5
翌日。
つまりは、三人がミグランスへ戻り、一夜明けたあと。
「兄ちゃん」
宿屋を出たアルドにマルクが声をかけた。
「ああ、マルク。おはよう」
「おはよう。あのさ、これから時間ある?」
「もちろん。どうしたんだ──って、聞くまでもないか」
少年はキャンバスを大事に抱えていた。宝石か何かのように。いや、彼にとっては宝石よりも値打ちがあるに違いない。世界でただ一つ、自分の長い努力を注いだ作品だ。
「画商へ見せに行くんだろ? こっちこそ、最後まで見届けさせてもらうよ」
「うん。ありがとう。アズ姉を向こうに待たせてるから、行こう」
「ああ」
緊張した足取りで歩く彼。アズレアが遠くで手を振っている。絵画を持つ彼の代わりに手を振り返して、三人は合流を果たした。
「おはようございます。アルドさん」
「おはよう。緊張するな」
「ええ。なんだかこっちがドキドキします。──でも、他人の評価にあんまり期待するのも違いますね」
彼女ははにかむ。
「誰が何と言おうと、私はこの絵が大好きですから」
「アズ姉……」
頬を赤くして、マルクがそっとうつむく。
「よかったな。マルク」
「えっと、……うん」
「じゃあ行こうか。市場の方だったよな?」
「うん」
今日も今日とて賑わうミグランスの街路を抜け、三人は画商の姿を探した。最初に姿を見つけたのはアルドだった。通りの端の方で人波に囲まれたたくさんの画架。ほら、と指さすと、マルクは一瞬体を固くして、怯んだようだった。
深呼吸を繰り返し、少年は意を決してそちらへ歩く。
画商はマルクの姿を認めると顔をしかめた。また店先で
「何しに来たんだ」
「絵を見てほしい」
「仕事中の人間に審査をお願いする奴があるか?」
「それは……ごめんなさい」
少年の素直な謝罪が意外だったのか、画商は頬を掻いて言う。
「で、どれだ?」
「見てくれるの!?」
「そうだ。早く済ませるぞ」
マルクはアズレアと顔を見合わせ、キャンバスを包む麻布を取った。
一日たってもまるで褪せない感動がその絵の中にあった。
「こいつは……」
画商は目を見張る。少し顔を離したり、逆に近づいたりして、絵の細部までをじっくり観察する。
マルクは祈るように顔を伏せていた。
「ちょ、ちょっと、待ってろ!」
「え」
画商はそう言って、人だかりの中に戻っていく。
見ると、売り子に新しい
それからこっちに戻ってきて、キョトンとするマルクへ笑いかけた。
「……嫌な顔して、悪かった。驚かされたよ」
少年の表情がだんだんと、雲から太陽が顔を出すように明るくなっていく。
「それって……!」
「ああ。もしよければ、お前の作品を売りに出させてほしい」
「やったな!」
アルドは思わず少年の背を叩いた。
「痛いよ。もう」
そう言いつつ喜びに笑む彼は本当に嬉しそうで。
アズレアも少年の肩に手を置き、そっと笑っていた。
画商は言う。
「私も月影の森に行ったことがあるからわかる。この女性を取り囲む花は、本当は青色だったんだろう?」
「うん」
「でも月と同じ色に塗った」
「うん。なんか、好きな物を描くのに嫌いな色を使うのが嫌だったから」
男はからからと笑った。
「アタイトブルーが嫌いか。正直だな。さながら最近の流行りへのアンチテーゼってとこか。ちょうどこれからメインで売り出そうと思っていた作品が、青を主体に使ったものなんだ。──『街と森』『青と緑』きっといい対比になる」
「アタイトブルーを使ってないけど、その、売れるのかな?」
「私はこの前、『同じクオリティなら、アタイトブルーを使った絵画を売る』と言ったな。でも、この絵からは群を抜いたクオリティと、意志のようなモノを感じる。きっと売れる。私の目に間違いはない」
少年はぺこっと頭を下げる。
「ありがとう」
「なに、こちらこそだ。こんなに素晴らしい画はそうそう見られるものじゃない。──君の将来に大いなる期待を込めて」
画商は右手を差し出した。マルクはそれに応え、にっと笑った。
「さっそく売りに出す時間帯の調整に入る。また後でな」
「うん」
画商はマルクから絵を受け取ると、人だかりの中に戻っていった。
とつぜん、アズレアが少年を抱きしめた。
「うわっ、なに、どうしたの……」
「おめでとう。おめでとう」
ボロボロと涙を流す彼女を、マルクは抱きしめ返す。
「アズ姉のおかげだよ。アルド兄ちゃんもね。二人がいなかったら、たぶん筆を放り投げてた」
「マルクくん……」
アズレアはなおも腕に力を籠める。
少年は耳まで真っ赤になって俯く。
「あの、知らない人に見られてるんだけど」
「そんなのどうでもいいの! 嬉しいの!」
アズレアはまたも突然、ぱっと少年を解放して、涙を拭いた。
「ね、マルクくん。あとで久しぶりにお絵かきしましょ。私も描きたくなってきちゃった」
「え、うん。でも、なんで後で? 今からでもいいけど」
「ご両親に報告するのが先でしょう? それに、オークションの結果も見届けないと」
「あ。そっか……」
特に父親とは喧嘩別れしたままだ。マルクは謝ることを考えて気が滅入っているようだった。しかし、きっと素直に謝ることができるだろうと、アルドは思う。
「また後でね、マルクくん。結果、ちゃんと聞かせてね」
急いで立ち去ろうとする彼女を少年が呼び止める。
「っ、アズ姉!」
とと、と振り返る彼女。はらり翻るスカート。
「うん!」
マルクはぎゅっと拳を握ると、一世一代の告白をした。
「また、モデルになってくれる? 描きたいものが増えたんだ。もっと好きな物を描きたい。アズ姉を描きたい!」
アズレアは頬を淡く染め、くすっと笑い、小首をかしげる。
ユニガンの赤い街並み。そこに立つ彼女は日差しを一身に受けている。それはまるで絵画のような──。
アズレアは笑う。
「──私もあなたを描きたいわ」
涙で潤うその瞳は、快晴に似た青さだった。
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