家路

桜枝 巧

家路

 その植物園は、市内で一番大きな美術館の隣に、ひっそりと存在している。

 受付に近づくと、六十代ほどの老人が窓口のガラス戸を開ける。

 私は少しだけ目を見開いた。いつもなら、ここには、中年の女性が気だるげに座っているはずだった。

 そう言えば、前回ここを訪れた時、もうすぐ再婚するのだ、と、言っていた気もする。

 彼女はお喋りな性分で、受付中も、甥のことだの、家に植えたトマトのことだのを毎回私に語っていた。

 人が来ない所為か、チケットの受け渡しが終わっても、なかなか解放してくれなかった。私はそれを、うんざりしながら聞き流していた。

「二〇〇円です」

 それ以上の言葉は必要ない、と言わんばかりに、老人は私の目を見ていた。

 彼の背中は曲がり、白髪がテーブルに二、三本抜け落ちていた。しかし、その瞳は黒々と生気を保っていた。

 私は、この新しい管理人のことを、一目で気に入った。

 一〇〇円玉硬貨を二枚、トレーの上に落とす。青いそれは、直ぐに引っ込み、植物園の名前が記されたチケットとなって返ってきた。

 管理人の老人は、ようやく微かな笑みをその口元に浮かべる。

「ようこそ、『家路を辿る植物園』へ」


 植物園、といっても、園内の植物達はとてもささやかなものだった。

 バナナやハイビスカス、ランなど、華やかな植物はいない。パンジーやシバザクラ、ベニバナヤコウカなどが、緑に点々と明るい色を足していた。

 私は、ソテツやアブラヤシに囲まれた中央の道を、ゆっくりと歩いた。普段なら、もっと南に下らねば見ることの出来ない木々が、私を陽の光から覆い隠している。

 何か課題を出されたのだろうか、学生服に身を包んだ少年二人が、物陰でしゃがみこんでいる。こちらに気がつくと、ぺこりと頭を下げて去っていった。

「お邪魔だったかな」

 呟いてみるが、返事はない。

 少年らの姿は直ぐに見えなくなった。受付の小さな小屋も、ソテツに隠れてしまっている。どうやら他に客はいないらしく、あたりはしん、と静まり返っていた。

 そして私は、「立入禁止」のテープが張り巡らされたその前で、立ち止まった。

 この時期、植物園で最も映えるのは、中央に建つ藤棚だ。

 淡い紫色の小さな花が、屋根を覆い尽くしている。それだけでは無い、白、薄ピンク、様々な種類のフジが、絡まり合い、垂れ下がり、その鮮やかさを競い合っていた。

 だが、華やかなのはフジだけだ。

 藤棚の端には、季節外れのぼんぼりがいくつも垂れ下がっていた。ぼんぼりは古く、赤も緑も薄汚れている。中には、穴が空いているものさえ見られる。

 それに、藤棚の下、本来ならば寛ぎの場であるはずのベンチ達は、酷く朽ちていた。ある物は横に倒れ、ある物は得体の知れないキノコが生えていた。

 「立入禁止」テープの黄色と黒は、嫌でも目に付いた。

 今に始まったことでは無い。私がここに通い始めた時から、ずっとここはこんな有様だった。

『お金が無いのよ。お客が来ない植物園に、肥料や水、苗代以上のものは払えない。あの藤棚だって、いつ崩れてもおかしくないの』

 前の受付の女性が、そんなことを言っていたのを思い出す。

 それでも、私は、毎年この藤棚を見に来ていた。

 もちろん、他の植物を見るのも好きだ。キンリヨヘンの蝶が羽を広げたような花弁を眺めるのも好きだったし、ハクチョウゲの白に目を奪われるのも良かった。

 だが、この季節のこの藤は、特別だった。

 後方から、小さな足音がする。

 干したてのシャツみたいな、陽の香りが、ふわりと漂う。

 それは、ひとつの目配せだ。

 私は、横目でその存在を確かめる。

 否、確かめなくとも、そこにいるのは分かっている。私にはわかる。だが、この目で見なければ、やはり何も無いのと同じなのだ。

 ああーーまた、出会えた。

 安堵の息を漏らしかけて、堪える。音は厳禁なのだ。私は、黙ってその光景を味わうしかない。

 家路は、そのくりくりとした瞳で、目の前の藤を眺めていた。


 家路の特徴は、なんと言ってもその耳の形にある。

 頭部に、尖ったそれが、左右ひとつずつ小刻みに震えている。色は深く沁みるような黒。耳は勿論、全身隈無くふさふさと生えた毛は柔らかで、暖かそうだ。

 だのに、風の音ひとつにも、彼は耳を震わせる。

 まるで、世界の何もかもが、己を攫おうとしているのだ、と考えているかのようだった。

 そう思うと、なるほど、この古びた藤棚は、彼にとって唯一の安らぎの場だと言えるだろう。

