少女あくたがわ

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少女あくたがわ


「起立」


 椅子が床に擦れる音を聞いて、蔵中紫音くらなかしおんは夢から覚めた。


「礼」


 どうやら授業が終わったらしい。

 まだ眠たい頭でそれだけを理解し、薄く開いたまぶたを再び閉じる。次は何の授業だったか。移動教室ならこのままサボってしまおうと、眠気に意識を預ける。


「蔵中さん」


 聞き知った声だ。

 たっぷりと時間をかけ、嫌々顔を上げた。現代文担当の佐伯藍斗さえきあおとは、いつもの幸薄そうな顔でこちらを見ている。


「放課後、職員室までちょっと。課題についてお話があります」


 と告げて、そう歩くようプログラムされたロボットのような足取りで教室を去って行った。その背中を尻目に、紫音は顔を伏せた。




 ◆




「あれ。佐伯先生、まだ残ってたんですか」


 ガラガラと職員室の扉を開いて、二年A組担任の柏田は不思議そうに言った。

 その声を背中に受け、佐伯は読みかけの本から視線を上げて時計を見る。

 時刻は午後九時を回っていた。普段の佐伯は、遅くとも午後七時には帰る。「もうこんな時間か」と零して、栞に手を伸ばす。


「蔵中さんを待っていたのですが……」


 栞を挟み、本を閉じる。


「今日は来そうにありませんね」

「蔵中って、うちのクラスの蔵中ですか?」


 息をこぼす佐伯。柏田は冷笑を添えて聞き返した。


「授業で課題を出しまして。短編小説の執筆なんですが、彼女だけ未提出なんです。筆が進まないのなら、相談に乗ろうかと……」

「あいつに時間割いてもしょうがないでしょ。他の先生からの評判もよくないですよ。妙な連中と遊んでるって話も聞きますし」


 佐伯の言葉にかぶせるように、柏田は早口でまくし立てた。

 シンと、職員室が静まり返る。

 そうですね、確かにその通りです。なんて返しを期待していた。柏田は黙り込む男にどう声をかけたものかと、乾いた笑みのまま固まる。


「僕は、教師ですから」


 か細く呟いて立ち上がった。

 無駄に長い手足。迫力はなくとも説得力のある体躯に、柏田は緊張を覚える。


「〝しょうがない〟を、時間を割かない理由にはできません」


 俯き気味に放たれた言葉に、柏田はバツの悪い表情を作った。

 彼の声から、嫌味を言ってやろうという意思は感じられない。故にここで腹を立てるのも難しく、しかし同意するのも癪である。


「そ、そうですか……」


 結局、曖昧な返した。

 佐伯はどう言葉を続けるわけでもなく、「お先に失礼します」と横を通り過ぎて行った。


 柏田は未だ残って仕事を続ける教頭に視線を移した。

 会話に一切入って来なかった彼は、ようやくその時が来たと言わんばかりに顔を上げ、柏田の顔を見るなり苦笑いを浮かべた。


「変なやつですよね」


 その言葉に、教頭はまたしても苦笑で返した。




 ◆




「お前それマジかよ」


 雑居ビルの地下一階に看板を出すその店には、昼間に背を向けた連中が集まった。


「マジだって。いいカモだわあのオッサン」


 ヘラヘラと心底楽しそうに笑う彼らを横目に、紫音は煙草を燻らせる。

 きっと仕事の話だろう。何をしているのか詳しくは知らないが、彼らと一緒にいれば飲食に困ることはない。


 何より、ここは自分にとって安心できる場所だ。

 下手に詮索して、ここを失いたくはない。

 紫煙の行き先を目で追った。故障しているのか埃が詰まっているのか、上手く機能を果たしていない換気扇にすすられるようにして消える。


「なぁ、紫音」


 声の方向に視線を向けると、くすんだ金髪の男が立っていた。

 そこから言葉は続かない。だが、その目が求めるものは知っている。


「ふふっ。仕方ないなぁ」


 精一杯妖し気に笑って見せて、煙草を灰皿に押し付ける。


「あ、次オレな!」


 仕事の話をしていた男の一人が、元気よく手を上げた。金髪の男は、「お前は一人でやってろ」と毒づく。

 紫音はあとの二人に小さく手を振って、金髪の男と共にトイレへ向かった。

