市場から通りを二つ挟んで南側。道を行きかう人波が目に見えて減り、雑踏喧騒の類も耳から遠く離れた場所に、マルクの家はあった。

 こじんまりした二階建ての一軒家で、これといった特徴はない。ユニガンでよく見る一般的な民家である。けれど、家の前にある小さな植木は雑草だらけだった。花に水をあげた痕跡は見受けられず、低木の枝も伸び放題の様相だ。

 父親のあの左足ではどんな軽い作業も重労働に感ぜられるだろう。アルドは後で手伝いを申し出ようと固く心に決め、隣へ向かった。


 木製のドアをノックしようとアルドが右手を持ち上げたとき、

 コトリ、と鍵の落ちる音がした。玄関の脇にある両開きの出窓から。


 内側に立つ女性がたったいま窓を開ける。


 吹き込む柔い風を全身に浴びて、彼女は窓辺のゼラニウムに水をやった。伏せがちな深海色の瞳で、家の中を満たす午後の光をそっと見送る。まっすぐな黒髪はわずかに色素が薄い。淡い果実のような頬の桜色が慎ましく引き立っている。ほっそりした指先がカーテンの留め具をつとつまんで、窓の脇に結びつけた。


 たおやかなワンシーンというべきか。彼女自身が作品に見えた。劇場で物語を見ている気分だった。無意識のうちに、アルドは彼女をじっくり観察していた。


 玄関で、である。

 女性が見落とすはずもない。アルドに気づいて声をかけた。


「……こんにちは。いい午後ですね」

「あ、ああ」

「私になにか御用でしょうか?」


 アルドは我に返って、自分が抱えていたキャンバスを差し出した。


「マルクが描いた絵画を届けに来たんだ。アズレアっていう人を探してるんだけど」

「ええ──。でしたら、私がアズレアでまず間違いありません。えっと、あなたは?」


 アルドは名前を名乗り、マルクの父親の手伝いをしていると簡単に告げた。


「そうだったんですか。いまそちらに回りますね」


 玄関が開き、カーディガンを羽織ったアズレアが現れた。キャンバスで両手のふさがったアルドに代わって戸をおさえる。


「どうぞ」

「ありがとう。これ、どこへ置けばいいんだ?」

「こちらへ」

「ああ」


 アズレアが三脚式のアトリエイーゼルを開いた。アルドは慎重に絵画を置く。もしも破いたりしたら取り返しがつかない。誰かの努力を丸ごと台無しにするなんて考えたくもないことだ。


