の模型が燃えているのを何回か見たことがあるから、おそらく彼の言う通りに機能するのだろう。三十人の弟子を抱える親方の腕を甘く見ない方が良い。

 アウグストは製作意欲に燃える真摯な専門家の意見には、基本、逆らわない事にしているが、あまりにも趣味に走り過ぎる場合は身を挺して止めなければならないとも思っている。

「万が一の時はだな、長」

 ヨーゼフ親方は、ごつい腕を振り回し、目がキラッキラ輝いている。

「家の内壁から屋根に上がるハシゴで、上の足場に登るだろ? この1メートル四方の台は天窓の覆いに見せかけてあるが、厚板を立て回して即席の物見台になるし、当然、下からの攻撃に備えることが出来る。屋根部分に被せてある藁や、天井板の下に格納している油は、火をつけて敵に向けて蹴り落とす」

 勝利を確信したヨーゼフは満面の笑みで拳を突き上げた。

「いつでも来やがれ!!!」

 誰に向かっての雄叫びだ。

 実は、彼だけではなく、集落の親方たちは危険人物だらけだった。

 鍛冶屋の親方タデウスはヨーゼフと魂の兄弟で、日々の研究開発、切磋琢磨を欠かさない。

 鍛冶屋タデウスは、技の向上のための打ち込みっぷりが凄まじ過ぎて、教えられる技術が一定水準になると、どの弟子も親方とそれ以上は一緒に働きたがらない問題を抱えている。だが、小さな集落での日常の鍛治の需要は農耕器具の修理以外にさほど大きなものはなく、これまで特に問題が生じてもいないので、アウグストも口は出さず遠巻きに見守るギャラリーの一人になっている現状だ。

 しかし、タデウスが心身を傾けるのは武器作りだった。

 〔触らぬものに祟りなし連合〕親方二人が、さらに心の朋輩、土工の親方ヴェツェリオを加えて練りに練った戦法は、こうだ。

 個別の家は、一気に外部からの襲撃を受けないように緩やかな螺旋状に配置されている。そして敵襲に長く持ちこたえられなくても、皆に十分な避難の時間を稼いで、中央の準備が整うまでで良いのだ。

 集落の中央には、三棟の、他の家々の屋根より高い塔を備えた建物がある。普段は、倉庫、学舎、医療舎と集会場として使われているが、そこを十分な防衛用の構造にするために大工のヨーゼフは頭痛がするまで知恵を絞った。藁屑と土を混ぜた土壁は要所要所をレンガで補強してあり、さらに屋根の耐火性にも優れている。

 塔の上に上がった見張りは十文字の隙間が刻まれた厚板で守られる。矢狭間から突き出した弩は鍛冶屋のタデウス自慢の作品で、その威力は鎧で保護した馬の胴体も貫く、らしい。実際に試す機会は、こちらもまた幸いにして一度も無かった。三棟の建物で囲まれ、落とし扉で守られた中庭には深い井戸が二つ。もちろん、別々の水源からのものだ。

 個々の家や中央の建物だけではない。

 普段は効率的な農耕や生活向上のための施設改良と工夫に余念のない温和な土工の親方ヴェツェリオだが、集落を護るという大きな目標を掲げられると、この男もまた性格が変わってしまう。

 彼の自慢は、集落の周囲に広がる耕作地を縦横に区切る灌漑用水路だった。子供が釣りや泳ぎを楽しめる長閑なものだが、敵が集落を襲ってくるような段になると1メートルに満たない深さでも馬や馬車で一気に攻め込むことは出来ない。各所に設けた簡略な板橋は斧の一撃で綱を切って落とせる。平時には、万が一水路に落ちるうっかり者がいても、すぐに掴まれるように水面に向かって何本も杭が伸びている親切な構造の板橋だが、火急の際は水路に油を撒いて火をつける恰好の材料と化す。そして、その防衛効果をより一層高めるために、耕作地全体が集落からわずかに降る傾斜がつけられているのだ。

 どこをとっても、立派すぎるほどの死の罠だ。

「いつでも来やがれ!!!」

 親方三人は、彼らのモットーを酒の一杯ごとに雄叫び、さらなる集落要塞改良案を出し合うため、かなりの頻度で酒屋で集会を開く。その意気やますます軒昂。最初のうちは遠巻きに怖々彼らを見守るだけだった住人たちにも気前よく酒を振る舞い、柔軟に素人の思いつきを取り入れるとあって、親方定期集会のせいで、住人達の性格が最近なにやら変わってきたのではないか、と、少々心配になるアウグストだった。

 大体、こんな辺境の集落を襲うとしたら、衛門府の軍の街道巡回から逃げ回りつつ悪事を働く盗賊ぐらいだろうから、徒党を組んだとしても、せいぜいが二十人程度。兵役経験者や傭兵上がりが加わっているとしても、たかが知れている。そうして、まず半日以上かかるような徹底した抗戦など、彼らは考えてもいないだろう。

 優れた匠たちの限りなく燃え盛る情熱に対してアウグストは惜しみない称賛をおくったが、彼らが手ぐすね引いて期待しているのは、それはもう明らかな過剰防衛で、ここが「殺戮の村」とか呼ばれるようになったら非常にまずい。この集落は、存在そのものが出来るだけ知られずにいるのが最優先なのだ。

 親方たちの、あの並外れた好戦的性格はかえって危険をもたらしかねない。なんとかならないものかと、朝夕に幅広の剣と身の丈を越す矛の二刀流の鍛錬を欠かさないアウグストは頭を悩ませている。


 丘に登って汗ばんだ額に、風が心地良い。

 さすがに、様々な過去を背負った余所者三人と、副業共に凄腕の暗殺者兄弟に占拠された我が家の空気は薄かった。妙なものに懐に舞いこまれてしまったものだ。受け入れる最終決定を下したのは彼自身なのだから自業自得ではあるけれど。

 短い時間で消える霧を吹き払う風にも、もうたっぷりと春の気配が満ちている。時折、朝晩に冷え込みがあっても、もう冬は確かに過ぎ去った。

 こういう時、はるかかなたの故郷の海の香りが、ふいに蘇る。


《鈍灰色の冷たい海は年がら年中荒れ狂っている。

痩せた大地に、切り立った崖。

湾から少し離れて、暴風に逆らってしがみ付くような、わずかな針葉樹の森。

その入り口に立つ小さな小屋から立ち上る、なさけないほどの煙が一筋》


 失われた故郷を思い浮かべる度に、時が過ぎるにつれて、その景色はますます鮮やかになる。目の奥に焼き付いて離れない姿を、アウグストは記憶の奥底にまた大事にしまい込んだ。

 背後から、奇妙な規則正しい硬質の音がする。霧がもたらす寒さにヴァレンの歯が鳴る音だった。集落に転がり込んできたヤワな男を不躾に眺める。

「いやはや。驚いたな。雪野原で発見した時は、娘二人とただの親父かと思ったら、一人は姫だとはな」

 丘の上で座りやすい場所を見つけて、腰を下ろそうと身振りで示す。走って逃げようたって、そうは問屋がおろさない気迫に満ちた誘いだった。

「もう一人は、たとえお前が、万が一、どうやったってあり得ない事だが、天下一の美女を娶ったとしても不可能なぐらいの別嬪だ」

 娘ってのはどこか父親に似るもんだからな、と長は自分で納得して深く頷いた。

「いっそ爆笑したくなるぐらい失礼だな」

 しかし、反論できない悔しさに、ヴァレンは親指を噛む。普通である事で日々イバラの道を歩いてきたティリーの気持ちがようやく腑に落ちた。

「念のためだったが、去年、療養所に運び込まれた時にお前さん達の血を調べさせてもらった。だから、そのあたりは最初から知っていたがな」

 ニッコリ笑うアウグストに、ヴァレンは思い切り顔を顰めた。

「ここには個人の尊厳とかプライバシーとかいうものは無いのかね」

「それはこの世のどこかにいると言う妖精さんのお名前か? ああ、それで思い出したんだが。都に、お前の同僚だろう、この世のものならぬ、男にしておくには実に惜しい優男がいたな。聖堂の図書寮に。ガワの良さだけが取り柄に見えたが、あれで図書の司〈ずしょのつかさ〉ってお偉いさんだろう。ジェニによく似ていたな。あれが本当の父親なのか?」

「あんた、聖堂のどこまで入り込んだ」

 ヴァレンは、今度こそ、心底呆れた。

 聖堂の中には、確かに一般人も立ち入りが許される場所もある。

 しかし一介の民間人が、図書寮に足を踏み入れることなど、断じてないはずだ。まして図書の司のレメディアスと直接顔を合わせるなど、あり得ない。それにしてもローデヴェイク国建国以来の美男子と言われたレメディアスも、海の民にかかっては形なしだな、と、ヴァレンはちょっと胸のすく思いをした。

『ガワの良さだけ、か』

 うふふふふふ

 外見が並の男の妬みだ。

「なあに。作付けの資料を見たいだけの田舎のジジイに親切なのは、全国共通だろうて」

「誰がジジイだ」

 アウグストの全身の筋肉の盛り上がりをジロリと見やって吐きすてる。珍しく攻撃的なヴァレンの反応は、そよ風ほどにも効果がなかった。

「王宮と聖堂の両方から追われていると言ったな? 姫さんは当然王宮からだが」

「そう、ジェニの方は聖堂だ」

「あんな娘が、どうしてまた」

 聖堂の祭司の娘に、いくら親が高位だからって、追っ手がかかるような理由があるのか?

「ティリーが言っていただろう。『あんな娘』の頭の中には、聖堂の全部の本やら資料がすっかり収まっているんだ」

 ほほお、とアウグストは首を傾げる。そんな才能があったら、学舎の勉学はさぞ楽だろう。

「だからって、本人がそのまま使えるわけじゃないんだろうが?」

 あの華奢な娘が、本で読んだからと、いきなり剣の達人になるのは無理な話だろう。そうでなければ、もの心ついた頃から一日たりと剣の鍛錬を欠かさなかった彼の立つ背がない。

「そりゃあな」

 似たような想像をしたヴァレンが、ブンブンと頭を振った。そんなことが出来るようなら、一緒に住んでいる彼の生命は、とっくに無い。

「だが、目的がある問いには全部答えられるんだ」

「と言うと?」

「物騒なものだと、たとえば失われた文明の武器の作り方とか。もちろん、今の技術力や材料の範囲に限られているけどな」

 アウグストの脳裏に、妙な形の必殺の武器を頭上に差し上げ高笑いしながら輪になって踊る集落の親方三人衆の図が浮かんだ。

「そりゃあ、まずいな」

「ものすごく、まずい」

 だが、頭に刷り込まれただけの知識は万能ではないのだと、ヴァレンは説明した。


 昨日、長から死体の発掘と投棄を命じられた彼は、アウグストが小屋から出て行った瞬間、ジェニに泣きついたのだ。

「なあ、なんとかしてくれよ。死体だよ? しかもでろりんと腐った死体なんだぜ。そんなのそばで、息なんか出来ると思うか?」

 そこでしばらく熟考したジェニが提案したのは、上から小石、砂利、砂を詰めた袋の下に筒を差し込んで息をしてはどうか、というものだった。嬉々として工作に励み、早速試したヴァレンはものの数秒で窒息するところだった。肩を喘がせて苦しむヴァレンにジェニは珍しく長いセリフでしおらしく謝った。

「ごめんなさい、それって、水の浄化のやり方だったみたい」


 ジェニの知識の有用性と限界を命懸けで立証したヴァレンが、ここで思い切り顔を顰める。

「母親が懸命に守っていた娘のその秘密をばらしたのが、あんたが出会ったべらぼうに顔だけが良い父親だ」

 うわあ、とアウグストの顔も歪んだ。

「馬鹿なのか?」

「顔は良かった」

 ああ。

「自分が殺される前に、家族の命乞いをしようとしていたんだ」

「馬鹿なんだな」

「顔は良かった」

 もう良い、わかった、とアウグストは吐き捨てた。

 都合の悪い相手の手に落ちたら確実に平和と優位を脅かす能力だ。聖堂が血眼で追い回すのも無理はない。なるほど。ティリーが王宮から逃げ、ジェニは聖堂から隠れていれば、そりゃあ逃亡途中でどこにも助けを求められない。

「で、お前は?」

 懐に飛び込んできたデカくてヤワな窮鳥は恩返しに何が出来る。人を抱えて飛ぶのか。夜中に黄金の卵を産むのか。

 ワクワク期待されて、ヴァレンはむくれた。

「俺はトバッチリを受けただけ。他人のせいで自分の人生を棒に振らされた哀れな男さ。いい迷惑だ」

 ふうむ、と長は目を細めた。

「お前さん、聖堂の陳情部署にいただろう」

「知っていたのか」

(いま、この男、ちぇっとか舌打ちしなかったか?)

 爺むさく礼儀作法にうるさいアウグストは、こちらも舌打ちで反撃した。実に大人げない。一節ごとに強調して理由を述べる。

「三週間かかって書類を整えて、五週間かけて都まで行って、三日待った聖堂の陳情回答日に、お前が、俺の目の前で、即座に『必要性を認めず』と、そりゃあもう、清々しいほどの勢いで却下してくれたからな」

「ああ〜〜〜」

 祭司として労働に勤しんでいた時、聖堂への陳情でもヴァレンが担当させられていた案件に全く優先権はない。前例がないとか、重要性、可及性を認めず、とかを唱えてサヨナラしてもらうのが、彼の日常業務だった。

ぶっちゃけて言うなら、陳情書の中身を読んだことすら無い。ほぼ無い。翌日に回答が必要と分類された陳情書に落書きして怒られたこともある。だから、彼が却下したと言うなら、それは聖堂の総意で、最初から却下される運命だったのだ。

 とは言え、当事者にしてみれば、目の前に現れたヴァレンのせいだと思うのも当然で。じっとりと蘇った殺気を込めて見つめるアウグストに、官僚制度にドップリ依存して甘えていた彼は、とても怯えた。背後に虎がいないと狐は全く無力だ。

「そりゃあ悪かったな、いや、ほんと、悪かった。俺のせいじゃないけど、悪かったよ」

 モゴモゴ謝るのを聞き流して

「おまけに、典礼の儀で宮廷〈ホーフ〉の広間では聖王の隣に立っていたじゃないか。ただの陳情受付坊主にしちゃあ高位なところにいるもんだとおもったが?」

 どこまで目敏いんだ、このデカブツは、とヴァレンは舌を巻いた。水平線の向こうまで見えると言われる海の民の超能力なのか。

「姉貴のタルジュが聖王ツーランと結婚したんだ」

 今度こそ、盛大な舌打ち。

「あのツーランだぞ。考えられるか? あんないけ好かない奴と結婚するかよって姉貴の趣味を大いに疑ったぜ」

 ヴァレンはいきなり立ち上がって荒々しく歩き回った。暖を取るためだと、アウグストにはバレている。

「聖王妃タルジュの弟、聖王ツーランの義理の弟ってだけで聖堂じゃ虐める奴もいるし、おおかた便利に使われてきた。それだけでも辛かったのに、今や何にも悪いことはしていないのに、なんか色々知り過ぎているからって、どこまでも追われる身だ」

 へいへいと嘆き節を聞き流していたアウグストの声の調子が変わった。

「なあ」

「お前はこれからどうしたいんだ」

「わからん」

 ヴァレンは吹き抜ける風の中に首をかしげる。もうさっぱりわからんよ、と。

「俺は、さ。人よりちょいと頭の出来が良い、ってより、多分、目と耳がいいんだな。取り込む情報が多いからちょっとだけ優れている。つまり本当は大したことないのに周りがバカに見えて仕方ない最悪のパターンだ」

 な、辛いだろ? と聞かれてもいないのにヴァレンは語り始めた。

 アウグストは、鳩尾に正拳を入れて止めさせようかとちらっと思いはしたが、ここまで潔い自画自賛と自己批判も珍しいので続けさせる事にした。意外と人付き合いが良い。だが、オチがつまらなかったら、殴る。

 身に迫る明らかな危険に、自称出来の良い男ヴァレンは気づかない。

「だけど、天才の域には程遠いし、なにより努力が嫌いだから秀才にもなれない。日び同じようなことを精進できる奴なんて、人じゃ無いよ」

 だろ? と同意を求められて、嬉々として剣術の研鑽を一日たりとも欠かさないアウグストは返す言葉がなかった。

(そうか、俺は人じゃなかったのか)

 長の衝撃的な気づきを放置してヴァレンは続ける。

「『お前って、思ったよりできる男なんだな』って人に煽てて貰えればそれで満足できる程度のエゴしかない小心者なんだよ。だから、さ」

 ワキワキと小動物のように指を組み合わせたヴァレンが結論付けた。

「俺の願いなんてささやかなものだ。派閥とも地位争いとも金輪際関わりなく。わりと褒められるけど、誰にも煩わされず、不必要に目立たない。せっかく聖堂から終身使える角部屋を貰ったんだ。死ぬまで過不足なく、移動するのは部屋と台所の往復だけで、出来ればあとは一日寝ていたい。ベッドの中こそ最高だ。体温でぬくぬくになった僅かな空間さえあれば良いんだ。ほらな。大した野望じゃないだろう?」

 アウグストは一瞬考えた。

「大それすぎとるわ」

 図々しい。そんな生活を送りたいために、皆があくせく働くのだ。軍馬の嘶きに匹敵する鼻息でヴァレンの願いは空の彼方まで吹き飛ばされた。

 しょげ返る姿があまりに惨めに見えて、つい慰めてやろうとするアウグストは、基本、優しい男である。

「まずは、新しい自分探しってところか」

「やめてくれ。さすがに恥ずかしい」

「そうだよな、すまん」

 感受性が豊かな中年男二人が、頬を赤く染めつつ爪先で土を掘った。

 そのまましばらく村の様子を眺める。


 ぼんやりと、何を探すでもなく視線を泳がせるヴァレンの脳裏に、怒涛のような去年からの変遷が浮かんだ。

 去年の秋。秋も、初めだった。まだ木の葉も色づいてなかったな、と些細なことを思う。

 右府の衛の副師団長の叛逆で、賢王バータルとその妻をはじめ、何人もが殺された。ジェニの本当の父親、図書の司レメディアスも犠牲となった一人だ。王宮の内装や、後から建て増しされた建物にも火が放たれ、混乱は極まったかに見えた。しかしその火の手が致命的に広がる前に聖王ツーランが直轄の《武者揃》と王宮に残っていた近衛隊を率いて、賢王殺しの大逆人である副師団長をその場で討ち果たし、亡き兄にかわって賢王の座も兼任することとなった。

 と、それが表向きの発表だ。

 都の治安もとりあえず落ち着いたように見られたが、やがて黒い影が都を覆い始めた。四肢を凍らせるような恐怖とともに噂が広がる。叛逆の首謀者関係者だけでなく、新たな王の意向に逆らうもの達が続々と収容所に送られ、ひっそりと粛清されていると。それは紛れもなく真実だ。

(そりゃあそうだ)

 ヴァレンは、たいそう苦く笑った。

 右府の衛の副師団長に反乱を焚きつけたのは、当の聖王ツーランだ。

 目的は実の兄、賢王バータルを殺すこと。それだけだった。兄弟殺しを平然とやる男だ。あとの行動に歯止めなどかからないに決まっているじゃないか。

 彼自身、ツーラン妃タルジュの弟であることで辛うじて大逆の夜には命を拾ったものの、そのまま死んでしまうことを期待されて収容所に送られたのだ。


 まだ夢を見る。ヴァレンの人生の全てを打ち壊す始まりの、あの恐ろしい夜と、収容所でのことを。何度も、何度も。


 剣を打ち合う音に、明らかな断末魔の悲鳴だと? 大逆の夜の物騒な喧騒が、聖堂の祭司の房で熟睡していた彼をも、さすがに夢路から引き戻した。さて何が起こったか様子を見に行くべきか宿舎の扉の鍵をもう一度確認するべきかとぼんやり考えていたら、姉のタルジュが気が触れたような勢いで駆け込んできた。

「逃げて!! 逃げなさい!! 馬鹿ね!!」

 寝る時すらも薄化粧する聖王妃が、涙でドロドロの顔になっている。

「なんで聖堂にいないのよ!!」

 やっぱり何か文句を言うのか、こんな時でも。

「あの人が! ああ、どうしたら良いの? なぜ、あんな……あんな酷いことを……あの人が……」

 あとは涙に咽ぶばかりの姉を見下ろしながら、事態を理解して、すんと一瞬で冷えた心に苦い笑いがよぎる。思えば、あれが収容所を脱出するまでに浮かべた最後の笑いだった。

(そうか、ツーランが、とうとうやったのか)

 同じ聖堂で育ちながら姉のタルジェとはあまり関わりがなかったが、彼女と聖王ツーランの間に生まれた二人の息子達は、なぜかヴァレンによく懐いてきた。ただ見くびられていただけかもしれないが、学舎の宿題を抱えて彼の居室に泊まりにくる甥達を通じて、不本意ながらツーランと言う人間を良く知ることになったのだ。そしていかに実の兄の賢王バータルを憎んでいるかも。