 クラスに自分みたいな子はいない。いないから、自分はきっとすごいのだと。そう考えれば、足取りは不思議と軽くなる。


 洋式便器に腰を下ろして、彼がベルトを緩めるのを見つめる。用を足すわけでもないのにカチャカチャと急ぐその様が、紫音は少し間抜けに思えて好きだった。

 何より、気持ちいいことは好きだ。嫌なことを考えなくて済むから。


 自分は大丈夫なのだと、納得することができるから。




 ◆




 朝日が酔った頭に響く。

 電柱に手をついて、紫音はオロロロと胃の中身を吐き出した。何を飲んだのかイマイチ覚えていないが、自分の腹からピンク色の液体が出てくるのは不快だ。


「じゃあなー」


 スタスタと離れてゆく男たち。

 紫音は「あ、うん」と返事をするや否や、地面をイチゴオレ色に染める。


「……ちょっとは心配してよ。あんたらが飲ませたんだから」


 胃液の混じった酒の残りカスを吐き出して、恨みを含むように助けを求めるようにこぼす。当然、男たちには届かない。

 髪に少しだけ吐しゃ物がかかってしまった。ポケットティッシュで拭き取るが、まだ臭い。

 ひとまず自動販売機で水を買い、三分の一ほど胃に流し込む。ぼーっとした頭で、とりあえず家に帰ろうと目的を設定する。


「今日は平日だっけ……」


 ふらふらと歩きながら、学校があることを思い出す。

 別に登校したところで何をするわけでもないのだが、中学生までは一応真っ当に通っていたものだから、行かないというのは気が引ける。


 しかし、今日は頭が痛い。眠気も酷い。

 心の天秤が揺れ動く。

 ようやく家に着くが、どうするかはまだ考えていなかった。

 とりあえずシャワーを浴びてから決めよう。学校に行くにしろベッドに飛び込むにしろ、ゲロ臭い髪のままでは御免だ。


「あ」


 思わず声を漏らす。

 玄関のドアノブに触れかけて、そっと手を引いた。タイミングよく中から出てきたスーツ姿の父親と目が合う。

 まだ半分眠っていたその眼は、自分を見るなり厳しくなった。それが悔しいのか、悲しいのか、自分でもよくわからないが、


「どいてよ。邪魔だから」


 反射的に、醜い声を吐き出した。

 瞬間、父親は紫音の頬をはたいた。いつだったか男に貰った髪留めが飛ぶ。


「学校はどうするんだ」


 はたいた手をさすりながら、父親は静かに問う。


「辞めるのか」


 赤く腫れた頬から、一瞬だが痛みが引いた。

 辞める。退学する、学校を。その選択を、今まで考えなかったわけではない。

 まともに学生をしなくなって、どれだけ経っただろう。成績はボロボロで目も当てられない。わかっている、そんなことは自分が一番理解している。


「……っ」


 紫音は唇を噛む。

 道を踏み外す。完全に。きっともう戻れない。そこに不安を感じないわけがない。

 だからこそ、父親にそれを言われることが腹立たしかった。望まれているように聞こえた。嫌に冷静な声音に虫唾が走った。


「辞めるって、言わせたいんでしょ」


 持っていたカバンを投げつける。

 すぐさま踵を返して、手ぶらで来た道を引き返した。

 財布もスマホもカバンの中にしまっていたことを思い出したのは、それからしばらく経ってからのことだ。




 ◆




 小さい頃、その臭いがどうしてもダメで、父親に禁煙するよう手紙に書いたことがある。お母さんかお父さんにお手紙を出しましょうと、小学校の授業で宿題を出されたからだ。

 文字なら普段言えないことも伝えられるだろうと先生は言っていたが、それは感謝の気持ち的な意味で、禁煙を求めたのは自分だけだろう。


 そんなことを、ふと思い出す。歩道の端に座り込み。夜へと移り変わる街を見ながら、煙を吐いて。

 付き合いで身体を悪くするなんてバカバカしい。そんなことはわかっている。だけど、こうすることで安心する自分がいる。ここが自分の居場所だと、当たり前のように歩き煙草をする通行人を見て胸を撫で下ろす。


 これからどうしよう。

 カバンを取りに戻る勇気なんてない。きっと父親にはまたぶたれるし、母親はヒステリックに喚き散らすだろう。自分の教育方針について、夫婦喧嘩に発展するかもしれない。そういう煩いのは嫌いだ。


