第3話 泣き虫

「歌いながら指を動かしなさい。指は動かせるだろう? 押さえられなくてもいいから。音楽は想像することが大事なんだ」

 麻依は頷いた。

 次の日の放課後、麻依はさっそく第二音楽室へ向かった。扉を開けると、竹間先生はピアノ用の椅子に腰かけて、パフの楽譜を眺めていた。麻依はそのことが少しうれしくて、照れくさくて、早口に「よろしくお願いします」と挨拶をした。


 竹間先生は、あまり口数の多い人ではなく、麻依が会ったことのないタイプの先生で、大人だった。

 竹間先生は、麻依を叱らない。かといって、がんばれと励ましてやることもしない。淡々と練習方法を教え、それができれば次に進む。

 担任の先生のように、呆れたように麻依を見ないし、両親のように麻依を応援してもくれない。

 でも、麻依は竹間先生の教え方のほうがずっと楽だった。

「パーフ魔法のりゅうーがあー、くーらーしーてーた……」

 ここまでは、できる。

 でもこの先ができないんだ。

「先生、ミの指ができない」

 何度やっても上手くいかないのが腹立たしくて、麻依は泣き出しそうになるのを我慢しながら竹間先生に言った。でも竹間先生はこちらを見ることもなく、一言言った。

「押さえられなくていいから、指の形だけやってみなさい」

「……指の形だってできないよ」

「いいから」

「できないもん!」

 そのとき、初めて竹間先生は麻依を見つめた。

 ぱちんと、甲高い音がした気がする。頭の中で何かが割れてしまった音だ。

 麻依は涙をぽろぽろ流しながら言った。

「できないんだよ! わたしは、そーゆー子だもん!」

 竹間先生は何も言わない。どんなことを思っているのかわからない目で、麻依を見つめていた。

「リコーダーだけじゃなくて、他のことだって、できないんだよ。何やってもできないの。だから――」

「だから、なんだ」

「え……」

 竹間先生は体を動かし、麻依を正面から見つめた。ちゃんと、麻依に目線を合わせている。

「きみはまだ、練習しているんだろう。どうしてできないと決めつけるんだ」

 麻依はきまり悪そうに目をそらした。

「きみは、この歌が好きか?」

 麻依はうつむきながらうなずいた。パフの歌は、小さいころから好きだ。でも、なんだか嫌いになってしまいそうだけど。

「そうだよな。初めてきみがこの歌を歌ったとき、きみは教科書とは違う歌詞で歌った。それ一つとっても、きみがこの歌が好きだというのは、よくわかる」

「先生、そんなの見てたの?」

 思わず麻依が顔をあげると、竹間先生はにこりともせず、うなずいた。

「人のことをよく見てなければ、教師なんてできないよ」

 麻依は少しだけ頬を緩めた。

「好きだと思えば、追いかけたくなる。だから、きみがこの歌が好きなら、大丈夫」

 麻依の目が大きく見開かれる。

 竹間先生はゆっくりと、でもはっきりと言った。

「きっと、できるようになる」

 はじめてだった。

 はじめて先生に、そう言ってもらった。

 その言葉は、くすぐったくてあたたかくて、麻依はこみ上げる涙をこらえながら、恥ずかしそうに笑った。

そんな麻依を、竹間先生は黙って見ていた。背をさすることも、言葉をかけることもしない。でも、それが先生の優しさだった。麻依がそれに気づいたのはずっと後のことだったが、幼いながらに、先生と一緒にいることに心地よさを感じていたのかもしれない。

このとき麻依は、竹間先生のことがさらに好きになっていた。

「じゃあ、つづけるぞ」

 麻依は大きくうなずいた。



「今日は、おれも一緒に吹こう」

 竹間先生に教えてもらって、五日目。ひたすら歌いながら指を押さえる練習と、低いドから高いレまでの音階練習をやり続けた。

 パフの曲を吹いたのは一日一回だけやる、失敗しても止まらずにテンポ通り吹く練習だけだ。

未だミの音は曲中では吹けていないが、音階練習の中では吹けるようになっていた。まだ、低いドとレは吹けないけど、パフにはその音は出てこないから、とりあえず大丈夫。

「先生も一緒に吹いてくれるの?」

 麻依はうれしくてぱっと顔を輝かせる。その顔に竹間先生は少し頬を緩めてうなずいた。

「ああ。一緒に吹こう」

 一緒に吹くのは、初めてだった。

 先生や友だちが麻依に何かを教えるとき、いつも麻依は置いていかれてしまう。一緒に考えたり練習するのではなく、先に答えを教えられて、「ここまでおいで」といわれるのだ。

