第2話 パフとジャッキー

「いま五六年生を教えてる音楽の先生ね、中学校でフショウジを起こしたから、トバサレテ来たんだって」

 朝教室の前に着くと、利香の一番子分である小林さんが、同じく二番子分の吉野さんと教室のドアの前で話していた。

 いつも利香の周りにいて、まるでコバンザメみたいだから、麻依はひそかに二人のことを、コバンザメと呼んでいる。

「ごめん、コバン……小林さん。通りたいんだけど……」

 なるべく小さな声で、相手が怒らないように麻依は声をかけた。

「えー、何その先生、アヤシー!」

 無視された。

 ……うん、いつものこと。

「そこ、通らせて」

 少し大きめの声で言ってみる。声にとげがつかないよう、気を付けながら。

 すると、二人はあっさりと道を開けてくれた。麻依がほっとして、教室に入ろうとすると、

「いたっ」

 二人の出した太い脚に引っかかって、麻依は転んでしまった。硬いコンクリートでできている廊下に、膝の皿の部分をしたたかに打ち付け、痛い。麻依は手を膝に添えた。

「バーカ!」

「クラスに入ってくんなよ!」

 二人はそう言って、廊下の端の水道までダッシュで逃げていく。あそこの水道は、利香たちのたまり場だ。たぶん、二人は女王様に自分たちがしたことを報告するんだろう。それで、どんどん団結力が高まって――。


 足を引っかけられて転んだのは、これが初めてじゃない。何度も、何度もある。

 四年生の二学期から、ずっとこんなことが続いているのだ。無視をされ、足を引っかけられ、突き飛ばされて、ものを取られたこともある。

 でも麻依は、それを誰にも言っていない。

 ……だって、そんなの、かっこ悪いじゃん。


「おれ兄ちゃんから聞いたんだけどよ、その先生、教え方チョー厳しんだって! 音符も読めないやつが音楽をするんじゃない! とか怒鳴るらしいぜ」

「サイテー!」

 麻依は本を読みながら、さっきコバンザメが話していた、いまクラスで話題の竹間先生の噂に耳を傾けていた。

 竹間先生は、休養中の音楽の先生に代わり、三学期の間だけ小学校に勤務することになった、中学校の音楽の先生だった。

 その評判が、ものすごく悪い。不愛想、厳しい、すぐ怒る、怒鳴る……小学生に向いている先生ではない、絶対に。

 まだ三十歳くらいの若い男の先生らしいが、若い先生特有の親しみやすさはなく、六年生のお兄さんやお姉さんでも、泣き出す人まで出てきた。

 でも、どの噂も児童の間だけで回っているから、本当のところはどうなのか、わからない。ただここまで色んな噂があるのだから、その先生の性格に何かあるのには、違いなかった。

「そんな先生、ママに頼んでクビにしちゃえばいいのよ!」

 竹間先生の噂話が、その声が飛んできた途端にぴたりとやむ。

 利香が前のドアからコバンザメたちを引き連れて入ってきたのだ。

「利香ちゃんのママ、PTAだもんね!」

 クラスのみんなの声が「おおー」と揃う。不気味な音色。麻依は本を読むふりをして、その音から耳を背けた。

「うん! このクラスの誰かがもし何かされたら、すぐにママに言ってあげる!」

 利香の言葉に「すごい」「ありがとう!」などの声がクラス中から飛び交った。利香は任せといて! と言わんばかりに胸を張った。麻依には縁のない、子供ブランド服のキャラクターがプリントされた洋服が、ぐにーんと歪む。なんだかキャラクターが苦しそうに顔をゆがめているみたいで、麻依は少しだけ、笑った。

「はーい、みんな席ついてー」

 でも、担任の吉岡先生が入ってきた途端、麻依の顔は風船がしぼむように情けない顔になった。嫌でも昨日のことを思い出してしまう。吉岡先生は、まさか麻依が「取り柄がない」と言われていたことを知っているとは思わないだろう。

