「なんでだよっ。その辺の絵と同じくらい細部も凝ってるのに!」


 食らいつくような少年の声がした。なにか問題でもあったのだろうか。入用いりようでミグランス城に向かっていたアルドは足を止め、通りの向こうへ踵を返した。


「だから何度も言っているだろう。クオリティが同じなら、『アタイトブルー』が使われている絵を選ぶ。こっちだって商売なんだ」


 そこには人だかりがあった。人々が取り囲んでいるのは二人の人間。一人はおしゃれな髭を生やした男性だ。きっちりとした礼服を着込んでいる。そのお腹が肥えているのを見るに、なかなか裕福な暮らしをしているらしい。


「けっきょく絵の具の質だっていうのか?」


 もう一人は肩を怒らせた少年だった。いまにも殴り掛かりそうな危うい気配を漂わせている。着ている衣服は質素で、体も小さく、線は細い。


 二人のあいだには画架イーゼルが置かれ、一枚の油絵が立てかけられていた。王都ユニガンの街並みを東側から模写したものだ。屋根の緋色から、道の脇に飾られた花の緑まで、正確な色合いと緻密な筆運びが一つの街を完全に写し取っている。


 アルドはふだん絵画などたしなむことはないが、その絵が地図のように正確であることはすぐにわかった。未来にある空中都市、エルジオンで見た「写真」にも匹敵するだろう。


 しかし、礼服の男性はいう。


「絵の具だけの問題じゃない。これも前から言っているはずだ。お前の絵は無機質で、悲壮さえ感じられるんだよ。絵の具が笑いながら他者を罵っているみたいだ。感情がちぐはぐで、なにをいいたいのかまったく分からない」


 少年は顔を真っ赤にして奥歯を噛みしめた。


「それらしいこと並べて取り繕うなよっ。『アタイトブルー』が使われてたらいますぐにでも並べてくれるくせに!」


 彼は震えた指先で男性の背後を示した。そこには棚が置かれていて、二十枚を超える絵画が飾られている。どれもユニガンの一部、または全体を切り取って描いたものだ。そして、どれもが青色をメインに使っている。

 ときには人の服に、ときには空に、植物を真っ青に描いているものもあった。

 見ると、二人を取り囲む聴衆は絵の具で汚れた服を着ている。ここに集った画家の誰かが描いた絵なのかもしれない。


 アルドはようやく状況が飲み込めた。礼服の男性は画商で、少年は絵描き。彼の描いた作品を巡って、売りに出す出さないの押し問答をしているのだ。


「バカの一つ覚えみたいにみんな同じ色使ってるんだ!」


 少年が叫ぶ。

 するといままで落ち着いていた画商が厳しい声を出した。


「私が考えもなく色を乗せただけの作品を売りに出していると、そう言いたいのか」

「っ……」


 男性には画商のプライドと矜持きょうじがあるに違いない。少年もようやくそれに思い当たったらしく、バツの悪そうな顔をした。けれど吐いてしまった言葉は元に戻らず、彼は自分の絵を取り返すようにはぎ取った。


 画架イーゼルが音を立てて倒れる。

 群衆は走り去る少年のために道を開けた。


 しばらく誰もが黙っていた。やがて人々は活気を取り戻し、画商へ絵を見せるのを再開した。アルドは人の流れに逆らい、去っていく少年の背中を追った。







 市場から離れたユニガンの住宅地を、少年はとぼとぼ歩いていた。彼が右手にぶら下げた絵はたまに石畳をこすり、がりがりと嫌な音を立てる。その様子にためらいが生まれるも、アルドは声をかけた。