 息も出来ないように床にへたり込んで泣くばかりの女が聖王妃だと気づいているのかどうか、彼女を乱暴に突き飛ばして雪崩れ込んできた兵士たちにヴァレンは腕をねじあげられた。「こんな乱暴が必要か」と文句を言ったらそのまま切り捨てられそうだったので、部屋を出る寸前に、辛うじてタルジュを振り返る。

「ありがとう、姉さん。達者でいてくれよ。どうか、気をつけて」

 兵士に殴られたが、言えて良かった。姉は彼のために命を賭けてくれたのだから。聖王の居室から弟の元に走ってくるだけで、どれほど怖かっただろう。そうして、かわいそうに、その恐怖は今夜以降も続く。ヴァレンに逃走を促しただけで、彼女の夫ツーランは、それを彼に対する大いなる裏切りだと受け止めるはずだ。

 聖堂から連行されたのはヴァレンだけのようだったが、城門の外に手回しよく待たせてあった囚人移送用の馬車に詰め込まれたのは、多分二十人近かっただろう。鉄格子で補強された箱馬車は本来六人用のはずだ。腰を下ろすどころか身動きも出来ない。窓のない狭い箱の中はたちまち異臭が満ちた。初めて嗅ぐ、しかし間違いようのない恐怖の匂いだった。

 馬車は八頭の馬が出せる限りの速さで休みもなく走り続け、最初は自分のスペースを確保しようと肩肘張り続けた「乗客」たちは、もはやお互いに寄りかかっていなければ息もできない。真っ先に捕まったグループの中にいたヴァレンは、幸運にも箱の一番角にいることが出来た。後から次々に押し込まれてくる者たちに背を向けて、板の隙間から漏れてくる空気を吸い、染み込む水気を舐めることが出来た。そうでなかったら、収容所に着く前に死んでいただろう。ヴァレンの背中で次第に冷たくなっていった老人のように。

 ヴァレンは振り返る。

 人間、あそこまで抜け殻になるかね、と。

 収容所に入れられる以前に、真っ暗な箱の中で尊厳などあっと言う間に簡単に剥ぎ取られた。生者は汗と排泄物吐瀉物に塗れて、痺れ切った足は体を支えることも出来ず、扉が開けられるや地面に転がり落ちた。箱馬車がそのまま棺桶となった死骸と一緒に横たわって、もうこれで立ち続けなくて良いのだと、なんと、感謝すらしたのだ。疫病の蔓延を防ぐために体を洗ってやるぞと告げた看守は、その場で延々と川からの冷水を浴びせ続け、衰弱しきっていた何人かはそこで命を落とした。かすかに呻くだけに消耗した生き残りには、大風が吹けば丸ごと飛んでいきそうな小屋に寝所が決められる。寝所とは恐れ入る。湿った藁が散らばる床に番号が書いてあるだけだ。それからの日は、あてがわれた作業を、鞭を振われるないよう懸命にこなすだけだった。

 都の牢獄は天国の日々だろうなあと、床板のささくれに背中を刺されながらヴァレンは考えた。裁判のあとで牢屋に入れられるのは明らかに罪を犯したからで、まあ、それが可能ならだが罪を償い、もう一度元の世界に戻ってくることが出来る。まして《第二の壁》内の牢獄はお偉いさんと軽犯罪者だけが収監されるから、栄養価の高い三度の食事に散歩の時間。退屈なら本まで差し入れられる。

 だが、ここはどうだ。元は花崗岩採掘場だったはずだな、と聖堂のヒラ祭司では入れない図書寮の禁断書庫の書類内容を思い出そうと努めた。義理の兄が聖王だと色々な場所に顔パスだった。知るべきではない情報まで手に入る。そのせいで結局、此処にいるわけだが。

 収監した囚人の環境が適正なものかとか、さらに釈放など最初から想定されていない私設収容所なんぞに。

 人として在るために必要な意思を刻々と削り取られ、息をするだけに、生き延びるだけに全ての力が費やされる。最初は、逆らわずに従うふりをするだけだと言い聞かせる。だが、すぐにもその隷属が自分の意志のように思えてくるのだ。人間として扱われなくなった時の脆さは驚くばかり。隣に横たわる男が全く動かないので、もしや死んでしまったのかと見開いたままの瞳を覗き込んでも空洞のような闇しかない。ところが、そんな地獄で力を得る者もいる。最初は生き延びるために、やがては他人を蹴落とし貶めることに喜びを見出す輩だ。あそこまで人として堕ちることができるとは、全く、言葉を失うよ。

 こんなことになったのも、すべて義理の兄のせいだ。

(いずれ暴露本を書いてやる)

 その思いつきが、収容所でのヴァレンを支えた。聖王ツーランがいかに悪虐非道の輩かってくだりに、もうワクワクが止まらない。

 だが、すぐに実際問題が突きつけられることになった。

 都の騒ぎがびっくりするほど早々と収まったと看守たちがざわついているのだ。そうなると、収容所でも今は十ぱ一絡げの囚人達の、より過酷な選別が始まるはずだ。せめて保護拘禁棟に入れられたなら義理の兄の思い遣りを感じることができただろうが、新たに戴冠した聖賢王ツーラン様は残念ながら、「ヴァレンは死んでくれた方が良い」派の筆頭らしい。しっかり身元を確認される前に脱出しないと。それも脱出できる体力がまだ残っているうちに、だ。刻一刻と期限が迫る。一日一分を生き延びるのでさえ大変なのに、さらに加わったストレスときたひには。


 暖かな寝具の中で身を包む闇を睨みながら、ヴァレンは血が滲むまで指を噛む。

 深呼吸しながら自分に言い聞かせる。

 ここは、収容所ではない。当てもなく逃げ回り、馬を盗んで踏み込んだ雪原でもない。

 もう安全だ。命を救ってくれたアウグストの集落で小屋を与えられ、とりあえずだが安全だ。差し迫る脅威から逃れた生活を送れるようになったら、たちまち本を書く意欲など霧散したが、ともかくこれからも生き延びなければならない。

 だが、正直、どうしたら良いのか、まるで見当がつかない。

 生き延びて、どう生きていくか。

 いまさら、この歳になってそんなことを考えなければならないなんて。

 ましていまや二児の父(代わり)だ。娘達は、彼とは多少異なると言いながらやはり地獄からの生還者で、これが極め付けの大問題なのだが、思春期の真っ只中。

(どこまで運が悪いんだ)

 小屋の二階の寝所で、布団をかたく巻きつけ枕を顔に被せて、深々とした溜息がほかに漏れ聞こえないようにする。

 それは仕切りの向こうからの嗚咽を聞かないようにするためでもある。

 あてがわれた小屋の二階で、衝立の向こうの狭い寝台に娘たちはずっと一緒に寝ている。逃亡の最中も、ここで暮らし始めてからも、決して一人では寝ようとしない。そしてどちらかが夢の中で呻き声を上げると、もう一人は押し殺した嗚咽を漏らす。しっかり抱き合って、悪夢の中から戻る道を探しているのだろう。額にじっとりと冷たい汗をかいて、そのくせ、か細い体は熱に浮かれたように震えている。でも、ヴァレンが悪夢から覚ましてやろうとそんな体に触れようものなら、毒蛇に咬まれたように飛び起きて、夢の中の、そのままの恐怖を湛えた眼で彼を見るのだ。だから、仕切りのこちら側で、ヴァレンもまた肺がペタンコになるまで息を潜め、娘たちのお互いの体に回した腕の力が緩み、途切れがちな寝息に変わるまで、じっと布団の中で石になる。

(仕方ない。人生山あり谷ありだもんな)

 そうは言うが、その谷がずっと続いたら、なんとしよう。未来永劫、谷だけしかないって事だってあり得る。

(俺、入っていないはずのハズレくじを確実に引く確信があるぐらい、徹底して運が悪い自信があるんだよな)

 不思議な文章を構築しながら、またも親指の付け根を噛んだ。どうやら文才には恵まれていなさそうなので、聖王暴露本を諦めたのは正しい決断だったようだ。

 不運を呼ぶ男ヴァレンが、それでも聖堂の祭司の中で僅かに同僚たちより優位に立てたのは、最悪の事態を最大数想定してあらかじめ解決策を用意出来る能力ゆえだっだ。そうやって可能な限りのリスクを回避して、ちょっと使える男だと上司に目をかけてもらう。同僚に言わせると「のらりくらりと上手いことやる嫌なヤツ」だが、その反面、習い性になった〔想定最悪状況〕が仮定とわかっていながら自虐的に抜け出せなくなる、大いなる欠点がある。

 いかん。

 ずんずんどんどん暗くなってきた。

 自業自得なのはわかっているが、勝手に想像した暗黒の事態のせいで心拍は安定しない、冷や汗が出る、手が震えるって、どれだけか。

衝立の向こうの娘たちはお互い支え合えるが、俺は一人きりだ。うわあ、これは本当に、いかん。どうしてくれる。

 ええい、と寝返りを打ったら寝台からまともに落下しそうになった。やっと寝付いた娘たちを起こさないよう、静かに自分を救わなければならない。超絶技巧の体技を発揮した成果で、ドン底思考も消し飛んだ。そんな彼の孤独で壮絶な戦いのおかげで衝立の向こうの息遣いは乱れることなく、ヴァレンの体の力も抜けた。

 これで朝になって眩しい太陽が昇れば、また一日が始まり、そのまま時が過ぎてくれる。

 一日。また一日と。

 彼らが暮らす集落の生活は、まったく普通の、去年以前と変わらないものだった。

 日差しは日に日に柔らかくなり、風は春の恵みを隅々まで運ぶ。

 目を覆う惨劇が彼らを見舞っていた時と同じ空は、どこまでも青い。

 あの日、血に染まった大地は、ここでは裸足で温かみを慈しむほど柔らかいのだ。

 泣いたら良いのか怒ったら良いのか困惑の極みのまま、ヴァレンは緩やかに続いている村の営みを見下ろした。

 自分は、まだ良い。三十過ぎの今まで、真っ当な、どちらかと言えば恵まれた年月を平々凡々と送ってきた。

 だがあの二人は、まだほんの子供だ。

 たわいないものに笑い、くだらない事に泣き、半世紀も経ってから、全てがかけがえのないものだったと分かる瞬間を盛大に取りこぼして生きて良いはずだった。いつかは悪夢にうなされずに、あの子たちも眠れるだろうか。失ったものを嘆かず、奪われたものを思い出すことに傷付かず、涙を流すことなく、穏やかな夢の中に眠れるようになるだろうか。

 娘たちのすすり泣きを聞く夜ごとに、ヴァレンの怒りは募る。そうして色々な感情を持て余すのだ。

 あの娘たちを守るために何をすべきかはわからなくても、せめてそばにいてやろう。やがて体の傷と同じ様に、記憶も消えていくかもしれない。もしかするといつまでも消えないかも知れない。

 ヴァレンと娘達が、姉のタルジェがこんな不幸に見舞われているのに、一歩離れれば相変わらず普通の一日が存在する事に驚く自分をも、まだ受け入れられない。

 それでも、いつか。いずれ、俺も。その日がくるまで、暴露本は書かないかも知れないけれど、生き延びるのだ。

 彼らが逃げ出してきた闇が影を伸ばし、追いつこうとしている。聖王ツーランが二柱の王の権限を持って送り出した探索隊は、おそらく聖堂からジェニを連れ戻す密命も帯びているだろう。しかし、行方不明の王女を助けるためのものではない。連れ戻すためのものでもない。

 だが、今度は易々とやられるままにはならない。何としても。

 

 そんな物思いに沈むヴァレンを横目で見るアウグストは、彼の想いが手に取るように分かっていた。彼もかつてそうした暴力的な喪失を味わってきたのだ。  

 だからなにも言わなかった。

 どんな言葉も役に立たないと知っていたので。その代わりに、生きていける場所を提供してやる事にする。そこに居ても良いのだと彼らを受け入れる場所を、仲間を。この集落で彼のもとに集う人々のように。

 そんな決意は外から微塵も窺えない集落の長は、彼は彼で、もう一度、去年の冬からの状況に新しい都からの情報を付け加えて反芻してみる。

 後からヴァレンを搾り上げてこちらの考えと擦り合わせるつもりだ。同じことでも視点が違えば全く別の局面が見えてくる。たった一人で全てを抱え込んで判断しようとすると、思い込みや考え方の癖でバイアスがかかり、決して正しい結論には辿り着けない。聖王ツーランとうちの親方達を比べてみろ。一目瞭然だ。

(さてと)

 今のところ、一番謎なのは、墓掘り暗殺者キアランにあえなく始末されてしまったあの男だ。墓地に埋める前に念入りに調べたが、身分を証明するようなものを全く身に帯びて居なかった。そのくせ財布の中身は潤沢で、驚くことに金融ギルドの無記名割符まであった。所持していれば誰でも金融ギルドの支店から必要な額を受け取れる。いわば無敵の打ち出の小槌だから、もちろんギルドから発行させるのも、受け取り時に必要な身元確認も容易ではない。

 そんなものまで持たせた追っ手を出せるのは誰だろう。

 筆頭に上がるのは、当然ながら、今やローデヴェイクを一手に治める聖賢王だが。

(こいつの言う通り、本当にいけすかない感じだったものな)

 典礼の儀で民衆の中に紛れ込んでいた彼の前を通り過ぎていっただけだが、あの目の冷たさは尋常ではなかった。唇は絵に描いたように口角を上げて笑みを浮かべているのに、目は凍りついて世界の一切を拒否しているかのようだった。

 アウグストが受ける第一印象は当たる。もはや野生動物の生存本能と言っても良い。

(双子の暗殺者とか姫は大外れだったが、あの連中はあまりにも想定外だしな)

 頭を振って揺るぎかけた自信を立て直す。

 ともかく。去年の大逆の乱の影に聖王ツーランがいたことなど、国中に、特に首都に念入りに張り巡らせた情報網のおかげで、とっくの昔に把握していた。前代未聞のクーデターと賢王夫妻の殺害に浮き足立った都がわずかに落ち着きを取り戻し始めた頃、ツーランは「第二王女は、謀反に加担した連中に拐われて行方不明」と発表した。

 かなり良い手だ、とアウグストは感心した。

 ローデヴェイク国で、両親亡き後ただ一人の王位継承者ルーアンが共に死んでしまっていたら、非常事態を受けた聖王ツーランが臨時に二冠を戴いても、その期間は次の賢王が選定されるまでの短いものになってしまうだろう。ツーラン自身は、姪が叛逆の夜に王宮の塔から濠に落ちて死んだと信じている。だから、安心して、見つかるはずのないルーアンを延々と探し続けるために公けに探索隊を組んだのだ。

 それから、次のターゲット候補の聖堂の歩く秘密ジェニだが。彼女を取り返したいのか殺してしまいたいのかでやり方は変わるが、あんな風に単独でやろうとするだろうか。聖堂が企んだなら国中にある祠を使うか、それこそ百人隊に探させれば良い。

 そうすると。標的はヴァレンだったと言うことか? ただの祭司のために、姉が聖王妃としても、そこまで念入りな追っ手がかかるだろうか。「あいつ、イラッとさせられるから殺してこい」ならば、気持ちはわかるが説得力がない。 

(なにか、まだ隠しているな)

 探り出してやろう。

 にやり。

 いかにも悪い笑みを向けられたヴァレンの背筋を大量の冷や汗が雪崩れ落ちた。

(しかし、あの不審な男が、逃亡者ヴァレンがここにいることを明確に掴んでいたとは考えられない)

 アウグストには、首都キュクロス・アスティラトや他の都市、在郷などの間と彼を結ぶ秘密の連絡網を築き上げた高い技量があった。だから、この集落と広範囲の周辺に「敵対的意図」を持って入り込んで来る他所者の動向を掴むのにも揺るぎない自信がある。

 徒歩で半日ほど離れた森の中に見知らぬ男が簡単なテントを設営したことは、もう、その時点でわかっていた。

 手入れもろくにされていないさびれた街道を一人、酷寒の中を辿ってきたなら、どうして素直に目の前の集落を訪れないのか。どちらの方向から来ても、約二週間ぶりに見る人の集まった場所だ。商魂逞しいしたたかな行商人ですら、人恋しさ嬉しさで半泣きになりながら全速力でやって来る。それが普通の行動なのに、乗って来た小型二輪の馬車をわざわざ森に隠すだと。

 そんな怪しい動きで、とっくに監視対象になっていたのだ。

「集落を襲撃しようと企む盗賊団の斥候ではないか。先手必勝だぞ」と張り切る親方たちを宥めるのが大変だった。

 そのまま旅を続けて集落から遠ざかるならそれで良しと思っていたのに、新しく集落の住人に加わった墓守りキアランが、事前の相談と事後の報告無しに独断で男を始末してしまったというのは、実にけしからん。いくらキアランが精魂込めて整えている墓地に侵入して、こそこそ集落をうかがっているからと言って。おかげで後始末にこのざまだ。無駄な疑心暗鬼は健康に悪い。不審者、侵入者はシメ落としてジックリ聞き出すのが常識だろう、と、アウグストはプリプリした。

 村に入れもせず、しかもあんな哀れな末路だったのでは、それほどの情報を掴めていたとも思えない。お尋ね者ヴァレンと、一緒の女の子が王女なのを見つけたなんぞと富籤特賞なみの情報を掴んだら、一時も無駄にせず風を巻いて都にひた走っていただろうから。

 森に残っていた荷物を調べて見ると、通信手段も、これといって持ってはいなかった。鳥を使われると厄介だが、その痕跡も無い。王宮や聖堂、謎の雇い主との情報の共有は無かったと判断出来る。だから、今回のターイシュの報告にあった聖賢王鳴り物入りの探索隊は、雪解けが始まって危険な山越えに加えて、途中の集落や街もくまなく調べなくてはならない。

 時間はある。

 油断は禁物だが、まだ余裕はあるだろう。

 それにしても。

(それにしても、『賢聖王』とは、まあ)

 アウグストは鼻で笑った。

 また、大きく出たもんだ。俺なら恥ずかしくて、とても名乗れない。

「『初めまして、俺、賢聖王です』ってか。てやんでえ、べらぼうめ。おととい来やがれってんだ」

 独り言をつぶやく時、彼は自分の出身部族の鉄火な言葉に戻る。

 この国の言葉を覚えたのが彼を助けてくれた老夫婦からだったので、日頃はどうにも年寄り臭い言葉を使ってしまう。だが、意外と役に立つことも多いので、あえて修正しようとは考えていない。

 たとえば、今も。

(おのれなら、どうするかの?)

 ジジイと長の本性の二人に分身したアウグストは二種類の言葉で考える。問題に直面した時、恩人の爺さんが客観的な脳内第三者として自分の話に相槌を打ってくれるようで効率が良いのだ。

(そうだな、たとえば、こんな具合だ)

 ヴァレンを探すのに極秘で個別の手勢は放っているが、せっかく姫の探索に公に救助隊を出せるのだ。利用しない手はない。

 つまり、こうだ。

 ティリー、いや、ルーアン姫が生きていることが分かったが、もと聖堂の祭司の悪党野郎に拉致されている。

「姫をお守りせよ。そしてあやつを、あの罰当たりの祭司をわれの前に連れてこい! 己が罪の深さを思い知らせてくれるわ!」と、賢聖王ツーランは、あの妙に甲高く通る声で叫んだのだろう。そうすれば、宮廷の十二人評議会も暫定的な彼の兼位に反対する理由が無い。めでたく王女が見つかれば、探索隊の中の王の手先が、都に戻る道中で薄幸のルーアン姫と悪の道に落ちた祭司ヴァレンと、ついでにその場に居合わせた不運な目撃者を片付けて一件落着。ツーランの一人勝ちだ。

(今度は、暗殺者レイズル兄弟の同業者が一緒かも知れんなあ)

 公式の探索隊(暗殺者を含む)がこちらに向かっていると聞いたぐらいで震え上がるような彼ではない。権威を背負って数を頼むと、やることが荒くなるのが人の常だ。さらに都から山脈を越えてここまで、あり得ないことだが正しい方角まっしぐらにやって来たとしても、途中に幾つかある町や集落も調べなければならない。幸い、冬の間にヴァレンたちの痕跡もほとんどが消えている。探索隊がここに到達するまで、色々と隠すには十分な時間があるはずだ。

(ただ、ワシらが関わるのは、困るのお)

 そうだ。まだ、その時ではないからな。

 まだ。

 またしても顎を撫でた。

 夕方になると、もううっすらと髭が伸びて来るのだが、これが髪より一段明るい銀白色で、手触りがふわふわと柔らかいものだから、髭面になると逆に人相が良くなってしまう不思議な現象が発生するのだ。


『クマさん、クマさん!!』

 高く、明るく笑って彼の髭を撫で回す小さな手の感触が、記憶の宝石箱からふいに蘇って、アウグストの息が詰まった。


(助けろってことか?)

