ユニガンの露天商に尋ねると、城壁の方へ歩いていった少年がいるという。アルドは国の出入り口に位置する巨大な格子戸の前に足を運んだ。近くにいたミグランス兵に再び尋ねれば、兵はカレク湿原の方を指さす。


 見ると、小さな背中が岩に腰かけている。草木の流れる微風に髪を揺らす彼は、そのままじっと座っていた。絵を描いているわけでも、遊んでいるわけでもなかった。


「マルク」


 アルドが声をかけると、彼は振り向いた。また嫌そうな顔をする。


「なんだよ」

「もう一回好きに絵を描いてみてくれないか」

「兄ちゃんには関係ないだろ」

「まあ、たしかにそうだけど」


 アルドは少し離れて隣に座った。マルクはうつむく。決して顔を合わせてたまるかと、心に固いかせを嵌めているかのようだ。


「むかし絵描きに批判されたって、アズレアに聞いたんだ」

「勝手に聞いたのかよ」

「それはごめん。マルクがどうしてユニガンの絵にこだわるのか知りたかったから」

「……別に、もうどうでもいい。描かないって決めたんだから」


 顔を合わせる様子のない少年に辟易しながら、アルドは風景に目をやった。湿原に浮かぶ様々の植物は、それぞれに異なった色合いで視界を彩る。マルクなら、これをどうやって絵にするのだろう。


 ふと、たゆたう雲が太陽を隠した。花々はその色を暗くした。


「マルクはどんな絵が描きたかったんだ?」

「売れる絵」

「それって本当なのか?」

「え?」


 少年は顔をあげる。アルドは続けた。


「マルクが描いた森の絵と、ユニガンの絵を見比べたんだ。そうしたらさ、言葉にしづらいんだけど、こう、元気さが違ったんだよ」

「元気さ?」

「ああ。森の絵からは『これを描いてやるぞ』って気持ちが伝わってきた。だけどユニガンの絵にはそれがなかった」


 マルクは寂しそうな目で木々を見やった。


「……わかんないんだよ」


 小さな声がいう。


「売れるモチーフはユニガンの街、売れる色は『アタイトブルー』。ユニガンに飾られてる絵を見て気が滅入るんだ。これが人気なのに、じゃあオレはどうして森の絵なんか描いてたんだろうって、そんな気持ちになる。好きかどうかもわかんなくなる」

「でも、最初はたしかに好きだったんだろ? スケッチブックに描かれてたのは、人工物じゃなかった」


 アルドは後ろに手をつき青空を見上げた。雲がゆったりと流れている。もう少しで、太陽が顔を出しそうだ。


「マルクは、どうして自然が好きになったのかな」

「アズ姉が月影の森に連れて行ってくれたことがあってさ。そのときに──」


 少年が、はっとする。


 そして陽が顔を出した。

 差し込んだ光は地面を撫で去り、明るく染め上げた。

 世界へ色が満ちたように、アルドには見えた。

 マルクにとってもそうであるといい。そう思った。


「そうだよ」


 少年は、幾年月も想い人を待っていたかのように立ち上がると、小さな岩の上から世界を見渡した。


「雲から出てきた月がさ、アズ姉を照らしたんだ。ちょうど葉っぱが被らない位置にアズ姉がいて、スポットライトみたいだった。アズ姉が世界の中心みたいで。ほんとうに……」


 彼はそっと息をする。


「自然ってこんなに奇麗なのかって思ったんだ。それだけだったんだよ。──ほんとうにそれだけだったんだ。ただ綺麗だって思って自然を描いてたんだ。うまく描けたときに、アズ姉が喜んでくれるのが、嬉しくて」


 アルドは頷いた。


「最後でもいい。もう一度だけ描いてみないか? アズレアはマルクの絵が好きだっていってた。好きな物を描くマルクをもう一度見たいって」

「でも……」

「このまま辞めたらきっと後悔すると思う。──もちろん、無理強いはしないけど」


 少年の中にはまだ葛藤が残っているようだった。好きな物を『くだらない』と一蹴された記憶が、彼に待ったをかけているのだろう。

 もし彼が諦めるというのならアルドはいさぎよく引く以外にない。けれど、アルドはマルクにある種の信頼を置いていた。きっとこの少年はまだ描きたいはずなのだ。描くことを否定されている、と、そう勘違いしてしまっただけなのだ。


「アズレアの家で待ってるよ。あとでな」


 アルドはマルクの背を軽くたたいて岩から立ち上がった。


 去り際に彼を振り返ると、少年は座ったまま景色を晴れやかに眺めている。






 アズレアの家へ戻ってことの次第を報告していると、ドアから控えめなノックの音がした。心配そうな顔をパッと明るくして、家主は足取り軽くドアを開けに行く。


「いらっしゃい」


 マルクは気恥ずかしそうにうなずく。


「あのさ、さっきは、その、ごめ──」

「ほら、こっち!」


 アズレアが少年の手を引いてキャンバスの前に座らせる。つないだ手を見下ろしたマルクの頬に赤みが差した。そんなことはつゆ知らず、アズレアはうきうきとした、まるきり子供のようなふるまいだ。


「描いてくれるんでしょう?」

「……うん」

「楽しみにしてるわ。ほら、いつも使ってた色用意してたの。これと、これと、あと、これも!」


 アズレアは次々に絵の具を取り出した。

 テーブルの上を画材が占拠していく。赤、緑、黄、その他。みるみるスペースがなくなり、瓶がゴトンと倒れて転がり落ちた。アルドが慌ててそれを受け止める。マルクはぎょっとして家主の手を止めた。


