第6話 魔法

「麻依、大丈夫? 緊張してない?」

 次の日の朝、いつもより丁寧に髪の毛を梳かしている麻依にお母さんが声をかけてきた。麻依はニコッと笑って、

「大丈夫。せんせいが見てるもん」

手でVサインをつくると、お母さんは麻依の頭を撫でた。

「よく頑張ったね」

「えへへ」

 麻依はにやにやと笑うと、元気よくランドセルをしょって、もちろんリコーダーも忘れずに入れて、靴を履いた。

「忘れ物ない?」

「うん。いってきまーす」

 いつもの何倍も元気よく、いってきますが言える。軽やかにマンションの階段を下りながら、麻依は自分の中にある緊張と向き合っていた。

 お母さんの言った通り、緊張していた。でもそれは、たとえばサッカー選手が胸に手を当てて国歌を歌うときとか、陸上選手が静かにスタートラインに立つとか、そういうときの緊張に似ている。

 叫んで逃げてしまいたい恐怖ではなく、自分の中にある何かを噛みしめるような、緊張。こんな心地の良い緊張は初めてだった。

 麻依は大きく深呼吸をした。厚い雲から日の光が不気味に光っている。雨は降らないだろう、傘はないけどたぶん平気。麻依は軽い足取りで学校へ向かった。



「喉からから……」

「え、水飲んできなよ!」

 麻依の言葉に、実結が背をたたいた。音楽祭は五、六時間目だから、麻依は昼休みに緊張を紛らわせるために実結たちとおしゃべりをしていた。本当は竹間先生のところに行きたかったけど、今会うと逆に緊張しそうだから、やめた。

「うん、行ってくるね……」

 麻依は小走りに水道へ向かった。

「あ、杉野くん」

「小松さんじゃん」

 麻依はにこっと笑って手をあげた。秀作は、照れくさそうに笑いながら、

「緊張しちゃって」

そう言って、水を飲み始めた。麻依も同じように水を飲み始める。

 冷たい水がお腹の中に流れていくのが気持ちいい。

「一緒に頑張ろうね」

顔をあげると、秀作は口をぬぐい、二ヤッと笑って見せた。

「うん!」

 麻依はVサインをして、秀作を見送った。

 誰もいない洗い場で、麻依はじっと鏡を見た。不安と興奮が入り混じっているのか、鏡の中の自分は、少し顔が強張っている。

「がんばれ、麻依」

 自分で自分に言い聞かせる。

 それから「だいじょうぶだよね?」と首をかしげて、ちらっと笑った。

 


「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」

 早口言葉のようにつぶやく麻依を見て、秀作はへらっと笑った。

「そんな緊張しなくてもいいでしょ」

「だって……杉野くんだって、さっきまで真っ赤な顔してたくせに」

 麻依がむっとした顔でにらみつけると、秀作はケロッとした顔で、

「今は平気だも~ん」

と言い返してきた。

 いま、三年生の出し物の最中だ。この次が、四年生の出番。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 できる、できる。

 緊張を紛らわす魔法の呪文は知らないけれど、こうして緊張を一緒に感じられる人がいるというのは、やっぱり安心する。

 拍手が鳴る。三年生が終わった。いよいよ出番だ。

「次は、四年生の出し物です」

 竹間先生はどこにいるんだろう。

 探そうと思ったが、やめた。

 せんせいがみている、それだけで、だいじょうぶ。

「……小松さん」

 司会の人が四年生の出し物を説明しているとき、隣で秀作がささやいた。

「ぼくは、小松さんに合わせるから。だから本番、小松さんは自由に吹いて」

 麻依はわずかに目を見開いてから、わざとむすっとした声で、

「……だいじょうぶ、ちゃんと杉野くんにも合わせるもん」

「そうじゃないんだ。副旋律として、主旋律に合わせるぜってこと」

 フクセンリツ? なんだそれ。

 麻依が首をかしげていると、秀作は笑って麻依の肩をたたいた。

 いよいよだ。

 みててね、せんせい。

 しんとした体育館。張り詰めた空気。

 最初、麻依はひとりで吹く。それに秀作が合わせるように「副旋律」を吹く。

 だいじょうぶ――。

 麻依はゆったり息を吸って、リコーダーにやさしく息を吹き込んだ。



 ――――…………。



 あれ……。

 音が出ない。

 息を吹き込んでも吹き込んでも、音が出ない。びりびりと手足が痛んだ。

 ヒューヒューと喉が鳴る。息がうまく吸えない。呼吸が苦しい。

 周りの景色が遠ざかり始めた。うすい膜を隔てたように、音も聞こえない。

 頭の中が真っ白になった、そのとき。ものすごい強風が、開け放たれた体育館のギャラリーの窓から吹き込んだ。

「うわぁ!」

「きゃあ!」

 枯れ葉やほこりが入ってきて、一瞬、体育館の時間が止まる。麻依は自分の体のしびれが消えていくのを感じた。

 そのとき、突然麻依のリコーダーから音がでた。ドの音だ。パフの最初の音。体の中に直接響くような、やわらかくてあたたくて、力強い音だった。

 麻依はそのまま吹き続けた。

 秀作の音が隣で聞こえる。音が交じり合い、離れてまた繋がって。

 音が体の中から出てくるみたいだった。緊張と興奮の中で今までの努力は、きらきらとした一筋の音の帯となって、体育館に流れていく。

 気持ちいい、気持ちいい!

 ちらりと秀作を見ると、秀作は嬉しそうに目を細めている。

 麻依はこの時初めて、自分の中にある大切なものを、見出したのだった。


 曲の終盤、麻依はやっと竹間先生の姿を見つけた。体育館の入り口のドアに寄りかかり、こちらを眺めている。

 その顔は、嬉しそうにゆがんでいた。



 竹間先生とは、この日を最後にもう会っていない。臨時の小学校の先生をやめ、中学に戻っていった。

 でも麻依は、大人になっても先生のことをずっと憶えていた。

 先生と過ごした、第二音楽室での時間は、麻依にとって何にも代えがたい、宝石になったから。

 魔法使いはいなかったけど、麻依は自分の魔法で、自分を変えたんだ。

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