第5話 たからもの

 音楽祭りまでの一週間は、ずっと後になっても、麻依は忘れることはなかった。あの春の始まりを告げる穏やかな光の中で感じたものは、麻依にとって宝物だった。


「今日ね、竹間先生がねえ……」

 毎日、麻依はお母さんに竹間先生の話をした。もちろん、そこには嘘はない。もう母に嘘をつくほど、麻依は学校で起こることが嫌ではなくなっていた。せんせいのおかげだった。

「今日は何を教わったの?」

 お母さんは手をぬぐいながら、麻依の隣に座った。微笑みながら話を聞いてくれることが、嬉しくて仕方ない。

「今日はね、クレシェンドとデクレシェンド!」

 首をかしげるお母さんに、麻依は丁寧に教えてあげた。

「音をだんだん大きくしたり、小さくしたりするんだよ。そうすることでね、鳥肌が立つんだよ!」

 麻依は竹間先生との会話を思い出しながら、嬉しそうにそう言って、今日のことを詳しく話し始めた。


「せんせい」

 クラスで上手に吹けた日の、翌日。麻依は竹間先生の伴奏なしでリコーダーを吹く練習をしていた。時々テンポからずれることもあったが、もう、ほとんど一人で吹けるようになっていた。

 ミの音で悩んでいたことが嘘のようだ。

「どうした?」

「わたし、せんせいみたいにリコーダーが吹けるようになれますか?」

 窓にゆったりと寄りかかっていた竹間先生は驚いたように目を見開いた。

「私みたいにか?」

「はい。せんせいみたいに吹きたい!」

 この前先生が吹いたとき、すごく素敵だった。音に色があって、音の波が大きくうねるようだった。それを伝えると、竹間先生は「ああ」と何かを思い出したように言った。

「この前教えるって言って教えていなかったな」

 竹間先生はピアノ椅子に座り、麻依と目線を合わせた。

「音楽には表現がある。ただ音符の羅列を吹いているだけじゃ機械でもできるが、表現を加えることによって何倍も音楽が生きたものになるんだ」

 音楽が生きる? どういうことだろう。でもあの時聞いた先生のリコーダーは、確かに生き物のように感じさせる何かがあった。

 麻依が首をかしげていると、竹間先生はピアノの鍵盤を軽やかに叩いた。

「これ、どんなイメージ?」

突然の質問だったが、麻依は正直に答えた。

「たのしい……なんかスキップみたい」

「これが、スタッカートだ」

 先生は微笑むと、今度は優しくピアノの鍵盤をたたく。

「これは?」

「なんか、長いね……さっきのやつより、音の長さが長い気がする」

 先生は頷いた。

「そう、これはテヌートというんだが、日本語で〈音の長さを十分に保って〉という意味があるんだ。

でも、長い短いで考えないほうがいいな。長さ以外で、何かイメージが沸くか?」

「うーん、やさしい、とか?」

 先生は、今度は正解! とでもいうようにうなずいた。

「それでいい。長いや短いといった長さで音楽記号を判断してしまうと、テンポ通りに吹くことが難しくなるんだ。テヌートでもスタッカートでも、四分音符に書いてあるなら、四分音符一個分の長さがあるから、そこを忘れちゃいけない。慣れるまでは短く吹かなきゃ、長く吹かなきゃ、とは考えないほうがいいな」

 そういうと、先生は自分のリコーダーをもってきて、パフとは違う曲を吹き始める。馴染みのあるメロディーに麻依は、

「翼をください?」

そう聞くと、竹間先生はリコーダーを口にくわえたまま頷く。

 先生の音が麻依の中に流れこんでくる。音が大きくなって小さくなって……打ち寄せてはひいていく波のようなメロディーが、感情を呼び覚まさせて――。

 あ、そっか!

