冬至の乙女の日
尾八原ジュージ
冬至の乙女の日
今年もまた、すべての窓をふさぐ日がやってきた。
昼前から降りだした雪がだんだん大きくなって、空を見上げた僕の鼻先にひとひら着地した。吐き出した白い息が空気に溶けていった。
三年前にデンマークに引っ越してきて、僕は初めて本物の冬というものを知った気がする。それほどこの国の冬は、日本とは段違いに寒かった。こっちに来て初めての冬、僕は風邪ばかりひいて、母さんや新しい父さんたちを心配させたものだ。
「トール! そっちはどう?」
ハキハキとした声が聞こえてきたと思ったら、五つ上の姉のカミラが家の影から顔を出した。細長い板を何枚も抱え、雪を踏んでこちらにやってくる。ニット帽の端からはみ出している金色の髪も、明るい色の眼も僕とはちっとも似ていないけれど、この人は僕の本当の姉さんだと思う。
「あとここだけだよ」
「よーし、ちゃっちゃとやっちゃおう」
カミラは足元に板をガラガラと置くと、力こぶを作るポーズをしてみせた。
僕たちはさっそく仕事にかかった。カミラが閉めた鎧戸の上に板を押し付け、僕がそれを釘で留めていく。今日は町中の人たちがこの作業に精を出しているはずだ。
三年前、母さんがデンマーク人の父さんと再婚して、僕たちはこの郊外の静かな町にやってきた。
赤の他人と一緒に暮らす――しかも外国に移り住むことに、戸惑いがまったくなかったと言ったらウソになる。でも僕にはそれより、今まで暮らしていた場所から逃げ出せることが嬉しかった。あの小学校に通い続けることは、僕にとって終わりのない拷問を受けているようなものだった。
ラッキーなことに、こっちの公立学校に編入してからというもの、僕の生活はガラリと変わった。
もちろん大変なことはたくさんあった。最初はデンマーク語なんてまるでわからなかったし、日本の風景や食べ物が恋しいときだってある。
だけど今の僕は、以前の僕では考えられないくらい楽しくやっている。僕自身の努力というより、ガールスカウトやグリークラブの活動で顔の広いカミラが、色々根回しをしてくれたことが大きかった。
ひどい寒がりだった僕も、もうすっかりこっちの冬になじんで、風邪もめったにひかなくなった。「徹」ではなく「トール」と呼ばれても違和感がないし、こうして窓をふさぐ手伝いだってできるようになった。
「いつもどおり積もってきたわね」
二枚目の板を当てながらカミラが言った。「さっさと終わらせて、家に入ってあったかいものでも飲もう」
「そうだね」
確かに今日はとびきり寒い。
毎年この日は雪がたくさん降るのだと、町一番のお年寄りのベントさんが言っていたことを僕は思い出した。彼が生まれてからこの方、例外はただの一度もないそうだ。ベントじいさんは確か、今年で九十三歳だっけ……? などとカナヅチを振るいながら考えていたら、教会の方向からアンネが足早にやってくるのが見えた。アンネはカミラと同い年で、仲良しの友達同士だ。
「カミラ」とアンネは息を弾ませながら言った。「おばさん、いる?」
「いるけど、たぶん家の中で甘酒作ってる」
「あまざけ? よくわかんないけど、忙しいかなぁ。とにかく日本語のわかる人が必要なんだけど」
「あのー、僕じゃダメかな?」
僕が口を挟むと、アンネはちょっと首を傾げ、「ああそっか、トールも日本語わかるんだった」とすっとんきょうな声をあげた。
「失礼だなぁ。十年も使ってたんだから、そんなにすぐ忘れないよ」
「あはは。そうじゃなくて、トールって昔からこの町の子だったような気がしちゃうの」
アンネは笑いながら僕の背中を叩いた。
「じゃあトール、行っといでよ。私がここやっておくから」
カミラは僕からカナヅチを取り上げ、表通りの方を指さした。
「わかった」
「早く帰ってきてよ」
僕はちらりと腕時計を見た。午後二時三十分。
冬、デンマークの日没は早い。完全に日が沈むまではあと三十分以上あるはずだけど、それでも時間には慎重になった方がいい。
