第4話 せんせい

週明け、三月にしては珍しい雨が降った。

 冬の冷たい雨ではなく、春の訪れを告げる、生ぬるい雨だった。むうっと香る雨の匂いの中に、かすかに花の香りがする。

 麻依は放課後が近づくにつれ、落ち着かず時計を気にするようになった。

 原因はもちろん、竹間先生のことだ。

 あの日は金曜日で、土日を挟んでしまったため、謝ることができていない。今日第二音楽室に行くべきかどうかも、わからない。

 嘘つき、なんて言うつもりじゃなかったのに。

 自分の言葉で自分が傷つくなんてこと、今まで考えたことがなかった。でもあの気持ちは、お母さんに嘘をついたときと同じだった。

 痛いとか、苦しいとかじゃない。もちろんそれもあるけれど、どちらかというと、夕闇の中ひとり迷子になってすすり泣くような気持ちと似ている。

 麻依はため息をついた。

 今は算数の授業で、みんな黙々と計算ドリルをやっている。分数の割り算がなかなか手ごわい。ひっくり返すのをいつも忘れてしまう。

「もう一回やり直してきなさい」

 吉岡先生がため息交じりにそう言って麻依のノートを突き返した。

 いつもより集中できないからか、今日は特にミスが多い。バツだらけのノートが、水の中にあるように揺れていた。


 迷ったすえ、麻依は第二音楽室に行くことにした。天気の悪さもあり、廊下はいつもよりずっと薄暗かった。とぼとぼ歩きながら、もし先生が来なかったらという思いがずっと頭の中で廻っていた。