 なかなか客足のつかないこの植物園には、彼好みの草が沢山生えていた。しかも、彼の口の届く範囲にあるのは、食べて構わないものが多かった。

 立入禁止のテープの毒々しい色だけが、彼の瞳をくるくると絶え間なく動かし続けた。しかし、それ以外は、彼にとって理想的な食事場だった。

 家路がどこから来ているのか、私は知らない。

 ただ、彼の身体には、一本白いラインが入っていた。その模様は、定規を当てたかのように真っ直ぐにそのお尻へと伸びていた。その線が道ならば、小さく丸められたしっぽは家だった。

 家路は暫く、白や紫に染まった花々を眺めていた。が、途中で飽きたのか、直ぐに目を逸らし、食事を始めた。

 隣で、私が見つめていても、彼は見向きもしなかった。

 触れれば押しつぶされてしまうような口が、小さくもごもこと動く。

「そこで静かにしてくれていれば、僕は十分です。静かに、静かにしてくれれば」

 そう言っているかのようだった。

 彼の要望通り、私は黙ってそこに立っていた。

 藤棚に掲げられた提灯が、風で小さく揺れた。家路が、耳をビクッと震わせる。

 大丈夫ですよ。

 私は声に出さず、呟く。

 あなたの敵は、誰もいません。だから、ゆっくり食事を楽しんでください。

 少しの間、彼は左右を見回していたが、やがて食事に戻った。

 私は、彼の家を想像してみた。

 きっと、その家は、彼の大好きなイネ科の草々の中にぽつんと建っている。

 緑で埋め尽くされた視界の中に、一本、白い道が真っ直ぐに伸びている。知っているもので無ければ見逃してしまう、しかし確かな道だ。

 端まで歩いていけば、小さな茶色い屋根が見えてくるだろう。草に埋もれているから、恐ろしい敵に見つかることも無い。

 彼は、今日も我が家に戻ってくることが出来た、と安堵し、ゆっくりと扉を開ける。


 気がつくと私は、一人、草原の中に立ち尽くしていた。


 私は思わず、辺りを見渡した。

 しかし、視界に入るのは、風そよぐ緑と一本の白道だけだ。

 否ーー否。

 後ろに、気配がある。

 音をたてぬよう、そっと振り向いた。

 すると、そこには、随分と大きく育った家路の姿がある。

 背丈は私と同じくらいに延び、あの美しい毛並みは頭部にのみ残っていた。まるで、人間のようだった。

 それでも、彼が家路だと判断できたのは、あの美しい耳の形が、そのまま残っていたからだった。色は違えど、左右にぴんと立ったそれは、今も臆病に震えていた。風の音が、酷く恐ろしいようだった。

「お母さん、あなたは帰らなくてはなりませんよ」

 家路は、とても流暢にそう言った。小さな鼻の下に添えられた小さな唇が、ひくひくと動いた。

 私は首を傾げた。自分に子どもがいる覚えはない。家路のことはよく知っているが、目の前の青年の様は初めて見たものだ。

 家路にそのように伝えると、彼は目を細めて微笑んだ。妙に悲しそうな笑みだ。

「いいえ、いいえ。お母さん、あなたは家に帰らなくてはならないのです。あなたが、そう望んでいるのです」

 私は抗議した。私は別に、家に帰りたい訳ではなかった。それに、帰る道も分からないのだ。

 草原は、こしょこしょとくすぐったい音を立てた。

 家路はいつもの様に肩を震わせた。辺りを見渡した後、

「帰る道なら、ここにありますよ」

と、目の前の白い道を指さした。恐る恐る、私に怒られるのを怖がる子どものように。

 それは、明らかに帰路ではなかった。強いて言うならば、それは家路のための道であるはずだった。

 しかし、いくら説得しようとも、家路は頑として聞かなかった。

「お母さん、信じてください」「あなたは、帰らなければならないのです」

 そう言い続けた。

 結局、私の方が折れた。それに、なんだか、家路の言う道が本当に自宅に繋がっているような気さえ、してきていた。

 私は一歩ずつ前へ進み始めた。家路は後ろからついてきているのか、気配だけがあった。緑と白、それから空の青さが視界を満たしていた。


 だが、どれだけ歩いても、緑は一面の緑でしかなく、道は一本真っ直ぐに伸びているだけだった。他のものなぞ、見えやしなかった。

 やっぱり、ここは私の帰り道ではないのだ。

 引き返そうと後ろを振り向いた時、そこにいるのは青年ではなかった。

 家路は、いつの間にか少女になっていた。

「××ちゃん、駄目でしょう。あなたは帰らなくてはいけないの」

 彼女はそう言って私の鼻をつっついた。つま先立ちをした彼女の人差し指は、ひんやりとしていた。

 なぜ私の名前を、家路は、目の前の少女は知っているのだろう?