 走るとき、隣で走るんじゃなくて、自分よりずっと前に来て、「頑張れ、ここまで来い」と言われるような……。麻依には、一緒に隣で走ってくれる人がいなかったのだ。

 竹間先生は自分のリコーダーを口にくわえると、麻依に合図を出した。


 一緒に、吹き始める。


 竹間先生の音が聞こえる。麻依はその音に寄り添うように吹いた。不思議と、ずれなかった。ミの音も問題なく吹けた。でも麻依はそのことに驚くよりも、一緒に吹く心地よさを感じていた。

 無理やり合わせるのではなくて、自分が相手の音を聞きながら寄り添う、という初めての体験に、麻依は喜びを感じていた。たぶん、竹間先生は麻依が吹きやすいように、合わせてくれているのだろう。それでも、麻依は普段の音楽の時間に感じたことのないような、穏やかであたたかい気持ちになった。

「吹けたじゃないか」

 竹間先生は麻依の目を見つめて言った。

「……うん」

 麻依は顔を真っ赤にして何度もうなずく。信じられなかった。吹いている最中は気持ちよくて、ただ指を動かして音を鳴らし続けたけれど、いざ吹き終わると、なんだかそれが夢の中のことのように思えた。

「もう一度一緒に吹くか」

「はい」

 何度吹いても同じだった。

 竹間先生と一緒に吹くと、麻依の指は器用に動き、魔法のようにパフを吹ききることができるのだ。

「ひとりで吹けるか?」

 三回、竹間先生と一緒に吹いても、麻依は失敗しなかった。音を外すことも、テンポからずれることもなかった。でも竹間先生の問いに、麻依は首を振った。

 ひとりじゃ、吹けない。

 竹間先生は立ち上がってピアノの前に座った。

「じゃあ、おれのピアノと一緒に吹いてくれ」

 麻依はうなずいた。

それならきっと、吹ける。

 

