枝葉のひと固まりがガサっと揺れ、プラームゴブリンが頭上から降ってきた。テールグリーンよりは明るいその体色。アルドは逆袈裟に刃を切り上げ咄嗟に応じる。草むらから飛び出てきたゴブリンが開いた懐をめがけて突進をけしかける。瞬時に腰を捻って回避。


「っ……!」


 乗り切ったと安堵したのもつかの間。全方位から同時に敵が飛び掛かってきた。


 落ち着け。


 心中でつぶやき、脳裏に太刀筋を思い浮かべる。あらゆる運動、こと戦闘においては、自分の動きをどれだけ理想に近づけられるかが勝敗のカギを握っていたりする。

 アルドは素早く左足を引いた。戻す力を右足に乗せ、三百六十度を等しい力で切り伏せた。剣の切れ味もさることながら、遠心力の加わった回転斬りは風を生み出すほどの威力。周囲を取り囲んでいた色とりどりのゴブリンたちはその圧に身を引く。


 しかしこれだけでは終わらない。


 奥の方からなにやら大きな気配がする。雑草や枝を踏みしめるみしみしという足音。巨体が枝の隙間にちらほらと見え隠れしている。


 ゴブリンたちは素早く道を開けた。

 やがて、樹に頭を突くほど大きな魔物が姿を現した。


 森の番人だ。


 見た目はアベトスに近いが、体は一回り大きく、体表は狂暴な赤色をまとっている。立派な棍棒を片手で掴むその腕の太いこと。人間の胴体など比較にならない。


 本来なら樹木に囲まれた奥地でじっとしているはずの魔物だが、やはり絵の具の異質な匂いにつられてやって来たのだろう。番人というネーミングは、テリトリーを重要視する彼らの生態に起因している。


「悪いけど、ここは通さないぞ」


 アベトスは応えるように咆哮ほうこうした。いくら森の奥地で、音が響きにくい環境とはいえ、マルクやアズレアにも聞こえてしまうかもしれない。アルドは森の番人を引きつけながらさらに奥へ踏み込んでいった。




     *




「っ、今のは……!」


 アズレアはハッと顔をあげた。遠くから聞こえた魔物のたけりに不安そうな面持ちだ。

 しかしマルクはあくまで絵を描き続ける。今はちょうど、ペインティングナイフで絵の具を毛羽立たせ、葉っぱの質感を再現している最中だった。アズレアの声など聞こえていないかのようだ。


「マルクくん、私──」

「動かないで」


 少年が低くいった。


 本当はわかっている。アルドが自分たちを守るためにここを離れたことも、たったいま襲い来る魔物に立ち向かっていることも。マルクは知っていた。


 だけど、どうしてそれを止めることができよう?


 誰かのためなら危険をかえりみない、あの旅人の勇気と覚悟に応えるには──、描くしかない。


 マルクは決して手を止める気はなかった。今この瞬間、自らの体と道具が一つになっているような、たしかな一体感を覚えている。アルドにもらった勇気が、アズレアがくれた楽しさが、今一度、体の底から全身を突き動かす。


「大丈夫」


 マルクはいった。アズレアはほんの少し驚いた顔で、また困ったように笑う。


「アルドさん、強そうだったものね。私たちが行ったら邪魔にしかならないかしら」

「うん。兄ちゃんはたぶん、たぶんだけど、絶対負けない」

「……そう」


 二人を取り囲む得体のしれない高揚感が恐怖を麻痺させていた。魔物がいようがそんなことは関係ない。ただキャンバスに色を落とす。その一つ一つが、いま、命よりも大事なことに感じられた。


「アズ姉、少し顔をあげてもらっていい?」

「うん」


 彼女は月を見上げながらそっと笑む。


 ──ああ。


 マルクはその景色を脳裏に写し取り、大切にしまった。


 自分が絵を描き始めた理由も。

 ずっと描きたかったのも。


 たった一人の彼女だった。






     *






 マルクが絵を描くのを見ながら、アズレアの心は密かに熱を帯びていた。


 ──ああ、もう。まったく。


 いつの間にそんなに低い声が出せるようになったのかしら。いつの間にそんなに力強い顔つきができるようになったのかしら。

 知らぬ間の成長。驚きが隠せない。

 ちょっぴり寂しくて、やっぱり嬉しい。


 幼いころから、絵を通してマルクと心を通わせたつもりでいた。でも、違うのだ。少年は一日ごとに成長していく。アズレアが知らないマルクが、どんどん、どんどん増えていく。


 見たい。

 それが叶わぬなら、知りたい。


 アズレアは思う。


 あなたは世界をどんな風に見ているの?

 その世界の中に、私はいるのかしら。






     *






 右から襲い来る棍棒をふところに入り込んで避ける。そのまま番人の股下を潜り抜け、起き上がりざまに背中へ一太刀を浴びせかける。


「ッ」


 弾かれた。固い表皮に刃が立たない。アルドは身を翻して反撃をいなす。

 広い間合いにやっとの思いで踏み込んでも、普通の攻撃では効果が薄い。かといって、無理に強力な攻撃を放っても、アルドの方が動けなくなったら意味がない。迷いどころだ。


 敵はまとわりつくような殺気を放った。微量ながら魔力のこもった棍棒が地面へ振り下ろされる。

 直観が全身を突き動かしバックステップを踏ませる。刹那、森の番人を取り囲むように岩石の棘が咲いた。


「多彩だな」


 冗談めかした賞賛。もちろん相手が応えるはずはない。

 アルドは間合いの外へ出、息をつく。


 どれくらい時間を稼いだだろう。太陽の見えないこの森では時間の感覚が薄れる。マルクたちはもう絵を描き終えただろうか。それとも。


「──ッ!」


 森の番人が一声怒り、突進交じりに棍棒を振り下ろす。白兵戦が望みか。ならば。

剣身に左手を沿え、わずかに傾斜をつけて棍棒の落下地点に構える。衝突。同時に、アルドは傾斜をつけた方へ身を翻す。怪力はいっさいの狂いなく逃がされた。敵の攻撃は地面を穿つ。