 絵が両手を離れてようやく、アルドは安心してそれを眺めることができた。


「改めて見ると、すごく丁寧に描かれてるんだな」

「はい。マルクくんは手先が器用なんです。それに目もよくって。昔から、細かいモノほど得意だったり。──でも」


 アズレアは飾られた作品を見て眉をしかめた。口元に手を添え、じっくりと全景を吟味している。アルドの目には一見綺麗な作品だが、なにか不備があるだろうか。


「どうしたんだ?」

「いえ」と彼女はいった。「なんでもありません」


 そして今度は怪訝そうに首を傾げる。


「そういえばこの作品、『画商に見せる』って言っていたような。どうしてここに?」


 アルドはマルクの父親にそうしたように、アズレアにもさっきのやり取りを聞かせた。


「『アタイトブルー』ですか……」

「ああ。それがないと売りに出してもらえないらしくって。実際どうなんだ?」

「たしかに、最近その絵の具は流行ってます。マルクくんが『おんなじ色ばかり』『おんなじ構図ばかり』っていうのも、あながち間違いではないんです」


 アズレアは熱が入ったらしく、色の特徴について様々に語り始めた。赤はこうで、黄色はこうで、紫はこんな感じの印象を与えて……。


「緑は、いろんな絵描きにちょっと嫌われているんです」

「嫌われてる? なんでまた」

「色を作るのに特殊な植物を使っていて、この匂いが魔物を引き寄せてしまうので。──特にテールグリーンっていう色は濃い匂いがします。ほら、」


 彼女は棚から瓶を一つ取り、蓋を開けた。アルドが鼻を鳴らす。ミントのような清涼な香りがした。


「そうなのか……。ところで、アズレアは『アタイトブルー』を持ってたり……」

「残念ながら。一人暮らしですので、そんな高級品を買うお金は」

「そっか。急にこんなこと聞いてごめん」

「いえ。それより、マルクくんのことです。彼はどこへ──」


 ちょうどノックの音がした。


 アズレアが「ちょっとごめんなさい」とそっちへ向かう。そのあいだアルドは、この、絵画工房とも呼べそうな部屋を観察した。


 四方の壁を大量の絵が埋め尽くしている。モチーフは果実、グラス、人、街……作品により様々だ。床は油絵具でカラフルに汚れていた。壁際にいくつも畳まれているのは使われていない画架。傍の棚には大量のスケッチブックが収まっていて、習作らしき油絵が重ねられ、山になっている。

 見たまま、絵描きの部屋、といった感じだった。


 部屋の中央には真新しいキャンバスが置かれ、赤い花が描かれている。いまにも匂い立つような、アルドでさえハッと息を呑む作品だった。アズレアが描いたのだろうか。


「マルクくん!」

「……よ。アズ姉」

「上がっていくでしょう? どうぞ」

「うん」


 振り返ると玄関先にさっきの少年がいた。

 彼はアルドの姿を認めて、ピーマンを初めて食べた子供のような顔をする。


「げ。兄ちゃん、なんでいんだよ」

「マルクの絵を届けに来てくれたの」

「え……」


 少年の表情がさっと陰った。


「やっぱり器用ね。私にはこんな細かくは描けないわ。ぜったい途中で筆が滑っちゃう」

「……別に、そんな絵、誰でもかけるよ」

「そんなことないよ。ほら、屋根の色使いだって現実そっくり。直に見ているみたいだもの」

「そんなの、別に」


 マルクは褒めちぎるアズレアから顔を逸らした。


「なんの価値もない」

「そんな……」


 アズレアは少し屈んで、少年に視線を合わせた。


「ね、マルクくん」

「……なんだよ」

「どうしてユニガンを描くことにこだわるの?」

「だってッ、みんなそれを望んでるんだよ。それが一番売れるから。だから」

「前みたいに、また森の風景を描いてみない? ほら、これみたいに──」


 アズレアが棚から一冊のスケッチブックを取り出し、ページを開こうとする。マルクが歯を食いしばった。


 そして大きな音がした。

 少年の手がスケッチブックを上から叩き落としたのだ。開きかけていたページが不規則に床に伏せ、しわだらけになった。二人はそれを見下ろしていた。


 空気がしんと凍りついた。




 ──そんなの、くだらない。




 マルクがいった。どこか空虚な言葉だった。芯がなく、いまにも水面下にぼやけてしまいそうな、それはセリフのようだった。


「どうして」

「もう描かない。絵なんかこりごりだ」

「マルクくんっ!」


 アズレアが咎める。少年はそれ以上答えなかった。ただ踵を返し、静かに家から出ていった。


 残された彼女は寂しさと悔しさがない混ぜになった表情で、今しがた痛覚を植え付けられた自らの右手をおさえている。


「えっと、大丈夫か?」


 アズレアがうつむくばかりで。アルドはどうしようもなくスケッチブックを拾い上げた。何の気なしにページを開き、目を丸くする。


「これって」

「……マルクくんのです」


 いなくなった少年の隙間を静かな声が埋めた。






     *






 少し話を聞いてはくれませんか。


 家を出ようとしたアルドを引き留め、アズレアは温かい紅茶を淹れた。アルドは勧められるまま椅子へ腰かける。テーブルの上のスケッチブックをあいだに挟み、彼女は対面する位置へ座った。