「なぁ」


 振り向いた少年の目元は真っ赤だった。その眼には涙がにじんでいる。


「なんだよ、兄ちゃん。あんたもオレの絵をこき下ろしに来たのか?」

「いや違うぞ。ただ、大丈夫かなと思って」

「……大丈夫なわけないだろ」

「その絵、必死に売ろうとしてたみたいだけど、なにか事情があるのか? 俺でよければ聞かせてくれ」


 少年がむっとしてアルドを見返した。


「事情もなにも、さっきあんたも見てた通りだ。この絵は売れないってさ」

「『アタイトブルー』がどうとか……」


 単なる画材の名前を口にしただけで、少年は嫌そうな顔をした。


「そうだよ。オレの絵にはそれが使われてないから売れないって言うんだ」

「なにか重要な色なのか? 素人の目線だからアテにならないかもしれないけど、君の──」

「マルク」と少年は名乗った。

「マルクの絵は、青がなくてもじゅうぶん綺麗に見えるぞ」


 彼は自分の絵を再び見返して、それから蓋をするように裏返した。


流行はやりなんだよ。最近の」

「流行り?」

「うん。服とか音楽にも時流ってモノがあるだろ? 絵画にもそれがあって、最近ユニガンの貴族はこぞって『アタイトブルー』が使われた絵画を買うんだ」

「どうしてまた?」

「『アタイトブルー』は、『アクアタイト』っていうものすごく希少な鉱石からしか採れない。油に溶かしてキャンバスに乗せたあとも宝石みたいに光るんだ。綺麗な見た目が、その希少性と相まってお金持ちの興味を引いてる」


 少年は鼻を鳴らした。


「それがない絵は箸にも棒にも引っかからない。──画商はあの絵の具を買ってるんだ。絵なんか見ちゃいない」

「マルクは『アタイトブルー』を使わないんだな」


 すると彼の目に切実な色が浮かんだ。


「……買えないんだよ」

「高いのか?」

「うん。時によるけど、黄金と同じくらいの値段がつくこともあってさ。とてもじゃないけど手が出ない。それに」


 マルクはうつむいた。


「オレの家、貧乏だし」


 アルドにはどうしようもないことだった。自分が持っているお金をいくらか少年に譲ることも考えたが、そのあと永続的に彼のパトロンになるわけにもいかない。最後まで責任を取ることなどできないし、なによりこちらはこちらで旅を続けるのにお金が必要だ。


 少年はハッとアルドに向き直った。


「なぁ、兄ちゃんオレの絵買ってくれないか!?」

「えぇっ!?」

「綺麗だって言ってたろ。ちょっと汚しちゃったけど、額に飾れば十分見栄えもするはずだよ」


 どう? と絵を差し出す彼。

 アルドは首を振った。


「残念だけど」

「なんで」

「俺、旅をしてるんだ。買ったところでじっくり鑑賞する時間はないだろうし。バルオキーにいる爺ちゃんに送るって手段もあるけど、俺も爺ちゃんも絵画の価値はいまいち理解できない」

「でも買うことはできるってことだ」


 アルドは顔をしかめ、諭すようにいった。


「価値がわからない人間に押し売りするのは違うだろ」

「……けっきょく価値ナシか」


 少年はしぶしぶ自分の絵を引き下げた。


「あの絵の具さえあればなぁ」


 恨みがましく呟いて、つま先で路肩の花壇をコツンと叩く。


「でも、流行りだって移り変わるものなんじゃないのか? 挑戦し続けてればいつかは」

「十七回目」とマルク。


「オレが絵を画商に見せ始めて、今日で十七回目。こんだけやっても、二年間かけてもオレの絵は売りに出してもらえなかった」

「そんなに……」

「だからもうわかった。才能がないって。時流をくつがえすことなんかできやしないし、それに乗ることすらできない。紙と絵の具を浪費してるだけなんだ。絵を見せるのは今日で最後にする」


 少年は花壇に自分の絵を立てかけ、植木の中から小さな石を拾い上げた。


「こんなものッ!」


 ──まさか。


 アルドが止めるよりも早く、マルクは投球フォームを取った。至近距離から打ち抜かれれば絵の具を乗ったキャンバスといえど穴が開くに違いない。


「やめ」

「マルク!」


 遠くから誰かが呼んだ。

 少年の狙いがわずかにそれる。勢いのついた小石は花壇にぶつかった。キャンバスは傷つかず、そこに静かに立っていた。


 アルドが振り向くと、左足をひきずった男性が歩いてくるところだった。その歩みは慎重で、一歩ごとに世界が揺れないかどうか確認しているみたいだ。怪我をしているのだろうか。