「ちょ、ちょっと、出しすぎだから!」

「だって嬉しいんだもの。自然を描くのは久しぶりじゃない。絵の具なんか気にせず自由にしてほしいわ」

「だからってこんな。それに、ここで描くつもりはなくって……」


 歯切れの悪い言い方に、アルドとアズレアは顔を見合わせた。


「ここで描くつもりはないって、家に戻るのか?」


 マルクが首を振る。


「行きたいところがあるんだ。よければ、二人についてきてほしい」


 マルクは必要な道具をリュックに詰め、国の外へ向かった。どこへ行くのかといぶかしむアルドだったが、少年は「ついてからのお楽しみ」の一点張りだ。


 一行はカレク湿原を西へ向かう。道中、馬車を引く行商人とすれ違った。マルクが行き先を尋ね、相乗りを願い出る。馬の足を借りた三人はバルオキーまで一路をたどった。


 村へ着くと馬車が止まった。快適な旅はここまで。


「ここが目的地?」

「いいや、まだだよ」


 馬車を降り、商人へ礼を告げたマルクは、バルオキーの西へ向けてずんずんと歩いていく。その迷いない足取り。何を描くかすでに決まっているのだろうか。ヌアル平原に出てからも、彼の足はなお止まらなかった。


 少年の背中はまっすぐ前を向いている。それを眺めて、アズレアはくすっと笑った。どこか寂しさの滲む笑みだった。たとえるなら、幸せな毎日が終わるまでの日数を数えるような、儚く慎ましい綻び。

 やがてマルクが大人になる時、二人は一緒にいられるだろうか。アルドはふいにそんなことを考えた。幸福の中にも、ある種の不安というものは存在していて、アズレアはたしかにそれを感じ取っていたに違いない。


 はたして、彼女の心は彼女自身にしかわからないけれど。


「ついた」


 マルクがようやく足を止めたのは、月影の森の前だった。


 木々が織りなす分厚い林冠と、草花の放つ特殊な胞子が影響して、ここは年中夜のような暗さだ。強い光が空気中に分散され、昼間でも月の姿を拝むことができる。

 アルドは深く息を吸った。いつ来ても空気がおいしい。一呼吸ごとに緑の匂いが肺を満たす。


「ここで描くのか?」

「うん……」


 マルクの意識は上に傾いていて、アルドの言葉など聞いていなかった。つられて宙を見上げたアルドは、なるほどとうなずく。

 月を書こうとしているのだろう。それには遮るものがない方がいい。少年は葉っぱがかかっていない場所を探しているのだ。


「ね、マルクくん」とアズレア。「月を描きたいなら、良い場所があるよ」


 彼女に案内されたのは少し進んだところにある小径こみちだった。足元には青い花が群生している。頭上の林冠はぽっかりと丸い口を開けていて、そこから月を望むことができた。


 マルクの顔がぱっと明るくなる。


「うん、──うん! ここにする」


 さっそく二人は準備に取り掛かった。足元にシートを敷いて、その上に三脚型画架イーゼルを立て、キャンバスを置く。すると、マルクが木製のパレットを取り出しながらいった。


「アズ姉、ちょっといい?」

「どうしたの?」

「その、ほら、こっち」


 少年はたどたどしくアズレアの右手を取ると、青い花が咲き誇るその中央へエスコートした。


「ここにいてくれない?」

「どうして? 風景が見えなくならないかしら。……どいた方が」

「モデルになってほしいんだ」

「わ、私に?」


 アズレアの目がきょとんと瞬く。


「で、でも、これ、服、絵を描くための格好だし、そんなに綺麗にしてないし……」

「むしろ飾らない方がいいんだよ。そのままのアズ姉を描きたい」


 少年の強い口調に赤面しつつ、彼女はアルドに苦笑を投げかけた。


「困りましたね」

「モデルになるのが嫌なわけじゃないんだろ? なら、描いてもらえばいいんじゃないかな。せっかくだし」

「私なんか、描いても面白くないですよ」

「マルクはそうは思ってないみたいだけど」

「……そうなの? マルクくん」

「うん。アズ姉を描きたい」


 彼女はしばらく戸惑いを浮かべていたが、やがてふっと力を抜いた。


「ここに座ればいいの?」


 マルクの顔がぱっと晴れる。


「ありがとう! そこで、好きにしていて。僕が描いてるあいだ暇だと思うから、ほら、これでも眺めてて」


 いつの間に入れていたのか、マルクはリュックから昔のスケッチブックを取り出した。アズレアは青い花の中心で静かにそれをめくる。

 画家ではないアルドにも、アズレアがまるで妖精のように見えた。これは「絵になる」というやつだ。


「ふーっ……」


 マルクが緊張した面持ちでパレットを持ち上げ、白の絵の具を出す。ペインティングナイフで油と溶き、幅広の刷毛はけを使ってキャンバスの下地にしていく。


 全面に塗り終わって乾いたら、いよいよ書き始めだ。マルクはアズレアのいる方を眺め、大切なグラスに触れるかのごとく筆をとった。パレットに溶かされたテールグリーン。絵の具特有の香りが鼻をくすぐる。


「あ……」


 アルドはなにかに気がついてその場を離れ、二人には見えない位置まで来ると剣を抜いた。




 ──緑の絵の具は、その匂いで魔物をおびき寄せてしまう。



 アズレアが言っていたことを思いだした。

 マルクはようやく自分の絵を描いている。それを邪魔させる気は毛頭ない。彼の集中を切らさないよう、絵を描き終わるまで二人を守るのが自分の役目だ。


 木陰からのぞくいくつかのシルエット。その中心に切っ先を合わせ、アルドは短く息を吐く。



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