 吹けた。

 麻依は竹間先生のピアノで、パフが吹けた。

「できた……」

 麻依はくりくりと目を動かしながら、自分の手を見つめた。小さくてミの音さえ押さえられなかったこの指が、パフを奏でたんだ。

「できたな」

 竹間先生は、麻依の前にしゃがんで、そっと麻依の手を取った。竹間先生の手は大きくて、指がざらりとしている。豆が、その指にはたくさんあった。

「できたよ、先生」

 つながれた手を嬉しそうに振りながら、麻依は照れくさそうに笑った。

「ああ、できた。でも、まだ終わらんぞ」

 その言葉に麻依が首をかしげると、竹間先生は自分のリコーダーを口につけ、パフを吹き始めた。

 音が生きている、みたいだった。

 竹間先生の音が目に見えるようだった。

 その音色には、色があって匂いがあって、動きがあった。竹間先生は、それらを自在に操り、麻依にパフの曲の世界を見せてくれた。

「先生、すごいっ!」

 麻依は小さな目をきらめかせて拍手をした。竹間先生はちょっと顔をしかめ、拍手をやめさせると、

「きみも、これくらいできるようになる」

「ほんとっ?」

 飛び上がって驚く麻依に、竹間先生はうなずくと、

「明日からは、表現の仕方を教えるから。また来なさい」

「はい」

 麻依は嬉しそうに返事した。

 今日は、お母さんに本当のことが言える。

 リコーダー、上手に吹けるようになったんだよ――。

 にこにこと笑う麻依を見ながら竹間先生も、ちょっとだけ、笑ってくれた。



 だから、次の日の音楽の授業は大丈夫だと思ったんだ。

 もうみんなに笑われない。

 もうみんなから外されない。

 そう、思ってたんだ。

 竹間先生のピアノだけで吹けたんだから、みんなと吹くのもできるはずだと思っていた。

 でも、だめだった。


「またですか、小松さん」

 吉岡先生のため息に、麻依はぎゅっと目を閉じてうつむいた。

 曲の途中、自分の音がわからなくなったのだ。音が混じる中、どれが自分の音かが見えなくなって、やみくもに吹き続けていたら、みんなと曲の終わりが揃わなかったのだ。

 ぶわっと涙がこみあげてきて、麻依は唇を痛いほど噛みしめながら、震えていた。

「練習したんですか」

 したよ。一週間頑張ったもん。吉岡先生、見てくれなかったけど。

 麻依が黙っていると、吉岡先生は小さくため息をついた。

「もう授業は終わりますけど、みなさんもきちんと練習してくださいね」

 くすくす、とクラスのみんなが笑いながら「はーい」と間延びした返事をする。

「あと、小松さん。ちょっと廊下に来なさい。みんなは休み時間にしていていいからね」

 麻依は頷いて、吉岡先生のあとをついていった。

 いくら二月の終わりで暖かくなってきたとはいえ、廊下は寒い。身の縮むような寒さと悔しさに震えながら、麻依はうつむいたまま、吉岡先生の前に立った。

「学校の授業、むずかしい?」

 ぞっとするほど、穏やかな声だった。

 わずかに目をあげて吉岡先生を見つめると、吉岡先生は小さい麻依を見下ろしながら言った。

「むずかしい?」

「……いいえ」

「好きな教科とかある?」

「……いいえ」

「好きなことは?」

 歌うことです。

 麻依は目を閉じた。涙がちぎれ、頬を伝った。冷たい空気が涙の跡を鋭く刺した。

「……ありません」

 吉岡先生がまた、ため息をついた。

「わからないことがあったら、聞いていいんだからね」

 聞いても、教えてくれないのに。

 わたしより先に、わたしを諦めて、どこかへ行っちゃうくせに。置いて行っちゃうくせに……。

 麻依は俯いた。吉岡先生はそれを麻依の頷きだと思ったのだろう、「頑張りなさいね」と一言言って、教室に入っていった。



「もう一回吹いてみて」

「…………」

 この日の放課後も、麻依は竹間先生と一緒にパフを練習した。

 でも何度吹いても、昨日のような気持ちは取り戻せなかったし、つかえてばかりだ。

 もう、七度目になる。七回連続、麻依はパフの曲を吹きとおせなかった。たとえ竹間先生と一緒に吹いても。

「休憩するか?」

 麻依はうつむいたまま黙っていた。

 竹間先生は何度麻依が失敗しても怒らなかった。怒らずに、何度も一緒に吹いてくれる。それが嬉しくて仕方がないのに、麻依は申し訳ない気持ちが一回りして、イライラしていた。

もちろん腹が立っているのは先生にではなく、自分にだ。でも、ぶつける先のない焦りや苛立ちは、心の中に重く沈んでいる。それが弾けてしまいそうに、ふつふつと泡立っている。

「……無理だよ」

 麻依はぼそりと言った。

「わたしには、できないんですよ」

 麻依はじっと竹間先生を見つめていった。

「今日の音楽の授業もできなかったの! きっとわたし、できないんだよ! なにやっても、きっと……」

「昨日はできただろう」

 その言葉に、麻依は竹間先生を睨み付ける。

「でも、あんなに練習したのに……やっぱりわたしはだめなんだよ、できるようになんてならない! 先生の嘘つき!」

 竹間先生はその言葉にわずかに目を見開いたが、すぐに、もとの表情に戻った。

 その目を見たとき、麻依は、自分が思っていたよりもずっと、傷ついた。

 吉岡先生に何か言われた時よりも、クラスのみんなにクスクス笑われた時よりも、深く傷ついた。自分が言った言葉に、自分で傷ついたんだ。

 麻依はものすごい頼りなさを感じた。ひとりで立っているのがつらい。竹間先生の顔が見れなかった。すぐに謝らなきゃいけないと思うのに、唇が渇いてぺたりとくっついてしまって、口が開けない。

「今日はもう、帰れ」

 竹間先生は麻依のほうを見ずに言った。

「今吹いても、無理だ。できるわけがない」

 麻依は、竹間先生の声を泣きながら聞いていた。初めて自分に対して向き合ってくれた人を、麻依は自分で失ってしまった、そう思った。

 麻依は逃げるように第二音楽室を出ていった。

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