 予感も前兆も、自分がすでに決めたことへの後押しに過ぎないと確信している海の民の猛者は、今度は大っぴらにため息をついた。

 その突風に、ヴァレンの方も物思いから覚めたようにアウグストを見て尋ねる。

「さてと、これからどうするかね。都からの探索がここまで到達するのはどのくらいだと思う?」

 色々と腹にある集落の長は、『ほほお、こやつ、わしと同じことを考えていたのだな』と見直した。なので、思うところを分かち合うことにする。なんと言っても責任をおっかぶせられる当事者だし。

「先発のあいつが」

 ちょいと片手で拝んで口の中で何か唱えたアウグストが、それで殺人と死体への工作と遺棄をきっぱり過去の事と切り捨てたようなのを、ヴァレンは驚愕と畏敬の念を持って眺めた。

「どのくらい報告にこまめだったかによるだろう」

 さっき脳内爺さんと議論した内容を披露する。

「冬の間、お前達を追っていたとして、あのスノーマウントを見つけたか、どうかだな」

 そこで思わしげにヴァレンを眺め、

「だが、お前さん、ドえらく運が悪そうだしのお」

 これは爺さんコメント。

「俺の人生を丸ごと貶めるのはやめてくれ」

「お前さんはともかく。真面目な話、あの子は、ルーアン姫はどうしたいんじゃね」

「どう、とは?」

「クーデターの黒幕が実の伯父だってことさ」

「げ、なんでそれを? また考えがダダ漏れてたのか、俺?」

「いや、それはなかったぞ」

 ここはあまり虐めて時間を無駄にするところでは無い、とアウグストは判断した。

「姫さんには言ったのか?」

「いや。匂わせたけど、はっきりとはな」

(だが、年齢よりはるかに賢い子だ。とっくに悟っていたかも知れない)

「逃亡中に叔父に助けを求めようとか考えつかれても困るからどこまで打ち明けようか悩んでいたんだが、ジェニが聖堂から追われていたからな。

不幸中の幸いってやつだ」

「幸いなのかね」

「言わんでくれ」

 実の叔父が両親を殺したことを告げるのは14歳の娘にとってあまりに酷だと思い、はっきり説明することは避けてきた。どこにも助けを求められないのも、聖堂がジェニを追っているせいだとしてきたが、これもひどいことだった。ジェニに逃亡の苦労の理由を全ておっ被せたのだから。

「じゃあ二人分考えてやらないとな。姫さんは逆クーデター。上の嬢ちゃんも親の敵討ち」

「うーん、今の時点で、それはないんじゃないかなあ」

 まだ、傷ついた心が怒りに転じるまで癒えてはいないので。

「だろうな。だが、あんまりのんびりはしてられんぞ。どんな手段で王座を取ったにしろ、そこそこまともな政治をされちまうと、上がどう変わろうが構わんってのが民草だ。王様の顔なんか見たこともないのが当たり前だし。時期を外してティリーが、ああ違った、ルーアン姫が騒ぎを起こしてツーランから王冠を取り戻しても、最初は『健気な嬢ちゃん』への判官贔屓で良いだろうが、問題はそれから後だ。宮廷や軍のどのくらいがツーランに取り込まれているか知りようが無いし、身を守るだけで手一杯だろう。下手な政策を打ったり権力闘争に巻き込まれて無責任な民衆に支持されなくなっちまうと、『やらなきゃ良かった。今の、無し』ってわけにもいかん」

「そうなんだよな。俺もこれ以上、難しいことはごめんだし」

「お前は気力も意欲も無さすぎないか?」

「言っただろ、俺は《徹頭徹尾・事なかれ主義》で生涯を終えたいんだ」

 ヴァレンから視線を逸らしたアウグストには、あからさまに彼を信じた気配が微塵もない。

 どうして誰も俺を信じないんだ、とヴァレンは悲しかった。彼の人生、これまでもそうだった。助けを乞うて素直に膝を折ると、お前なら大丈夫だと肩を叩かれる。いや、そんな無駄でいい加減な信頼と激励じゃなくてな。助けてって言ってんだから、助けろよ!!

 そんな余所者の悲哀は集落の長の感知するところではないので、あっさり捨て置いて。

「まあ見てみい。ちょうど冬麦の収穫も終わる頃だしのお。うちのオート麦と豆の出来は素晴らしいんじゃよ」

 突如、アウグストが農作業について爺さんモードで滔々と語り出したので、ヴァレンは驚いた。この全細胞戦闘用巨漢が鋤や鍬をふるって自然に親しんでいる図など、どう頑張っても描けない。

「わしらは、三圃農法をやっておってな」

 アウグストは得意満面。

「例えばじゃな」と、口調爺さんは、雷でも迸りそうなぶっとい腕を振り回す。

「今、この国で主流になっている二圃式だと、六百ヘクタールの農地を三百ずつに分けるじゃろう? 三百ヘクタールを耕して、半分は休ませる。二回すき入れをするから、労働力が必要なのは延べ計算で九百ヘクタール。じゃが収穫量は三百ヘクタール分からだけだ。わしらの三圃だと、六百ヘクタールを二百ずつに分ける。稼働させる二区画分四百ヘクタール分の収穫に対して、労働量は延べ八百ヘクタールだ。余裕があるから耕作地の一部で家畜飼料を賄える。そうすれば家畜を必要以上に屠殺する必要がないし、安定した土壌肥料も得られる。クローバーなんぞは理想的じゃ。どうじゃ、すごいじゃろう」

 自慢の間の一区切りに、ヴァレンが白目を剥いて、がくりを頭がのけぞった。理解の範囲を越えた話に懸命についていこうとした挙句、しばらく意識が飛んでいたらしいが、その動きに、アウグストの淀みない説明が途切れる。ヴァレンの方は、それを講義の終了と見て復活。『起承転結』の起と結だけ聞き逃さなければなんとかなる。昔の聖堂の講義でも似たような要領の良さを誇っていたものだ。休める時間は一秒たりとも無駄にしなかった。

「つまり人も家畜も飢えることがなくて、他の所より儲かるっってことだな」

「激しくまとめ過ぎだが、まあ、そういう事だ」

 説明の中身を詳しく突っ込まれなくて良かった、とアウグストは内心ほっとした。彼とて実は土工の親方ヴェツェリオからの聞きかじりなので。

 意外と類似点の多い二人は、まだお互いそのことに気づくことなく、改めて、ここから一望できる集落を眺めた。

《都知らず》の地は、驚くほど豊かだった。

 気候も穏やかなローデヴェイク国の経済的基盤は第一次産業、ことに十割の自給率を誇る農業から成り立っている。

 ヴァレンは、聖堂の行き届いた教育で学んだ知識を掘り起こした。

(過去から学んで現在を知る、だ。ありがたいね。)

 ローデヴェイクの今日のような発展を促したのは都から伸びる街道だ。

 二千年前の滅亡を生き延びた道に沿って、初めは小さな共同体だったものが集落や村を形成した。やがて、近隣の村が複数結びついて荘園を成す。領主を決める所も出てきた。こうして勝手にかなりの領土をまとめる責任者が決まってくれると、中央から動かない宮廷〈ホーフ〉もギルドも管理がしやすい。荘園があくまでキュクロス・アスティラトに従わなかったり、離反するようなら力でねじ伏せるか切り捨てる。首都周辺の、王とギルド直轄の耕作地は、彼らなしでも十分に首都の人口を賄える収穫を約束されているから、そんな行動に躊躇が無い。

 街道沿いの荘園では、中央からの助言に従って確固とした仕組みを作り上げる。ばらばらにある耕作地を便宜上領主の所用として小作人が地代を払い、一方、領主は彼らから耕作物を買い上げるのだ。その領主たちが、首都に本部を置くギルドを通して複数の荘園と取引をして、さらに利益を上げようと日々邁進。荘園規模にならずとも、自給自足農業の他に特産品をもつ村が単体でギルドから交易権を買う例もある。

 首都と結びつくことは生活の利便さや交易権が保証される反面、二年ごとの人別帳の提出を義務付けられたり、治安維持のため右府の衛の傘下に入り兵役の義務を負うことでもある。それでも森林や山間にある集落はその方が便利だと判断して、積極的にお互いが結びついた。延べ人口が五百人を越えると聖堂から祠だけでなく医療師を派遣してもらうことが出来るのだ。

 こうした、普段の生活の中で移動のための時間も余裕もない彼らを助けるのが行商人だ。自給分から余った作物を預かるか買い取って、領主の市場で売る、ギルドに直接売る、交換することもある。最近は物流だけの請負で相当な利益をあげるものも出てきたらしい。

 街道の往来も活発なものになって行く。

 単独や複数で行動する行商人以外にも、刈り入れやその他の作業に払われる特別手当を目当てに、その時期だけの労働者のグループが国中を移動するからだ。彼らは引く手数多で本当に忙しい。初春には大麦、オート麦、豆類、そして秋の小麦とライ麦の種まき時期。収穫は大車輪で一気にやらなければならない。それから本格的に冬が到来する前の家畜の屠殺シーズンには加工作業に対して追加される特別手当を目当てに移動する集団も見受けられるようになった。茶や織物など、さまざまなジャンルの専門の技術者まで抱えた移動労働者のグループが、ギルドと問題を起こしたと聞いたが。あの結末はどうなったのだろう。大量に加工される燻製や塩漬けなどの保存食の販売と交換する市場だけで成り立っている集落もあるらしい。農耕や放牧の作業の区切りの祭りで得られる収入で生活水準が大臣レベルの商人も、最近激増中とか。そうやって、街道がさらに充実した交流を生み出していく。

 アウグストの集落にも、保存食を買い入れ新しい豆の苗を売りに行商人が訪れていたのを見たなあ、とヴァレンは思い起こす。何日か滞在して、エレン作の豚肉の塩漬けを「美味い美味い」と目に涙を浮かべて食いまくっていたから、よく覚えている。あれは、これから自分が売り物にする分じゃないのか? 良いのか?

 しばらくしてヴァレンは感想をまとめた。

「あんた達、だけど、これ以上耕作地を増やそうとしているようには見えないな」

 疑いもなく住民たちは生活に満ち足りているし、さらにそれを快適にしようと十分な努力をしている。

 だが。アウグストが言ったように聖堂の奥まで潜り込んで資料を見たのなら、ローデヴェイク国では四輪作方をやってる地方が既にあるぐらい、わかってるだろう。それに倣って、豆、小麦、根菜と大麦の順で作っていくと、この規模の村の生活を賄うだけでなく、さらに懐を潤すぐらいの収入になるはず。今だって十分潤沢な暮らしなのは明白だが、『もっと金を儲けるぜ、色々欲しいぜ、物欲なんだぜ』というか、そうしたものが感じられないのだ。

「例えばさ。俺なら木綿とか絹とか、高額な嗜好品取引になるものも作るぜ」

「無駄なものはいらん」

 一刀両断、地面にめり込まんばかりに切り捨てられた。

「いいか。メシは戦略物資だ」

「はい?」

「この間、新しく出来たギルドの城とやらを見に行ってきたんだが」

「いや、それはいつのことだよ」

 さりげない報告に、ヴァレンは心底びっくり。

 去年の夏にラムダイン鉱山のギルドが建てたという、国で最大の、濠まで備えた城の話か? そうだろうな、それ以外、無いもんな。

 頭の中で地図を広げた。

 架空の矢印を、ここからまずは都キュクロス・アスティラトの方向へ向かって《都知らず》の草原と森を越えてローテェンガ大山脈にぶつける。山越えをしたら右に曲がって大河ハーディンの水源へと街道を遡り、またも広がる大草原を抜け、次はダイン山脈に分け入って、ラムダイン鉱山に目出たくゴール、なのだが。首都から騎馬飛脚がひた走っても片道一ヶ月。それを、「ちょっと温泉巡りの旅」みたいな感じで言われても。まして都の叛逆騒ぎ以来、街道の検問は大層厳しい。

 アウグストはふむ、と唸った。唸っただけでヴァレンの質問は完璧に無視だ。

「資金があるから流石に良い出来だったが、あれを陥すのは簡単だな」

「はい?」

「あんたはいったい何を言ってるんだ」のニュアンスを、「どうやるんだ?」と受け取ったらしい長は、城攻めの素人にもわかるように説明を始めた。

「まず、濠の跳ね橋の巻き取り鎖を壊す。肝心な鎖が、あれじゃあヤワ過ぎる。せいぜい斧で二、三回叩けば、バラバラだ。ああ、橋本体を濠に落としたり壊すんじゃないぞ、こっちも橋があったほうが楽だからな。『橋を上げてしまえば安心だ』なんて籠城を目論んでいるようなら、追い詰められ感が、もう崖っぷちだろうさ」

 うわははは、とアウグストは笑った。その笑い声だけで降伏してくる兵士が続出しそうだ。物騒な話題を嬉しそうに語るうちに爺さんテイストは狂戦士モードにスライドした。

「さらに、その敵がいつでも城壁を越えられるような梯子を何基も用意していたり、柔な扉ならすぐ破ってしまうような鉄槌を複数見せびらかしていたら、戦意なんざ、どっかに吹き飛ぶさ。橋と同時に水源も押さえられたら理想的だが、まあ、贅沢は言わん。それからあらかじめ調べておいた食料倉庫を焼く。全部ではなく、狙い済まして一番小さなやつだけだ。ピンポイントでこっちの好きなように狙えるんだぞ、って示すのが目的だ。ここ二百年は大きな争いもなかったし、せいぜい街道に出没する盗賊と小競り合いぐらいだったギルドの自警団は震え上がるだろう。訓練を受けていたって、実際には本当に戦うことからしか学べない。生き延びるためには他人を殺さなきゃならない。それを学び損ねたら死ぬ状況など、慣れろといっても無理だ」

 過去の暗い思い出に取り憑かれる前に、戦術の説明の続きに戻る。

「こちらの目的は城を陥すことで、街を破壊することじゃない。人殺しでもないしな。住民や敗残兵に恨まれては後が大変だ。跳ね橋の前の兵隊は陽動だ。潜り込ませておいた手の者に、できれば前の晩に兵舎と広場の井戸と水源に薬を混入させて、薬が効くまで跳ね橋の前で騒がせて注意を逸らすのが目的だ。城の反対側から忍び込むのが本隊だ。さして時間はかからんだろうよ。大半が寝てるんだからな」

 頭の中で、わずか半日ほどで城を陥落させたアウグストは満足げ。これが平和な集落の長の本性かと、ヴァレンは肝を冷やして後退りした。座ったままの姿勢にしては器用だ。

「それにしても、流行りだからって、どこも同じ構造の城を建てるなんて、馬鹿としか思えないじゃないか?」

 一斉に攻略されたら、この国のギルドは三日ももたないぞ、と続けたアウグストは実に楽しそうだった。

「しかも、城の周りで作っているのが、お前の言ったように綿花と絹と茶とはな。呆れたね。食えないものばかりだ。いくら利益を出してもいざと言う時に腹を満たせなかったら、なんの役に立つ。蔵の中も嗜好品ばかりだ。黄金をしゃぶって溶かして耐え凌げってか」

 な? と言われても。

 ヴァレンは隣に座る人の皮を被った鬼に怯える。その気配に気づいたのだろう。

「やらんぞ、俺は。穏やかな人間なんでな」

 ただの集落の長だし、と片目をつぶる。

 これって、お茶目なんだろうか、と悩んだヴァレンは、またも滑る口を止められない。

「なりたい自分に夢を抱く権利は、誰にでもあるよな」

 穏やかな長に、またも遠慮なく頭を叩かれた。

「それにしても。なんだか、なあ」

 ヴァレンは無意識のうちにとらえた違和感を、なんとか言葉にしようとする。アウグストの自己評価「穏やか」に対してではない。

「こんなに暮らしやすいのに、ここに根を張ろうと思ってない、感じ?」

 それは村全体の空気と言うか。なにか不思議な感覚だった。

 村の存続の主流は農業なのに。放牧の民なら分かるが、これだけ立派に開墾を進めていて、どうしても拭えない違和感だった。

 しばらく黙ってヴァレンの煩悶ぶりを鑑賞していたアウグストが、にんまりと笑った。

「なるほどな。お前さんに生きていられては、確かに、色々後ろ暗そうな聖賢王は困るわけだ」

 こんな僅かな時間で我々の本来の姿を、気配として嗅ぎつける男だ。

 さあて。聖賢王ツーランの懐深く隠されたものは、一体、なんだ。

「今からでも、ここを出て行くよ」

(長に殺される前に)

「お前さんらが消えたところで、わしらに掛かる迷惑がなくなるわけじゃない。匿った嫌疑は晴れん。第一、お前ひとりであの娘二人を抱えて、ここを離れて何が出来る」

「はい、すみません」

 学舎で居残りを命じられた子供のような態度になってしまうのは何故だろう。

「ところでな」

 アウグストの緑灰色の目が貫くようだ。

「もう一度、都の状況を明確にしてもらおうか」

「も、もう、話したじゃないか」

 否定してもすっかり怯えた様子が、すでに自白態勢に入っている。

「表向きのことはな」

 まだ、何かあるだろう、と、いきなり片手で喉を鷲掴み。アウグストの中の爺さんの気配が微塵も無い。

「たかがペーペーの祭司を追うのに、かしこくも有難き聖賢王様がこれほど必死になる理由はなんだ。わしらを薄汚い陰謀のドツボに突き落とすからには、さあ、皆んなも集まっている頃だ。きっちり説明してもらおうか。とっとと来やがれ!」

 たちまち脳への酸素が減っていく中での、ジタバタ。

(また俺はしゃべり過ぎたのか!?)

 頭の中で何回か文章を反芻して口に出す訓練を頑張っているのに、どうにも上手くならない。

(何故だ! 何故なんだ!)

 顔に出ている。

 その致命的欠点に、本人はどうしたって気づけない。哀れである。

 ヴァレンは珍しく頑張った。

「いまから? どうしても? もう少し親しくなってから、とか、ほら、種まきとか全部終わって暇を持て余す時の四方山話とかじゃ…」

 喉元を締め付ける握力が強まった。金属さながら炯々と光る目が、凶戦士の本性を物語っている。

「これからすぐに、でございますね」

(だったら手を離して。本当に死んじゃうから。いま、もう、此処で)

 害獣を刺又で誘導するように首を固定されたまま集落への道を辿る。

(逃げようったってどうしたって無理なのはわかっているに、なんでわざわざ処刑場に引き出される姿勢を取らされているの?)

 そこでようやくヴァレンは、実はアウグストが深く深く憤っていることに気付いた。首を捻じ切られないのは、まだ彼に長としての理性がわずかながら残っている賜物なのだ、と。

 短い道行の途中で気を失わなかった自分を褒めてやりたいヴァレンだった。




6  集会所   ヴァレンが語る秘密



 集落のほぼ中央に位置する集会場のホールは、アウグストが言った通り住人であふれていた。仕事を途中で投げ出してきたのか、まだまだ増えつつある。丘の上から文字通り首根っこを掴まれてここまで連行されるヴァレンを楽しそうに眺めながら一緒にやって来たグループもあった。

(どれだけ娯楽に飢えているんだ、ここの連中は。引き回しで吊し上げで、その後は公開処刑で晒し首?)

 鍛冶屋の親方タデウスの強弓の的にされちゃうかも知れない、とヴァレンの絶望感は深まるばかり。新作で調整が要るって言ってたよなあ。

 暗殺者兄弟はどこだ。あいつらだって今回の騒ぎの一部だろうに。いや。あいつらこそが諸悪の根源だ。そもそも墓掘り人キアランが、いくら自分の聖域の墓地に不審者が入り込んだからといって、いきなり殺して放置したりしなかったら、まだ平穏な生活は続いたはず。なぜチャチャッと余分な墓穴を掘って埋めておかないんだ。不衛生じゃないか。本職の癖に怠慢著しい。その責任を取れと迫って、今からでも俺を殺そうとする奴らを殺せって契約に持ち込めるだろうか。分割後払いで受けてくれるだろうか。「谷底に落ちる運命なら、出来るだけ多くの他人も巻き添えにする」のがモットーなヴァレンは、双子の兄の薬草師レイズルが村娘たちの真ん中で鼻の下を伸ばし、弟は集会に差し入れられたドーナツを両方の手に持ってご満悦なのを発見して、世の中の不公正さに密かに涙をこぼした。

 20センチほどの高さの平壇上にアウグストに引き上げられたヴァレンは、集落の住人ほぼ全員の視線で穴ぼこだらけになりそうで、やれやれとため息をつく。

(そりゃあ、お尋ね者だけどさ。犯罪者じゃないんだっての)

 それでも、ジェニとティリーがアウグストの妻エレンの横にいることでちょっと安堵した。何より頼りになる盾に守られているわけだから。

 これから、特にティリーには辛いことを告げなくてはならない。

 前もって少しだけでも話をする時間があったら。いや、どう繕っても少女は傷つくだろう。

 実の叔父が両親を殺せと命じ、王女も始末したと信じて有頂天で父親の王冠も奪ってしまったのだとは。都から出発した探索隊は聖賢王ツーランが自分の地位を安泰にする為のカモフラージュに過ぎない。もし見つかったら、その場で始末されてしまうだろう、とは。

 ひどい話だ。ジェニと硬く抱き合って悪夢を見ている時しか涙を流さない少女を、これ以上は傷つけたくなかった。

(叔父だもんな、これでも。会ったこと、なかったけどさ)

 首都キュクロス・アスティラトの活動範囲が聖堂に限られていたヴァレンは、王宮の第二王女ルーアンとは全く接点が無かった。典礼の儀で場を同じくする時も入退場のタイミングも違えば、あとはみんな前を向いて視線も合わない。逃亡生活の間は親子がデフォルト設定だったし、ちゃんと説明しようにも色々面倒くさい。

なにより、彼ら三人の逃亡者の誰もが、都に関連することを思い出したくなかったのだ。

(ん? ちょっと待てよ)

 そこでつらつら考える。

(ツーランは彼女の父親の弟だから叔父。で、俺の姉のタルジェは、正式に言えば叔父の配偶者で、そうすると俺は、なに? 叔父さんの配偶者の弟って。呼び名あるのか? え、普通に他人か? いやそりゃ他人だけど、ご近所とかすれ違った人もひっくるめて《小父さん》扱いの、ただのおじさん?)