「おっ。紫音じゃん」


 見ると、金髪の男といつもの二人がいた。

 紫音は立ち上がり、うんっと身体を伸ばした。彼らとなら、この現実もいくらぼやける。


「帰ってねえの。服そのまんまだけど」

「あー、家追い出されちゃってさ。財布も無いし、どうしようかなって」


 言いながら笑ってしまった。改めて口にすると、本当にどうしようもない。


「そっか。じゃあちょうどいいや」


 金髪の男は、紫音の肩に手を置く。

 ちょうどいい。引っかかる言い方に、紫音は眉を寄せた。


「俺ら、やばい先輩に借金作っちゃってさ。ちょっと返すの手伝ってくれよ」

「……は?」


 一歩、二歩と後退る。

 しかし、彼はすぐさま紫音の手首を取った。皮膚に食い込む指が、やけに冷たく感じる。


「だから、金作ってくれって言ってんだよ。仕事も紹介してくれるみたいだし、お前ならすぐだって。そういうの得意だろ?」


 男の視線が、自分の身体を上から下へ舐めてゆくのを感じた。

 それは、知らない目だった。バカ話をしている時も、セックスを求める時も、そんな目はしない。


「む、無理だって! 放してよ!」

「俺らと一緒にいて楽しかったんだろ!? だったら助けてくれよ! マジでやばいんだってこのままだと!!」


 どうして自分がこんな目に、とは思わない。

 種は自分で蒔いてきた。芽が出るのは時間の問題だった。

 でも、受け入れられない。次に彼らと夜を明かせば、二度と朝が来ないような気がする。それは、とても、怖い。


「いだっ」


 鈍い音と共に、金髪の男が尻もちをついた。

 誰かが紙袋で殴った。この状況で、そんな親切を焼くような人物に、紫音は心当たりがない。自由になった手首をさすりながら、紙袋の持ち主へ視線を流す。


 佐伯だった。




  ◆




 佐伯に手を引かれてひたすらに走り、知らない公園に行き着いた。


 たいした運動量でもないのに、佐伯は立ち止まるなり膝を着いて吐き、落ち着こうと深呼吸をしかけてまた吐いた。まだ二十代半ほどで、体格も細い以外は悪くないのだが、運動とは無縁の人生を送ってきたことがわかる。


「……私のこと探してたの?」


 紫音はベンチに腰を下ろし、開口一番にそう尋ねた。

 水飲み場で砂漠帰りように水を飲む佐伯は、紫音をチラリと横目で見て蛇口を閉める。

「あの街には、行きつけの古本屋があるんです。今日はその帰りでした」


 口を手の甲で拭って言った。紫音は自分の隣に置かれた紙袋を一瞥し、その中に分厚い本が何冊かあるのを確認する。


「まさか、ひとを殴ることになるとは……」


 苦い面持ちで俯く佐伯に、申し訳ないことをしたなと紫音は思った。

 通報されたらどうしようとか、これで職を失ったらとか、そういう不安を巡らせているのだろう。紫音は「安心しなよ」と足を組み替える。


「あいつら、ひとに言えないこと結構やってるし、警察とかに頼れないと思うよ」


 言うと、佐伯は顔を上げ、ジッとこちらを見据えた。

 そして、紫音のすぐ前まで歩を進め、


「そんな人たちと、付き合ってはいけません!」


 予想外の返しに、紫音は薄く口を開け固まった。

 別に怒らせるつもりなんてなかった。あぁよかったと、笑って欲しかった。


「あ、えっと……」


 困惑する。

 欲しい反応ではなかったし、お説教も嫌いだけど、悪い気はしない。


「ご、ごめんなさい」


 その言葉は、自然と溢れて出た。

 最後に誰かに謝ったのはいつだったか。もう随分と遠いような気がする。


「……こんなはずじゃ、なかったんだ」


 自嘲気味に言って俯く。あの街に取り残した男たちを思い出して。


「フツーじゃダサいと思った。周りよりもすごいって言われたくて、私自身がそう納得したくって……」


 将棋界に旋風を巻き起こす中学生とか、スケートで世界ランクに食い込む高校生とか。ニュースを流せば、嫌でも目に入ってくる。


 身近なところにも、クラスをまとめる委員長がいて、部活を率いる部長がいて、全生徒の代表を張る生徒会長がいる。陸上で全国大会に出る生徒がいれば、全国模試でいい成績を出す生徒だっている。そんな彼ら彼女らに、自分は到底及ばない。