 なぜ私は、どこに続くかも分からない道を進んでいるのだろう?

 問い詰めると、家路は、特徴的な耳をぶるっと震わせた。やたらと白い肌に埋め込まれた目が、ぎょろぎょろ蠢いた。

 私の声が大き過ぎたらしい。しまった、家路は音に敏感だというのに。小さな声で謝る。

 家路は「いいの、いいのよ」と掠れた声と共に私の肩を叩いた。背が低い所為で、彼女は大きく腕を上げなければならなかった。

「わたしたち、友だちでしょう。それに、あなたが望んでいることだもの。さあ、帰るのよ」

 どこか怒ったような声だった。

 そこで、私は彼女のことをようやく思い出した。幼少期、仲の良かった子だ。会って数年もしない内に、田舎へ越してしまったが、私たちはとても仲が良かった。

 私は、家路に尋ねた。もう名前も思い出せやしなかったが、あなたは、あの大切な友人なのか、と。

 家路は応えた。

「それは、あの子にとって失礼だわ。わたしは、あなたの望むことをやりたいだけ。つまり、家に帰るのよ」

 家路は、私の背を押して前を向かせた。その力強さに、思わずまた一歩、踏み出してしまう。

 目の前にはやはり、草原と一本の道だけが広がっている。


 小さい茶色い屋根の家。

 白い道の最果て、はるか遠くに見えてきたのは、確かに私が想像した通りの建物だった。

 家路のための、小屋と言っても差し支えないほど小さな家。

 やっぱりだ、と思う。

 この道は、私のものではなく、家路のものだ。家路の為の、帰り道だ。

 そう思った。

 私は、隣で静かに歩いているだろう彼を、ちらりと覗きみてーー思わず、息を飲んだ。

 あなた。

 声が漏れる。

 彼は、私のよく知っている表情で、やんわりと微笑んだ。

 夫の笑い方は、特徴的だった。

 元来表情を作るのが苦手だという彼は、目を最大限横に伸ばそうとする。瞼は閉じられ、どうにかその強面は緩やかさを得る。薄い唇の端は、アンバランスに持ち上がる。左側を持ち上げ過ぎるせいで、妙な笑みになってしまうのだった。

 それでも、私は彼の笑い方が好きだった。笑い上戸の私を見ると、頬が緩むらしいと知ってからは、私もさらに高らかに笑うようになった。

 その微笑みが、今目の前にある。

「××さん、早くお帰りなさい」

 家路はそう言った。

 りん、と、どこかで鈴の音が聞こえた。

 彼の尖った耳が、ぶるり震える。

 私は悟る。彼もまた、あの青年や少女と同じ存在なのだ。見た目も、笑い方も、声も、その香りも、夫である事は間違いない。しかし、今私と対峙する人物は、確かに家路なのだ。

 家路、と、私は呼びかけた。

 帰るのは、あなたの方だわ。あれは私の家じゃないの。私の家なんて、どこにも無いの。もう、何もかも忘れてしまった。忘れてしまったことすら、忘れているの。

 あなたの家へ案内してくれるのは嬉しいけれども、あなたはあなたの家へ帰るべきだわ。

 すると家路は、ゆっくりと目を細くした。

 彼は歩き出す。私の手を取り、引っ張ってゆく。冷たい手は力強く、私も歩を進めざるを得なかった。

 りん、りん、と、鈴の音が大きくなってゆく。

 家路。

 私は彼の名を呼ぶ。掴まれた手を引っ張るが、離れることはない。

 お願いだから、構わないでちょうだい。戻ったって、どうしようもないの。何もかも分からないの。ねえ、家路ったら。

 そう呼んでから、まるで駄々っ子のようじゃないか、と、私は少し顔を赤らめた。

 家路はこちらを向いたまま、どんどん歩いていく。あの夫の笑みを、顔に浮かべたまま。

「あなたはまったく、何時になっても心配性ですね。大丈夫、全てはあなたを待っています。あなたは帰らなくてはならない。それはあなたが心から望んでいること。全ては、あなたの為の家路ですよ」