 此処に至って自分の存在意義の喪失に、ヴァレンはへたり込みそうになった。

(なんとなく身内の責任感を感じていたから頑張れたところもあったのに。いまさら、ただの他人? えええーーー?)

 逃げたい。

 話がうまく進まなくて最悪の事態になったら頼ろうと思っていた娘に、庇ってもらえる理由が無くなってしまった。この場から消え去りたいと心底願ったが、ずらりと並べた木のベンチの最前列にたむろす子供達と目が合ってしまう。ターイシュよりずっと幼い子供も混じっている。学舎の新しい先生の隠し芸を期待してワクワクしているらしい。

「ええと、さ」

 実に自然に彼の隣に立ちはだかって逃走路を断つアウグストに「年齢制限は無いのかな?」とこそこそ尋ねると荒々しい鼻息だけが返ってきた。

「知るべき情報は、全員で漏れなく分かち合うべきだ」

 そこで唇の端でニヤリ。

「隠さねばならんものは隠すがな。そのくらいの判断が出来ない者は、ここでは生きていけん」

 それを皆んなの前で言いますか。でかい声で。

 ヴァレンは告白を始める前からガックリ疲れた。『穏やかな人々に囲まれて長閑で心豊かな村の生活』なんて夢を見る奴は、ただの間抜けだ。

「ううむ、何から話すべきかな」

「我々、いっかいの平民の預かり知らないところからいってもらおうか」

「つまり、いきなりこの国最大の秘密を暴露しろと?」

「いまさら守ってやるほどの義理があるとでも?」

 お前の命と引き換えに? の問いは、言葉に出されなくても、ものすごく明確だった。

 ゴホン。

(おっしゃる通り。国の秘密は俺の秘密ではない。収容所にぶち込まれ殺されかけた身では恩を感じる必要もないしな。ただのおじさんだし)

 もはや全てを受動する姿勢になったヴァレンは、おもむろに咳ばらって始める。

「この国で、ローデヴェイクで一番大事なものは《マキーナ・メディカス》と呼ばれる機械だ」

 皆の注意が向く。つかみは良しだ。

「聖堂の塔の地下にあってな。王宮や聖堂の目に見える部分なんか、どうでも良い。宝物殿や図書寮も、《マキーナ・メディカス》を守るためなら焼き尽くされたって構わないんだ」

 ヴァレンは喉を撫でて、丘からここまでアウグストに圧迫され続けたためにちょっと痛む声帯を労わった。

 長い話になる。

 聖堂の普通の祭司なら知らない事だ。七歳年上の姉タルジュが、よりによって聖王ツーランの妻などにならなかったら、彼も一生知らずにすんだはずだ。

「王宮はメディカスを保護する壁に過ぎん」

「なに、それ」

 王宮からの逃亡者である王女ルーアン/ティリーが間髪入れずに問うが、聖堂の追っ手から身を隠すジェニはそっと目を伏せただけ。

 ヴァレンはそれを認めて歯噛みせんばかりだった。

 賢王の娘すら知らない秘密の全てを娘に語ったのだろう聖堂の同僚で図書の司だったレメディアスに、腹の底からの怒りを覚える。

 そういうのは、愚鈍ではなく悪意と呼ばれるのだ。聖堂に身も心も捧げ切った、顔だけが取り柄の父親のせいで、わずか16の娘はいまやお尋ね者だ。ティリーだって、偶然王女として生まれただけ。

 つまり、二人の娘たちの不遇の原因は、彼ら自身には無い。だから守らなければって、自分が持ち合わせているとは思いもしなかった役にも立たない正義感にうんざりするヴァレンだった。

(誰も彼を守ってくれもしないのになあ、不公平だよなあ)

 嘆きのヴァレンを、人間に化けた緑灰色の目の人食い熊が精神的に突き飛ばす。「さっさと話を進めろ」と睨む顔が、ほんとうに怖い。

ゴホン。

「それで、だ。大雑把に《マキーナ・メディカス》を説明すると、聖堂の塔の一番深い地下層が、丸ごとそれだ。見た目はただの部屋だな」

「ただの部屋?」

 中に入ったら煌びやかな光に包まれるとか、足元に底なしの闇が広がるとか、ドラマを期待した住人達があからさまにガッカリしてざわめく。

「家具も無い」

 ヴァレンは何が嬉しいのか満面の笑みでキッパリ断言する。彼も聖王ツーランに連れられて初めて足を踏み入れた時は、そのまま通り抜ける扉を探したくらい何も無い普通の部屋だった。

「昔滅びた文明の名残だ」

「その部屋で何をするの」

「全くわからん」

 集まった集落の全員が一斉に手許にあるものを投げつけてきそうな気配に、もと祭司はすかさずアウグストの背中に隠れた。

「だから二千年前に滅びた文明なんだって。すべてのカラクリや使い方が分かってれば、空ぐらい飛んどるわ」

 あ、疑ってるな、とヴァレンはむくれかえった。

 いい年をして頬を膨らませても、本人が期待する愛らしさは全くない。

「《デュオミリア》の滅びの前、普通に人は飛んでたらしいぞ。このぐらいの村なら丸ごと別の所に一気に移動させたりってこともできたそうだ」

「図書寮の禁断書庫の本にそういう記載があるわ」

 言葉を尽くそうとするヴァレンより、絶世の美少女の一言の方が信憑性があるらしい。聴衆がそれで納得するのを、ひそかに悲しく思う中年男。

「ともかく、だな。わからんものは神秘性で包んで、摩訶不思議。奇跡にしちまうのが手っ取り早い。それがローデヴェイク建国からの姿勢だ」

 びしびし突き刺さってくる聴衆の視線に、実に居心地が悪い。

(国の運営方針なんざ、ヒラの祭司の俺の責任じゃないってば。しかも四百年も前の話だ)

「分かっているのは、この機械には天気を調整する力があるって事だ。範囲は広くはない。都を中心に半径五百キロってところかな。雨が多過ぎれば止むように仕向け、足りなければ貯水池近辺に集中して降らせる。他にも何かできるのかもしれんが、どうやればいいのかわからんから、ほったらかしだがね。それでも、他の国より、干魃も冷害もないうちがよっぽど富むのも当然だろう。で、《マキーナ・メディカス》は、ある種の人間にだけ反応して作動する」

「それを動かせるやつを見つけるにはどうするんだ?」

「都ではほとんどの赤ん坊が聖堂の診療院で生まれるから、気づきもしないうちに検査完了だ。そうじゃなければ一ヶ月検診が義務だしな。地方だと、必ず設置しなけりゃならない、あの祠だ。あとは聖堂百人隊が取りこぼしがないように、二年に一度巡回する。戸籍もそのためだ。ご苦労なことだが、機械との相性というか、《メディカス》が受け入れて、それを動かすことの出来る子供を見つけることに、国の存亡がかかっているからな。見つけた子供は、聖堂がすぐに引き取るか、ちょっとあとからでも確実に聖堂にやって来るようにお膳立てをする。我が子が聖王から直々に祝福されて舞いあがらん親は、まず、おらん。それでも頑固に親が手元に置きたがる子供を奪う手段はえげつないぞ。脅しすかし、一時的な難病にしたり。ほかの治療師が匙を投げたのに、都の聖堂に来たら、ああら不思議。けろりと快癒しちゃった、良かったね。でも治療は続けないといけないから、このまま置いて行きなさい。いつでも会いに来て良いからね、って具合だ。

 そうやってこれまで聖堂に集め続けた能力者の血筋を後世まで伝えやすいよう、候補者たちを都に留めて婚姻や出生を調整しているうちに出来たのが王宮の賢王だ。王様ったって、能力が必要なわけじゃない。そのために宮廷と八省があるんだからな。要は、《マキーナ・メディカス》を操れる聖王を生み出す確率を上げるためだな。バータルとツーランみたいに聖王と賢王が直接の血縁関係ってのは、ないわけじゃなかったが、それでも珍しい」

「『ローデヴェイクの国と民を守るために賢王と聖王の二柱の統治』だなんて、まあ美しく謳いあげたもんだなあ」

 アウグストににじり寄ってこられたヴァレンは膝が笑った。

 だから! 隠された歴史の真実は俺のせいじゃないってば!! 続けなくては! 生き延びために、話を続けなくては!

「ところが、最近生まれる子供から、機械に選ばれるほどの能力の持ち主が減っているんだ。滅びの年からもう二千年だ。いかに素晴らしくったって、機械なんだから老朽化してきたんじゃないかって、俺は思わんでもないがな。そうじゃなくてもそろそろテメエらだけの力でやって行け、ってことじゃないのか?

 いまの聖王、ツーランの能力は選定される基準ぎりぎりだったらしい。先先代の聖王は直撃しそうな嵐を消しちまうほどだったらしいぞ。ツーランの出来ることは、せいぜい雨乞い晴れ乞い程度だ。それを、『歴代の聖王に申し訳が立たん』とか『国の将来も危うい』とかなんとか、長老どもに毎日毎日ぐだぐだ言われて、これはツーランに心から同情できるよ。あの聖堂のジジイども、まじで魑魅魍魎だもんな。あそこまで人間性が歪んだ連中が一堂に介した地獄の真っ只中に生きて四十年近くだ。思いの外に繊細な聖王は拗れまくった。姉貴と結婚してしばらくした時、『生まれてこない方が良かったとか考えたことはないか?』と訊かれた事があったなあ。俺の無能ぶりを当てこすったのかと思ったが、あれは自分の事だったかもな」

「両方じゃないのか」

 ふふん、と鼻であしらうアウグストに「あんたはどうよ」と聞いてみる。傲慢が骨格で、筋肉を不遜で構築して、自信満々の皮膚で全身を鎧っていても、多感な青年時代ぐらいあっただろう。

「自分に選択権のなかったことで、何故悩む」と返ってきた。

 真面目なのか揶揄われたのか、まじまじと相手を見つめたところ、本当にまっすぐな疑問で一杯の眼差しにかち合ってしまった。

「だよな」

 がっくりとヴァレンは肩を落とす。無駄な問いを発してしまった。ここ何ヶ月かの共同生活で長のことをちょっとは理解したつもりだったが、まだまだ甘かった。

「俺がバカだったよ。あんたはそういう人だったな」

 きっと離乳食から自分の舌に合うようなものを調理していたんだろうさ。

 アウグストの妻のエレンが、心身ともに干からび始めたヴァレンにさすがに同情したのか、ホットワインの杯をくれた。

「ま、そんなわけでな。幼少期から延々と踏んだり蹴ったりなところに、息子二人はさっぱり能力無しだ。そりゃあ、実の兄貴の、これからも能力者を産めるだろう血筋をぶった切りたくもなるだろうさ」

「なんだって!?」

「じゃあ、賢王を殺したのは聖王の仕業か!?」

 集会場にどよめきが満ちた。

 ヴァレンの視線はティリーから離れなかった。少女は俯いて、膝の上の拳が震えている。その肩を抱いたジェニがヴァレンを見返して、かすかに頷いた。

(ああ。わかっていたのか)

 一つ溜息をついて続ける。

「賢王は《12人評議会》に聖王の選定をはかることができる。とは言っても、お互いの既得権は不可侵条約みたいなもんだから、よっぽどの差し支えが出るまでは安泰だっていうのに、大して能力のない小心者がやっかむと、実に鬱陶しい。疑心暗鬼で、とうとう自分の兄貴を一家揃って抹殺して、聖王、賢王両方の位を我が物にしようと考えた…」

「たぶん、だよ?」

 ヴァレンの断定は疑問符付き。このツーランの理屈は彼には充分に納得のいくものだが、一般常識で考えたら、どんなものだろう。

 聖王ツーラン、姉タルジュの旦那は普段から理解しがたい男だった。本当のところなんて分からない。あいつ自身にも分かってないんじゃないのか。

「聖堂に籠っていれば良い聖王と違って、賢王なんて、大してうまみはないと思わないのかね。王様は何でも好き放題にできると思うだろうが、とんでもない。適切な判断と命令ができなければ愚王と言われ、戦争にかまけて領土拡大を狙えば凶王と罵られ、買い物で鬱憤を晴らせば税金の無駄遣いを責められて、民の人気がなくなったら首まで切られかねん。だからこのぐらいの集落で好き放題した方が、俺は良いと思うなあ」

「甘い!! この程度と軽く言うなら、お前、やってみろ!!」

 憤ったアウグストの渾身の力のこもった拳がテーブルに叩きつけられた。集会場に集まった村人をもてなす温かなワインを満々と湛えた鍋が一瞬宙に浮いて、エレンの全身から湧き上がったドス黒い怒りのオーラにアウグストの瞳が慈悲を乞う色で一杯になる。図らずも、この集落の真の支配者が誰か、露呈した瞬間であった。

 そこで、はい、と手が上がる。聴衆のど真ん中にいたティリーだった。

 思わずヴァレンは後退り。

 叔父ツーランが彼女を殺そうとしたのを隠していた事を糾弾されるのだろうか。集会場のど真ん中でそんな事をされたら、全員集合の住人達はティリーを慰めるためにヴァレンを八つ裂きにぐらいしかねない。とっさに逃走経路を探すヴァレンの涙目を微塵も気にせず、ティリーは立ち上がって聞いた。

「えーと、つまりどういうこと?」

 さすがにヴァレンは呆れた。

(なんだと? 俺はお前の心を思い遣ってだな……)

「お前、今までの説明、聞いてた?」

(ツーランに両親を殺された挙句の逃亡者だぞ、お前は。ど真ん中の当事者なんだぞ?)

「聞いたというのと、理解したというのは違うわ」

 集会所がざわついた。

「わからないことを、ここまで堂々と威張るとは」

「だって、王女だから」

(白菜を両腕いっぱいに抱えて帰ってくる王女の癖に)

 ヴァレンは珍しくイラつきを隠さない。

「だから、なんだ。《王女》は無知の万能免罪符か」

「もっともらしくわかったふりをするのが得意なの」

 帝王の座にある者が、真摯に温情を込めて聞いている姿勢を見せれば、くだらん不満陳情の三割は片付く。

「身も蓋も無いな」

 そこでスラリと繊細な指を立てたのがジェニ。

「悪者は聖王」

 そこまで簡潔に言われると、これまた悲しい気がする。

「そうなんだけど。だが、あいつにだってきっと、焚きつけたやつも、おだて上げたやつも、加担した輩も、この状況を利用してる連中だっているだろうし」

「でも、聖王が一番悪い」

「そうかい。ま、そういうことで良いよ、もう」と、続けようとしたヴァレンが、

「ちょっとまて」

 いきなり眼を極限まで見開き口も開けっぱなしで雷に打たれたように立ち尽くすから、全員が、そのまま彼が丸太のようにぶっ倒れるのを予感した。医療師シャードは緊張した。昏倒していびきまで漏れるようだと蘇生が不可能なことが多い。

「なんだ。どうしたんだ」

 鍋を丁寧にどかしてからアウグストが問う。

「なにか、おかしい」

 ヴァレンは内省モードに陥って、口から漏れるままの説明に指を折る。


 思い起こしてみると、ことの始まりは去年の初夏だ。

 王都キュクロス・アスティラトで様々な事件が起きた。ほとんどが街の城壁外での窃盗や傷害事件だったので、都に入ろうとする自由区民や他所者同士の揉め事かと思われた。

 だが、やがて街中でも同様の事件が起こり始める。店や街頭の盗難の被害で重傷者が出たり、なんと放火までされるに至って、王都は不穏な空気に包まれた。《第二の壁》門でのチェックが厳しくなり、街道の巡回が頻繁になり、衛門府の軍は都に戻って来れなくなった。ギルドが物品の損害や流通の滞りに神経を尖らせ始め、自警団による夜回りも増えた。

 だが事態は一向に鎮静せず、本来なら王宮内側だけを警備していた近衛隊も濠の外側の巡回に狩り出されるようになる。当然、王宮の守りは人手不足で手薄となってしまった。それを埋めたのが賢王直轄の近衛騎士団だ。都を守る者たちの疲労は募るばかり。

 あの運命の夜、賢王の居室部分の通廊には一人の騎士が立っていただけだったと聞く。

 右府の衛から自分に絶対服従の部下たちを選び出した副師団長は、王宮に攻め込むと同時に濠のすべての城門を閉ざした。どこからも助けは来ない。そして誰一人逃げ出せない。

 王宮の反対側の、聖堂の奥深くで禊の最中だった聖王が異常な騒ぎに気付いたのは、すでに哀れな賢王バータルと妃ジェイドが殺害された後だった。手遅れではあったが、聖王は勇猛果敢にも直轄の武者揃と共に撃って出て、王宮内で叛逆の徒を制圧する。主君殺しの大罪を犯した副師団長はその場で自害する道を選んだ。

 その後、兄夫婦を失った悲劇に負ける事なく、聖王は抜かりがない。叛乱軍に図書の司レメディアスが殺されたことで、聖堂内部にも叛逆に加担した者がいるのではないかと内部調査も進める一方で、ツーランは内外に声明を出す。

 一番大事なのは、叛逆の夜以来行方不明の王女ルーアンを無事に王都に連れ帰り、賢王として即位させることだ、と。

「今、ここな」

 数えて折る手の指が何往復かして、すっかり温くなったホットワインを一気に飲み干し、その器をアウグストに振ることでお代わりを求める。そんな命知らずな強気な態度も無自覚なようだ。

「ここまでは如何にもあいつがやる方法だ」

「なにを狙って?」

「目の上のたんこぶのバータルを殺したかった、それは最初から明白だ。だが、それだけか?」

 ヴァレンは絡まり切った糸を解そうと足掻く。収容所で書こうと思っていた〔暴露! これが聖王ツーランの真実だ!〕本の資料を頭の中で反芻する。

 そんな単純な願望から、ここまでこみいった筋書きの大騒動か? 

 それだけなら、聖堂にはもっと簡単に実行する手立てがある。ちらりとレイズルとキアランを見やった。飛び抜けて優秀な彼ら以外にも、報酬さえ弾めばまだ仕事を請け負う暗殺者はいる。

 ヴァレンが知る限りローデヴェイク国で最も危険な双子が、ああも無害な振りをしているのに胃の腑が煮え繰り返る思いだ。よそってもらったホットワインを満面の笑顔で味わってるんじゃないよ。なんだ、その猫舌の振りは。「きゃー、可愛いー」とか、娘たちも騙されるなよ、まったく。

 怒りが思考能力を加速させた。

 

 この世界では、二千年前に滅亡した文明の僅かな名残も大いなる力の根源になる。ローデヴェイク国で言うなら、聖堂が独占する《マキーナ・メディカス》こそがそれだ。だからこそ王宮も聖堂も奇跡の機械を民草から隠し続ける事を第一の使命にしてきたのだ。

 そして。

 いまや、すべてが聖賢王となった男の手の中にある。自分の将来が安泰であることがツーランの目的なら、これ以上波風を立てる必要は無いはずだ。とことん気の合わない義理の兄だったが、「自分でやらなくて良い事は絶対しない。放って置いて構わない事はとことん放置する。限界まできたら誰かに責任をなすり付ける」姿勢は共通していたので、そこだけは尊敬もしていた。

(だって、俺はただのヒラの祭司だが、ヤツは聖王だぞ? 気合いが違うじゃないか)

 だから、憎しみが許容量を越えて実兄を殺す目的を遂げたら、ヴァレンが理解していたツーランならば、またじっと巣穴に引きこもるはずだ。

 わざわざ探索隊を出すのは何故だ。暗殺者を送れば良い。死体だけ何処かで発見られることにして、「叛逆者に拐われたルーアン王女は、残念ながらすでに殺されていた」で話は終わる。それなのに探索隊十組はいかにも多い。しかも近衛隊、聖堂警邏隊に右府の衛の混成だと。

「聖王が叛逆の首謀者を片付けてくれた。確かに軍はヤツに大きな借りを作ったよな。それは、いいさ。だが、なぜいまだに無条件に従うんだ?」

 ぶつぶつ続くヴァレンの呟きに、アウグストが言葉を挟む。

「以前から根回しがあったようだな」

「そりゃあそうだ。だが、どんな?」

 うまく回っている既存のシステムに逆らって、さらにそれを壊すには、思いのほかのエネルギーが必要だ。軍のように上から下までびっちりと決まりに縛られている組織は特にそうだ。そして、理想論で叛乱を焚きつけることは出来ようが、実際に手を下す連中を説き伏せるには? 『命令に従うのが兵士の根幹であり、使命だ』と命じるだけで納得させられるか?