「わかってるって。じゃあ、窓よろしく」
僕はカミラに手を振ると、アンネに連れられて教会へと向かった。
古い建物が並ぶ大通りを、僕とアンネはできる限りの速さで教会へと向かった。
雪が降りしきる町並みは、なんだか粉砂糖をかぶったチョコレート菓子のように見えた。初めて見たときは、まるでおとぎの国の世界みたいだと思ったものだ。
町の中心に建つ教会は、町全体と同じくらい古い建物だ。分厚い木のドアの前で、牧師さんと知らない男の人が何か話をしていた。どうやら日本人らしい。母さん以外の日本人を、この町で見るのはひさしぶりだ。
「ああ、トールが来てくれた」
牧師さんが僕たちに向かって手を振った。
「困ってたんだ。こちら日本から来たそうなんだけど、私の英語がまずくてなかなか言葉が通じなくてね。通訳をしてほしいんだが……」
まだ若い牧師さんは、困った顔で頭をかいた。
「おそらくなんだけど、日が暮れた後の町の写真を撮りたいみたいなんだよ」とため息をつく。「今日に限ってね。困ったもんだ」
「それは……困りますね」
「彼には日没前に町から出るか、教会に泊るかどちらかにしてほしいんだよ」
「わかりました」
僕はうなずくと、首から大きなカメラを提げた日本人男性の方に向き直った。彼も僕の顔を見てほっとしたようだった。
「いやぁよかった。俺、牧師さんの英語が全然聞き取れなくて……」と、やけに人なつっこい調子で話しかけてくる。
「君、日本人だよね? 言葉わかるよね?」
「わかります。あの、今日はこの町の特別な日で……」
僕は話しながら、だんだん不安になっていた。この人は僕の言うことを信じてくれるだろうか? 三年前の僕と母さんだって、この日のことは経験するまで半信半疑だったというのに。
今日――「冬至の乙女の日」のことは。
「特別って、お祭りでもあるの?」
「そうじゃなくて、今日は日没後は、絶対に外にいてはいけない日なんです」
僕が「絶対」に力を込めながら言うと、男性は両眉を上げて「ん?」という顔をした。なんだか無駄に芝居がかった仕草だった。
「そういう伝統があるのかな? でも、こっちも仕事でね……」
「お仕事かもしれないけど、とにかくそういう日なんです。今日はバスの時刻表も特別で、そろそろ最終が来ちゃうんです。だから……」
「ああ、それなら大丈夫。車を借りてあるから」
「いやあの、車はダメなんです」僕は慌てて言った。「窓から覗かれるから」
「ん? どういうこと?」
男性は小さい子供をあやすような声を出した。まぁ、僕なんて大人から見れば、実際小さい子供なのかもしれないが……それに、ひさしぶりに知らない人と日本語で話しているから、余計な緊張をしてしまう。もっとわかりやすく、核心から話さなければ。
「あの、今日は『冬至の乙女の日』といって」
「今日は冬至じゃないけどね」
さっそく茶々を入れられて僕はイラッとしたが、我慢して続けることにした。「日にちは結構ズレるんですけど、それは大事なことじゃないんです。今日は日が暮れると向こうの山から『冬至の乙女』がやってきて、眷属を探して回る日なんです。見つかった人は眷属にされてしまうので、みんな家の中に隠れて一晩過ごすんです」
「は?」
男性は半笑いでそう言ってから、辺りを見回した。「ああ、それでみんな窓をふさいでるわけだ! この辺りの雪対策かなと思ってたよ」
「あのぅ、とにかくそういうわけなんで……」
「そういう迷信があるんだね」
「いや、迷信とかじゃなくて」
「そう言われてもねぇ。俺、写真を撮るのが仕事なんだけど……」
彼はそう言って、首から下げた大きなカメラをちょっと持ち上げてみせた。
「こういう北欧の古い町並みに、雪が積もっているところを撮りたいんだ。それもなるべくなら夕暮れとか夜とか、暗い絵がほしい。何しろ日本からの旅費がかかってるし、またこんないいタイミングで雪が降るとは限らないからさ」