「でも、どうすればいいかなんてわかんないし。寄って来る男と遊んでるのが一番手軽でさ。気持ちいいし、嫌なこと考えなくていいし」


 勉強ができればよかった。運動ができれば違っていた。

 何もかも中途半端で、得意なことなんて一つもない。あの男たちと一緒に、転がり落ちてゆくことすら許容できない。


「ねえ佐伯、私のこと抱いてよ」


 彼を見る。

 冗談ではない。自暴自棄のつもりもない。ただ、このままでは情けない自分に耐えられなくなる。勝手に消えてくれない現実なら、せめてハリボテで覆い隠してしまいたい。


 今までのように。これからのように。


「できません」

「私が生徒だから? 学校なら辞めるよ」


 自分でそう口にして、その重さに汗が滲む。

 不格好な笑みで、佐伯を誘った。佐伯は恥ずかしそうに「そ、その、何というか」と漏らして、


「経験が、ないもので……」


 と、頬を掻きながら続けた。

 紫音は目を見張る。笑う場面なのだろう。きっと、いつもなら手を叩いて腹を抱えていた。


「そんなこと、言わないでよっ」


 ぽたり。ぽたり。涙が地面に落ちて消える。

 今欲しいのは、気遣いでも純情でもない。

 求められたい。自分がここにいてもいいことを、確かめるために。


「私、それしか知らないんだから!」


 顔をぐしゃぐしゃにして、嗚咽混じりに叫ぶ。

 求めれば、同じように求められて、あとは向こうが勝手にやってくれる。自分はただ、それを享受していればいい。それだけでよかった。それだけしか知らない。


 佐伯は紫音の隣に腰を下ろす。そのまま肩を抱くわけでもなく、腰に手を回すわけでもなく、横目で一瞥した彼は何やら神妙な面持ちを浮かべている。


「……僕はあなたくらいの頃、難しい本を読むのが好きでした」


 涙も鼻水も出尽くした頃、佐伯はタイミングを見計らったように呟いた。


「内容なんてどうでもよかったんです。分厚い本を開いていたら、賢そうに見られるじゃないですか。そうすることで、自尊心と折り合いをつけていました」

「……私に読書しろって言いたいの?」

「読書は強要するものではありません。ですが、課題の提出は強要できます」


 紫音の問いに、佐伯はすぐさま返した。

 相変わらず、幸の薄そうな灰色の表情だ。必死なのか無関心なのかもわからない。でも、その目からは、温かいものを感じる。


「小説を書いてください」


 公園のすぐそばを、随分と楽しそうにエンジンをふかす車が通って行った。


「僕は異性の肌の温度も、夜の街の喧騒も、煙草の味も知りません」


 煙草、という単語にドキッとする。

 自分の膨らんだポケットに、佐伯の視線を感じた。無意識に手を添えて隠すが、別段咎めるような雰囲気はない。


「あなたの書いたものに、僕はきっと感動します。……それは、セックスの代わりにはなりませんか?」


 佐伯は手を組み、難しそうに眉を寄せて言った。

 少し驚いた。考えて、考え抜いて、出した答えがそれかと思った。もちろん、悪い意味で。

 プッと、紫音は吹き出す。自分の涙が、急にバカバカしいものに感じた。


「褒めてあげるから書けってこと?」

「まあ、そういうことになります」

「何それ。子供じゃないんだからさ」


 そんなものを書いたって、何も変わらないかもしれない。文才なんてない。下手くそを晒して褒めて貰うなんてバカみたいだ。

 だけど、今更どう転んだところで、バカで間抜けな愚か者という評価は避けられない。それなら、彼の口車に乗っても同じこと。紫音は小さく息をついて、やわらかく口角を上げる。


「……わかった。そうする」


 それは、今よりもずっとマシだ。




  ◆




 家へ帰ると、思っていたよりもあっさり中に入れて貰えた。

 怒鳴り声の一つや二つは覚悟していたが、母親は心配するばかりで、父親は呆れて物も言えない様子だった。


 ひとまず熱いシャワーを浴びて、冷めた夕食をチンして腹を満たす。

 正直眠い。早朝に家へ帰りそびれ、路上やベンチでうたた寝をしたが足りない。だけど、今日はまだすることがある。


「課題の参考にするから小説を何冊か貸して…く、ください」


 父親の部屋をノックして、そうお願いした。


 すると父親は、まず目を見開いて、次に考え込むように視線を伏せ、数秒後に「あ、ああっ」と黄色い声をあげた。それから一言二言、これまでのことと朝のことを話して、小説を三冊受け取り自室へ急ぐ。父親のあんな顔は初めて見た。