 右府の衛の副師団長を釣り上げた餌はなんだ。

 事態の収拾後にも、軍を従わせられる理由はなんだ。

 なにをしようとしているんだ、あの男は。

「本当は、なにかまだある気がする」

「なにが」

「わからん」

 俺になんでもかんでも聞くなよ! とキレかけた。分かるわけがないだろう。分からんが、なんだ、この翳りは。胸を焦がすような思いは。

 うーむ。もやもや。

「つまりは、ただの勘だな」

 アウグストに真っ向から見つめられる。

 ヴァレンは、しぶしぶうなずくしかない。

「そうだ」

 長の巨大な手が、はっきりとした根拠のない推論を偉そうにぶち上げるヴァレンの首を今にも締めるのではないかと誰もが思ったが、意外なことにアウグストは、ただ頷いただけだった。いまヴァレンが言ったような、『ほっこりしない。もやもや』な感覚が、実はとても役に立つのをアウグストは知っている。多くの戦いを切り抜けて生き延びてくると、整合しない要素への、まさに「勘が働く」のだ。これを「気のせいだ」で切り捨てて突き止めようとしなかったり、または他の仲間と共有せずに命を落とす者は多い。

 現状では、何が問題なのかを見極める情報が少な過ぎるだけだ。

 そこで唐突に、アウグストは娘たちに向き直った。

「さてさて、お前さんたちは、これからどうしたいのかの?」

 言葉だけは爺さんで優しいが、内容はとても厳しい。丘の上で一応はヴァレンにも尋ねたが、肝心なのは本人たちの意思だ。いきなりアウグストに存在放棄されて茫然としているヴァレンを真似て、指を折って選択肢を示す。

「全てを水に流して、このままワシらと暮らす」

 もしくは、と声を低めた。

「聖賢王から王座を取り戻したいか。親の仇として奴を殺したいか」

 アウグストの深く低く響く声は、運命の審判を告げるようだった。

 だが、そこでいきなり笑いかける。

「ワシとしてはあんまり感心せんが、お前さん達がなにがなんでもって言うなら、やれんことは無いぞ」

 たちまちギルドの城を陥せる男だ。言葉の重みが違う。

 じっと俯いて唇を噛み締めていた娘たちが、はっと顔を上げた。

「できるの?」

「不可能じゃあないのお。だが、決めるのはワシじゃない。決めなくてはならんのはお前さん達だな」

 新しく示された道に、ジェニとティリーは顔を歪めた。途方もない提案を、どう考えて良いかわからない。

 これまで誰も彼らに尋ねなかった。自分でも口に出さなかった。

これからどうしたいか、など。体が芯からずんずんと冷えていくのを覚える。闇に閉ざされた谷に置き去りにされたような心地で互いの手に縋り合うだけだった。

 その闇にアウグストの声が割って入る。

「じゃあ、まあ、とりあえずワシらと旅に出ようかのお」

 爺さんモードは揺るがない。

 心配そうに娘達を見守っていたヴァレンが代表して

「ええっと、理解できません」

 爺/アウグストは聞いてもいない。

「そろそろ、春の大祭じゃな」

 ローデヴェイク国内では村や都市の規模に関わらず、春の作業が一区切りつく植月の半ばに、その年の豊作を願う《豊年天授祭》が催される。ことさら首都キュクロス・アスティラトの賑わいは目を見張るもので、どこからこんなに人が湧いて出たのかと首を傾げるぐらい、路地や広場は、すれ違うにも苦労する有様だ。

「春は良いのお」と縁側で茶をすする風情のアウグストの愛妻のホットワインは、彼の好みのスパイスがキリリと効いている。

「冬を越して種まきも済んで、たいていの者が、根拠も無いのに無闇矢鱈と楽観的で腑抜けになっているからのお。あほらしい。ただ、気温が上がっただけじゃぞ」

「厳しい冬を切り抜けて過ごしやすい季節になって喜んでいるとか、これからの労働に前向きになっているとか、もう少し美しく言わないか?」

「何のために?」とアウグストは提案された社交的姿勢を踏みにじった。

「だから、ワシらが、特別な祭りをやってやるのじゃよ」

「やってやる」

「そうともさ。めでたい奴らには、緩んだ財布から金を吐き出して、ワシらを富ませる義務があるのじゃ」

「あんた、なにを目論んでいるんだ」

「ま、それはいずれ追い追いと、な」

 ニヤリ、とアウグストはまたしても悪い笑みを浮かべた。

 ヴァレンは、この秘密満載の集落が味方でよかった、としみじみ思う。

「まずは旅に出る。全員でのお。楽しいぞお」

「ここを、空っぽにするのか」

 それは、かえって怪しいだろう。生活に何の不自由もなさそうな村が、ポツンと無人のまま放置されていたら。

「いや、次の住人達が、じきに来る」

 アウグストの唇が、自慢げにカーブを描いた

「万が一最初の追っ手が手がかりになって、そのせいで次が来ても、全く風体の違う村では、追及しようがないわさ」

「なるほど」

 ヴァレンも新たな目で村長と住人達を眺めた。

「移動しやすいようになっているのはそのためか。初めてじゃないんだな」

 聖堂の祠も形ばかりみたいだし。

 モゴモゴと呟く。

「なかなか鋭いじゃないか、さすが聖賢王さまの義理の弟御でいらっしゃる。あの便利な機械はの、わしらが病で弱った時とかだけに助けてくれるんだ。ありがたや、ありがたや」

 聖堂の祭司だったヴァレンを、完全に揶揄している。

「それ以外は壊れているようだなあ、実に都合良く」

 ヒラの祭司の反撃。

 ほほお、そうなのか、とアウグストは大袈裟に仰け反ってビックリしてみせた。実にしらじらしい。

「ちゃんとこっちから都の聖堂に呼びかけられるようにしてやろうか?」

 ヴァレンが意地悪く笑う。反撃は続いた。

「いやいや、それには及ばん。それにしても、お前さん、あれを修理できるのか。そんな希少な技術の持ち主とはな」

「驚いただろう、えっへん」と、心底驚いた風の長に向かって胸を張る。自分の売り込みに余念がないのは、彼の常。

「だけどさ」

 ふと真面目な顔でヴァレンは問う。

「本当に助けが必要な時は困らないか」

 ここの医療舎では手に負えない流行り病とか。

「そんな時に、助けが得られる保証が、どこにある」

 ケッと鋭い一音でアウグストは吐き捨てた。

「あんたも相当な食わせものだよね、長」

「おぬしもな、ひら祭司」

 ふふふふふ

 ははははは

 伝統芸能「腹の探り合い」で高低差のある笑い声が家中に響く集会場の隅では、ターイシュが、自分の忠誠心をたいそう後悔していた。アウグストの小っちゃい影を任じる少年は、特大と大サイズの魔物の凌ぎ合った末の馴れ合いに涙をこぼす。おとなの世界って、きたない。




7  集落の中   ジェニ



 集会が終わって人々が解散した後、ジェニはヴァレンとティリーの三人で、あてがわれた家にゆるゆると向かった。明日、集落が丸ごと引っ越すので持ち物をまとめろと言われたが、所有するものなどほぼ無い。出来損ないスノーマウントから命を救われて以来与えられた衣類とか、そんな程度だ。学舎で子供たちを教えているヴァレンの書き物が一番多いかも知れない。なんせこの男は思いついた事は手当たり次第に書きなぐっておいて全く整理をしないから自業自得と言える。


 途中、ジェニがもうちょっとだけ歩いてくると告げたら、二人の目がまん丸になったが、なにも言わずに送り出してくれた。

 もともと彼女は滅多に外に出かけない。他愛無い幼児の頃から、確固たる室内派だった。長じてようやく、外界に無防備に身を晒すと視覚からの情報を処理しきれなかったのだとわかったが、ともかく自室で本を読んでいれば幸せな子供だったのだ。

 それを、聖堂の小学舎に上がる前だったか、父親のレメディアスが、有無を言わさず大河ハーディーンの砂原への散歩に連れ出した。その理由は自分に生き写しと言われる娘を見せびらかしたい故だった、と、これも後で悟ったが。彼はそこでいつも半裸裸足で自然に親しむのを良しとしていて、彼女も無理やり靴を脱がされた。こんな危険で不潔な事をして何が楽しいのか全く分からないでいるうちに、指の間から小さな生き物が顔を出し、その衝撃と感触の気持ち悪さに吸い込んだ息で悲鳴をあげるという器用な真似を披露したものだ。泣き叫ぶ娘に「たかが虫に、そんな大袈裟な」と笑ってしまった父親は、その後二週間完全無視の刑に処された。

 だが、ここは、ずいぶん違う。

 ジェニが収容所の保護拘禁棟で過ごしたのは幸い一週間だけだったが、あの日々と逃亡期間を思えば自由の有り難みは当然。だが、それだけではない。なんというか。そう。この集落には人として真っ当に生きている空気があるのだ。

 ジェニは、それはそれは遠い昔に思える聖堂の暮らしに思いを馳せた。

 聖堂の中でも彼女の活動圏は、割り振られた居住区と、父レメディアスが図書の司の特権乱用でこっそり彼女を連れて行く図書寮しかない。学舎の学びは早々に終わり、あとは父親の個人授業だけだった。

 図書寮にはわずか五千弱の本しかない。

(4758冊ね)

 頭の中で、すかさず訂正を入れた。

(そして、置いてある本ってば)

 ジェニはため息をついた。

(とりとめがないのよね。《デュオミリアの滅亡》以来見たこともないような機械の取扱いと修理方法を縷々綴ったものが多いけれど。医療や農耕、他の生産業なんかまで、分野がバラバラすぎるのよね。確かに図書寮の本から学べる知識で、ローデヴェイク国の水準は他の追随を許さないぐらい高くなったわ。だけど、そこに子供向けの本まで置かれているのはおかしいでしょう? 本棚の一番下の棚に置かれているってことは、本を読みに、子供が聖堂の聖域に入り込んでいたってことなの?)

 幼児の頃から図書寮が第二の家だったジェニは、本当は、禁断書庫の一番奥の壁一面を占めるキラキラと輝くクリスタルが、真の知識をもたらしてくれるのだと知っている。

 ただ、それをどうやって読み取るのかがわからない。

 彼女の好奇心が向かう先、求めてやまない真の知識は、あのクリスタルの中に、そして恐らく大瀑布の底に眠ると伝えられる古の都にあるのだ。


 物思いが破られたのは、少年の声のせいだった。


「ジェニ! ジェニ!! ジェニ!!!」

 叫びながら転げるように走り寄ってくるのは集落の長アウグストのパシリ、元気小僧のターイシュだ。

 何か緊急事態でも起きたかと背筋が強張るが、ターイシュの顔が笑いではち切れそうなので、ただ単に、ジェニを見つけるや矢も盾もたまらず走ってきたのだと知れる。全力疾走の直後、ジェニの手前一メートルで雷に打たれてように立ち尽くすのも、まあ、いつものこと。

 なあに?と、励ますように微笑んでやるが、かえって逆効果だったらしい。

(難しい年頃だわ)

 同世代の子供と全く接したことのないジェニは、書籍から学んだ知識をひっくり返した。

(ううん、駄目だわ。ここで必要なのは解剖図じゃないわね。)

 被検体扱いをされているとは気づかないターイシュは、小首を傾げたジェニに面と向かって見つめられて息をするのも忘れた。

 なんて綺麗なんだろう。

「どうしたの?」

(脈拍が早いわ。落ち着いて息をしないともうじき倒れそうね。頭から紙袋を被せてあげるんだったかしら。あら、手元にそんなもの、無いわ)

 運が悪かったわね、この子も。

 ウフフと笑うすがたは、夢見る年頃の少年には花の精のように見える。

「ジェニーン」

 うっかり呟いたら、目の前の究極美の具現化少女が、さっと蒼ざめた。

「なんですって?」

「あ、あ、いや、ごめん! おれ、ごめん!!」

 え? 俺、何かしくじった? なんで!?

 ワタワタ足を踏み替え挙句にもつれて地面に転げる無様なターイシュに、ジェニはぐいと上半身を近づける。

「いま、わたしを、なんと、よんだの?」

 平板に、氷のように響く声。

「か、母ちゃん、いや、えっと、おふくろが、寝る前に童話を読んでくれて、うわっっっ、違う! あ、違わない! 違わないんだけど」

「だから、なんなの」

 ジェニの真っ白で華奢な指が首元に伸びてくる。え? もしかして絞めようとしている?

「母ちゃんが、弟と妹に読んでるのが聞こえるだけなんだ、ほんとだって!」

「ターイシュ」

 もう目の前10センチぐらいに迫ったジェニの冷え冷えとした顔が怖い。嬉しいのに、すごく怖い。

 とうとう顎を掴まれた。

「童話に出てくる妖精の絵がジェニに似てて、それがジェニーンって言うんだよおお!!!」

 ジェニが息を止めた。その間、数秒。それからパチパチと信じられないぐらい長い睫毛が瞬いて、氷の女王が、すいと背を伸ばした。

 おかげでもう怖く無いけれど、と途切れ途切れの意識の中でターイシュは思った。正直、惜しい。すごく近距離だったのに。あり得ないぐらい近かった。

 ジェニの方が早々といつもの一言モードに立ち返る。予期せぬ衝撃をうまく処理できたようだ。

「妖精」

 ターイシュはカラカラになった喉で咳払い。

「か、か、かあちゃんが大事にしてる絵本で」

「絵本」

「そ、そう。たった一冊だけ持ってるんだよ。お婆ちゃんの、俺会ったことないけど、お婆ちゃんの形見なんだって。ほんとに大事なんだ」

 そうと知らずにその本に悪戯描きをして母親に泣かれてしまったのが、いまだにトラウマだった。

 そして、ターイシュは、初めてジェニの笑い声を聞いた。

「そうだったのね」

 ぐいと手首を掴まれて、立ち上がるのを助けてもらう。手を握られた望外の喜びと、軽々と手助けされた哀しさが、少年の頭をグラグラにする。

「ねえ、ターイシュ」

 ジェニはゆっくりと言葉を探した。その様が、絵本を撫でながらターイシュに由来を説明しようとする母親に重なって、彼の心臓はちょっと軋んだ。

「妖精の名前で呼んでくれるのは光栄なんだけど、ジェニって、私にとってすごく大事な名前なの」

「だから、こっちで呼んでね」とほぼ耳元で囁かれたターイシュは「人生悔いなーーーし!」とか不思議な叫びをあげつつ、丘を目指して全速力で走り去った。

 その小さな背中を眺めながら、ジェニは唇を噛む。

 彼女の本当の名前、両親が名付けた名前のリーナは、月水晶のことだ。収容所に入れられた時以来使っているジェニは、母がくれた偽名。以前、宝物を意味するジェニーンと呼ばれていたから違和感がないだろう、と。

 彼女をそう呼ぶのは父だけだったが。

「私の宝物、大切な、愛しいジェニーン」

 目を細めて、男にしておくのが惜しいぐらい美しい父は、あの人間離れした美貌の父は、自分に生写しの娘を繰り返しそう呼んだ。

 人間離れと言えば、言動も考え方もフワフワと取り止めが無かったな、と思い出す。レメディアスが生真面目に一途に考えていたのは、聖堂の本と、クリスタルの解明のことだけだった。それから彼をこの世に繋ぎ止めるのに欠かせない妻メリサンド。彼女無しには、図書寮の彼の部屋で餓死していたかも知れない。

 それから、彼らの間に生まれた娘。一粒種のリーナに目にしたものを全て記憶にとどめる能力があるとわかって以来、熱に浮かされたように溺愛した。つまりは、生きて動いている娘よりは、その特別な力に対しての愛だったようだが、とジェニ/リーナは冷静に判断した。

 レメディアスが夢中になった特殊能力だが、思い起こしてみると、本当は母にも同じ事ができたのではないかとリーナは考える。だが、彼女はそれを隠し通した。自分の伴侶から。手にした玩具で遊ばずにいられない、あの子供のような父から。

「気をつけなさい、リーナ」

 母メリサンドは娘の瞳を覗き込んで、何度も囁いた。

「気をつけて」

 記憶は薄れるもの。意図的に、または無意識に消去したり、ねじ曲げて全く違うものにしてしまう事すら出来る。

 そうやって人は心を守っているのよ。

 でも、お前が見てしまったものは、決して消えない。悲しいものも。とてつもなく醜いものも。

 母は娘を抱きしめた。彼女を傷つけるだろう世界からいつまでも腕の中で守ってやれれば良いのに、と願って。

「見たものを心と結び付けないようにしなさい。失望と悲しみと憎しみに囚われては駄目。いつも醜いものばかりを思い出していたら、いつか心が壊れてしまうわ」

 幸福に満ちた素晴らしい時間もある。

 愛に満ちた、夢のような世界もある。

 だがリーナの瞳は、同時に、妬み嫉み、憎しみの瞬間も捉えてしまう。

 人がそうした複雑なものだと分かっている。真実に幾つも顔があるのも。だが、何一つ忘れることが出来ない者は、ふと考えてしまうのだ。

いくら愛を注いでいても、ヒョイと裏返せば仮面の下には真っ黒なものが潜んでいる。いつどんな拍子に毒牙をむくかもしれない獣に、どうして無防備に自分をさらけ出せるだろう。そうして、彼らに疑いを捨てられないリーナの本心を見抜かれるのは、いつだろう。

 積み重なった記憶の深く昏い渦に囚われて、これからどうしたいのか聞かれても答えられない。自分の心がどこにあるのかも分からない。


 ジェニはひとり立ち尽くした。



8  宮殿の塔   聖賢王ツーラン




 王宮殿の南東の最端。

 聖賢王ツーランは、人がすれ違うのがやっとの幅の武者走りに一人立って、眼下を見降ろしていた。

 正円形の王宮殿は青々とした水を湛える幅15メートルの濠で守られている。濠は正確に地面から直角に穿たれ、深さは30メートル。だが、およそ20メートルを潜った辺りで、一切の光を受け入れない闇になる。計測の重りを抱いて潜った剛の者が二度とやりたくないと怖気づくらしい。濠の不思議はもう一つある。はるか北西の山脈から大瀑布に向かって都アスティラトを包むように流れる大河ハーディーンが豪雨でいかに濁ろうと、聖堂の中庭にある塔を囲む濠と王宮外の二つの濠の恐ろしいほど澄んだ水の色と量が変わることはないのだ。

 簡易な屋根を被せた通路から濠を覗きこむと、あまりの高さに、そして夢見心地で誘うような明るい水面に、胃の中で不快なものがせわしなく羽ばたいた。沸き起こる恐怖と妙な汗を紛らわすために、第三者の視点で自分の姿を思い描いてみる。

 いまやローデヴェイク国を統べる唯一無二の聖賢王が、腰にがっちりと縄を結んでブルブル震えながら、攻めてくる敵もいないのに武者走りに立つ。そして濠の水底に一心に何かを探しているのだ。

(いや実に滑稽だ。笑わば笑え。こうして己れを顧みる方が、よほど可笑しいわ)

 だいたい、この足場は、兵士のものだ。首都キュクロス・アスティラトの《第二の壁》の守りが破られ、濠にかかった跳ね橋に押し寄せてくる敵を迎撃するため、つまり、ぎりぎり最後の王宮殿攻防戦の兵士を配置するのだ。そんな武者走りに王自らが上がらなければならないようなら、われらはとっくに終わりと言うことではないか?

