第1話 ひとりぼっちの、わたし

 パフ、さみしかっただろうなぁ。わたしだったら、絶対パフを置いてどこかへ行ったりしないのに。

 少年ジャッキーと仲良くなって、幸せな毎日を送っていたのに、パフは曲の最後には一人ぼっちになってしまったんだ。

 うまくリコーダーの穴を押さえられない指を腹立たしく思いながら、麻依はじっと「小学四年、楽しい音楽」と書かれた教科書を見つめていた。


 小学校四年生。

 友だち同士で、あいつは運動、あいつは勉強ができて、あの子に絵を描かせればクラスの文集の表紙はどうにかなるし、何かあったときはあの子に頼ればいい……そんな風に友だちを分類し始めるころ。

 どういう風に行動すればクラスという世の中でうまくやっていけるかを考えるようになるのも、たぶん、ちょうどこの頃だ。

 

 ピッと甲高い音が出て、麻依はため息をついた。

 リコーダーの、ミの音がなかなか押さえられない。何度吹いても、ミの音を吹くと、押さえきれない穴の間から「違う!」とでもいうように、耳に痛い音が出てしまう。

 麻依の教室では、今、音楽の授業で「パフ」という曲をリコーダー演奏していた。テンポも速いし、何より手の小さい麻依は、なかなかリコーダーの穴を押さえられなくて、どうしても曲のテンポより遅くなってしまう。

 しかも最悪なことに、あと一か月後に、音楽祭がある。曲はこのパフで、麻依は全校生徒の前でソロを吹くことが学級会で決まっていた。

 どうしろっていうんだ。

 わたしには、何の取り柄もないのに。

 麻依は穴を押さえようと広げすぎて痛む指をグーパーさせた。

「じゃあ、それではねー、一度みんなで合わせてみましょうかねぇ」

 担任の吉岡先生が手をパンパンと叩きながら言った。

 今年で定年らしい吉岡先生は、もうじき六十歳になるとは思えないほど、若々しい。あまり表情が変わらないからかもしれない。お面のような顔の吉岡先生のことが、麻依は苦手だった。

 さんはい、の合図で一斉に吹き始める。麻依も吹き始めた。最初はいい。みんなと合わせて吹けている。一人で音を外したり、テンポからずれたりしていない。

 大事なのは、みんなと同じに吹くことなんだ。みんなと同じなら、それでいい。

 問題のミの音がやってくる。よし、今度こそちゃんと吹くぞ! そう思うのに、麻依のリコーダーからは、やっぱりあの甲高い音が出てしまう。それどころか、どんどんテンポについていけなくなって、最終的に麻依は曲をみんなと一緒に吹ききることができなかった。