 でも、わたしは知っているんだよ、先生。

 どうして言われた自分がこんな思いをしなきゃいけないの、そう思いながらも、やっぱり麻依は気まずくてしぼんだ風船の顔のままうつむいた。

でも、それだけじゃなくて、そもそも麻依は「先生」という存在が怖かった。


 教師は、児童にとって守ってくれる優しい存在であると同時に、畏れる存在であった。学校という場で、教師は神様のようなものだった。

 神様を慕う人も多くいるように、畏れる人もいる。麻依は後者だった。


 先生が怖い。先生がいかに親しげに話しかけてきてくれても、麻依はその先生の裏にある何かを考えてしまう。不器用で何をするにも人より時間がかかってしまう麻依は、先生の心配そうな顔や労いの言葉の裏に、見下すような、呆れるような何かをいつも感じていた。


 そうだ、きっと先生は、嘘つきなんだ。


 先生は、子どもの努力なんて見てない。

「努力することが大事なんだ」そう言うけど、子どもの出す結果にしか目を向けていない。

 自分より下だからと教師は、時折児童を侮って、平気で嘘をつく。……でもそれを子どもたちはきっと、よく知っている。

 麻依はまだ、嘘をつかない先生に出会ったことがなかった。



 学校での一日が終わり、麻依はリコーダーをじっと見つめながら考え込んでいた。

 どこで練習しようか。

 家だと近所迷惑になるし、教室だと昨日みたいなことになると困る。近所の公園は同級生がたくさんいるから無理だし……。

 北校舎! 北校舎にしよう。

 北校舎は理科室や調理室などの特別教室のある校舎で、放課後はあまり人が来ない。しかも校舎の建て替えがされておらず、古いから、児童たちからは「おばけがでる」と言われていて、ここに来る人はあまりいなかった。

 麻依はそんな北校舎にある、第二音楽室に行くことにした。

 第一音楽室は放課後に先生や器楽クラブの人たちが使うだろうが、第二音楽室を使っているというのは、聞いたことがない。第一音楽室に入りきらない楽器やらを置いている倉庫のようなものだ、とは聞いたことがあるけれど。

 麻依は周囲をちらちら伺いながら第二音楽室に続く薄暗い廊下を歩いた。麻依の足音以外、何の音もしない。不気味だけど、麻依にとってクラスのがやがやとした空気ほど怖いものはなかった。

 一番怖いのは、誰が何を言ったのかわからない、がやがやとした場所だ。だから、いくら薄暗くて静かでおばけが出そうな場所でも、それよりは居心地がいいんだ。


第二音楽室の扉に手をかけると開いていた。

 麻依はほっとして中に入った。そこにはほこりのかぶったピアノと弦の切れたギターが一台あるだけ。あとは椅子やら譜面台やらが無造作に置かれている。

「意外と広いんだ……」

 麻依は椅子と譜面台をもってきて、譜面台の上に教科書を置いた。

「パーフ魔法の龍が、暮らしてたぁ」

 パフの最初の部分をそっと口ずさんでみる。歌うことは、大好きだ。音楽のテストとかで人前に出るとうまく歌えないけど、こんな風に口ずさむのは好きだ。心がすうっと軽くなる。

 歌っているときだけは、悲しいことも苦しいことも忘れられる。

 歌は麻依の、大好きなことだった。

「低く秋の霧、たなびく入り江」

 でも麻依は、音楽の教科書の歌詞よりも、昔聴いていた歌詞のほうが好きだった。とくに、ジャッキーが大人になって、パフのもとへ来なくなるところを聴くと、麻依はいつも泣きたくなってしまう。教科書の歌詞はそこがうやむやになっているから、嫌なんだ。

 麻依は歌をやめて、リコーダーを吹き始めた。

 やっぱりだめ。ミが押さえられない。それどころか、シからソへの指運びさえも上手くいかない。麻依はグーパーグーパーと手を結んでは開いた。そうすることで、指が長くなるわけでもないが、痛む手を慰めるくらいは、できる。