 吸い込まれそうなコバルトブルーの水面から、無理やり目を逸らす。

 王女はここから飛んだと聞いた。父と母を殺した兵士たちに追い詰められて、叛逆者の剣に貫かれて死ぬよりは、と身を投げたそうだ。

 賢王バータルの二番目の娘。生き生きした笑顔が愛らしい砂糖菓子みたいな子供だ。なんといったか。リーアン? いや、違う。そうだ、ルーアンだ。わずか14の小娘が、大した度胸だ。この高さから真っ逆さまに濠に落ちて生き延びるはずはないが、それでも死体を確かめないわけにいかない。そして見つかったら、その小さな体を文字通り闇から闇に葬るのだ。

どんなに王宮騎士団の士が嫌がろうが、何度でも潜ってもらうぞ。彼らに伝えた表向きの理由は、「反逆者が聖堂の宝を持ち出して、逃げる途中で濠に投げ込んだためだ」となっている。

 なぜなら。

「第二王女ルーアン姫は、反逆者に拉致されて都から連れ去られた」と公式に発表したからだ。

 実に面倒くさい。

 だが、聖王ツーランが賢王の位を兼任するのは、死んだ父王の跡を継ぐルーアンが無事に戻って来るまでの暫定措置だとする方が、思いも寄らない惨劇の衝撃でいまだ右往左往する皆に受け入れられやすい。

 それに、王女の探索と救出のために、王宮、軍、そして聖堂の三軍が足並みを揃えるのは重要だ。国内外に聖賢王の権威がさらに強化されたことを示すのが本当の理由だが、それは彼だけが承知していれば良いことだ。

 姫の探索部隊には聖王直轄の《武士揃》も動員したかった。だが、《武者揃》を都の外に出すためには聖堂の《長老会議》の認可が必要なのだが、図書寮の管理者レメディアスが死んで以来、あの連中め。どうも協力を渋るようになった。わざわざ聖賢王さま自らが会議に出向いてやっても、長々と訳の分からない言い訳を並べ立て結局無視を決め込むとは、いい根性だ。まあ、少なくとも近衛隊と左右両府の衛がわれに忠実なのはなによりだ。

 はるか眼下の濠から捲き上る風に、厚かましい老人どもに対する怒りが吹き散らされる。

 つかの間、蘇った兄の面影も。

「何故だ」と問いかけたそうだ。賢王バータルの今際の際の言葉は、剣に胸を貫かれ鮮血を口から溢れさせながら、「何故だ、フューイシャ」だったと。


 あの日は朝からどんよりとした重い空気が垂れ込めて日差しは弱々しく、じきに都を襲う悲劇を予知した太陽が身を縮めているような鬱々とした日だった。夜は夜で、風に吹き散らされる薄い雲の群れは、鼠どもが沈む船からこぞって逃げ出す様を思わせた。空に月もなく、城外の道や自由民区を照らす松明の数も普段より少なかったように思われる。

 その反対に、王宮は光り輝いていた。

 ツーランは、禊と称して籠った聖堂の塔の地下に跪き、持てる力の全てを注ぎ込んで賢王の居館の扉を開け放ったままにした。すでに激しい頭痛に見舞われていたが、右府の衛の副師団長と打ち合わせた時間きっかりに聞こえてきた叫び声と悲鳴を力に、一枚たりとも扉が閉まらないように固定する。誰一人逃げられないように、どこにも隠れられないように。

 もう少し頑張って力を振り絞れば映像を見ることもできただろうが、それはやめておいた。副師団長とその部下たちの狂気じみた意欲は疑うべくもなかったし、一旦ことを始めてしまえば、どういう結末になるかは分かりきっている。ほどなく起こった雄叫びは勝利のものというより恐れを多分に含んでいて、それでツーランは企ての成功を知ったのだ。

 叛逆者による賢王の殺害という、四百年の泰平の眠りを貪る都に初めて降りかかった恐ろしい災いの成就を。

「何故だ、フューイシャ」

 二度目の問いは途中で途切れたらしい。その声を直接聴けなかったのが残念だ。いや、そうでもないな。由来も記憶にないようなくだらない渾名で呼ばれたくない。兄だけが彼をそう呼んでいた。「水車」だと? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 つまらない渾名のせいで子供の頃の苦い思い出までが甦ってしまった。

 幼い頃から神童と讃えられた兄バータルは、小学舎から聖堂に入り、やがて聖王への道を進むはずだった。ところが二年後に生まれたツーランの方が僅かに適正値が高かったため、兄弟の進路はそこで入れ替えられることとなったのだ。

(適正値だと? なんのことだか、まったく)

 もはや誰にも正しいところは分からない。

 ローデヴェイク国の最大の秘密、《マキーナ・メディカス》と呼ばれる閉ざされた部屋に入るたびに、全身の内と外側を何かが這い回るような、あの不快極まりない感触は例えようもない。それからの数日の間は、激しい頭痛と共に細切れの映像が頭を過ぎる。たまにはっきりと姿を現す事もある風景は、どう考えても、この世界のものではない。

(あんな、夜空の月に手が届きそうなぐらい細く聳り立つ塔など、存在するはずがないだろう)

 ともかく、その後も日々の精進とやらが強制され、そして聖王となっても、まだ兄と比べられ続けた。「残念なことだ、バータルの方にもう少し適性があってくれれば良かったのに」と、面と向かって言われたこともある。兄の子たちが将来確実に聖王の血筋を残せるくらい優秀だと知った時、我慢の限界に達した。彼を理由もなく見下す連中より、わずかにしか優れていないことを知るぐらいには賢いのだ、悪かったな。

(たしかに。もう少しばかり愚鈍だったらな)

 頬を歪めて笑う。自分の息子らのように単純で鈍感だったら、どれほど楽だったろう。

 かつては聖堂で影を見るだけでも怖いぐらいの威圧感に満ちていた連中が、やっとわれを恐れ始めた。右府の衛の副師団長の一味を問答無用で処刑せよと命じる肝があるとは思ってもみなかったのだろう。いやいや。賢王を弑するような大それた罪を犯した連中だぞ。聖賢王即位の恩赦にだって値するはずがもなかろうに。略式裁判のあと即時に公開処刑を執行したのは当たり前だろう。副師団長から何か聞いていたかも知れないしな。

それに、同じことをやってわれを除いてしまおうなどと増長する輩が出てこないようにするためでもある。 

 公開処刑は盛り上がった。真相からほど遠くで怯えるばかりの民草に、ちゃんと怒りをぶつけられる的を与えてやるのだ。正義の審判を下す聖賢王に、民衆は声高に万歳を叫んで熱狂した。あれは悪くなかった。子供の頃の彼をネチネチいびって今だにしつこく逆らう長老を何人か、見物料を取って大瀑布ケイマルスに放り込むというのはどうだ? いや。確実に死んだかどうかの確認が出来ないのは駄目だ。意外と人間はしぶとく出来ている。やはり賢王のように確実に心臓を剣で貫くべきだ。

「フューイシャ……どうして……」

 ともかく兄は、誰が命じたかを知って死んだのだ。

 胸の内に、冷え冷えとした喜びが広がる。

 そして彼の娘、賢王バータルの血脈を繋ぐルーアン姫はなんとしても死なねばならなかった。賢王妃ジェイドと二人、無慈悲な兵士たちに追われる彼らは、影一つ落とさない純白の廊下を必死に走ったことだろう。

 この高さを飛んだのか、と改めて乗り出し気味に見降すと、ローブが食い込むほどの風をまともに受け、冷や汗にまみれた体がさらに冷えた。

 身を切る冷たさの水の中で死んだ少女を思うと、わずかだけだが哀れを覚える。最近、突然叫びながら踊る妙な言動が聖堂にまで囁かれていたが、彼が知る限り、ルーアンは素直な可愛い娘だった。

 うちの息子のどちらかの許嫁になっていたら、将来幸せになれるかどうかはともかく、命だけでも助けてやれたか? 

 とりあえず賢王として即位させ、彼ツーランが摂政になってやったら?

 いや、それはもっと面倒な事態を引き起こすだけだ。成人するまでの条件付きで叔父に実質の王権を譲っているからには、どんな腹黒い企みに巻き込まれるか分からない。ツーランの権限を削り取りたい連中が列をなすのが目に見えるようだ。

 やはり、生かしておくわけにはいかなかった。

 なんとな、気の毒に。

 あの兄バータルの娘に生まれた不運を呪うがいい。

 

 弓兵を想定した幅の武者走りに踏ん張り、王宮殿を見下ろすべく出来るだけ真っ直ぐに立つ。ますます強くなる風にどうしても身体は揺らぐが。

(見る者は居なくとも、われは聖賢王だからな)

 ツーランが今までの人生のほとんどを過ごしてきた聖堂を検分した。

 王宮と中庭を挟んだ聖堂の敷地の中心に幅3メートルの濠に全周を囲まれてすっくと小振りな塔が立つ。正円の基部から窓のない純白に輝く壁が34メートルの高さに聳え、その上に12角形の大屋根までの高さが6メートルもあるテラスがある。春と秋の大祭に聖王が姿を現して奇蹟を起こす舞台がこのテラスなのだが、この塔の最深部マキーナ・メディカスこそが、ローデヴェイクの繁栄を支える真髄だとは、殆どの者が知らない。

 塔を除いた聖堂と王宮は等しく四階層の建物で、各層が空中の通廊で互いが結ばれていた。

国を動かす八省が王宮の大部分を占有するが、こうして上から眺めてみると贅沢に広すぎる。

(昼夜を問わずに輝く建物にいるのだ。お前達も、眠ることなく働くが良い)

 ツーランはもう一度体を巡らせて外側に向いた。王宮だけではなく都全部を見渡そうというのだ。彼、聖賢王のものであるすべてを。

(知らなかった。絶景じゃないか)

 ローデヴェイク国の二人並び立つ王達が住む殿舎の歪みの無い円形の敷地の差し渡しは2km強、周囲は6キロほど。王宮殿の敷地を守り艶やかに輝く滑らかな城壁には、四つの門と橋がある。東の王宮近衛隊、西は聖堂警ら隊、王宮の裏手に当たる最も小さい北門を、ギルドのカラフルな制服の自警団が守っている。そして王宮正面の大門の守りには、都と国内の治安を担う右府の衛の兵達が威風堂々と立っていた。

 去年は外濠に沿ってそぞろ歩きや軽い走りを楽しむ者も多かったが、今は警備の武具がぶつかる音が聞き取れるぐらいに閑散としている。何軒かあった屋台も姿を消していた。 

 正円の王宮を中心として東西南北に全長3Kmの大通りが真っ直ぐに延び、一辺が6km四方の碁盤状の旧市街は王宮殿と同じ材質でできているように見えるが、こちらには自然に放たれる輝きは無かった。整然と整った大通りから小路の終わりまでの明るい乳白色の構築物には、どういった工具を振るおうと毛筋ほどの傷も付けることが出来ない。二千年前の滅亡の日から頑として人の手を受け入れることを拒んでいるのだ。剃刀の歯が入るほどの継ぎ目もない建築物など、理屈も構造も分からず、当たり前だが再現も出来ない。せいぜい出来るのは、建物をそのまま素直に使うか、壁や柱を支えにして稚拙な技を奮って増築するか。特に明文化された決まりはないのだが、完璧に統一の取れた景観を壊すのは顰蹙を買うばかりで、結局、文明の滅亡後も今日まで変わらぬ同じ姿を保ち続けている旧市街全体を囲む《第二の壁》の内側に、裁判所、王立病院、聖堂が運営する高等教育機関、それに各ギルド本部などの重要な機関が置かれている。

 それでも今から三百年ほど前に、四稜郭各辺の壁を背に三角錐の形に伸びる四つの居住区が新たに建設される事が決まった。

 ローデヴェイク国内の平和と安全が揺るがないものになると、当然、人々や物量の移動は右肩上がりに加速する。特に首都の人口の増加は宮廷の試算を遥かに上回った。それに応じて都の拡張が必要になったのだ。

 新しく築かれた紡錘形の壁と建物が、煉瓦と切り出した石を組み上げた頑丈かつ無骨なのは、これが今の人類の持ちうる技術の限界だからだ。

 増設された居住区、《新市街》に住めるのは王宮とギルドに届けを出した者に限られている。治安の維持は右府の衛とギルドの自警団が分け合っているが、両者間には無視できないほどのわだかまりがあるらしい。ともあれ平等を期すため、それぞれの兵舎が四方に一箇所ずつ。軽微な症状全般を扱う王立医療所、簡易裁判所もある。《新市街》で一番大きな建物が15歳までの基礎教育を施す王立学舎だった。

 このようにしてローデヴェイクの首都は、八芒星の現在の形に変わった。

 ツーランは、目を眇めて、あえて批判的に都を眺めてみる。

《デュオミリアの滅亡》で、うねる大地が生み出した最大幅90キロ、長さ150キロに及ぶ大瀑布ケイマルスと大陸を横切る大河ハーディーンで守られたキュクロス・アスティラトは、かつての偉大な文明のわずかな名残り、奇跡のかけらを今なお深く抱く場所だった。二千年前から不朽の建物は、たしかに大したものだ。だが。聖堂の年寄りどもが崇め奉る古代文明とやら、どれほど優れていたのやら。世界の滅びの回避もできなかった連中じゃないか。そして我々は、王宮と聖堂に棲まう我々は、失われた文明の名残に細々としがみ付いて生きている哀れな輩だ。

 市井の者たちに、すでにそんな感傷はカケラもない。

 《第二の壁》から四方に伸びる三角錐の居住区と、さらにその外を観察する。あそこに住む彼らにとって、記憶に無いものや正体がわからないものは、なくても構わないのだ。後から継ぎ足し継ぎ足しされて節操なく広がっていく都は不恰好で洗練のかけらもない哀れなものだが、それを王宮と比べて悲しいとも情けないとも思わない。

 だが、それこそが正しいのではないか。

「あれを見よ」

 含み笑いをしながら、おざなりに手を振った。

 誰もいない空間に話すのが、子供の頃からの彼ツーランの癖だった。

 目を奪われるのは、旧市街を囲んで高く聳える《第二の壁》から延びた箱回廊状の構築物だ。中空での支えも必要とせず、真っ直ぐに大瀑布ケイマルスに向かっているが、これがなんとしたことか、大瀑布の真上でブッツリと切断されている。

 屋根から床下まで、まるで大鉈を振るわれたように断ち切られた断面は漆黒色で、一切の光を反射しない。まるで太陽の光も月の輝きも、そこに静かに吸い込まれて沈着するかのようだ。大瀑布の真上にさらけ出された回廊の内装は、二千年の時を経ても傷むことも風化することもなく、闇より暗く音もなくひっそりと佇んでいる。

 あれこそが、驚異に満ちた文明とやらの墓標だ。

 そして周辺に住むのは、そんな不気味な代物が頭の上に聳えて空の一部を切り取っていても、有るのが当たり前だと思っている連中だ。消せないものなら空気と同じなのだ。

 ツーランの皮肉に満ちた視線は、かたく守られた首都アスティラトを出て、大瀑布ケイマルスまでの間の《自由民区》に到達した。

 その一角は、《新市街》のクズ捨て場から拾ってきたような金属が覗く壁が所々に建てられ『とりあえずは守られている気がする』態だ。洗練された優美さの真反対を突き詰めると、ああなる。肩の高さほどしかない煉瓦とモルタルの壁の内側も、建物や道路に多少は統一が見られる区域、ごちゃごちゃと詰め込まれて、もうそこに場所がなくなったから次に行ったのだなと明らかにわかる区域が混じり合う。

 都のすぐ足元で、様々にたくましく生きる者たちの坩堝には、どこか危うい気配が満ちている。武者走りに立つツーランの目には、空気の色さえ違って見えた。

《自由民区》にはピンからキリまで多様な職種の者達がいるが、いずれもギルドに加わるを良しとしない。そんな彼らが《第二の壁》内側の目的地に行くためには、まず取得にやたらと手間のかかる許可印が必要だ。それに加えて聖堂の発行する素性証明書と印を携えて門を通過し、挙句に定められた進行方向通りに歩まなければねらない。仕事を目的にする商人や職工となると、さらに上級許可証の携帯と更新など実に煩わしい上に、全てに高い税を課せられ、おまけに都の中には居所を提供されない。夜遅くまで仕事をしてクタクタに疲れていても、朝と同じ煩わしい手順を逆行して《自由民区》まで帰らなければならない。徹底した組織ぐるみの嫌がらせだ。

「面倒な道を選ぶなら文句を言うな」と《自由民区》への門の入り口に描かれた落書きは、しばらく人気を博した。書いたのが自由民かギルドかで賭けもあったらしい。

(民など、頭を落とされても気付かない蛇のようなものだ)

 ツーランは独りごちた。

 彼らの欲望はとどまるところを知らない。闇雲に全てを呑み込もうと蠢いている。生まれた時から「これをくれ、あれを寄越せ」と泣き喚く。母親の命を削ってこの世に出てきた罪深い存在の癖に、それでも足りずに、全てを与えられるのが当然だと叫び続ける。

(やかましい口に何か適当に突っ込んでやれば済む連中だ)

 わずかなものを投げ与えて、幸せだと錯覚させてやれば良い。どうして理解する頭もない者に、わざわざ世界の広さを知らしめる必要がある。

(だがまあ、はるかにマシだ。欲望のなんたるかを知る、底なしに貪欲な胃袋を持つギルドの奴らに比べたらな)

 首都から2kmほど離れて《自由民区》を睥睨しているのが、二年前、商業ギルドの長年の悲願が叶った城だ。

 あれを城と呼ぶとはな、と、ツーランは内心失笑したものだが。

 土塁様式と言うのだそうだ。

(様式、ときたもんだ)

 濠を掘り進めた土を高く固めて土塁を築き、頑丈な丸太を繋ぎ合わせて防御柵を巡らし、それを補強するために何箇所か塔を建てる。そうして柵に囲まれた内側を居住棟としている。

 最近ローデヴェイク国内で建てられる城は、この土塁様式が人気らしい。中には30メートル以上に盛り上げ固めた土塁の、基底部の直径が90メートルにもなる大掛かりなものもあると聞く。自分達に頑として従わない《自由民区》を見下ろすこの商業ギルドの城は、それほどの規模ではない。防御柵の六箇所に塔を持ち中央七層の城は手頃な大きさだろう。あのギルドの狸親父どもときたら、平身低頭で恭順の意を示しながら土塁の周りの濠に水を張りたがった。さすがにそれは却下だろう。どこと戦う準備をするつもりだ、全く。その代わりに、周辺の草原のかなり広い土地の使用許可を出してやったら、交易の旅に必要な牛馬を飼い、物資を備蓄する大型倉庫を建て、10メートル程の高さの土塁の上と橋脚式の傾斜橋で繋げおった。なんたる柔軟性と早技。橋まで含めての結構な地代を納めても、なお余裕があるとは。けしからん。

 だがまあ、王宮の聖堂側の壁のすぐ外側にあった牛馬舎があそこに移転してくれたのは、本音を言えばありがたかった。風向きによっては結構臭かったし朝の騒がしさは堪え難かったから。

 しかしギルドご自慢の城は、それに見合う住み心地とは思えない。隙間風が吹きすさび、壁や床にタペストリーや絨毯を敷き詰めても、冬はさぞ骨身にしみて寒く、夏は茹だるほど暑いはずだ。商業ギルドのやたら偉そうに喧しい長たちが、あそこからえっちらおっちら陳情にやってこなければならないのも、考えれば愉快だ。悪天候の時に是非とも呼びつけてやるとしよう。だがこの宮殿に入るなり衣服は乾き、汚れも残らないのだから実害はないか。雨が降り始めたら謁見を終えて追い出す、これだな。タイミングを計らねば。聖賢王のもとに行くたびにずぶ濡れになる不運で、陳情の意欲も多少なりとも減れば良いのだが。

 十分な利益を上げて献上金を増やせば城の建設を許されるとあって、今やローデヴェイクのあちこちに、急ピッチでさまざまなギルドの城の建築が進んでいるという。都に一極集中していたギルドの力の分散を望ましいと考えるべきか、王権に対する脅威と見て警戒すべきか。各々のギルドを競わせる方向でとりあえず様子見だな。城の中核に必ず聖堂の祠を置くように定めてあるから、いざと言う時は、なんとでもなる。祠がもたらしてくれる情報は、実に侮れない。

 失われた文明の使い方など、この程度だ。

 滅びた文明のかけらに、なにをしがみつく。

 再現もできず、使えないものは消え去るままにすれば良い。代わりに誇れるものを見つければよかったのだ。僅かな恩恵にしがみついてありがたがっているから、いつまでも、そのままだ。生きたまま腐っていく。

 ローデヴェイクに住まう限り、子供が誕生した時には必ず聖堂の祠に詣でるよう義務付けられているが、次第に、都から距離が離れるに連れその決まりが守られなくなっていると聞いた。ツーランにとっては好都合なので、そのまま放置している。

 二千年前の亡霊が、現在の妄執に取り憑かれた妖怪の手を借りて執念深く生き延びようとするなら、われが根こそぎ退治してやろう。

 聖堂の大師長と《長老会議》の連中め。ずいぶん偉そうにしているが、本人たちはひとかけらの能力を持っていないくせに。幼かったわれがいくら生真面目に努力しても、やれやれと頭を振られ、額にしわを寄せ眉を八の字にして、奴らの当然の権利とばかりに見下される。「しかたない。この程度の聖王でも居ないよりは良いだろう」だと?