 麻依はうつむいた。やっぱりできない。吉岡先生と目が合う。

「小松さん、またあなたですか」

 お腹のあたりがぞわぞわと気持ち悪くなった。先生に、「またあなたですか」と言われるたびに、すうっと背筋が冷たくなる。

「三月には音楽祭もあるんですからね。きちんとね、吹けるようにならないとですねー」

 また、始まった。

 クスクスと笑う小さい声が、教室中から聞こえてくる。麻依は真っ赤になってうなだれた。

吉岡先生は、いつも麻依をこうして注意する。……麻依は自分なりにやっているのに、何をやってもうまくいかなかった。勉強も運動も音楽も、……友だちと仲良くすることも。

「小松さんだけじゃないですよ。他のみんなもそうです。もう、あと少しで五年生になるんですからね」

 麻依は目をぎゅうっとつぶった。目を閉じれば何も見えない。怖い時は、何も見ないように目を閉じるのが、麻依の癖だった。

 ただ目を閉じて、過ぎ去るのを待つ。「かっこわるいよな」そう思っても、それ以外に乗り越える方法を麻依は知らない。

 チャイムが鳴る。

 よかったぁ……。

 肩の力がふわっと抜けて、代わりに恥ずかしさと悔しさがじわじわとこみ上げてきた。

「あ、なっちゃった。じゃあ、終わりにしまーす」

 吉岡先生がそういうと、「きりーつ」という声と共に、みんなが立ち上がった。麻依もそれに合わせて立ち上がる。でも、顔をあげることはできなかった。


 お腹のあたりに重い鉛のようなものを抱えたまま、放課後になった。帰りの支度をしていると、幼馴染の実結がやってきて、

「麻依ちゃん、大丈夫?」

 実結は優しい。真っ白い肌に、笑うと目じりにしわが寄って、人の好さがにじみ出るような顔をしている。

「うん」

 麻依はゆっくり、大きく首を動かした。それから、不安そうにこちらを見る実結の顔を見て、思いついた。

 そうだ、実結にリコーダーを教えてもらおう。実結は音楽が得意だと言ってたし、しかもピアノも上手だし。

「あのさ……」

 リコーダー、教えてほしいな。

 麻依がそう言おうとしたとき、

「実結ちゃーん」

 実結と麻依はびくっと肩を震わせた。実結を呼んだのは、このクラスの学級委員の利香だった。

「きょうね、ママが美味しいケーキを焼いたの。うちに来て遊ぼうよ!」

 実結はちらりと麻依を見た。麻依はちょっと笑って、実結にうなずいた。

「くるよね、実結ちゃん」

 利香は肩まで伸びた髪をちょっと振って、実結に聞いた。

「うん……ありがと」

 実結はギギギ……と音がしそうな笑みを浮かべてうなずいた。

 利香には、逆らっちゃだめ。麻依も実結も、このクラスの女子全員が、そう思っている。

利香はいわゆる「何でもできる子」であった。だから先生たちも利香のことが大好きだし、特に担任の吉岡先生なそんな利香が一番のお気に入りだった。しかも利香は美人。利香の周りには同じように「できる子」たちが集まる。

それで、男の子からも、女の子からも、人気がある。

 麻依は、利香のグループから嫌われていた。たぶん、麻依が何もできない子だから。

 だから、実結が遊びに誘われて、麻依が誘われないのは当たり前なのだ。

 麻依は、そうだよね、当たり前だよね。と自分に言い聞かせながら、空っぽだったランドセルに、教科書とノートを無理やり突っ込んだ。


 いくら何もできることがない、そう思っていても、麻依は努力を怠る女の子ではなかった。人並み以上にやって、どうにか人並みになる……そんなことを、小さいころからずっと続けてきた。そうやって逆上がりも、自転車も、何とかできるようになってきたんだ。

だからこの日の放課後も、麻依は一人で教室に残ってリコーダーを練習し続けた。

 誰もいない教室はがらんとしていて静かだったが、麻依はなぜかほっとしていた。

誰かの目もない、声も聞こえない教室が、麻依にとって、とても居心地の良い場所に感じられたのだ。

 教科書を見ながら練習を始める。

 ソファファソファミ……。

だめ。もう一回。

ソファファソファミ……。

やっぱりミの音でつかえてしまう。繰り返せば繰り返すほど、つかえてしまう。

麻依はぐっと唇を結び、涙をこらえる。

 今日はもうやめて、また明日練習しよう。そう思い麻依はリコーダーをケースに入れた。しばらくぼんやりとリコーダーを眺めている。オレンジ色の夕焼けの光がリコーダーに反射して、きらきらと光る。

 突然、廊下から声がした。

 ちょっと高めの笑い声は、吉岡先生だ。もう一つの声は知らない、若い女の先生の声だった。

 もしかしたら、残って練習を続けていたことを褒めてくれるかもしれない!

 麻依は慌ててリコーダーを取り出そうとした。

「……でも、本当に小松さんは困るのよね」

 リコーダーを取り出そうとした手が、止まった。吉岡先生の声だった。

「何やってもダメなのよ。何か一つくらい取り柄があれば、自信にもなるんでしょうけど」

 吉岡先生と若い女の先生の声は、そのまま階段を上り、六年生の教室のほうへ消えていった。

「…………」

 きらきら光るリコーダーが、水の中にあるみたいに、頼りなくぼやけていく。……夕焼けは嫌いだ。明るい光に、自分が溶けてしまいそうで、こわくなる。

 麻依はすぐにリコーダーをしまってから、逃げるように教室を飛び出した。



「今日は、学校どうだった?」

 麻依が家に着くとのお母さんは、いつもそう聞く。うれしそうにして帰ってきたときも、悲しそうな顔をして帰ってきたときも、いつも、そう聞く。

「普通だよ」

 麻依はランドセルの中身を出しながら短く言った。それ以上、何も言えなかった。

 小さいころは、お母さんから学校のことが聞かれるのが楽しみだった。学校でのことを話すのも楽しかった。それはお母さんも一緒のようで、嬉しそうにはしゃぎながら話す麻依の話を、いつも穏やかに笑いながら聞いていた。