 そうして、しばらく紅茶を飲み合うだけの時間が続く。

 気づまりな沈黙を破ったのはアルドの方だった。


「この絵のこと、聞いてもいいか?」

「……はい」

「正直に言うけど、俺はユニガンの絵よりも断然いいと思うんだ。なんか、迫力っていうのかな? 無理やり絵に引き込まれるみたいな存在感があって」


 アルドはスケッチブックを改めて開く。


 そこに描かれていたのは、月影の森の風景画だった。人工物を描いたユニガンの絵はどうしても直線が多くなるが、こっちは曲線的で見た目にも自然だ。そもそもモチーフが人工物ではないのだから、と言う人もいるかもしれない。けれど、アルドには違いがはっきりと分かった。その絵には小さな遊び心が詰まっている。緑の中に、赤や紫など、現実にはない色を紛れ込ませているのだ。それがページ全体に作用した結果、陰鬱ながらも神秘的な森の情景がよく表現されている。


 アルドの感想に、アズレアは強く頷いた。


「やっぱり、そう思いますよね」

「ああ。素人意見だけどさ」

「私だって同じ考えです。マルクくんは自然を描くのに長けてます」

「ほかにも森を描いた作品はあるのか? よければ見てみたいんだけど」

「ええ。こっちに」


 アズレアは嬉しそうに頷くと、棚から三冊のスケッチブックを取り出し、アルドに手渡した。


 一冊目と二冊目はすべてのページに自然が描かれていた。カレク湿原のかぐわしい水草から始まり、ヌアル平原に望む勇壮な山脈、セレナ海岸の岩礁に儚く浮かび上がる泡沫うたかたまで。それらすべてがアルドの心を温かくした。冒険の日々が否応なく思い出される。なんのてらいもなく良い画だと思った。


 しかし、三冊目の中盤に変化が起こった。ページを半分ほど過ぎたあたりで唐突に街の風景が現れたのだ。


「ここからユニガンの絵しか描いてないのか」

「はい」

「街を描く練習……ってわけじゃなさそうだな」


 それだって自然物をいっさい描かない理由にはならないはずだ。うつむいたアズレアを見、アルドは口を閉ざした。彼女は机の上に乗せた両手を祈るように組み合わせた。


「たぶん、初めて画商に絵を見せに行った日からです」

「何かあったのか」

「ええ。私が十六歳のころだから──」


 彼女はそう前置きし、語った。






     *






 私が十六歳のころだから、ちょうど二年前の話になります。そのころ私はマルクくんと一緒に毎日お絵かきをしていたんです。

 売れる売れないとか、テーマとか、難しいことはなんにも考えずに、好きな絵を好きなように描いていました。


 でもあるときマルクくんがいったんです。


「絵を描いて生活できたらどれだけ幸せかな」って。


 あまり裕福ではないマルクくんがそういう発想に至るのは当然のことだと思います。彼は当時、リンデやユニガンを回って仕事を探していたのですが、力仕事に就くにはどうしても体力不足だと判断されていました。今の年齢でお金を稼ぐあては、絵を描くこと以外になかったのでしょう。


 それからマルクくんはいつものように森の絵を描いたんです。画商に売りに出してもらうための絵として。彼自身がいくつも工夫を凝らして、色を重ねて、ようやく完成した絵が、これです。


(アズレアは棚の奥から平たい木箱を取り出した。木炭や薬草の香りがする。防虫、防湿に気を使っているらしい。彼女が蓋を取り外すと、力強いタッチで描かれた森が現れた。木々のこずえが月明かりに天をく、勇壮な絵だ。)


 完成した次の日に、私たちは絵画市へ向かいました。もちろん、ある画商に絵を見せるため。その画商はユニガンで一番有名で、たしかな審美眼を持っているともっぱらの噂です。彼に絵を見てほしい画家はたくさんいますから、私たちは長蛇の列の後ろに並ぶことになりました。


 マルクくんくらいの子供はほかに見かけませんでした。私たち、かなり目立ってましたね。前後の人が、品定めをするようにマルクくんの持つ絵をのぞき込んでくるんです。


 それから。

 ……それから、後ろの人が言ったんです。




 ──くだらない画だな。




(アズレアは深くうつむいた。しばらくのあいだ、そこに静けさが横たわった。耳鳴りのするほど。)