 そうでもしなきゃ、泣いてしまいそうなんだ。

 もっと頑張らなきゃ、そう思って再びリコーダーに口をつけたとき、カツカツと足音が聞こえてきた。

「おばけ……!」

 麻依は急いで窓の外を見た。まだ明るい。お化けが出るのには早すぎる。でもわからない、昼間に出るお化けも中には、いるかもしれない。

麻依は慌てて隠れる場所を探したが、その拍子に譜面台をひっくり返してしまった。ガシャン! と大きな音がしたが、そんなのお構いなしに麻依はピアノの陰に身を寄せた。

 足音が近づいてくる。麻依は自分の息の音がしないように、必死に呼吸を浅くした。

 どうしよう、どうしよう、おばけって怖い、やっぱり。

 ガラガラ! と大きな音がして、扉が開かれる。……もう少し、静かに開けられないのだろうか。乱暴なおばけなら、自分を脅かしたりしてくれるかもしれない。麻依は息を止めた。

 ピアノの陰から革靴と黒いスーツの裾が見えた。もしかしたら、スーツを着た大男で、首がないのかもしれない。

想像がどんどん大きくなり、麻依は震え始めた。おばけに会ったら、どうなるんだろう。

どこかへ連れて行かれるのかもしれない、おばけの国とかに。……案外、自分に合っているかもしれない。でも、お母さんやお父さんが悲しい顔をするのは、嫌だ。

 息が苦しくなって、少し呼吸をしようと口を開けると、

「うへっごほっおえっ」

 麻依はせき込みながら青ざめた。まずい、おばけに見つかってしまう。

「……何やってるんだ?」

 しかも話しかけられた。

「きゃああああ!」

「なんだ? そんなところにいないで、でてきなさい」

 笑いを含んだ声に少し安堵して、麻依は恐る恐るピアノの陰から這い出た。ゆっくり顔をあげると、よかった、ちゃんと頭のある普通の男の人が、目の前に立っていた。

「なんでこんなところにいるんだ」

 男の人はそう聞いた。背の高い細身の人だった。若い、男の人。眼鏡の奥の瞳は厳しかったが、不思議と怖くなかった。

「リ、リコーダーの練習です」

 麻依が顔を赤くしながら小さな声で言うと、男の人は眉をあげ、

「リコーダー? そうか。邪魔して申し訳ない」

そう言って、譜面台を一台とると教室を出ていこうとした。

 この人が、竹間先生だろうか。

若くて、音楽の先生で、厳しそうで……。

「あの!」

 麻依は目を大きく開いて、背筋をしゃんと伸ばして、言った。

「竹間先生、ですか……?」

 男の人は眉をひそめた。

「そうだが……きみ、私と面識あったか?」

 麻依は首を振った。竹間先生はほっとした顔になった。厳しそうな顔が、少しだけ柔和な顔になる。

「人の名前を覚えるのが、苦手でな。だから、面識があったら申し訳ないと思って」

 竹間先生は、思ったより、怖い人じゃなかった。話し方とかは端的で、親しげに話してくれるわけではないが、威圧的なわけでもない。麻依は背筋を伸ばしたまま言った。

「わたしに、リ、リコーダーを、教えてください!」

 麻依は膝と頭がくっつくほど、深くお辞儀をした。

 竹間先生が一歩こちらに近づいた。

「なんで、おれ?」

 麻依は顔をあげて瞬きをした。なんでと言われてもわからない。首をかしげていると、竹間先生は真顔で麻依に言った。

「私は、厳しいぞ」

 麻依はうなずいた。顔が熱い。リンゴみたいに真っ赤になっているのだろう。

「がんばります」

 竹間先生は譜面台を置いて扉を閉じてから、こちらに向き直った。

「何の曲をやってるの?」

 麻依は慌てて綺麗な椅子をもってきて、竹間先生の隣に置いた。竹間先生は「ありがとう」と言ってから、

「パフ?」

 と聞いた。

「はい。リコーダーで、パフを吹いています」

 初対面なのに、竹間先生と話すのは怖くなかった。でも、リコーダーを持つ手が小刻みに震えている。……怖いわけじゃないのに。

「一回吹いて」

 麻依は震えながらうなずいた。息が上がってくる。途端にいやな汗がぶわっと出てきた。

 竹間先生はスーツのポケットの中から、四角いストップウォッチみたいなものを取り出した。

 何だろうと麻依が見ていると、竹間先生は言った。