「父さん」とマルクがいった。


 男性はアルドに会釈し、花壇に立てかけられた絵を見た。


「まだ見せに行ってなかったのか? そろそろ評価が終わって結果が出てるころかと思ったんだが」


 無神経というか、なんというか。たったいまそれが原因で荒れていた少年の心を、さらにかき回すような物言いだ。アルドはひやひやしながら男性にアイコンタクトを送る。しかし気がつく様子はない。絵の前でうんうんと頷いている。


「やっぱり上手いな。まさか俺と母さんのあいだにこんな才能を持って生まれるとは」

「才能なんかない」


 マルクはぶっきらぼうに答え父親に背を向ける。


「こんな絵に価値なんかないっ!」


 そう叫び、絵を残して通りの向こうに駆けて行った。父親は面食らって息子を見送るだけだった。遠ざかっていく背中と絵を交互に見て、自分がなにを言ってしまったのかようやく気がついたらしい。片手を頭に当てて物憂げに息を吐く。


 それからアルドの方を見た。


「あー……君は」

「アルドだ。マルクとはさっき知り合って、絵について話してた」


 彼がすでに画商へ絵の審査をお願いしたこと。結果はダメだったこと。『アタイトブルー』という絵の具が買えないこと。アルドはぜんぶ父親に聞かせた。


「やってしまったな」


 彼は苦笑を頬に浮かべた。


「なあ、どうしてマルクは絵を売ろうとしてるんだ?」

「……俺たち両親のせいなんだ」


 父親はかつてミグランスを守る兵士だったのだと語った。セレナ海岸の警備任務にあたっていたさなか、魔獣の強襲を受け深い傷を負ったという。


「それで、左足が?」

「ああ。おかげで退役してからもろくな仕事が見つからないんだ。友人の伝手つてでなんとか食いつないでいる。妻も働き口を見つけて家計を支えてくれているが……。贅沢ができるほどの金は入らないし」

「マルクは少しでも足しにしようとしてるんだな」

「情けない限りだよ。親は子供の夢を応援するモンだろ? だけどマルクは絵で俺らを支えようとしてる。いつの間にか逆転してしまった」


 アルドはもう一度絵画をまじまじと見た。建物を構成するざらついたレンガの質感まで、手に取るように伝わってくる。マルクに絵描きとしての技術が備わっているのは疑うまでもない。


「絵はいつごろから?」

「うんと小さいころからさ。近所にアズレアっていう四歳年上の幼馴染がいてな。そういえば先月十八になったっけ」

「その人が教えてくれたんだな」

「俺も妻も働き通しで、面倒をみてやれなくって。そんなときにマルクを預かって絵を教えてくれたわけだ。感謝してもしきれないよ」

「そのアズレアって人は絵を売ったりは?」

「どうにもしてないみたいだな。自分で描いた絵を飾って、自由に楽しんでるらしい」

「そっか」


 アズレアに画商とのつながりがあれば推薦してもらうこともできたかも。アルドはそう考えた。

 いや、これもマルクからしたらズルになるだろうか。彼はきっと自分の実力で画商に認められたいと思うはずだ。脇目も振らずなにかに打ち込む人間は特にそういう気性がある。アルドは仲間の何人かを脳裏に思い浮かべた。


「よっこい、せ」


 少年の父親がキャンバスを持ち上げた。


「それじゃあ、また」

「あ……。なあ!」

「うん?」


 危なっかしく左足をひきずるのが見てられず、アルドは声をかけた。


「それ、どこに運ぶんだ?」

「さっき言ってたアズレアの家にさ。マルクの絵を置かせてもらってるんだ」

「場所を教えてくれ。よければ俺が持っていくよ」

「ほんとか。助かる。──仕事場と反対方向なんだ」


 持ってみるとキャンバスは意外に重い。そうでなくても左足をひきずったままでは長距離の移動は厳しいだろう。


 アルドは家の場所を詳しく聞き父親と別れた。



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