 マルクくん、ショックを受けた顔して……、今でもはっきり覚えてます。

でも彼、けっこう負けん気が強いじゃないですか。だから、男の人に反論したんです。


「なんでそんなこと言うんだよ」


 そうしたら後ろに並んでいた絵描きがいいました。


「ボウズ、お前なんのために絵を描いてんだよ。それは誰に売る絵なんだ?」


 私たちは返す言葉もありませんでした。この作品は楽しく描いた絵であって、売るためのモノじゃなかったから。それから絵描きは続けます。


「人の営みも物語も見えない。なんなんだ、その『絵画モドキ』。知ってる技術と持ってる絵の具の詰め合わせじゃないか。──キャンバスをおもちゃ箱にするのはかまわねぇがな、駄作を晒すような真似して絵描きの印象を下げてくれるな。お前みたいな考えナシは迷惑なんだよ」


 私は反論しようとしました。


 でも、その人の持ってる絵はとても美しかった。そこに集まった絵の中でも頭一つ抜き出ていました。きっと引く手あまたの良い画描きさんなのでしょう。


 私は最低です。マルクくんをかばうことも忘れて、その絵描きが言ったことを一つの真実だと思ってしまったんですから。何も言えず足を止めた私たちを抜かして、彼は最後にこう言いました。


「そんなガラクタ、作品ですらない。インクつきの紙だ」


 マルクくんは列を外れて走って行ってしまいました。


 それからです。

 彼がいっさい森の絵を描かなくなったのは。






     *






 アズレアはにわかに目元をおさえた。ポケットから折りたたまれたハンカチを取り出し、瞼を色濃く飾る涙の宝石を拾った。それから無理やり微笑みを浮かべる。


「ごめんなさい、もう過ぎた話なのに」

「こっちこそ思い出させてごめん」


 彼女は赤くなった鼻や頬を隠さず紅茶を一口飲んだ。アルドもつられるようにして自分のカップに口をつける。蜂蜜のほのかな甘みがそっと胸を温めた。


 しばらくして、アズレアが沈黙を破った。


「私、マルクくんの作品が好きだったんです。自信に満ち溢れていて、とっても元気で」


 でも、と彼女は続ける。


「たしかに技術はついたけれど、今の作品には生気がない。……きっと好きでもないものを無理やり描いているせいだわ」


 ふとアルドは顔をあげた。


「なあ、マルクは森の絵を画商に見せたことがないってことか?」

「私が知ってる限りでは」


 アルドは木箱に入っている絵をもう一度見た。──自信に満ち溢れている。元気。たしかにそうかもしれない。この絵には有り余る感動とエネルギーがこもっている。

 それに対して、さっきマルクが画商に見せていた絵は何と言われていただろう。たしか、『無機質で悲壮が感じられる』ではなかったか。


「マルクに、好きな絵を描くよう言ってみるよ」

「でも」

「画商に『感情がちぐはぐ』って言われてたんだ。たぶん、こういうことなんだと思う。暗い感情を隠して必死に明るい画を作ろうとしても矛盾するにきまってるだろ? ほら、泣きながら笑うみたいにさ」


 アズレアは森の絵とユニガンの絵を見比べる。アルドは彼女の瞳に強い光が宿るのを見た。やがて彼女は、ハンカチをポケットへしまう。


「ずっと考えてたんです。売れないものは意味のないモノなのかしら? それならどうして筆を走らせることはこんなにおもしろいのかしら。本当はもっと自由でいいの。自分の好きな物を描けばいいの」


 あの少年が最初に描きたいと思ったのはどうしてだ。


「──私はもう一度、好きなモノを描くマルクくんを見たい」


 彼女は振り向いた。


「アルドさん。どうか彼を呼んできてはくれませんか?」

「ああ。もちろん」

「キャンバスと絵具、揃えて待ってます」


 アズレアがそっと頬をゆるめる。穏やかな川面を思わせる笑みだった。

 アルドはそれを見届け、家を後にした。



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