 雨空がかすかに明るい。これも、冬の雨空と違うところだ。もう、春が来る。春が来れば、麻依は五年生だ。

 渡り廊下を越えて、第二音楽室についた。

 鍵は、開いていなかった。

「……っ」

 麻依はぎゅうっと唇をかんで涙をこらえた。泣いちゃいけない。悪いのは自分だ。

 嘘つきって言ったから、怒っちゃったんだ。きっと。

 麻依はずるずるとその場に座り込んだ。のっそりとランドセルを下ろして、音楽の教科書を引っ張り出す。

「パフ……練習しなきゃ」

 諦めたくなかった。自分と向き合ってくれた先生の言葉を、本物にしたかった。そうするしか、今の麻依にできる恩返しはなかった。

 麻依はリコーダーを取り出し、指の練習を始めた。

 音楽は、想像すること。

 音楽は、思いとイメージと、少しの技術が大事なんだ。

 麻依はそっと目を閉じた。聞こえてくるのは、先生と吹いた時の自分の音。感じるのは、音の混じり合いの心地よさだった。

指は目を閉じているのにもかかわらず、ちゃんと動いている。麻依は微笑んだ。悲しい気持ちが少しずつ流れていく。

 歌を口ずさめば、麻依はもう自由だった。

 歌がやがて息に代わり、リコーダーの音色と雨音が混じり合った。そのほかに音は、なにもない。

誰にも邪魔されない、誰にも見られない。

麻依は心地よい音色の波に身をゆだねていた。


「吹けるじゃないか」

 麻依の目がぽかっと開かれる。

「竹間先生……」

「遅れて申し訳ない」

 麻依は先生が自分の前に立っているのが信じられなくて、口を半開きにしていた。

「うそぉ」

「うそじゃないよ」

「あー……」

「口、空いてるぞ」

 麻依は慌てて口を閉じた。

「よし、じゃあ練習をしようか」

 そういいながら麻依の横を通り過ぎ、鍵を差し込んでドアを開ける竹間先生は、いつもと変わらなかった。

「せんせい……」

「なんだ」

 麻依は顔をあげ、先生を見上げた。唇がわななく。のどが張り付いたようで、声が出ない。

 竹間先生は少し首をかしげて言った。

「……なにか話したそうな顔だな。寒いから中に入って話そう。廊下は冷えるから」

 麻依は頷いて先生のあとに続いた。

 第二音楽室の電気は切れていてつかないため、薄暗い。でも窓際だけ、ぼうっと明るかった。

 竹間先生は椅子を二つ持ってきて、麻依を座らせた。先生が自分の隣に椅子を置いたことに、麻依はほっと胸をなでおろした。……竹間先生は、本当にやさしい。

「今日の雨は、あたたかいな」

 ぼそっと竹間先生が言った。

「昨日まで、寒かったけど」

「三月だからな。音楽祭、もうすこしだな」

 麻依はわずかに目を見開いて、竹間先生を見つめた。

「知ってたんですか」

「そりゃ、職員室で話すから」

 麻依はうんうんと頷いた。もしかしたら、吉岡先生は自分のことを、悪く言うこともあったかもしれない。竹間先生はそれを聞いて、何と思ったんだろう……。

「せんせい、ごめんなさい」

 麻依は竹間先生のほうに体を向けて、目をしっかり見つめて謝った。

「金曜日、嘘つきとか言って、ごめんなさい」

 さーっと、雨の降る細かい音が聞こえる。麻依はその音を聞きながら、竹間先生の返事を待った。

 竹間先生はしばらく麻依を見つめていたが、その目線はやがて窓の外の雨に注がれた。

「どうして、音楽の授業の時吹けなかったか、わかるか?」

 麻依はうつむいた。小さな手をグーパーさせながら、あの時感じたことを言った。

「音が……、混ざっちゃって、どれが自分の音か、わかんなくなっちゃって」

 あのとき、みんなで吹いたとき、麻依は自分の音を見失った。だから必死にみんなから外されないように、吹いたんだ。

 竹間先生はぱっと人差し指を麻依のほうに向け、

「そこだよ。きみが吹けなかったのは、それが原因だ」

そう言いながら、じっと見つめてきた。眼鏡の奥の瞳が鋭く光っている。

「きみは自分の音を見失ったといったが、それが一番怖いことなんだ。ちゃんと耳を使って見失わないようにしなきゃいけない。どんな雑音があってもな」

 麻依は竹間先生の瞳をしっかりと見つめながら、彫像のように身動き一つしなかった。

 その言葉に、強い衝撃を受けたのだ。でも、麻依はかすれた声で、

「でも、そんなの、わたしにはできないよ……」

 先生の言っていることはわかる。でも、あんな音の渦の中で――あのクラスの雑音の中で、自分の音を見失わずになど、いられない。

「わたしは、自信がないんです。何をやってもダメなんです。だから、そんなの、わかんない……今日も吉岡先生に、特技とかあるのかと聞かれて、答えられなくて……」

 あの吉岡先生の言葉は、深く麻依の心をえぐった。答えられない自分が悔しくて、やっぱり、わたしには何もないんだって、思い知らされた気がするんだ。

 竹間先生はそんな麻依の言葉を聞いても何も言ってくれない。腕を組み、口をぎゅっと結び、ただこちらを見ている。

 麻依はこみ上げる涙をこらえながら、歯の隙間から声を押しだすように言った。

「わたしにはなにもないもん! なにも、持ってない……だから、友だちもできないし、だから――」

 だから、わたしは自分が見えない。

「くだらん」

 でも先生は、そんな麻依の気持ちを一蹴した。

「ほんとうに、くだらん」

 こみ上げてきた涙が、ひっこむ。

「何もできなくないだろ。仮にできないからなんだ? だから友だちができない? 冗談じゃない、見つけられていないだけだよ」

 麻依は早口で言う竹間先生を呆然と見つめていた。自分の中でずっと信じてきたなにかが、呆気なく崩れようとしている。

「確かに、できないことは誰にでもある。おれは、音楽はできるが字はへたくそだしな! でも、自分の自信になる、確かな何かが一つあるはずだ。それはみんな持っているんだ。きみはそれに、ちゃんと目を向けたか?」

