瞬く星の下で
アイドルをやめてから、いや、やめると決まった時からずっと見ることができなかったSNSを開いた。
今まで開くことができなかったのは、まだ未練があり受け入れることができなったというのもあるし、何より今まで支えてくれたファンから裏切りものと非難されるのが怖かったからだ。
しかし、開いたSNSには避難どころか心配や応援のメッセージばかりが並んでいた。思わず目頭が熱くなる。
今更になってSNSを開いたのは、日向という女性に既視感を持ったことがきっかけだった。
おそらくアイドル時代に会っていると私の直感が告げていた。
私の女性ファンとして一番に思い浮かぶのはアカネという若い女性だ。
いつも最前列から応援してくれてとても目立っていた。
しかし、日向という女性の落ち着いた感じからはかけななれている。アカネさんは化粧っ気もなく周りの男性オタにも負けないくらい、いやそれ以上に奇声をあげるかなりの変人だ。
一度酸欠で倒れて救急車を呼ばれたこともあったほどだ。
それでも、若い女性のファンは希少なので、いてくれるだけで嬉しかった。
SNSのコメントを見ていると、やはりアカネさんからのメッセージもあった。
『きらりんが引退するとか、もう生きる希望を失った』
「生きる希望かぁ……。」
SNSのタスクを閉じてスマホごとベッドに倒れ込む。
ベッドはギシッと音をたてて少し軋んだ。
アカネさんは生きる希望を失ってどうしたんだろう、別の推しを見つけて新しい希望を手に入れているのだろうか、そうであってほしいなと思う。
私のようになって欲しくない。
握手会でアカネさんの手を取った時の感覚を思い出す。少し湿った手。そのくせ私よりも冷たい手。ずっと下を向いて合わせてくれない真っ赤な顔。ぎゅっと手を握るとさらに顔が赤くなるのが可愛くて、ついつい苛めたくなってしまう。
もう一度あんな時間を過ごしてみたい。誰かに必要とされたい。そして、愛されたい。
たったひと時でもアカネさんに希望を与えられていたのかもしれないが、それ以上に私の方が希望をもらっていたんだなと実感する。
結局、どうして日向さんのことが気になったのかは分からないままだった。
単純に変人だったから気になったのかもしれない。芸能界にいた時も変人は多かったが、他人から私だって変人だっただろうし、考えれば考えるほど東京での生活を思い出してしまい気が滅入りそうになる。
ベッドを整えて眠りにつこうとしたが、いろいろな感情がぐるぐると思考を巡って一向に眠ることができなかった。
気がつくと目覚まし時計の音がした。
一瞬何の音か気が付かなかったが、カーテンから見える日の光にもう朝になっているということを気付かされた。
全然眠れた気はしないが、体感的には3時間くらいは眠れただろうと感じる。
別に働いているわけでもないから、二度寝をしても良いのだけど毎朝の日課にしているランニングをサボると人として本当にダメになる気がして、この日課だけはしっかり毎日こなしている。
まだ中学生だった頃に毎朝学校に通う前にランニングをしていたが、今も全く同じ道を全く同じ時間に走っている。最初は、地元の同級生に遭遇するかもと身構えて帽子とマスクをして走っていたが、そんな心配は杞憂で、すれ違うのは犬の散歩をしてしる中年か、過去の私と同じような学生くらいしかすれ違うことはなかった。
どうやら大学生は朝早くから活動しないし、社会人は車での出勤が当たり前のようだった。
最近暑さが増してきて、早朝だというのに日差しが熱く直ぐに汗が吹き出してくる。呼吸のリズムと走るリズムが一定になり何も思考する必要のないこの時間が好きだ。
いつものルートでのランニングを終えて、家に帰るとシャワーを浴びてからストレッチをする。
これがいつもの日課だ。アイドルをやめても体力づくりをしているのは、結局未だにアイドルに未練があるからなのかもしれない。
日課をこなすと、母が朝食を作る時間になっているのでそれを手伝う。
私の親は私を連れ戻したことを少しは引け目に思っているのか、働くことを強制しない。