「でも、今日は外にいたらいけないんです」
「だから中に入れって言われても、建物はみんな窓をふさいでるんだろ? それじゃ写真が撮れないよ」
「だったら……」
「町の外に出ろってこと? ここは絶好の場所なんだけどなぁ。素晴らしい風景じゃないか。まるで絵本の中みたいだ」
そう言って男性は、いかにも困り果てたような顔をした。まるで「自分は全然悪くない」とでも言いたげだ。
僕はイライラし始めていた。自分に都合の悪いことを、「迷信だ」と片付けたい気持ちはわからなくもない。わからなくもないが、それにしたって「郷に入っては郷に従え」という言葉をこの人は知らないのだろうか? 近くを急ぎ足で通り過ぎる人たちがこちらをチラチラ見ていく様子を、何とも思わないのだろうか。
おそらく相手も、僕や牧師さんたちの態度にいらだっていたのだろう。僕にこう問いかけたときの声は、まるでケンカ腰と言ってもいいくらいのものだった。
「そもそも、『冬至の乙女』って何者なんだ? 神様とか、精霊みたいなもの?」
そんなの聞いたことないけどね、とわざとらしくつけ加える。ムッとしたが、ここで本当にケンカをしているヒマはなかった。
「何ていうか、冬至の乙女は冬至の乙女です。そういうものなんです」
「それじゃ答えになってないと思うけどなぁ」
撮影に関係のない話なのにしつこい人だ。僕はだんだん弱くなる空の明るさが気になってきた。急がないと、僕が教会に泊るはめになってしまう。牧師さんは平気な顔をしているけれど、このとびきり古くて天井の高い建物の中はとにかく寒いのだ。
「今日は一日教会で過ごして、明日町の写真を撮ったらどうかな? それなら夜間も外で撮影してもらってかまわないから」
牧師さんが助け舟を出してくれた。そのまま通訳したが、男性は「明日の朝には雪は止むだろうってニュースで言ってたよ? 俺は降ってるところが撮りたいんだけどなぁ」と取り付く島もない。
「もー! ほっといたらいいんじゃない? そんな奴」
とうとう、僕らを見ていたアンネが鋭い声を出した。彼女はかわいいけど短気で、しかも怒ると学校の先生より恐い。さっきからこれ見よがしに自分の腕時計を眺めたり、空を見上げたりしながら右足を踏み鳴らしたりしていたけど、ついに我慢の限界みたいだ。
「乙女の眷属になって、永遠に天国にも地獄にも行けずに彷徨ってればいいのよ」
「アンネってば言い過ぎだよ」
僕は慌てて遮ろうとしたが、彼女は男性の方を向き、すんなりした指を彼に向けて言った。
「あんた、ほんとに死ぬからね。三年前の、コペンハーゲンから来たフィールドワークの大学生四人。この町で死んでるんだから。ほんとよ。あたしとママが見つけたんだもの。みんな口をおっきく開けて、泣きそうな顔して……」
「やめてよアンネ」
彼女の早口のデンマーク語は、きっと日本人男性には聞き取れなかっただろう。だけど言葉の意味がわからなくても、「今自分のことを悪く言われているな」ということは、だいたい雰囲気でわかるものだ。彼もようやく、僕たち住民に迷惑に思われていることに気づいたらしい。それともとっくに気づいてはいたけど、今まで無視していたのだろうか。
「仕方ない。そこまで言うなら俺は引き上げるよ。町の入り口に車を停めてあるから、すぐに乗ってここを出る。それでいいよな?」
男性はニヤニヤしながらそう言った。
とりあえず通訳の役目は果たせたらしい……と僕はほっとした。さっさと家に帰りたかった。
「まもなく日没ですから、急いでくださいよ」
牧師さんがそう言い、僕が通訳した。男性は「わかったわかった」と言いながら手をヒラヒラと振り、通りの向こうへ歩いていった。
「なにあいつ。せっかく親切に注意してあげたのに、やな態度」
小さくなっていく後ろ姿を見ながら、アンネが唇を尖らせた。僕はふと(あの人、本当に町を出ていくかなぁ)と不安になったが、自分が心配しても仕方ない、と思うことにした。何しろ時間がない。