 家路は左の口端をぐいっと上げた。

 それは、夫の、私を励ますときの癖だった。

 りん。りん、りん。

 茶色い小さな家に近づく度、鈴の音がはっきりとしてくる。

 家路の身体が、徐々に震え出す。

 こわいの? と尋ねたが、彼は静かに首を振る。何時の間にか、手ではなく腕を掴まれている。雪解け水のような冷たさが、上腕部に伝わってくる。しかし不思議と、不快感は無かった。寧ろ、ずっとこうして生きてきたような、そんな気すらするのだった。

 私たちは、白い道を1歩ずつ、根気よく進んで行った。茶色い家は、もうすぐそばまで来ていた。

 家路は、少しずつ大きさを変え、ついには元の黒い毛玉に戻った。そのうち胸の前で両腕の中に収まるようになった。彼は利口そうに、しかし鈴の音に酷く怯えて、鼻をひくひく動かしていた。


 終わりは唐突だった。目の前には、白いペンキで塗り固められたのコンクリートと、木をモティーフにした扉があった。見上げれば、豆腐の様な建物であることが分かる。二階建てで、それぞれの階に窓がつけられていた。

 この、息子が新しく建てた家のデザインを、私は随分不満に思っていた。現代風、と言っては聞こえがいいが、あまりに無骨過ぎないか。四角い箱を三つほど重ねたような形は、面白味に欠けていた。

 最終的には息子の意思に任せた。が、今でも、扉を開ける時は、何だこの豆腐の家は、と思ってしまう。

 ああーーああ、そうだ。

 ここが家路の家でないことは、確かだった。

 私は、玄関のドアノブを捻る。


 りん。

 怯えるような、しかし確かな音と共に、私の意識は浮上する。

 辺りを見回してみるが、自分がどこにいるのか分からなかった。

 鮮やかな藤棚、古ぼけたぼんぼり、黄色と黒の立入禁止のテープ。植物園だろうか?

 どうやってこの場所に来たのかも、よく分からない。思い出そうとするが、頭の中なぼんやりと霞がかっている。

 すると、誰かに後ろから、軽く肩を叩かれた。

 振り返れば、見知らぬ四十代くらいの男が、泣きそうな顔をしていた。スーツ姿で、まるで会社を抜け出してきたかのようだった。左胸には、「井上」と書かれた金属プレートが光っている。

 ハクチョウゲの白い花々が、男の後ろでひっそりと揺れた。

「……どちら様?」

 嗄れた声が出る。

 随分歳を取ってしまったのだと、否が応でも思い知らされる。高らかに歌い上げる済んだ声も、肌の張りも、積み重ねてきた記憶も、全ては過去へと置き捨ててしまった。

 男は口をへの字に曲げてから、「あなたの息子ですよ、お母さん」と震える声で言う。

 私は黙り込む。もう一度、時間をかけて中年男の顔を見てみる。涙を浮かべ、それでも目を細める彼の笑みは、どこか夫に似ている気がする。……それに、確かに、どこかで見た顔かもしれなかった。

 詐欺かもしれない、だなんて思いながら、ひとまず「そうですか」と答える。

 男の隣にいるのは、同じくらいの年代のぱっとしない女。それから、二人の子どもだろうか、二十代くらいの若い女も、ハクチョウゲの隣に立っている。

 中年の女が「探しましたよ、お義母さん……ここにもいなかったら、警察に捜索してもらうところでした」と言った。言葉に少し棘を感じる。

 男が、少しむっとして言い返す。

「そんなこと言わないでくれよ。それに、ここに居るだろうっていうのは、分かってたんだ。お母さんのお気に入りの場所だからね」

「まぐれよ。……でも、見つかって良かった」

 ぴしゃりと言う女に、男が首を竦める。だが、彼女が心配していたのだということも、何となく分かった。

「帰りましょう、お母さん」

 息子と名乗る男が、手を差し出してきた。何となくその手を取ると、彼は口端を上げた。

 夫より、笑顔は上手かった。詐欺でも別にいいか、と思える笑みだった。元より、何もかも分からないのだ。ここに居てもどうしようもない。泊めてもらうことくらいは出来るだろう。

 ソテツに囲まれた森を抜け、植物園のゲートをくぐる。男は、受付らしき老女に一言二言をかけ、深々と頭を下げた。何となく、遠くからそれに倣う。

 ふと私は、後ろを振り向いた。藤棚の紫が、遠くから手を振っていた。黒い何かが前を横切った、そんな気さえした。

「家路」

 思わずそんな言葉が漏れたが、私には分からなかった。

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