「メトロノーム。これでテンポを出すから、その通りに吹いてみなさい」

 竹間先生がボタンを押すと、ピッピッピと電子音がする。

 その音を聞きながら、麻依はうなずいた。「いち、に、さん、し」

 テンポが思ったより速くてついていけない。ミの音どころか、ほかの音も押さえられなかった。恥ずかしくなって吹くのをやめると、

「吹き続けろ」

 竹間先生は厳しい声で言った。

「間違えても、つかえてもいいから最後まで吹いて」

 麻依は慌ててうなずいた。間違った音を何度も出しながら、麻依は何とかパフ一曲を吹きとおした。考えてみれば、麻依はこの曲を最後まで吹いたことなんて、一度もない。

「疲れた?」

 竹間先生が一言、そう聞いた。

「はい……」

「一曲吹くには、体力がいる。一日一度は、間違えてもいいから最後まで吹くようにしなさい。色んなことができるようになっても、吹ききることを体が覚えてなきゃ、吹けないから」

 竹間先生の言葉に、麻依はうなずいた。息が荒い。こんなに疲れるとは思っていなかった。

「じゃあ、どうするかね……」

 竹間先生は体を伸ばしながらそうつぶやいた。今の演奏を聴いて、呆れたりしただろうか。麻依はそれが気になって仕方がなかった。

 今まで麻依に何かを教えてくれた先生たちはみんな、麻依の飲み込みの悪さにため息をつくことが多かった。最後には呆れられて放置されることも少なくない。麻依はそれが怖くて仕方がなかった。

「どうした」

 竹間先生はちらりと麻依を見た。

「え……なんでもないです」

 竹間先生は、しばらく麻依を見ていたが、静かに立ち上がってピアノのふたを開けた。何をするのだろうと麻依が不思議に思っていると、竹間先生は手招きをして、麻依をピアノの前に立たせた。

「私が弾くから、きみは歌って」

「何をですか?」

「パフ。パフを歌ってみて」

 麻依がうなずくより先に、竹間先生はピアノを弾き始めた。

パフの少し寂しげな前奏が流れ、合図を受けて、麻依は歌いだした。


 パフ、魔法の龍が暮らしてた

 海に秋の霧、たなびくホナリー


 竹間先生は麻依の歌声に、僅かに表情を動かしたが、何も言わずピアノを弾き続けた。


 リトルジャッキーペーパー友だちで

 いつでも仲良くふざけてた


 一方麻依は顔を真っ赤にさせながら、それでも歌い続けた。上手く歌おうと思っていたが、だんだんそんな考えは先生のピアノにかき消された。代わりに、軽やかな楽しさが、胸に広がった。

「もういいよ」

 竹間先生の伴奏が止まる。麻依も歌をやめた。

「いいね」

 麻依は思わず竹間先生の顔を見つめた。

「何が?」

「きみの声だよ。すごい、いい声だ」

 ピアノのふたを下ろしながら、竹間先生は言った。

「放課後、ここに来なさい。教えるから」

 麻依はぱあっと顔をほころばせた。

「ありがとうございます!」

 お礼を言いながら、麻依は言った。

「わたし、何をやっても上手くいかなくて……」

 竹間先生は眉をひそめたが何も言わない。麻依は肩のあたりで切りそろえられた髪を触りながら続けた。

「だからね、歌とか褒めてくれて、ありがとう、先生」

 そう言ったとき、なんだか鼻がつーんとして、麻依は泣きだしそうになってしまった。必死に涙をこらえようと笑ってみても、上手に笑えない。竹間先生はそんな麻依をちらりと見て言った。

「きみの歌は、いいよ。自信を持ちなさい」

 麻依は目を見開いた。その途端、ぽろぽろと涙が零れてしまう。

「それにな。おれが音楽を教えたやつは、絶対うまくなる」

 窓から差し込んだ西日が、竹間先生の顔をオレンジ色に照らしている。まぶしさに目を細めながら、麻依は長い間自分の中にある劣等感が、薄らいでいくような気がしていた。

 竹間先生の言葉には、そんな力があった。

「きみの名前、なんていうんだい?」

 麻依は少し照れくさそうにうつむきながら言った。

「麻依……小松麻依です」

 竹間先生は、にっと笑った。

「そうか、よろしくな」

 麻依も同じように笑う。

 今日一番の、笑顔だった。



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