 確かな何か。そんなもの、あるのかな。

「ダメだと決めつける前に、自分自身に目を向けたか? 自分だけのいいものを考えたか? 自分が何なのか分からないで頼りなくふらふらしている人間に、人は寄り付かない」

 竹間先生は、そこで言葉を切り、しばらく何も言わなかった。麻依も黙り込んだ。

 頼りなくふらふらしている人。麻依は自分のことを思い出した。

 教室の中で、自分はどうなんだろう。

 いつも何かに怯えてびくびくして、笑い声に敏感で……。確かに、その通りかもしれない。

 麻依がきまり悪さに耐えられず身じろぎをしたとき、竹間先生はおもむろに口を開いた。

「きみは、できないことを言い訳にして、人から距離を置いている気がするな」

「え?」

 はじかれたように麻依が顔をあげると、竹間先生は少し首をかしげながら麻依を見つめた。

「ダメだと決めつけて、他人と線を引いている気がする」

 麻依は息をのんだ。

「……いいものを、もっているのにな」

 先生の声は、雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声だった。でも、麻依の耳にはしっかりと届いた。

 いいものって、なに、せんせい。

 おしえてください――。

 でもそれを質問するのは、絶対しちゃいけない反則のように思えた。

「ちゃんとあるから」

 麻依は頷いた。ふわっと、お腹のあたりがあたたかくなった。

 自分の中にある、「自分嫌い」がほんの少し和らいだ。先生の言葉には、そんな力があったんだ。



 月曜から降り続いていた雨は、木曜日にやっと止んだ。今日は、クラスでの音楽祭の練習日だった。


 流されるな、見失うな。


 雨はもう止んだ。うららかな春の日差しが窓際から差し込んでいる。視界もはっきりしている。

 麻依は音楽室の一段高い場所に上った。吉岡先生からそうするように言われたのだ。ソロだから、本番はもっと緊張するんだから、クラスの前でできなきゃできないぞ、と。

 麻依はゆっくりとクラスのみんなの顔を眺めた。

 笑ってる。失敗をしないかと期待しているのだろうか。

 見失うな。わたしは、ちゃんと持っている。まだ何かわからないけど、かけがえのない自分の宝物を持ってるんだ。

 麻依は、せんせいのあの言葉を信じていた。

 目を閉じる。伴奏が聞こえる。でも、もう麻依の頭の中では竹間先生の伴奏にすり替わっていた。雑音は遠のき、麻依はそっとリコーダーに口をつけた。

 目を閉じても、息を吸って呼吸をすれば、笑っちゃうほど簡単に、指は動いて音色を奏でてくれる。

 麻依には自分の音が見えていた。もう見失わない、自分だけの音だった。

 吹いている間、自分の音以外のものなど気にならなかった。

 ソロが終わり、みんなと一緒に吹き始める。それでも麻依は失敗することなく、吹ききった。……信じられなかった。

 演奏が終わる。クラスのみんなは黙ったままだった。誰一人として笑わない。

 誰かが、拍手をした。

 実結だった。麻依はぱっと顔を輝かせた。それにつられるように、みんなが拍手をしだした。

 麻依はちょっと笑って、わざと、うやうやしく一礼した。



「せんせ、せんせぇ~っ。できたよ! わたし、吹けたの!」

 竹間先生は息せき切ってきた麻依に苦笑いしていたが、興奮しながら話す麻依の話を聞いて頬を緩めた。

「がんばったじゃん」

 珍しく褒められ、麻依が戸惑っていると、竹間先生は少し笑って、

「見つけられた?」

と、聞いた。麻依は小さく首を振った。

「そうか。まぁ、いずれ気づくさ」

 その優しい声を聞いたとき、麻依はぐっとこみあげてきた涙をこらえきれなかった。

 今まで、ずっと我慢してきたんだ。泣きたくて仕方がなかった。それは喜びからくるものだった。

「せんせい、ありがとう……」

 竹間先生の、おかげだよ。

 伝えたいことがたくさんあるのに、どれも上手く言えなくて、麻依はただ、ありがとうとしか言えなかった。

「じゃあ、音楽祭まで一週間とちょっと、頑張るぞ」

 麻依は泣きながら、こくんこくんと、何度もうなずいた。



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