特にアイドル活動に猛反対していた父とは今でも会話がぎこちなくなる。
とはいえ、家に住んでいる以上、何もしないというのは気が引ける。それで始めたのが、料理の手伝いだ。
親が仕事に出かけると、暇な時間が訪れる。
今までなら暇さえあればダンスの練習や歌の練習に明け暮れていたが、最近はもっぱら図書館での読書に逃げている。
近所の図書館は10時から開館だから、それまでの時間をどうにかして潰す必要がある。
同じ図書館ばかり行くのも飽きてきたから、今日は隣町の図書館にでも行ってみようかなと思いスマホで距離を調べてみると片道6キロ程度の距離だった。
歩きで行くには少し遠い。
確か学生の頃に使っていた自転車があったはずと思い、庭の倉庫を覗いてみると、案の定私の自転車が昔の姿のまま置いてあった。
その自転車は、いわゆるママチャリと呼ばれる形のもので、デザインは良くないがカゴがついており学生鞄を入れておける利便性がある。
試しにペダルを回してみると錆び付いているのか少し重く変な音がした。
「大丈夫かなぁ」
不安になりながらも、倉庫の外に持ち出すとチェーンの部分が茶色く錆び付いていた。
長いこと放置していたので仕方がないとはいえ、このまま乗るきにはなれず倉庫から556スプレーを見つけると錆にむけて噴射した。
久しく嗅いでいなかった、鉄と錆とオイルの匂いに何処か懐かしさを感じながらもやはり好きな匂いではないのでなるべく息をしないように作業した。
油を差して、異音はしなくなったので乗ってみることにした。
自転車に乗るのは久しぶりで、最初はよろけはしたがだんだんと感覚を取り戻し直ぐにまっすぐ乗れるようになった。
「よしっ、行ってみるか。」
気合を入れ直して、いざ図書館へと向かう。
図書館に到着したのは開館よりも少し前の時間だったので、近くの公園で油を売って時間を調節した。
中央図書館と書かれたその建物は、いつもの図書館に比べて一回り大き様な気がした。
ぱっと見の印象だが、いつもの図書館が庶民派だとしたら、こちらは富裕層向けといった具合だ。実際は利用料は無料なのでそんな違いはいのだろうけど。
入口から中に入ると、手前には新聞や雑誌のコーナーがあり、奥にいくにつれて専門書などのジャンルになっていく。
読んでいる途中だった本の同じ本を探し出して、途中から読み始める。
眠気のせいか、いつもよりも集中することができなかった。
途中うとうとして、同じ箇所を読み直しながらも閉館時間まで本を読んでいた。
本を読むというのも意外と疲れるもので、さっさと家に帰って寝たいと思った。
しかし、それよりも空腹が強く、家に帰ってからも1〜2時間まつのを考えたら外食したいという欲が勝ってしまう。
母には悪いが、人間そういう日も必要なので許してほしい。と心の中で謝罪する。
自転車に乗り日が沈んだ道を走っていると、夏の夜特有の草の匂いと生ぬるい風に包まれる。
「こういうのも悪くないな」
つぶやくが、通行人は一人もいないので聞き咎める人もいない。まさか、車の中から聞き取れるとも思わない。
アイドル時代には決していかなかったラーメン屋に入り、食券を購入する。
若い女性が珍しいのか店員からの視線を感じたが、今日の私はむしゃくしゃしているので睨み返してやった。すると、店員は気まずそうに視線を逸らした。
日向さんもこういう店には来るのだろうか。大衆食堂に行くのだから、こういう店にもきそうな気がする。
でも、接客業だしニンニクの匂いは気にするのだろうか。
日向さんのことを考えているうちにラーメンが運ばれてきた。
「ご馳走様でした。」
久しぶりに食べたラーメンはとてもおいしかった。
お腹いっぱいに大量の炭水化物を摂取する罪悪感は否めないが、自転車を漕ぐスピードを早めて帳消しにならないかなと思い行きよりも早いペースでペダルを漕いだ。
信号待ちの時に、ふと空を見上げてみた。
すると、夜空には星空が瞬いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます