エピローグ
音楽祭の放課後、麻依は全力で第二音楽室へ続く廊下を走っていた。無我夢中で、竹間先生のもとへ走っていた。
なんでもいいから、何か言ってほしかった。
ただ先生の言葉がほしかった。自分の気持ちが悲しいのか苦しいのか、嬉しいのか分からなかった。
でも第二音楽室のドアを開けると、蜜色の光が窓から差し込んで、埃が舞っているだけ。
「せん、せい……」
しんとした第二音楽室は、からっぽ。
一つの時間が終わったことを、麻依は感じていた。
そうっと、ピアノの鍵盤を叩く。ここで、何度も練習した。
できなくて先生に八つ当たりしたことも、あったっけ。
初めて吹けたとき、嬉しくて泣いたっけ。
「楽しかったなぁ……」
涙が零れていく。ピアノの上に落ちた涙が、夕焼けに反射して水晶みたいに光っている。
麻依はそのままピアノに伏して、泣き続けた。
ふと、目が覚めた。
月の光がきらきらとピアノを浮かび上がらせている。
麻依は泣きながら日が落ちるまで眠っていたのだ。
頭の芯がしびれて痛み、重かった。目は泣きはらしたまま寝たせいか、腫れてあまり開かない。
頭がぼんやりとしたまま、ゆっくりと起き上がると、
「起きたか」
後ろで声がした。はっとして振り返ると、竹間先生が立っていた。
「せんせい……」
麻依はぼやけた視界の中に竹間先生の姿を確認した。
ぼうっとしている麻依の隣に座り、竹間先生は麻依と目線を合わせ、言った。
「今まで、よく頑張ったな。……感動した」
「っ……」
麻依はうなずいて、それからぷつんと糸が切れたように、大声で泣き始めた。竹間先生は何も言わなかったが、麻依が泣き止むまで黙って背に手を置き、隣に座っていてくれた。
色んな気持ちがあった。
麻依はそれを伝えようと、しゃくりあげながら必死に言った。
「あり、がとう。……できるように、なって、よかった。頑張って、よかっ、た。……先生に会えて、よかった!」
竹間先生は「そうかい」と微笑んで、ゆっくり麻依の背をさすり始めた。
背に置かれた手がじんわりと、あたたかい。せんせいのやさしさが伝わってきた。
しゃくりあげる感覚が遠くなったころ、竹間先生はゆっくりと立ち上がり、ピアノの前に立った。
「な……に、するの?」
麻依が真っ赤になった目で竹間先生に聞くと、ちらっと笑って、
「演奏会だよ。おれがピアノを弾くから、きみは歌ってくれ。麻依の歌は、いいからね」
竹間先生はそう言って麻依を自分の隣に座らせると、ピアノを弾き始めた。部屋は薄暗かったが、運のいいことに満月だった。青白い光がピアノの鍵盤を浮かび上がらせてくれる。その上で踊るように動く先生の指は、長くて綺麗だった。
パフ、魔法の龍が暮らしてた……
つっと悲しみが広がり、麻依は続きを歌うことができなかった。唇を噛みしめ押し黙る麻依に代わり、先生が口を開く。
リトルジャッキーペーパー、友達で
いつでも仲良くふざけてた
麻依は涙にぬれた目で竹間先生を見つめた。先生はあえてそれに気づかないふりをしてくれた。麻依はしゃくりあげながらも、先生の声に合わせて歌う。
歌いながら、麻依は何度も先生の横顔を見つめた。ありがとうって言いたかった。でも、ありがとうより、ごめんなさいって言ってしまいそうだ。ありがとうとごめんねって、似てる。
そう言ったら、きっとせんせいは、「ありがとう」って言いなさい、そう怒るだろうな。
そのとき、先生が、少し顔を動かして微笑んだ。
歌おうよ、とも、そのままでもいいよ、ともとれる微笑みはやさしかった。
麻依も泣き笑いで返す。
歳を取らない、龍とは違い
ジャッキーはいつしか、遊びに来ない
寂しいパフは涙を流す
緑のうろこ、鳴らして泣いた……
麻依は心の中で、そっと語りかけた。
大丈夫だよ、パフ。わたしはあなたのこと、忘れないからね。
その言葉通り、麻依はこの夜の演奏会をずっと忘れなかった。麻依だけの、ひみつの宝物だった。
やさしくて無口なパフは、泣きながら歌う麻依に寄り添うように、いつまでもいつまでも、ピアノを弾き続けた。
パフ 夏木 うめこ @mikan_natsuki
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