 でも、今は違う。

 お母さんにそう聞かれるのが鬱陶しくて、怖くて、悲しいんだ。四年生の二学期から、麻依はお母さんに学校のことをちゃんと話していない。それどころか、嘘をつくことも多かった。

 友だちとあまり会話ができなくなったのも、たぶん、ちょうどその頃。

 できることと、できないことの差が開き始めたのもその頃で、麻依はだんだん自分に自信が無くなっていた。

 自分のことが、言葉をうまく伝えられない声が、不器用な指が、緊張で真っ白になる頭が、麻依は大嫌いだった。

「そっか。学校で今日は何をしたの?」

 お母さんは夕飯の支度をしている。匂いからしてたぶん、シチューだ。料理をしているため、お母さんの顔を見られないことをいいことに、麻依はまた嘘をついた。

「リコーダーだよ。わたしね、先生に褒められたんだ」

 小さなちゃぶ台の上の蜜柑の皮をむきながら麻依は言った。手を動かしていないと、なんだか落ち着かない。

「褒められたのね。麻依は、頑張り屋さんだものねえ」

 お母さんが振り返る。目が合う。コトコトと煮える鍋を背に、こちらを見ている。麻依は汚い色の絵の具がジワリと紙に染み込むような、いやな気持ちになった。お母さんの顔が嬉しそうにほころんでいたからだ。

「……うん」

 麻依は目をごしごしとこする。何度も何度もこする。……お母さんの目が、見れない。

「麻依? どうしたの?」

「蜜柑が目に、しみちゃった」

 目をこすってるとき、お母さんが悲しそうに笑ったのを、麻依は知らなかった。



 その日の夕飯のシチューの味が、わからなかった。

じんじんと痛む頭で今日あったことを思い出していると、ご飯の味がわからなくなってしまう。

「麻依、お腹すいてないのか?」

 仕事から帰ってきたお父さんは、シチューに口をつけない麻依を不思議そうに見つめた。

「うん、お腹痛い……」

 お母さんとお父さんは顔を見合わせた。麻依はいそいそと食器を片付けて、隣の部屋へ行ってしまった。


 麻依は六畳二間の家に住んでいた。自分の部屋はもちろんない。夜眠るときは、家族三人で寝ていた。


「う……」

 涙がもう出かかっている。でも泣けない。いくら襖が閉まっているとはいえ、ここで泣いたら泣き声が両親に丸聞こえだ。

自分の部屋があったら、泣けるのに……。


 ふすまがカタカタと揺れている。風が強くなってきたらしい、天井もみしみしと音を立てる。前はこの音が怖くて仕方なかった。あと、この天井にあるシミも。人の顔に見えたりするから、麻依は小さいころなるべくあおむけで寝ないようにしていたんだ。

 それらのシミの中に、長く曲がりくねったシミを見つけた。しばらく見つめていると、なんだかそれが龍に見えてきた。

「パフ……」

 麻依は小さく呟いてみた。

「パーフ」

 頭の中に、一匹の大きな龍の姿が浮かぶ。滑らかな鱗をきらめかせて、じっとこちらを見つめる龍の姿だ。

 ねえねえ、わたしも、ひとりぼっちだから、パフ、友だちになろうよ。

 ジャッキーはそんな声をかけたのだろうか。

 ジャッキーもひとりぼっちだったのかな。

 パフみたいな強い龍がいれば、怖いものなんてないのに。泣いちゃうわたしを、大きな体で隠してくれるのに。


 麻依はぽろぽろと涙を流しながら、眠りに落ちていった。



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