「まぁ、帰るって言ってるんだから大丈夫さ。トールのおかげだよ。ありがとう。アンネもね」
牧師さんは僕たちにお礼を言うと、僕の頭にくっついた雪をはらってくれた。
僕とアンネは急いでお互いの家に帰った。腕時計を見るともう三時を過ぎている。庭に駆け込むと玄関のドアが開いて、カミラが「よかった! 入って!」と僕に手招きをした。ふさぎかけだった窓にはもう、鎧戸の上からしっかりと板が打ち付けられていた。
「おかあさーん! トール帰ってきた!」
リビングでは父さんと母さんが僕の帰りを待っていた。
「そろそろ迎えに行こうかと思ってたよ。入れ違いにならなくてよかった」
父さんが僕の肩を叩いた。
僕たちは暖かいリビングで、母さんの作った甘酒を飲んだ。冷えた体が一気に温まって、セーターの首元がポカポカしてくる。
しばらくして、父さんが小さな音量でテレビを点けた。ちょうど天気予報を放送している。
「もうニュースが始まってるのか。太陽もとっくに沈んだろうな」
父さんがひとり言のように呟いた。
「雪、どうなってるかな」
窓は鎧戸を閉めた上に板を打ち付けてあるから、外を覗くことはできない。カミラが「きっといっぱい降ってるわよ」と言った。
「この日はいつもそうなんだから」
「そっか。そうだね」
僕はまたベントじいさんのことを思い出す。いや、ベントじいさんが生まれるずっと前、もう何百年も昔から、「冬至の乙女の日」になると、この町は雪で覆われると決まっている。
その雪と冷たい風に乗って、山から氷の体を持つ乙女がやってくるのだ。町中のすべての窓を覗き、すべての戸を叩くために……。
リビングの電話が鳴った。母さんが出て、すぐに切った。
「今、ヤンセンさんの家の前だって」
「それじゃ、近いな」
父さんの表情が急に固くなった。
やがて僕たちのカップが空になった頃、「それ」はやってきた。ざく、ざく、と雪を踏みしめるいくつもの足音と、大勢の人が話すようなざわざわという声が表から聞こえ始め、だんだん家の方に近づいてきた。
リビングの端っこの窓から、ガタンと音がした。
「来た」
カミラが早口で呟くと椅子から立ち上がり、ソファに座る僕の隣にやってきた。
ガタン、ガタンという音は、家中の壁をなで回してすき間を探るように、鎧戸を鳴らしながらだんだん玄関の方に移動していった。虫の這うようなざわざわという声と、大勢の足音がそれに続く。やがて、玄関でコンコンとノックの音がした。のぞき窓もふさいであるから、今玄関の向こうに何がいるのか知ることはできない。
だけど、確かにいる。
見てはいけない何かが。
「あと二回くらい回ってくるかな」
父さんが小声で言った。
やがて諦めたように外の物音は移動していった。ざわめきがだんだん遠ざかっていく。そのとき僕の耳を、どこかなつかしい響きがとらえた。
僕は思わず立ち上がると、窓辺に駆け寄った。「トール!」と、カミラが押し殺した叫び声を上げた。
もちろん窓を開けたりはしない。僕は耳を澄ました。カーテンと窓ガラスと鎧戸、そして打ち付けた板の向こうから、地の底から響くような「寒い」という男の声がした。
日本語だ。
「寒い、寒い、寒い、寒い、寒い、寒い」
その声は、やがて表のざわめきと一緒に消えていった。
きっと明日、この町のどこかで、首からカメラを提げた日本人男性が、凍死体で見つかるだろう。大きな口を開け、今にも子供みたいに泣き出しそうな顔をして……。
僕は黙ってソファに座り込んだ。こうなる前にもっと、僕に他にできることがあったんじゃないか。そう考え始めると、頭の中がキンと冷たくなるような感じがした。
「どうしたの? 顔が真っ青だよ」
カミラがそう言って、僕の肩を抱いた。
僕はしばらく、姉さんの目を見ることができなかった。
<了>
冬至の乙女の日 尾八原ジュージ @zi-yon
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