翌日。

 つまりは、三人がミグランスへ戻り、一夜明けたあと。


「兄ちゃん」


 宿屋を出たアルドにマルクが声をかけた。


「ああ、マルク。おはよう」

「おはよう。あのさ、これから時間ある?」

「もちろん。どうしたんだ──って、聞くまでもないか」


 少年はキャンバスを大事に抱えていた。宝石か何かのように。いや、彼にとっては宝石よりも値打ちがあるに違いない。世界でただ一つ、自分の長い努力を注いだ作品だ。


「画商へ見せに行くんだろ? こっちこそ、最後まで見届けさせてもらうよ」

「うん。ありがとう。アズ姉を向こうに待たせてるから、行こう」

「ああ」


 緊張した足取りで歩く彼。アズレアが遠くで手を振っている。絵画を持つ彼の代わりに手を振り返して、三人は合流を果たした。


「おはようございます。アルドさん」

「おはよう。緊張するな」

「ええ。なんだかこっちがドキドキします。──でも、他人の評価にあんまり期待するのも違いますね」


 彼女ははにかむ。


「誰が何と言おうと、私はこの絵が大好きですから」

「アズ姉……」


 頬を赤くして、マルクがそっとうつむく。


「よかったな。マルク」

「えっと、……うん」

「じゃあ行こうか。市場の方だったよな?」

「うん」


 今日も今日とて賑わうミグランスの街路を抜け、三人は画商の姿を探した。最初に姿を見つけたのはアルドだった。通りの端の方で人波に囲まれたたくさんの画架。ほら、と指さすと、マルクは一瞬体を固くして、怯んだようだった。


 深呼吸を繰り返し、少年は意を決してそちらへ歩く。


 画商はマルクの姿を認めると顔をしかめた。また店先でわめかれると思ったのかもしれない。売り子に絵を任せて、こちらへやって来た。


「何しに来たんだ」

「絵を見てほしい」

「仕事中の人間に審査をお願いする奴があるか?」

「それは……ごめんなさい」


 少年の素直な謝罪が意外だったのか、画商は頬を掻いて言う。


「で、どれだ?」

「見てくれるの!?」

「そうだ。早く済ませるぞ」


 マルクはアズレアと顔を見合わせ、キャンバスを包む麻布を取った。

 一日たってもまるで褪せない感動がその絵の中にあった。


「こいつは……」


 画商は目を見張る。少し顔を離したり、逆に近づいたりして、絵の細部までをじっくり観察する。


 マルクは祈るように顔を伏せていた。


「ちょ、ちょっと、待ってろ!」

「え」


 画商はそう言って、人だかりの中に戻っていく。

 見ると、売り子に新しい画架イーゼルを出すように指示を出していた。


 それからこっちに戻ってきて、キョトンとするマルクへ笑いかけた。


「……嫌な顔して、悪かった。驚かされたよ」


 少年の表情がだんだんと、雲から太陽が顔を出すように明るくなっていく。


「それって……!」

「ああ。もしよければ、お前の作品を売りに出させてほしい」

「やったな!」


 アルドは思わず少年の背を叩いた。


「痛いよ。もう」


 そう言いつつ喜びに笑む彼は本当に嬉しそうで。

 アズレアも少年の肩に手を置き、そっと笑っていた。

 画商は言う。


「私も月影の森に行ったことがあるからわかる。この女性を取り囲む花は、本当は青色だったんだろう?」

「うん」

「でも月と同じ色に塗った」

「うん。なんか、好きな物を描くのに嫌いな色を使うのが嫌だったから」


 男はからからと笑った。


「アタイトブルーが嫌いか。正直だな。さながら最近の流行りへのアンチテーゼってとこか。ちょうどこれからメインで売り出そうと思っていた作品が、青を主体に使ったものなんだ。──『街と森』『青と緑』きっといい対比になる」

「アタイトブルーを使ってないけど、その、売れるのかな?」

「私はこの前、『同じクオリティなら、アタイトブルーを使った絵画を売る』と言ったな。でも、この絵からは群を抜いたクオリティと、意志のようなモノを感じる。きっと売れる。私の目に間違いはない」


 少年はぺこっと頭を下げる。


「ありがとう」

「なに、こちらこそだ。こんなに素晴らしい画はそうそう見られるものじゃない。──君の将来に大いなる期待を込めて」


 画商は右手を差し出した。マルクはそれに応え、にっと笑った。


「さっそく売りに出す時間帯の調整に入る。また後でな」

「うん」


 画商はマルクから絵を受け取ると、人だかりの中に戻っていった。


 とつぜん、アズレアが少年を抱きしめた。


「うわっ、なに、どうしたの……」

「おめでとう。おめでとう」


 ボロボロと涙を流す彼女を、マルクは抱きしめ返す。


「アズ姉のおかげだよ。アルド兄ちゃんもね。二人がいなかったら、たぶん筆を放り投げてた」

「マルクくん……」


 アズレアはなおも腕に力を籠める。

 少年は耳まで真っ赤になって俯く。


「あの、知らない人に見られてるんだけど」

「そんなのどうでもいいの! 嬉しいの!」


 アズレアはまたも突然、ぱっと少年を解放して、涙を拭いた。


「ね、マルクくん。あとで久しぶりにお絵かきしましょ。私も描きたくなってきちゃった」

「え、うん。でも、なんで後で? 今からでもいいけど」

「ご両親に報告するのが先でしょう? それに、オークションの結果も見届けないと」

「あ。そっか……」


 特に父親とは喧嘩別れしたままだ。マルクは謝ることを考えて気が滅入っているようだった。しかし、きっと素直に謝ることができるだろうと、アルドは思う。


「また後でね、マルクくん。結果、ちゃんと聞かせてね」




 急いで立ち去ろうとする彼女を少年が呼び止める。




「っ、アズ姉!」


 とと、と振り返る彼女。はらり翻るスカート。


「うん!」


 マルクはぎゅっと拳を握ると、一世一代の告白をした。




「また、モデルになってくれる? 描きたいものが増えたんだ。もっと好きな物を描きたい。アズ姉を描きたい!」




 アズレアは頬を淡く染め、くすっと笑い、小首をかしげる。


 ユニガンの赤い街並み。そこに立つ彼女は日差しを一身に受けている。それはまるで絵画のような──。


 アズレアは笑う。






「──私もあなたを描きたいわ」

 涙で潤うその瞳は、快晴に似た青さだった。



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