「せんせいの音、音の大小がはっきりしてるんだ!」

 麻依が目をぱっと輝かせて自信たっぷりに言うと、先生は嬉しそうにうなずいた。

「そうだ、難しい言葉を使えば〈抑揚がある〉ってことだ。だんだん音を大きくすることをクレシェンド、小さくするのをデクレシェンドという。これで抑揚をつけるんだ。あとは……」

 再び先生が「翼をください」を吹く。

 でも、あれ、なんか……。

「なんか、ちょっとうるさいです。音が耳に痛いよ」

「そうだろう、これをアクセントという。舌を使ってトゥットゥと強くタンギングするとこんな音になるんだ。逆に……」

 今度は大きな曲線を描くような滑らかな吹き方だった。さっきの吹き方とは真逆だ。

「なんか、綺麗です!」

「これがスラーだ。フレーズの頭の音だけをタンギングして、あとは指を動かして音を変えるだけ。もし同じ音の連続だったら、柔らかくタンギングをする。そうすると、まとまりがあるように聴こえるし、滑らかだろう」

 麻依はまじまじと先生の顔を見つめた。いつもより若干早口で教える竹間先生の頬は赤く、目はきらきらと少年のように輝いている。いつものように淡々と教えているつもりなのだろうが、声に熱意があった。その気持ちは、麻依にまっすぐ届いた。

「せんせい、すごいです」

「え?」

 リコーダーを口から話し、きょとんとした顔で先生はこちらを見つめている。麻依はにこにこと笑いながら言った。

「わたし、せんせいみたいになりたい」

 自分でも驚くくらいにはっきりとした声だった。こんなに自分の気持ちを素直に誰かに伝えたことがあっただろうか。

 なんだか急に恥ずかしくなって、麻依は下を向いた。竹間先生の革靴をじっと見つめる。

「なれるさ」

 先生は笑った。

「ありがとうな、そう言ってくれて」

 麻依はばっと顔をあげて何度も瞬きをした。照れくさくて仕方ない。どきどきと心臓が鳴って、あったかい気持ちが満ちてくる。

 麻依は片足をぶらぶらと振りながら、ちらっと先生を見て、笑った。



「そんなことがあったのね」

「えへへ」

 麻依は嬉しそうににやにやと笑って、得意げにリコーダーを吹いた。あんまり勢い良く息を入れると「ピッ」という甲高い音が出るから、注意が必要だ。

 最初は小さく吹いて、だんだん大きく。パフは基本的スラ―で吹くようにしなきゃいけないから、最初の音はしっかり吹かなきゃいけない。

 あとはイメージ。場面を想像しながら吹けば、聴き手はきっと、引き込まれる。

 まだまだできないところはたくさんあるけれど、最初に比べれば、麻依はもう別人のように上手くなっていた。

 吹き終わると、お母さんは拍手をしながら、

「すごいなぁ。麻依、頑張ったね」

 えらい! と麻依の頭を撫でてくれた。麻依は照れくさくて、でも嬉しくて、

「普通だよ」

と言いながら、お母さんの手に自分の頭を擦り付けた。



 それから数日後、初めて音楽祭の学年練習があった。

 最初は、麻依と隣のクラスの秀作と二人だけで吹く。麻依が主旋律を吹いて、秀作はそれに合わせて、別のメロディーを吹いて、二人だけで一番を吹き終える。そこからは全員合奏だった。

 麻依は昨日、竹間先生に言われたことを思い出しながら吹いた。音の抑揚のことだ。音を大きくするときに、息のスピードを早くしないことが大切だ。

 よく、のびやかに歌おうとか言うけれど、まさにそんな感じ。麻依は歌うようにパフの一番を吹ききった。すると、吉岡先生が、

「小松さん、上手ですけど、もう少し杉野くんの音を聞いてね」

 その言葉に麻依はぱっと赤くなった。大事なことを忘れていた。相手の音を聞いて相手の音に寄り添うことも、大切なことの一つだったのに、すっかり忘れていた。

「ぼくも、小松さんの音を聞くから」

 赤くなる麻依に、秀作はそう言ってくれた。

「うん、ありがとう」

 麻依は頷いて、今度は秀作の音に添う様に、吹いた。

 音が混じり合って、麻依の中に流れ込んでくる。

そのとき、鱗に鈍い光沢のある龍がゆったりと空を舞う姿が目に浮かんだ。麻依はその姿をたどるように、吹いていく。滑らかに空を飛ぶ龍は、やがて元気よくぐんぐんと上昇し始めた。全体合奏が始まったのだ。