「さて、と」


 物置きと化していた勉強机を片付け、ホコリのかぶった椅子に腰を下ろした。最後に座ったのは、高校受験の前日だ。久々の感触にお尻が落ち着かない。


 佐伯に貰った原稿用紙を前に、ひとまずシャーペンを取った。


 何も進まないまま、シャーペンをくるくると回して十数分。このままでは日が昇る。

 参考に借りた小説を開く。まともに読書をするのは久しぶりだ。

 まったく趣味な内容ではないが、それでもある程度読みやすいのは、そういうものを選び取ってくれたからだろう。


「……」


 書こう。凝ったものじゃなくていい。不格好でかまわない。

 自分のことを書くのだ。主人公は女子高生の方がいいだろう。

 これまでに経験したことを、物語調に。

 何だか仰々しい言い方だ。実際は酒をあおって煙草をふかして、完全に見放されるほどでもない反抗期を迎えていただけ。きっと佐伯も、よくあるタイプの不良生徒だと思っていたことだろう。つまらないくせに面倒な女だと辟易しているに違いない。


 だったら。


 ペンを走らせる。凡庸なら、あの男たちに聞いた話も組み込めばいい。下手くそな文章なのだから、情報くらいは詰めておかないと。

 思っていたより漢字を忘れている。小学校で習うものですら。

 字だって随分と汚い。中学生の頃、少しだけ書道教室に通っていた。あのまま続けていれば、こんなミミズがのたくったような字にならなかっただろう。


 大きく息を漏らす。


 書き進むほどに不安が募る。褒めて貰う以上、相応のものに仕上げたいという気持ちが湧く。下手を許容できなくなってゆく。

 理屈ではわかっている。それがどうしようもないことだと。

 一流のスポーツ選手に一般人が太刀打ちできないように、参考に借りた小説のレベルにいきなり到達できたなら、世の中から小説家なんて職業は消滅するだろう。


 わかっている。わかっているけれども。


 紫音は想像する。よくできた、頑張ったと言う佐伯を。それはとても嬉しいことだが、屈辱のような気がしてならない。

 書いて。消して。書いて書いて。消して書いて。消して。

 消しゴムを使う手に力が入り過ぎて、原稿用紙が一枚ダメになった。今からじゃどこの文房具屋も開いていない。大切に使わないと。


 ふと思った。佐伯は別に、明日提出しろとは言っていない。課題なのだから早いに越したことはないが、彼はそこまでのことを求めていないし、期待もしていない。

 一段落したら横になろう。

 ここを書いたら。この先を書いたら。満足したら、ペンを置く。


 久しぶりにシャーペンの芯を補充した。一本使い切ることが、こうも簡単だとは。

 高校受験を思い出す。芯に『合格』と彫ると受かる、なんておまじないが流行った。藁にも縋る思いでバカみたいに芯を無駄にしたなと、紫音は一人笑う。今日までのことも、いつかバカ話の一つに列挙されるのだろう。