 毎日それだ。憎むしかないだろう。奴らを。そして、自分自身が価値が無いと考えるように、いつの間にか仕向けられてしまった己れを。

 だからと言って自死するような度胸は持ち合わせていないし、実は、根っこのところでかなりしぶとい。

 なぜ、われだけ死ぬ。われと共に世界が滅びるのが順当ではないか? もしくは世界の方が。

 一度憎しみと血に塗れた昏い道に踏み込んだら、前に進むより他に選択肢は無いのだ。

 失われたものは、二度と返ってきてはならない。

 人であれ、心であれ、二度と。

 すっかり冷えて強張ってしまった体を巡らし、武者走りから降りることにする。

 見るべきものは見尽くした。彼の足元に広がるのは美しい都だ。


 これで人間の姿がなければ完璧だ。




9  叛逆の夜   


賢王妃ジェイド



 ぶるぶると震える血に濡れた腕を伸ばして、謎の男の長いマントの裾を掴んだ。

 賢王妃と目があったのに、無礼にもそのまま無視して行ってしまおうとした男だ。羽織っていたのが床を擦るほどの長マントで助かった、と妙に冷静に考える。あまりにも血を失いすぎて、もう身体の自由がほとんど効かない。

 寒い。垂れ込めてくる闇に素直に呑み込まれれば、この寒さも和らぐだろうか。だが、まだ命を手放すわけにはいかない。

「助けて」

 かろうじて絞り出した声は無惨に掠れていて、自分のものとも思えなかった。昨日まで自分のサロンで良い気になって古典の朗読などしていたものを。

 掴まれたマントからそっとジェイドの指を外しながら覗きこんできたのは、予想よりはるかに若い男だった。

「賢王妃さま」

(ああ、これは、駄目だわね)

 暗がりで白く浮かぶ端正な顔に浮かんだのは、軽蔑に近い気配。これだけ整った容貌の持ち主なら女の我儘は当然のように聞き飽きているだろうが、そんな自分本位の冷たさとは、全く違う。からかうように完璧な唇を捻った微笑は、普段なら魅力的に映ったかもしれない。

 だが流れ出す血も尽きようとしている死の淵では、この若者の真の姿が見える。

 人ではないもの。

 なまじ美しいと言って良いくらいの容姿だけに、その心の体温の無さがそら恐ろしい。あの世からの迎えが流行りの服を纏ったら、こんな風かも知れない。

 だが、ここで怯んではいられない。生き延びるための機会はもう他には無いのだ。自分には時間も無い。賢王の居室から聖堂への通廊まで辿り着いたのは、あらゆる廊下の曲がり方や窪みの在処を正確に知っていた娘のおかげだ。

(ここが踏ん張り処よ)

 未練がましく命にしがみつく連中を見慣れた暗殺者レイズルの目には、床に横たわる女に対して何の感情も浮かばなかったが、瀕死の賢王妃が絞り出した言葉の、「娘を助けて」には些か驚いた。

(暗殺者に、人助けをしろって?)

 半年前に病で死んだ彼の父親は「目の前で死に臨む者の望みを軽視するな」と、双子の息子たちに繰り返し説いた。卓越した暗殺者だった父親は同時に聖堂の祭司でもあったから、その道徳観はかなり独特だったが、それでも息子たちにとって唯一無二、絶対服従の師匠だ。

(困ったなあ)

 今夜のレイズルは運が悪かったとしか言いようがない。聖堂に秘匿されている希少な薬草を、少しばかり無断で拝借しようと忍び込んだら、突如として王宮で騒ぎが起こった。それならばと、今後の身の振り方に役立てようと経過を観察しているだけなのだ。

 それに、もうひたひたとこちらに迫る気配がある。まだ王宮の南端の通廊に到達するまで時間はあるが、明らかに兵士の足音だ。連中が彼を見逃してくれる可能性は全く無い。こんな場合の対応を一手に引き受ける双子の弟も、今夜は家に置いてきてしまった。足音から察するに重武装の兵士が最低でも四人。六人かもしれない。レイズルが単独でなんとかできるような追っ手ではない。暗殺者として生きるために無駄な危険を冒すことを禁じたのも父親だった。教えに背くことにならずにホッとして、

「ごめん、無理」

 午後のお茶会を断るようなあっけらかんとした答えを返すが、賢王妃はとっくにそれを予測していたらしく、たじろがない。

「お前、《闇の目》ね」

「おや。ご存知で」

 ちょっと好奇心を唆られた。

 王と、限られた者だけが使える暗殺者をこう呼ぶ。市井で似たような荒業をやらかす連中とはまったく違う。雇用主も標的も高貴な方々だ。そして、特に洗練された技を持つ自分たちの矜持は高い。だが、賢王バータルは暗殺を手段をすることを良しとせず、《闇の目》の存在自体を黒歴史として葬ってしまいたいと願っていると聞いた。「暗殺者を殺すための暗殺者をどこから調達するつもりだろうね」と弟のキアランと大笑いしたものだ。そんな賢王だから、レイズル達の父親が病に倒れた時も、これまでの業績を顧みることもなく見捨てられたのだ。

 だから賢王妃が闇に隠れて生きる者たちの呼び名を知っているだけでなく、たちまち彼の素性を見抜いたのを純粋に驚いた。

(まるで子供ね)

 賢王妃は、青年が自分を珍しい虫でも見るような目で観察し始めたのに気づく。バータルが賢王として戴冠した時、妻には一切隠し事をしない彼は、《闇の目》について忌まわしいもののように話していた。

「人を殺すことで糧を得るものは、心か考え方か、どこかが壊れている。その殺戮の衝動は、玩具を壊して鬱憤を晴らす子供のようなものだと聞いたぞ」

「それは子供に失礼だわ」

 ジェイドはそう笑って返したものだ。

「大抵の子供は一時の癇癪で大事なものを壊したことへの後悔やら、叱られるんじゃないかと怯えたり、もうその玩具で遊べないようにした自分への怒りなんかをごちゃ混ぜにして泣いているのよ」

 ローデヴェイク国を治める賢王バータルは、単純なまでの善良さに驚かされることもあったが、本当に優しい人だった。寝台の中で豪奢な掛け布団越しに剣で貫かれて死ななければならないような人では、断じてなかった。

(もう、あの人とおしゃべりすることもないのね)

 泣いている場合ではない、と賢王妃は気力を振り起こした。

 相手が心の壊れた子供ならば、わたくしの最後の依頼を引き受けたら面白そうだと思わせなければ。

「何でも取って良いわ」

 ほら、と、ゴテゴテした腕輪を見せる。

 装飾品の起源はいざと言う時に売り払って生き延びるためのものだったそうだ。

(本当だったのね)

 意識が混濁して考えがあちらこちらに飛んでしまう。集中しなくては。

「だから無理ですって」

 若者の声にどこか揺らぎを感じる。

 なるほどね。きっとこんな風に死にゆく者と話をしたことが無いのね。わたくしだってお初の体験よ、お生憎様。

「違うわ。次の契約よ。わたくしの娘が、今夜此処を無事に落ち延びて、次にあなたの助けを必要とした時のためのものよ」

「うわあ、びっくりだ」

 瀕死の重傷を負いながらも交渉に臨む女の気力に、気圧された若者は笑いに紛らわそうとした。腕利きの暗殺者であっても、まだまだ若い。

「だけど、情に絆されて、いま貴女たちを助けようなんて気は起きませんぜ」

「分かっているわ」

 賢王妃ジェイドは、その死に際に初めて一国の王の傍らに立つ者の力を発揮しようとしていた。

 国より民より守りたいものがある。自分の命など、もう消える寸前の命などそのためにはどうでも良い。

「これを取りなさい」

 もう腕も上がらない。視線だけで自分の右腕を見下ろす。さっきからその重さが鬱陶しくてたまらない、鈍い金色に輝く腕輪だ。

「粒金細工の逸品らしいわよ」

 売るのに苦労するなら溶かしてしまえば良いでしょうと、くく、と笑った。古の失われた芸術品の技法を再現してみたものの、手間と材料費が、小売り価格にどう上乗せしても釣り合わず、結局、匠の一生に唯一の渾身の作品だとしても、娘のルーアンの命に比べたら塵ほどの価値もない。

 生まれた時からほとんど一緒に過ごしたことのなかった娘。産声も聞かないうちに手元から取り上げられて、それからは乳母が一日に五分ほど顔を見せに連れて来た。

「愛している」と言ってやれば良かった。

 国のために役立つ姫になるための教育を身につけて、ようやく人前に出しても恥ずかしくない振舞いが出来るようになったからと、儀仗場で沈黙を守ったまま並ぶだけの子供に、どうやってどんな感情を抱けと言うのか。親としての情がどんなものなのか、そんなものが自分の中にあるかどうかも知らなかった。母になるのも子としてあるのも、簡単なことではない。

 それでも、自分の身体の中で育んだ命だ。

「かわいい娘」と、隣に座るたびに囁いて、頭を撫でてやれば良かった。意味はわからなくても、繰り返しているうちに本当になったかもしれないのに。

 茫然自失の態で膝を抱えた娘を見るのは、剣で貫かれた傷よりはるかに痛む。いつもならば、一挙一動に、眩しいほどの命の煌めきを見せる子供なのに。

 そうだ。子供なのだ。こんなところで死なせるわけにはいかない。

 幸せになって欲しい。王女の地位などどうでも良い。ただ幸せに生きて欲しい。

 唐突に強烈な、荒々しい、火山の噴火のような怒りに突き動かされた。唇から漏れた言葉は切れ切れで掠れていたが、反論を封じこめる響きを持っていた。

「腕輪を取りなさい。そして、いつか、わたくしの娘を守りなさい。あなたと娘は生涯再び出会わないかも知れない。敵としてまみえるかも知れない。でも、運命が娘をあなたの元に引き寄せるようなことがあったなら、あなた達がどんな立場にいようと、一度だけ、ただ一度だけ、わたくしの娘を助けなさい」

 さっさと、このくだらない腕輪を取りなさいってば!!

 五体が無事なら金切声で地団駄踏んだところだ。

 とりあえず殺気だけは伝わったらしい。

(《闇の目》相手になかなかやるものよね、わたくしも。)

 腕輪が気付きもしないうちに、するりと男の懐に消えた。かすかな頷きが契約成立の証だと、もう、信じるしかない。

 そして娘が、ルーアンが、この恐ろしい夜を逃げ延びてくれることを。

 暗殺者のマントが翻って消えた。もしくは賢王妃ジェイドの瞳が、もう何も映さなくなっただけなのか。 

 足音が迫ってくる。冷たい床に金属のぶつかる音で夜を割りながら。

 娘の腕の中で、賢王妃ジェイドの身体が重くなった。



ルーアンの回想



 ややあって、ルーアンの傍に男が膝まづく。先ほど暗殺者レイズルが聞き分けた足音の主のようだ。


「お探し申した」

 呆然と母の身体を抱きしめたままのルーアンは、ひょっとして彼女も共に息絶えたのではないかと思うぐらい、微動だにしない。

「姫。ルーアン姫」

 失礼を、と王女の耳に届いていなのを承知でことわりを入れた男が、妃の背に回されていたルーアンの腕を優しく、しかしキッパリと解かせた。それでようやく少女の体を濡らす血が彼女自身のものでないことが確認出来る。

 そのまま、ぐいと間近にルーアンを覗き込んだ。中年の男は口の端と額に深い皺が刻まれているが、短く刈り込んだ銀髪で端正な顔立ちをしている。

 彼の厳しく眇められた水銀色の瞳に映るルーアンは、依然としてなんの反応も見せない。ちょっと乱暴に思えるぐらい、その肩を掴んで揺さぶった。

「しっかりなさい。これからが大変です」

 視線も定まらず言葉を発することも出来ない娘を痛ましげに見下ろすが、まさに1分1秒に命がかかっている。彼らと、生き延びた王女の。

 もはや余裕はないとみて、軽々と娘の体を肩に担ぎ上げた。ルーアンの細い身体は力無く折れて、垂れた頭もそのまま男の背で揺れるが、悲鳴や泣き声を上げられるよりましだと、そのまま王宮の通廊の屋根に被せた武者走りに続く階段を目指すことにした。

「行くぞ」

 彼に続くのは三人の部下。全員が王宮の警備にあたる近衛隊の制服だが、非番で兵舎で眠っていたのを叩き起こされたために徽章やらシャツやらが乱れている。それでも、武器とこれから必要な用具だけはちゃんと持ってこれたのだから上等だ、と分隊長のナサニエルは深く頷いて褒めてやった。

 塔に登る最後の扉で振り返り、部下の一人に命じる。

「火を放て」

 若者たちの顔は青白く強張った。わかっている。実行するには酷な命令だ。もう何度も打ち合わせたが、再度念を押す方が手落ちがあるより良い。

 建物自体は、何をどうしようと傷つかない。だからこれから彼らがやらなくてはならないのは、通って来た部屋や通路にある可燃物を燃やすことだ。家具や織物、さらに命を失って動かなくなった人体を含めて。敵や、倒れた味方、そして賢王妃の亡骸も。

 彼らが王宮から逃れたことをできるだけ長く隠すためだと頭では理解しているが、心がたやすくは受け入れない。若い彼らには辛すぎるだろう。しばらくは夜も眠れなくなるかもしれないが、今このとき、いくらかでも時間を稼ぐために、そしてこれからも生き延びるために、できる限りのことをしなければならない。

 長引く逡巡を叱るべきか激励するかを迷っていたら、王宮の、彼らとはかなり距離のある方向から騒ぎが起こった。叛逆に加担した兵士の一部が聖堂の方も襲撃したようだ。これに乗じない手はない。大それたことをやらかして、さらに血を見たことで逆上している反乱の徒が、本来の兵士らしく秩序を取り戻して王宮と聖堂全域をしらみ潰しに探索に乗り出すには、まだしばらくかかるはず。だが、そうあって欲しいとすがるには、あまりにも儚い希望だ。向こうに冷静な指揮官がいたら、もう終わりなのだから。

 急がなければならない。

「行け。我らが救わなければならないのは」

 肩の上の娘を抱え直す。

「この王女だけだ」

 今のところはな、と胸のうちの呟きを無理矢理押し潰す。

 考えるのは、あとだ。生き延びて、その後で、考える時間は十分にあるだろう。無ければ困る。だから今は、この少女を生かすために最大限の努力をしよう。

(可哀想に)

 階段を登りながら、それでも思わずにいられない。

 これほど過酷な運命を、たった十四の少女が背負わなくてはならないとは。今夜、王宮で両親と一緒に死ななかったのが幸運だったのか不幸なのか、誰が知るだろう。

 ええい、まずは上まで行くことだ。

「分隊長」

 先行していた一人からの鋭い囁きに物思いが破られる。

「見張りは?」

「いません」

 助かった。少女の体は大して重くはないが、剣を振るうには確実に邪魔だ。

「よし、ではここを見張っていろ」

 ちょうど、王宮の最も高い武者走りと聖堂に続く通廊への岐路になる。

「分隊長」

 部下を置いて、一人さらに階段を登っていこうとする男に、若者は緊張した顔を向けた。言葉を探しあぐねる彼の、まだ柔らかな、歳月にすり減っていないナイーブな瞳に、分隊長と呼ばれた男は、内心やれやれとため息を漏らす。彼だってそれほど歳をとっているわけじゃないのに、妙に疲れを感じたのだ。

「聞かねばならないのだ」

(どうしても、な)

 彼らの命を賭けるに値するかを知るために。

「用意を怠るな」

 これまで彼らがたどってきたルートで必要な処置を済ませたのだろう副官が身軽に階段を駆け上って来て、兵士たちの背にある荷物を降ろすよう指示を出し始めた。

「急げよ」

 若い兵士はゴクリと唾を飲み込んだ。

 あとから合流するのは分隊長と姫だろうか。もしくはナサニエル一人だけだろうか。

 それまで棒立ちになっているわけにもいかないので命令に従って準備にかかる。訓練通りの動きに生気を取り戻した部下たちを置いて階段を踏みしめるナサニエルの足取りは確かで早いが、しかし心は這うように王宮の最上階に設けられた武者走りにたどり着いた。

 首都で、兵士が配置される一番高い場所だ。外敵から弓兵を守るために設けられた盾の隙間から外濠を見下ろした。王宮の不思議に数えられる濠の水は、建物の壁や床よりは弱いながらもほのかに光を放っている。

(いやはや。逃亡者には、なんとも不親切な場所だ)

 そっと、真珠色の艶やかな床に少女を下ろした。

 冷たくはないだろうか、とふとそう思う。つい数時間前まで、この国を治める王の娘だった子供だ。こんな運命の転機を迎えるなど、思いもよらなかっただろう。訓練を積んだ兵士である自分たちだって、暗闇でいきなり背中から突き飛ばされたようなものだ。

「いや、違うな」

 癖なのか、ちょっと鼻に皺を寄せてひとりごちる。

 三日前に黄色の嘴のカラスが届けてきた手紙には、「今週のあなたの運勢。最大級の警戒を怠るな」とあった。なんだ、こりゃと紙を裏返してみたら、海の民の古の文字で「ナサニエルへ。何が起こるかはわからんが。もうじきのはずだ。よろしく頼んだぞ。アウグスト」と付け足してある。

(相変わらず、食えない男だ。何がよろしくだ。丸投げするなら、もうちょっと情報を寄越さんか。相変わらず字も汚すぎるぞ、アウグスト)

 おみくじを装飾する模様にしか見えない。万が一密書が他の者の手に落ちることを考えての用心としても、かえって怪しまれるレベルにのたくった悪筆だ。たかが二行を読むのに十分かかった。しかも、くだらない。日頃ならアウグストの手書きはそのまま陳情書に通用するほど、祐筆並みに達者だと知ったら、彼はさらに機嫌を損ねたろう。

 右府の衛から選抜された王宮警備のための近衛隊で一分隊八人を率いるナサニエルは、もともと草原の氏族の出だ。従姉妹のエレンが海の民アウグストと結婚した時から、この廃れた文字を彼の意向など全く無視のスパルタで教え込まれたのだ。大陸に散逸してしまった海の民の、しかもその古語は密書にうってつけだ。

 結果論だが、相変わらずのアウグストの情報収集と、その処理能力には舌を巻くばかりだ。一度、どうやったらそんなことができるのかと尋ねたら「伊達に人とカラスを飼っていないからな」と妙な自慢が返ってきた。

(俺は鴉と同じ扱いか)

 放牧民の生活ではカラスは害鳥扱いだった。弱った家畜をすかさず襲おうとするし、餌を求めて平気で台所の窓から侵入したりする。しかもデカい。そんな子供時代の記憶から、ナサニエルは、人懐こく頭を掻いてくれとすり寄ってくるアウグストの遣い鴉がちょっと苦手だった。だが、アウグストとの連絡が途切れないのは、このカラス達のおかげであることは否定できない。

 夏からの都の不穏さをアウグストに伝え、配下を使って警戒度は上げていたが、何か起こることを前提としていた自分たちさえ、いざとなったら歯の根が合わない思いだ。

 叛逆だと? 賢王を殺したのか? 本当に?

 四百年の間ずっと平和が保たれてきたローデヴェイクで、いくら兵士として訓練を受けてきたとしても、今夜のことはまったく別だ。

(王女を守らないと)

 ええい、この時ぐらい正直になれ、とナサニエルは歯噛みした。

 ここには部下もいない。まだ敵も追いついて来ていない。

 救ってやりたいのだ。目の前で父を、続いて母を奪われたこの娘を。

 だが、救うに値するかどうかを確かめなければならない。彼と、大事な部下の命を賭ける価値があるのかを。

 ナサニエルは鉄色の目から慈悲を消し去って、王女ルーアンを見下ろした。



ティリー(元王女ルーアン)の回想


 

 ティリーは大きく身を震わせて、我が身を抱くようにする。

 寒いわけではない。

 アウグストの集落の、集会場から彼らのうちまでは、畑の中の畦道をまっすぐだ。ヴァレンと並んで歩きながら、その目は何も見ていない。

 しっかりと巻き付けた腕が半ば痺れている。二の腕に爪を食い込ませていたと気付いたのは、じわりと爪の下に湧いた血の匂いのせい。

『お母さまの血じゃないわ』

 あの、抱えきれない重さに変わっていく身体と、薫きしめた香すらかき消す大量の血の臭い。体の中に、あんなに血があるなんて。

 胃がねじれる感覚があったが、靴底に当たった小石の痛みで、再びこの世界に繋ぎとめられた。

 あの時、聞かれたのだ。鋼鉄のような冷たい目をした男に。

「生き続けたいか」と。

(あなたの制服は王宮の近衛隊でしょう? どうしてお母様を、私を守らないなんてことがあるの? )

「分からない」

 混乱の中でそうボンヤリと応えたら、肩の骨が軋むほどの力で掴まれて、悲鳴をあげた。

「考えなさい」

 厳しい声が追い詰める。

「父上も母上も殺された。姉上は遠い国の人で、兄上は行方不明だ」

(なあに? この人は敵なの?)

 無遠慮に身体を揺すぶられる。人形のようにガクガクと首が揺れた。

「もうあなたを守る両親はいない。今夜ここから逃げたとしても、ずっと追われ続けて、いつかは捕らえられて、一生牢の中か、処刑されるかも知れない。捕まる前にのたれ死にするかも知れない」

 ぐいと近づいてきた男の目は、うって変わって、とても悲しげだった。

「それでも」

 父親が寝室で死んでいるのを見て以来、ずっと放心状態だったルーアンの思考を呼び戻したのは、その男の苦痛と悲哀に満ちた目だった。

「それでも、生きていたいかね?」

(彼は、私を、死なせたくないのだわ)

 ルーアンは悟った。

 それでも彼は殺すだろう。もし、彼女が正しい答えを出さなければ。

(私は、生きたいのかしら?)