 麻依は自分の音をもちろん見失うことなく吹き続けた。

 もう麻依は、弱虫で泣き虫な麻依ではなかった。



「小松さん、パフってアメリカの曲だって知ってた?」

 学年練習が終わり、だらだらと教室へ帰る列が進むのに合わせていて歩いていると、秀作が眼鏡を押し上げながら聞いてきた。

 秀作は、何でもできる子だった。勉強もできるし、運動もできる。サッカー大会の時は大活躍だった。しかもピアノを習っていて、音楽の評価はいつも「よくできる」らしい。

 でも彼はそれをまったく奢らず、色んな人と仲良くできる子だった。麻依も一度同じクラスになって、勉強を見てもらったことがある。

「ううん、アメリカの曲なんて知らなかった」

 秀作は笑った。その顔が、少し竹間先生と似ている。

「ぼくも知らなかったんだ。歌詞も英語で難しいんだけどさ、いい歌だよね」

「わたしも好きだよ!」

 麻依はずいっと身を乗り出して秀作に言った。秀作は照れ臭そうに笑って、

「あ、うん……ぼくも、好きだよ」

そう返してくれた。なんで秀作が照れたのか、もちろん麻依は分かっていない。

「わたし、リコーダー苦手で、全然吹けなかったんだけどね、パフの歌は好きで歌ってたんだよ」

 体育館を出ながら、麻依は秀作を見てちょっと得意げにニッと笑った。すると秀作はぱっと顔を輝かせて、人差し指を立てた。

「……そうだ! ちょっと二人で歌ってみない? 合わせる練習になるし」

 麻依はその提案に、ふふっと嬉しそうに笑って、頷いた。

 二人で列から外れて体育館に戻る。誰もいない体育館は薄暗く、静かだった。

「ちゃんと歌ってね、杉野くんも」

 広い体育館に二人だけという状況で不安になった麻依は、早口に杉野くんにそう言った。

「もちろんだよ。じゃあ、歌おっか」

「うん」

 麻依は何度も最初の音をイメージした。ドの音だ。音階練習で、何度もやった。


「パフ、魔法の龍が暮らしてた」

 麻依がちらっと秀作を見ると、頷いて和音になるように歌ってくれた。

 歌っている間中、本当に楽しくて、二人して笑みがこぼれ落ちるのを押さえられなかった。音楽がこんなに楽しいと感じるのは初めてだった。

「すごい! なんか、吹くときよりドキドキした」

「ぼくもだよ。こんなにぴったり合うとは思わなかった!」

 麻依と秀作はお互い顔を見合わせて、しばらく笑いあった。

 そしてお互いの気持ちの熱が落ち着いて、心地よい火照りに代わったころ、ぽつりと秀作は言った。

「なんか、小松さん、明るくなったね」

 麻依は目を丸くした。それから、こくんと頷いて、

「自分に自信がついたから」

 そうつぶやいた。秀作は「そっかぁ」と伸びをしながらつぶやいて、「教室にもどろっか」と、柔らかく笑った。



「せんせ、せんせっ!」

 夕焼けが明るく竹間先生と麻依の頬を照らしている。麻依はこの放課後練習の後の時間、先生のピアノを聴きながら、おしゃべりをするのが好きだった。

「なんだ、何かあったのか」

 ちらっとこちらを見る先生に、麻依はにやにやと笑いながら、秀作との話を教えてあげた。

「一緒に歌ったのか。それはいいことだな。吹く前や後に歌うと、お互いの音を聴きあいやすい。それに、きみの場合は緊張したときは歌うと落ち着くんじゃないかな」

話を聞くなり先生はそう言って、「えらいじゃないか」と麻依を褒めてくれた。

「すごく上手に歌えたんだよ!」