「……何か、やだな」


 独り言ちて、唇を噛む。

 平凡な反抗期。大袈裟に魅せたいだけの自傷行為。

 それでも、あの恐怖は本物だった。焦燥も鬱屈も、月並みなものだとしても、未来の自分に笑われるのは腹が立つ。


 だけど、たぶんそれは避けられない。おまじないにすら手を出した受験時の不安を笑ってしまうほど、時計の針は多くを曖昧にしてしまう。

 今書いているこれを遠い先で読み返して、恥ずかしいと思う日がやって来る。なにこれと苦笑して、あんな頃もあったよなと大人面で軽く流す。


 そうならないように、と。


 紫音は一縷の望みをインクに線を書く。あとから見て笑えないものにしたい。目を背けるようなものに。

 眠気が外界の情報を遮断する。ここは今、どこよりも静かだ。

 あと少しだけと、点を打ち。

 もう少しだけと、丸を書く。


 うんっ、と身体を伸ばして、窓の外へ目をやった。夜空に朝が混じったような、見慣れた色がそこにはあった。

 ひとまず、書き終えた。勢いだけで完成させた。

 我ながらよく出来たと思う。初めてにしてはよくやった。自分はやれば出来る子なのだと鼻息を漏らす。


「ふぅー」


 ひと通り自己満足に浸って、体重と疲労を椅子の背に預ける。

 チラリと机の上に視線を配った。頑張ったとか健闘したとか、そういう精神的なところはさて置き、酷い出来であることは素人目にもわかる。


 これだけ頑張ったのに、と奥歯を噛み締めて、これまで頑張ってこなかったからだと、すぐさま真実に行き着いた。

 まぶたを閉じて、睡魔に身を捧ぐ。ボンヤリとした頭の中を、書き連ねた稚拙な文章がぐるぐると回る。そうして出来た渦を、紫音は後悔と名付けた。




  ◆




 その日、紫音が登校したのは放課後だった。


 椅子に座ってしばらく寝て、ベッドに移って熟睡して。途中母親に声をかけられたらしいが記憶になく、結局起きたのは昼下がりのこと。

 学校に行くべきかどうか。この時間帯なら悩む余地などないのだが、机の上の原稿用紙をそのままにしておけるほど、紫音は我慢強い人間ではなかった。


 下校の流れに逆らって校門をくぐり、職員室の扉を叩いた。生徒からは奇異の目を向けられ、教師からは刺々しい視線を感じる。特に職員室内は敵陣のど真ん中のように感じたが、佐伯は昨晩同様の顔色でそこに座っていた。


「よく一晩で、これだけ書き上げましたね」


 原稿の束を受け取るなり、佐伯はそう言った。その声音は、とても好意的なものだ。

 紫音は背筋にむず痒いものを感じた。予想していた台詞だが、実際に聞くとこみ上げてくるものがある。


「で、でも、酷い出来でしょ? 字の間違いもあるかもだし、てか絶対あるし!」

「プロでも誤字脱字はあるので、そこはしょうがないですよ」


 恥ずかしそうに自己弁護の言葉を羅列する紫音に、佐伯は原稿に目を向けたまま淡々と返した。

 酷い出来を否定されなかったことにすぐさま気づいた紫音は、更に言葉を並べようと口を開く。しかし、真剣に上から下へと目を走らせる佐伯を前に、吐き出しかけた台詞を飲み込んだ。


「なるほど」


 そう呟いて、佐伯は紙を捲る手を止めた。

 完成に数時間、読了に五分弱。その呆気なさに、紫音は小さく「はやっ」と漏らし、


「ど、どう……?」


 不安げに眉を寄せてそう続けた。

 結果はわかっている。彼は褒めると言ったのだ。ここまでさせてこき下ろすような男ではないだろう。

 それでも、安心はできない。彼ではなく、自分を信用できていないから。

 息を呑む。じわっと手汗がにじみ、嫌に喉が渇く。


「面白かったです」


 佐伯は顔をあげて言った。

 面白かった。今、そう口にした。

 これも予想していた台詞だ。定番中の定番の褒め言葉だろう。わかっていた、わかっていたのに。


「これは、蔵中さんにしか書けないものだと思います」


 と、微笑む。優し気に、ハッキリとした口調で。

 そういう顔もするのかと目を見張って、次いで彼の言葉を咀嚼する。


 それは、甘い響きだった。お世辞だろと冷静ぶる自分よりも、それを素直に享受しようとする自分が上回り、熱として体外へ溢れ出た。


「もう少し、ちゃんと読ませてください。詳細な感想は後日。希望があれば手直し等も――」


 一歩、二歩と紫音は後退る。彼の声が随分と遠いように感じる。


「蔵中さん?」


 佐伯は首を傾げる。


 彼が更に言葉を連ねるよりも先に、紫音は身を翻して職員室を飛び出した。その際、担任の柏田と鉢合わせして怒鳴られかけるが、なりふり構わず走り出す。

 昨日今日と続けて全力疾走をするとは思わなかった。ひと気のない教室の前で立ち止まり、扉を背にしゃがみ込む。


「はぁあー……」


 大きく息を漏らしながら、未だ朱色が収まらない顔を両手で隠した。褒められると嬉しいなんて単純な原理に、気恥ずかしさが付属していることを久々に思い出す。


 佐伯は言った。セックスの代わりにならないかと。あの頼りない顔で。

 それを思い出して、紫音は小さく頷く。二度、三度と首肯する。


 気持ちいいことは好き。嫌なことを考えなくて済むから。


 放課後のひと気のない廊下には、運動部の足音や誰かの談笑がこだまする。

 どんな音でも届けてしまいそうなモルタル仕立ての壁とフローリングの床だが、その一滴が零れ落ちた音を聞いた者は、きっといない。

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