ある日の夜明け前

夏木 うめこ

ある日の夜明け前

 夜明け前の張りつめた空気が、肌をさする。藍色の空は、まだ夜の闇を色濃く残していた。

「このまま、きっと消えちゃう気がするから、ずっと友達でいてね」

 泣き笑いの声で、震えながら言ってみれば、電話の向こうで小さく鼻をすする音がした。

「君は消えないよ。朝が来る、君は消えずに生まれるんだ」

「ずっと夜のままでいいわ」

「どうして?」

 朝が来たら、否応なく日常に戻されてしまう。

 朝が来るまでの時間は、私の自由だった。泣くことを許され、怒ることも許される。自らの感情を信じることができる、夢のような時間だ。私はいつも、その夜の中で呼吸をしていた。そこでしか息ができなかった。

「夢が、幻になっちゃう。朝が来たら私、どこにも行けないの」

 日常はいつも、薄い膜を隔てたような色のない世界だった。味のない、色もない、そんな世界で生きなければならない。だったら夜に沈んで溶けてしまいたかった。

「……じゃあ、逃げようよ」

「え?」

 電話の向こうの彼女は、やけにさっぱりした声で言った。

「逃げればいいんだよ。夜明け前に抜け出して、西に向かって走るの。そしたら、あたしたちは、ずっと夜に生きられるよ」

 窓の外を見つめる。そろそろ、東の空から蜜色の光があふれる。その前に抜け出したら私は消えずに生きられるだろうか。

「出ておいでよ。一緒に逃げちゃお」

「……うんっ」

 電話を切る。私はお気に入りの服を引っ張り出して身にまとい、サンダルをつっかけて何も持たずに飛び出した。

 藍色の空に、薄明が混じる。その空をにらみつけて私は走った。恐ろしくきれいな空に、腹が立った。


どうか、まだ明けないで。

刹那的なこの夜明けが、永遠になればいいと思った。


 夜が明けて待っているのは、悲しいことだけじゃないか。だったら、ずっと夜でいい。朝なんて来なくていい。

 視界のぼんやりとした仄暗い闇の中で白いスカートが揺れた。

「サラ!!」

 駆け寄ると、サラは笑った。

「西に向かって逃げよう。あたしたちなら、逃げ切れるよ」

 悪戯っぽく笑うと、サラは私の手を取って走り出す。サラの短い髪が揺れるのを見ながら、私は泣きたくなった。

 街中を抜け、細い路地に入り、砂利道の先の橋を超えて、丘を駆け上がる。

 夜明け前の風が、通り過ぎていった。どこからか、ヒグラシの声がする。夜明けの哀歌だった。

 薄明が広がって、空は薄青い闇に包まれた。

「夜が、明けるね」

サラは答えなかった。まっすぐ、前を見つめている。蜜色の光が静かに街を照らしていく。

その色の変化、空気の変化、光りの加減、すべてを記憶したくて、私は空を凝視して夜明けを待っていた。

ずっと、小さなころから一緒にいたサラは、夜だけ現れる、私のヒーローだった。14歳になる今日まで、私はサラに守られていた。

そのサラの体が、少しずつ透けていく。私はいつかサラの言っていた「お別れの時」が着ていることを悟った。

「サラ、また会える?」

「会えるよ」

「いつ会えるの?」

「すぐ会える」

刹那的なこの夜明けが、永遠になればいいと思った。サラの横顔をずっと見つめていたかった。彼女にずっとそばにいてほしかった。

「わたし、サラみたいになりたい」

「……君は、君のなりたい君になるんだ」

 サラは笑った。真っ白いスカートが日に照らされて、少しずつ透けていく。

「ねぇ、サラ。私、変わりたいの。自由に、自由に、生きていきたいの」

「……うん」

 涙が、つたって落ちていく。

「でも、怖いの……」

「だいじょうぶだよ。もう、変わり始めている」

 朝日の眩しさに目を細める。それがサラとのお別れの合図だった。サラは真っ白い眩しさの中で笑った。

「あたしとの思い出は、君が歩くためにある。嘆くためにあるわけじゃないんだ。だから、いきるんだ、いきるんだよ、沙羅」

 夜は明けた。

 私は1人で、朝日に照らされて溶かされた。水たまりの中の自分はぼろぼろで。私は思わず目を背けた。


 蜜色の光に、屋根が照らされてきらめいていた。やわらかな光に包まれた町は、泣きたくなるほど綺麗で。今までで見た景色の中で、一番きれいだった。




 真っ白いスカートが、闇の中で揺れる。

 しん、とした夜の匂いの中に、微かだが朝の匂いがする。私はその匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ゆったりと歩きながら、あの丘を登っていた。

 一人ベンチに腰かけて、夜明けを待つ。

 昨夜は雨が降っていたから、ところどころに小さな水たまりがある。

 光りが少しずつ漏れていく。空が深い藍色から淡い黄色へと変化していく。ゆっくりと色づく世界を見つめながら、私はため息をついた。

 夜明けを見ると、いつも思う。この美しい瞬間が永遠になればいいと。

 でも、綺麗なものは刹那的なものでいい。今は、そう思う。

 洗いたての朝が来る。鮮やかな色彩が溢れる。

 夜の闇の中でひっそりと呼吸していた私は、もう、夜明けがさほど怖くない。

 少しの不安と期待がまじりあうこの瞬間が、むしろ好きだった。

「今日も頑張りますか」

 面倒くさそうにつぶやいて、立ち上がる。

 ふと、小さな水たまりの中でこちらを見つめる自分と目が合った。真っ白いスカートに、短く切りそろえた、さっぱりした髪。

 私は微笑んだ。

「案外、早く会えたね、サラ」

 私は今日で、21歳の誕生日を迎える。

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ある日の夜明け前 夏木 うめこ @mikan_natsuki

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