 興奮しながら大声で言う麻依に、竹間先生は「へぇ」と眉をあげた。

「じゃあ、ここで歌ってもらおうかな。……麻依」

 麻依はびっくりして目を見開いた。

「なまえ、憶えていてくれたんですね」

 麻依の言葉に竹間先生は呆れながら、

「さすがにね。頑張る生徒の名前くらい、覚えている。ほら、弾くから歌って」

 麻依は頷いて、ちょっとはにかみながら歌い始めた。

 歌いながらふと、こんな風に先生と一緒に練習するのはもうあと数回しかない、というのに気づいた。さみしかった。もっと一緒に音楽がしたかった。麻依はそのさみしさを、そのままパフの歌にのせて歌った。

 その寂しい気持ちが、曲にぴったりと合ったのかもしれない、

「うまくなったなぁ……」

竹間先生は目を細めながら、嬉しそうに、でも少し寂しそうに、笑った。

 


 練習、最後の日。

 今日で竹間先生と一緒に練習するのは最後になる。麻依はさみしさを感づかれないように、普通にその日を過ごした。

明日のための学年でやった音楽祭の練習も、上手く行った。帰りの会の前に、体育館でこっそり歌の練習も、した。伴奏がなくても、麻依と秀作は上手に和音を作りながら、二人で歌うことができるようになっていた。……竹間先生にも、見てほしかったな。

第二音楽室へ続く廊下がオレンジ色に染まっている。ツルツルした廊下に、夕焼けが照りかえっているのだ。まぶしさに目を細めながら、麻依はどうしようもない切なさを感じていた。



 第二音楽室のドアが開いていることが嬉しくて、気持ちを切り替えるように少し笑って中に入ると、竹間先生がいた。

「こんにちは」

 竹間先生は微笑んで、

「ああ、こんにちは。よし、さっそく吹こう」

 この一週間、先生は今までよりよく笑った。笑うと、目じりにしわが寄って優しげな顔になる。普段からそうすれば怖がられずに済むはずなのに。

 麻依と竹間先生はいつも通り、練習をした。明日もきっと同じことをする、というように、何一つ特別なことをしなかった。

 あたりが夕闇に包まれたころ、竹間先生はピアノの鍵盤を軽くたたいた。軽やかな音がする。麻依が首をかしげると、竹間先生は言った。

「上手くなったな」

 もうお互いの顔がわからないほど、あたりは薄青い闇に覆われていたが、その顔がわずかに微笑みを湛えているのがわかる。

「せんせいが……」

「きみが頑張ったからだ」

 麻依は目を見開いた。穏やかな声で先生は続ける。

「ほんとうに、よく頑張った。自信を持ちなさい。きみの努力は何物にも代えられない宝物だよ」

 麻依が大きく息を吸ったのに気づいて、先生は苦笑した。

「泣くなよ」

 麻依はうなずきながら手を差し出した。何か喋れば声が震えて、涙声になってしまう。そんなの、嫌だった。

 竹間先生は、ふっと笑ってから、手を握ってくれた。力強い握手だった。手にはところどころタコやマメがあった。でも大きな手はあたたかい。

「せんせい、わたし、だいじょうぶだよ」

 竹間先生は麻依の手を強く握り、うなずく。

「もう、自分のこと、ダメなんて思わない」

 麻依はゆっくりと微笑んだ。

「明日、たのしみにしてる」

「……うんっ」

 麻依は唇をきゅっと噛みしめて、頷いた。

 先生は励ますように、麻依の手をポンと叩いていた。


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