 ローデヴェイク国の賢王の娘、第二王女はじっと考え込んだ。ややあって唇を噛んで答える。

「生きるわ」

 生きたいのではない。生きるのだ。

 男を正面切って見上げる。肩にかかった手を払った。じわじわと湧いてきた微かな怒りの勢いを借りて。

「生きなければならないから」

 母が、死ぬ間際に繋げてくれた命だから。

 近衛の騎士はきちんと膝まづいた。

「ルーアン姫。貴女が望む限り、私は、命に代えて貴女をお守りする」

(感動的だわ)

 まだ大半の意識が現実逃避している幼い王女は、人生お初の体験を噛み締める。 

(騎士に膝まづかれてしまったわ)

「さて、と」

 儀礼は早々に切り上げて立ち上がった男がにんまりと笑った。本来、無礼な男であるようだ。

「貴女にはここで死んでもらう」

「な、なんですって」

(この人、嘘つきだったの!? 膝まづいて誓ったのに!!??)

 ギョッとして床に座ったまま大きく後ずさるルーアンに、ナサニエルは顔が真っ二つになるぐらいの笑いを向けるや、後ろに積んである石を麻袋に詰め始めた。

「そ、それで、私を殴るの?」

 こんな時だというのに鼻歌など歌い始めた男を、せめて噛み付くか引っ掻くなりしないと死に切れない。

(悲惨な死に方だわ。物語は色々読んだけれど、これはひどいわ)

 ルーアンがまたぎゅうと唇を噛んだ時、男が片手でずっしりした袋を揺らし

「貴女の重さは、だいたいこんなものかな」

「え? そんなに?」

 なおも笑いながら、ナサニエルは大きく身体を回転させて、石を詰めた袋をはるか眼下の濠に投げ込んだ。

「これで貴女は亡くなられた。ご愁傷様です」

 茶目っ気たっぷりに片目をつぶられても、全く楽しくない。

「さ、行きましょう」

 これを噛んでいなさい、と渡されたのは、ざっと細長く丸めた洗いざらしの木綿の布だった。忠誠を誓った王女の扱いにしてはものすごく雑じゃないかしらと思いながらも、あえて争わない。首を捻りつつも素直に従う。その上から念を入れた猿轡を掛けられてもじっとしていた。

 そんなウブで世間知らずな己れを後悔したのは、再び男の肩に担がれたと自覚する間も無く、武者走りの上からロープ一本で飛び降りる中庭までの地面の高さを感じた時だった。

 ぐぎゃああああああああーーーー

 凄まじく可愛げのない悲鳴を上がった。


「まったく、どういうつもりかしら」


 人体から、それも自分の喉から出るとは思いもよらなかったほどの悲鳴が、ナサニエルの計算通りに猿轡の中に飲み込まれなかったら。王宮中に響き渡る警報になって全ての兵士を呼び寄せていただろう。敵も味方も。

「あの高さを、飛ぶ? 普通、飛ぶものなの?」

 反対側の濠に飛び降りて死のうとしていた自分のことは、キッパリ棚にあげる。


 アウグストの集落の畦道を、プンプンと草を蹴り飛ばしながら歩いた。

 乱暴な彼女の足音に驚いた小鳥が数羽、髪をかすめて舞い上がった。

 その勢いに、思わず悲鳴をあげてうずくまる。

 いつ捕らえられるか殺されるか分からない日々は、神経をズタズタにした。急に肩を叩かれたり、背後で大きな花瓶が床に落ちて割れたり。

 いきなり鳥が飛んできたり。

「大丈夫、大丈夫だって。ほら、ただのスズメだ。大丈夫だよ」

 そう繰り返すばかりのヴァレンに、とうとう我慢がならず「なにが大丈夫なのよ!」と怒鳴ったら、「分からん」と、しれっと返してきた。

「分からんが、でも、生きてる。生きているなら大丈夫だ」

 覗き込むヴァレンの距離が近い。もしかして抱きしめてくるのではないかと案じるほど腕をワキワキさせていたが、挙句、肩をたたいてきただけだった。

 もう一度しゃんと立ち上がって罪のない小石を蹴る。ヴァレンがビクッとしたが、別に彼を蹴り飛ばしたいのではない。嫌だわ。そんなに乱暴な娘だと思われているのかしら。

「変なひと」

 クスリと笑いが漏れた。

 さっきの小鳥が舞い戻って来て、そばに人間がいることなど気にもかけずに草の中の何かをついばみ始めた。

「ほら、ただのスズメだ」

「スズメじゃないわよ、馬鹿ね」

 黄褐色の嘴の先が黒い。どう見たってヒバリじゃないの。

 出歩くティリーを見かけるたびに呼び止めて、野鳥や海鳥の見分け方を熱く語って聴かせたのはアウグストだった。おかげで実物を見たこともないのにシノリガモや赤エリカイツブリなどの描写にまで精通するようになってしまった。自分を船乗りにでもしたいのだろうかと首を捻っていたら、社交辞令や軽い交流を苦手とするアウグストが、たった一つ得意とする話題なのだと、しばらくしてターイシュから教えられた。適当なところで逃げないと大変だよ、とも。

「あら、まあ」

 どっちにしても可愛らしいわね、と目を細めた途端に視界がいきなり曇った。

 頬を伝う熱い涙に、息が止まりそうにしゃくりあげながら、ティリーは泣き出した。拳を握りしめて、両足でしっかりと大地を踏みしめて、ティリーは泣き続けた。寝台の上で、姉娘と抱き合って眠る時の、呼吸に混じるわずかな嗚咽ではない、胸が張り裂けそうな、身体がガクガク震えるような泣き方だった。


 王宮での暮らしが辛くて、意趣返しで飛び降りようかと思っていた屋根の上から、荷物のように肩に担がれて中庭に降ろされて。麻袋に詰め込まれて、周りも見えないまま、荷車でどこか分からない倉庫に運ばれた。朝を待って船に乗せるつもりだったらしいのが、河門を早々に封鎖されてしまったので、二日間も変な臭いが充満する倉庫に押し込められたままだった。やっと、叛逆の起きた都から闇雲に逃げ出そうとする人々の群れに紛れ込んで。生まれ育ったキュクロス・アスティラトを抜け出した。いつ「王女がいるぞ」の叫びが上がるかとビクビクしながら。


 ひどい。

 こんなの、ひどい。


 ティリーの咆哮のような泣き声に、畑にいた中年の女がとんできた。

 拳を握って真っ赤な顔であたふたしているだけのヴァレンを手荒く押しのけて、少女が怪我をしていない事だけを確かめた彼女は、天をあおいで泣くティリーを、そのままふくよかな胸に抱き込んだ。

「大丈夫、大丈夫よ」

(どうしてみんなそう言うの。どうして大丈夫としか言わないの!!!)

 抗って突き放してやろうか、と、ぎゅうと瞑った目から止めどなく流れる涙をそのままに、ティリーは思った。思ったが、出来なかった。

 女に自分から手を回すでなく、ただ棒立ちになったまま、吸う息と吐く息の全てで泣いた。体の暖かさが厚い布地を通して沁みてくる。

(全然、なんにも、何一つ大丈夫なんかじゃないわ!!)

 笑ってお休みを言った父が、寝台の上で血塗れで死んでいた。

 自分に関心など無いと思っていた母が、彼女を庇って刺されて、最後の息が止まるまで娘を案じていた。

 隠れる暗闇の無い城を出て、灯りの消えた都の片隅で震えていた。

 痛みと苦しさと不安以外、もう何も感じないと思っていた。感じてはいけないと思い込んでいた。だから喪った者を悼む事も出来なかった。奪った者を恨む事も出来なかった。

 でも、小鳥が可愛かった。

 スズメとヒバリが見分けられるように教えてもらった。

 一人で簡単なスープを作れるようになった。

空は青くて、春の息吹は柔らかくて。

 世界はティリーのことなど関係なく美しい。


「大丈夫よ、大丈夫」


 優しい声に包まれて、ゆっくりと彼女を抱きしめる女と体温が混じっていく。

 その暖かさがティリーの体の奥の氷を溶かし始めた。人の腕の中でなければ語られない言葉がある。涙にならなければ昇華できない想いがある。

 これまで悪夢の中で誰からも抱きしめて貰えなかった分だけ、少女は思う存分泣き続けた。




10  旅立ち



 舞い上がる土埃が春の霞のようだ。


 ヴァレン達をかくまっていた集落は大きなものではなく、住民もせいぜい七百人ほど。しかしその全てがここを離れるとなると、大ごとだ。だがそれにしては、慌てふためく気配が微塵もない。実に手慣れた風に、全てが粛々と進んでいる。

 出立の準備の整った荷馬車の列が、日の出と共にすでに動き出していた。

 先頭を行くのは渡河用の橋や足場の強化になる頑丈な厚板を積んだ四頭立ての馬車が数台。大工の親方ヨーゼフと鍛冶屋のタデウスの合作の板は、釘を使うことなくガッチリと組み合い、一番重量のある馬車が通過してもびくともしない。先頭の馬車から降ろして素早く組まれたそれを、最後尾の空の馬車が回収するのだ。翌日には馬車の位置を交換して、悪路ごときでは中断されることなく旅は続く。集落を出てすぐの、悲哀を催すほどボロい橋は、余所者よけの偽装に過ぎなかった。

 それから、長期の移動に必要な物資を詰んで深い轍を残す荷車の列。

荷台を覆う布も親方の意を汲んで女たちが総出でかかった労作で、防水防火処理だけでなく、万が一野盗に襲われても数時間の守りに足りる強度がある。そして最も弱点となる車輪も即座に交換できる工夫が施されているのだ。

「戦車を作ってくれと頼んだ覚えはないんじゃがのお」

 試作品を見せられた時のアウグストの第一声だった。以前から使っている馬車も、十分にその目的を果たしているではないか。輸送と言う本来の機能を。

 しかし集落の最重要課題は人的損害を抑えることだと承知している長は、荷台の床に隠し武器庫と、非常時には敵に姿を晒す事なく逃走出来る上蓋も作るように指示して、親方の狂喜とさらなる尊敬を勝ち取ることになった。

 それから、異色なのが、屋根板が大きく四角にくり抜かれた馬車だ。

 この空間を目指して、嘴が鮮やかに黄色いカラスが確信に満ちた羽ばたきで舞い降りて来るや、床の止まり木を占領した。壁に沿って、これも出入り自由の巣箱が設えてあり、すでに何羽かの仲間が馬車の振動に合わせて呑気に首を振りつつ惰眠を貪っている。アウグストの集落と外部をつなぐ重要な生命線の彼らは、人間同様の快適で行き届いた暮らしが出来るよう、少年ターイシュが精魂込めて世話をしていた。

「よく帰ったな」

 朗らかな声を掛けつつ優しくカラスの頭から胸、尾までを撫でて体に異常がないことを確認してから、足に結び付けられている革の円筒をはずす。去年の大逆の夜以来、都からの便りが途切れる事がない。ターイシュの柔らかな指に大人しく和毛を搔かせて、気持ち良さげに羽を広げるカラスが差し出す餌を素直に呑み込んでいる間に、円筒の中の紙片にざっと目を通す少年は、集落の誰より、アウグストよりも早く情報を知ることが出来るのが誇らしく、面白くてたまらない。

 小さくびっしりと書かれた文字はローデヴェイク国で普通に使われているものではないが、ターイシュには全く問題ない。だてにアウグストのパシリの地位を独占してはいないのだ。都の状況を既存の情報に上書きしつつ、生意気に、ちょいと天を向いた鼻を鳴らした。

 ターイシュの家族が全員乗った馬車はかなり後方にいるが、エネルギーが枯渇する事のない小さな弟と、やたらこましゃくれてきた妹の世話を押し付けられるより、遣い鴉たちのそばの方が…

「いだだだだだ」

 ちょっと掻いてやる手を止めたら、機嫌を損ねたカラスに攻撃されてしまった。この個体のお気に入りの場所は額から頭頂へのラインなのに、通信文を読むのに夢中になって、違う場所に指が滑ったようだ。

「はいはい、申し訳ありません」

 キュクロス・アスティラトから情報を送ってくる王宮近衛隊のナサニエルは、いかにも大雑把な性格のような外見のくせに、実はものすごく細かく几帳面なのだ。アウグストの妻のエレンは従兄弟のことを「重箱いっぱいの豆をあてがっておけば一日中幸せそうに並べている男」と称していた。おかげで彼からの報告は取りこぼしがない分、芸術的な細かい文字での長文になるわけだが。アウグストは、重要な情報の要約を、もっぱらターイシュに任せきりにしていた。

 ちゃんと不注意を謝ったのに、長旅でお疲れのカラスは、少年の鹿革の肩当てと手甲をしている隙間を的確に狙ってくる。それを見て、巣箱の仲間達がもっともっととけしかけるように鳴いた。ワガママで容赦のないあざとい連中だが、そのかわり、ターイシュが村の悪ガキどもに苛められるような時は加勢する、律儀でかわいいところもある。どうやら姿形が変な兄弟だとでも思っているらしい。

「はいはい、お痒いところはございませんか」

 賑やかなカラスと、どこにいても誰かのパシりなターイシュのカラス専用馬車に続くのが、集落の個々の家族たちだ。同じような馬車が大半だが、酪農を営む家族たちの中にはテントを積んだ荷車を真ん中に、ゆったりした歩みの牛や羊を追っているのもある。子供達が飽きることなく窓から顔を出したり、余りにのろのろ隊列が進んだりすると度胸試しに飛び降りたりなど。おふざけが過ぎて親たちに怒鳴られているのも、集落一つがいきなり移動を始めた状況でなければ、微笑ましいと言える光景だった。

 そうして長く伸びた移動の列は、弩を背負って二騎で組んだ騎手達に影に日向に守られている。彼らは大きく円を描いて走り、護衛と斥候の任に就いていた。集落の上層部のおかげで、この隊列の実態はさながら半戦闘集団と呼べるものだったのだ。


 ヴァレンの吊し上げに徹した集会をお開きにしたアウグストが出発の号令を発したのが昨日の晩。

 翌日の午後にかかる頃には、すでに半分の住人が旅立っていた。

 遠ざかる長い列を丘の上から見送っていたアウグストが最後尾に位置する予定の二台の箱馬車まで戻ってきた。一台は当然彼とエレンのもの。そしてもう一台にはヴァレンと娘たちが乗る予定だ。出発の間際になって、ヴァレンが馬車を御せないことが判明し、住人の一人を御者として提供する際に娘たちの崇拝者が殺到してかなりの騒動になってしまった。ジェニだけではない、改めて露呈したティリーの人気の高さには、本人が一番驚いていたようだが。ともあれ、これが集落の移動に際しての、最もゴタゴタした部分だった。アウグスト達のあとには数台の空の馬車と小型二輪馬車だけだ。これらは渡河板の回収と、護衛の騎手たちへの武器の補充と交代に当たる。


 土埃もあらかた収まって、柔らかで芳しい風がアウグストの髪を漉く。

 大陸深く、穏やかに栄えるローデヴェイク国の大地を舞う優しい風だ。彼が生まれ育った北の海では、こんな春の息吹を感じることはなかった。

(いや、そうでもなかったか)

 絶え間なく、伝説の海獣の雄叫びのように荒れ狂い続ける海が、濃いミルク色の霧に覆われて波一つない時がある。

 そういう時、アウグストの民は神の元に向かった死者を弔うのだ。

 北の海に彼らが見出すのは、人を守る神ではない。海を司るが、目に見えず、名前も特には無く、救いにもならない。

 民にとっては、ただ、葬送のための神だ。

 彼らは小石を祀る。海で死んだ友を、大地で伏した家族を。そして戦いに逝った仲間たちがまた蘇るまで、彼らが再会の約束の証として残した石を祀るのだ。

 アウグストは、懐に仕舞った革袋の中の小さな石を探った。二枚貝が時を越えて姿を変えた薄青紫色の石だ。これまでずっと彼と共にあり、やがて共に葬られるだろう。

 その小さなひんやりとした感触を指先で転がしながら、ひっそりと静かになった集落を見回す。エレンが、そっと彼の手を握った。

「良い場所だったわね」

 どうしてか、すぐに頷くことが出来ない。

「失くすわけじゃないわ」

 明るく強い光を妻の目の中に見出して、アウグストの胸にも温かなものが広がる。こうやって、何度もエレンは彼を救ってくれた。北の海の深淵から響く絶望の声から彼を呼び戻してくれたのは、この大らかな草原の女だった。

「そうだな。もう、流浪の民じゃないからな」

 抱えていけないものは置いていく。そしていつでも帰って来れる。ずいぶん長く掛かったが、少しずつ仲間を見つけ、そういう仕組みを作り出した。

 少しは誇りに思っても良いだろう。よし、素直に自慢しよう。あまりの変化に呆然と立ち尽くしている娘達二人に声をかけることにする。

「なかなかのものじゃろう」

 後ろには、ニコニコと朗らかなエレンが続いた。その腕に重たい鍋が抱えられている。早く馬車に積めば良いのに、長年愛用の鍋は体と一体化しているらしい。

「わたしたちのせい」

 内に抱える様々な思いがジェニの黒瑪瑙の眼差しを揺るがしている。妹娘ティリーの体の震えは、すぐさま見て取れるほどに痛々しい。

「私達がすぐにここを出て行かなかったから」

「それは違う」

 アウグストは分厚い胸を張って言い切った。

「ワシらには、お前さん達のために動かなければならない義理なんぞ、まるで無いでな」

「まあ!! また、あなたったら、そんな!!」

 バシンと夫の背中に鍋を全力でぶつけたエレンに、自分がいかに周囲を震撼させたかの自覚は全く無い。

『痛みに狂ったアウグストが暴れ出したら、どうするんだ!?』 

 赤裸々な恐怖で、屈強な男たちがワラワラと蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。彼らには、集落に残って次の住人たちとの繋ぎをする重大な任務があるのだ。ここで狂戦士と戦って無駄に命を散らすわけに行かない。

 あわれ、可憐な娘たちだけが、その場に残される。

「お前さん達は、きっかけだっただけだ」

 自分自身にも吹っ切るように断言したアウグストは、それでも愛しむように集落の空気を吸い込んだ。ここでの三年の生活は、本当に穏やかで夢の中にいるみたいだった。

「ワシらはこうして、いつでも動いておっての」

「これだけ同じ場所に居続けたのは、珍しいのよ」

 三年よ。根っこが生えちゃったかと思ったわ、とエレンが鍋のぶつかる音と一緒に朗らかに笑った。もとより草原の出身の彼女は、かつてのテント一つで移ろう生活がいまだ骨の髄まで染み付いている。良く研いだナイフと火打石があれば、二週間は楽々と一人で森でも暮らせる彼女は、実は集落屈指のサバイバルの達人だ。たよりない葦のように寄り添って立っている娘達を見る目は暖かかった。

 妻の背に回していた片手を、アウグストは少女らの肩に置く。大きく重く、そして優しく、まるで祝福を与えるように。

「まずは一歩踏み出してみることだ」

 妻を見やって、片目をつぶる。

 そうすると、彼ははるかに年より若々しく見えた。集落の長の責など負わない悪戯っ子のように。軽々と帆を操って水平線の彼方まで心のままに船を奔らせていた昔のように。

「それで駄目なら潔く逃げればいい。そしてまた違うやり方でやり直す」

 大気を心地よく震わせる笑いを響かせる。

「何度でもやり直せばいい、生きていさえすればな」

 そして、耳慣れぬ言葉で歌のような一節を呟いた。エレンが娘二人のために訳してくれる。


《嵐を恐れず、希望を忘れず、

舵を握る星が導く先には

必ず新しい空が広がる》


「北の海の民の言葉だが、悪くはあるまい?」

 そうやって、無骨ながら、もうとっくに彼らを受け入れているのだと、はっきり示した彼はそこを立ち去った。早々に脱輪したうっかり者の荷車を持ち上げに行ったらしい。素手で。

 エレンは、彼女とアウグストの馬車の荷台に、それは細心の注意を払って鍋を括り付け始めた。もう一台の馬車に乗って来る娘たちのために山ほどのクッションを積み上げようとしているヴァレンを足で邪険に追い払ったりなどしながら。

 アウグストが戻ってきたら、いよいよ彼らも出発だ。先行する小型の馬車から覗く顔も、どれも彼らに笑いかけるものばかり。


嵐を恐れず

希望を忘れず


 聖堂を追われた娘と、王の座から落とされた娘は、そっと手を握り合った。

 新しい名を得て、新しい未来に向かうのだ。

 まだ導く星が見つからなくても、まだ向かう先は見えなくても良いのだと、彼らを迎えた人々が言ってくれるなら。

 いまは、ただ、一歩を踏み出すことが出来れば。

 新しい空に向かって。



 はるか空の高みを、鮮やかな黄色の嘴の烏が舞った。








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月華の末裔 ゆうき 純 @junosion

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