 やるならここしかない。

 アルドが短く息を止める。


 一歩。

 懐へ踏み込む。精霊の加護を借り、刃にほむらともす。


 二歩。

 跳躍。森の番人の膝を足場にし、わきの下を潜り抜ける。

 剣のまとう火炎の温度が辺りの景色をゆらめかせる。


 三歩。

 樹木の幹を蹴り、反転。がら空きの背中を視界に収める。

 アルドを見失った番人がキョトンと顔をあげる。


「こっちだ」


 中天から振り下ろした強力な一撃が今度こそ敵の背を切り裂いた。直撃のさなか、ぐらりと燃え広がる火炎が舞い散る木の葉の数枚を焼き払う。鮮烈な赤。

 森の番人はたたらを踏み、そのまま草むらへ倒れ込んだ。枝の折れる音がいくつも響いて、あたりはしんと静まり返った。


 しかし、耳をすませると、まだ呼吸の音が聞こえた。


「気絶しただけか」


 本当にタフな敵だった。思わずため息が出るほど。


 汗を拭って、剣を鞘に納め、アルドは周囲を見渡す。木陰からゴブリンたちが心配そうに伺っていた。森の番人はテリトリーを守る。その中に住むゴブリンたちをも、あるいは守っているのかもしれない。


「……信頼されてるんだな」


 きっとここにいたら彼らの邪魔になる。マルクたちのところへ戻ろう。

 アルドはきびすを返す。

 立ち去り際に後ろを振り向くと、ゴブリンたちがせっせと傷口の治療をしていた。







 小径こみちへ戻ると、少年は一心不乱に筆を走らせていた。彼の背中にかぶって肝心の絵は見えないものの、出来栄えは推して知るべしといったところか。途中経過を覗き見るなどという野暮な真似はしない。


 アルドは少し離れた位置にある木の根に腰かけ、小さく息をついた。

 かつてここまで全力で絵を描く人間をほかに見たことがあっただろうか。人が何かに打ち込む姿は、やはりいいものだ。見る側もエネルギーをわけてもらえる気がする。心なしかアズレアの表情も輝いている。


 アルドには理解できない工程だが、マルクはキャンバスの上で絵の具を混ぜていた。ペインティングナイフを用いた基礎的な描画技術だ。この方法を使うとあらかじめ色を混ぜるよりも画面の情報量が多くなる。そうすることで、木々の微妙な陰影を表現しようとしているのだった。


 それからもマルクは描き続けた。

 線を、点を、あるいは面を描き、絵の具を混ぜ、乗せ、削り、引っ掻く。アズレアと共に培った幾多の技術が彼の表現を支えていた。そこにあるのはずっと願い続けた一枚の絵画。完成を待ち望む一枚の絵画だった。




 やがて──。




 マルクは両腕をだらりと下げた。彼の手からパレットが、筆が、ナイフがこぼれ、雑草の中にその姿を隠す。


「マルクくん……?」


 アズレアが心配そうに呼び掛ける。アルドもただならぬ気配を感じて立ち上がる。


 少年は、いった。


「……できた」


 それを聞いた二人はパッと表情を明るくした。アズレアが胸を押さえて、飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がるものだから、彼女の持っていたスケッチブックがばさりと宙を舞った。


「見てもいい?」

「マルク、俺もいいか?」


 少年は答えず、その場に膝をついた。

 二人はハッとして駆け寄る。彼の背中が震えていて、アズレアが顔を覗き込む。


「マルクくん、泣いているの?」

「泣いて、ない。別に、なんで、こんなので泣いてなんか」


 それより。

 彼は画を指さした。


「見ていいよ。そのために描いたんだ」


 アルドとアズレアはほとんど同時に顔をあげた。

 ほとんど同時に、息を呑む声が二つ。森の空気をわずかに揺らした。


「これ……」


 アズレアは絵の傍に立った。あまりの美しさに言葉をなくす。

 代わりに口を開いたのはアルドの方だった。


「すごいって言葉じゃ、全然足りないな」


 キャンバスの上部に大きな満月が位置している。取り囲む漆黒の空を、さらに林冠の緑が包むように配置されている。幹を伝うと、画面の中央にアズレアが座り、赤い本を開き、月を見上げている。彼女の周辺に咲く、実際には青色だったはずの花々は、月と同じ階調に彩られていた。そのおかげで、アズレアが星の中を揺蕩っているような、ある種の幻想が生み出されていた。


 素人目にもわかる。マルクの絵の中で最高傑作に違いない。


「本当に、マルクくん……」


 アズレアの瞼に涙が浮かんだ。


「言葉にならないよ。こんな。なんて。ああもう、ダメね。ちょっと、止まらない」


 彼女は次々と溢れる雫を拭い、少年を抱きしめた。


 泣きながら抱きしめ合う二人をそっと見守りながら、アルドの心は小さく色づいていた。作品の完成。たったそれだけの出来事が、なんと尊いことか! たとえミグランス中の絵描きがこの絵を駄作だと言おうが、マルクたちが生み出した感動を揺るがすことはかなわないだろう。彼は描き切った。たった一つの景色を。たった一人の女性を。


「おめでとう」


 アルドはそれだけをいった。

 ほかにかける言葉などなかった。


 マルクは年相応の涙を落としながら、何度も、何度も頷くのだった。



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